番外 囚われた精霊

 夜明けまで難しい呪いを解いていたクラウは、朝食を終えると深く眠ってしまった。そっと淡い金色の髪を撫でて、起こさないように頬に口付ける。


 昨日の朝は軽く唇に口付けるとクラウの目が覚めてしまい、そのまま甘い戯れに入ってしまったので私の密やかな計画を延期するしかなかった。


 静かにクラウの部屋を抜け出して、私の部屋の鏡台に座り、髪を整え軽く化粧を施す。イネスの部屋は私の部屋になり、家具は私が選んだ白く可愛らしいものに替えられてベッドも置かれている。


 私はイネスの家具をそのまま受け継ぎたいと思っていたのに、内部に深刻な虫の被害が発見されたので焼却処分するしかなかった。


 クラウとお揃いの布で作った長袖の茶色の上着を羽織り、肩掛け鞄を斜めに掛ける。お財布にお金も入っているし、手巾と携帯用の化粧品も持った。


 静かに扉を開け、静かに階段を降りる。裏口の扉を出て、町への扉の前に立った途端に後ろから声を掛けられて飛び上がる。

『おはよう、お嬢ちゃん。町に行くのか?』


 振り返りながら、クラウを真似て唇の前で人差し指を立てる。

「……おはようございます。驚かさないで下さい、テイライド。町に行きますが、クラウには秘密なのです」

 声を抑えて挨拶を返すと水の精霊はとても楽しそうな笑顔を見せた。


『……おう。クラウには秘密か。俺がついて行ってもいいか?』

 テイライドも声を潜める。

「はい。クラウに秘密にして頂ければ構いません」

 クラウに秘密にしておきたいだけで、テイライドには知られても平気。


『秘密っつーのは、楽しいな』

 テイライドの服が魔法で変化した。紺色の長袖の上着に白いシャツ、鉄紺色のズボンに黒いブーツ。町で歩いている人の服とあまり変わりがない。格好良いと思うのに、どこか違和感があると考えて気が付いた。


『……おい? お嬢ちゃん、何してるんだ?』

 私はテイライドの白いシャツの裾をズボンに押し込んでいる。

「シャツの裾が出ていると、だらしなく見えてしまいます。せっかく素敵なベルトを着けていらっしゃるのですから、見せないのは残念です」

『お、おう。そ、そうか』

   

 シャツの裾を整えると植物紋様が型押しされた革のベルトが見えて、すっきりとした。

「テイライド、素敵です」

『それは嬉しい言葉だな』

 耳を赤くしたテイライドは、私と一緒に町へと向かった。


      ◆


 町に着くなり、テイライドは黒いレンズの丸眼鏡を掛けた。せっかくの格好良さが胡散臭い怪しい人へと印象が変わってしまって残念。白目のない瞳を隠すためだと言われれば仕方がない。

『目の偽装は難しくてな。これが一番手っ取り早い』


「おや、ライドじゃないか。久しぶりだねー。今日はなんだかシャキッとしてるねぇ。いつもよりイイ男に見えるよ」

『おうよ。今日は義妹いもうとの護衛だからな』

 

 町の市場に入ると、テイライドは多くの人から声を掛けられる。テイライドはクラウの兄のライドと名乗っているらしい。人々と明るい挨拶を交わすテイライドは楽しそうで、精霊は人が好きなのだと改めて感じる。


 私は書店で注文していた本を受け取り、鞄に入れた。

『お? 何の本だ?』

「初心者向けの料理とお菓子の本です。こっそり練習して、クラウに食べてもらおうと思っています」

『それはいいな。クラウが絶対喜ぶぞ』

 テイライドの笑顔で、私の心に勇気が湧いた。クラウに喜んでもらえたら本当に嬉しいと思う。


 果物やお酒を買うとテイライドがすべて家へと送ってくれたので、鞄は軽い。予定よりも遥かに早い時間で買い物メモに書かれたものを無事に購入できた。


『これで終わりか?』

「はい。ありがとうございます」

『……お嬢ちゃん、ちょっと……散歩に付き合ってもらえないか?』

「はい。まだ時間はありますから構いません」


 隣りを歩くテイライドの様子がいつもと異なっている。何か理由があるのだろうか。


『この町の外れに、古くて廃された神殿がある』

「もしかして〝月虹〟があった神殿ですか?」

『ああ』

「〝月虹〟が置かれていた場所を一度見てみたいと思っていました」

 テイライドが私を案内することを迷っているような空気を感じたので、私は明るい声を出す。クラウの家族なのだから遠慮しなくてもいいと思う。


 賑やかな町のざわめきから離れ、周囲に緑が増えていく。フィデルのいた神殿とは違って、石畳が土の道へと変化して、ついには森へと続く草原へたどり着いた。


「町のすぐ近くなのに、森のようですね」

 振り向けば町、目の前は森。急激な視界の変化に驚いてしまう。


『廃された神殿には誰も近寄らないからな。手入れをされなければ自然に還る』

 進むと朽ちた白い石壁が木々に囲まれている。崩れ落ちた門を横目に見ながら、テイライドの手を借りて腰の高さまで崩れた壁を乗り越えた。


「これは!」

 巨大な木が崩れかけた神殿を覆い、包み込んでいた。人工物と自然の融合は、文明の黄昏たそがれを感じさせる切ない光景。


『この国が出来る前からあった神殿だ。三百年前までは使われていた』

 テイライドに案内されて、屋根が落ちてしまった神殿の中へと入る。立派な神殿だったのだろう。あちこちに残る色褪せた壁画や割れた彫刻が、当時の繁栄を示している。


 おそらくは聖堂だった場所に、巨木が生えていた。大人が十人手を繋いでもその幹を囲むことはできないだろう。太くうねる根が、豊かに茂る枝を支えている。


『〝月虹〟はこの木の根元に置かれていた。前の使い手は、この木の下で命を終えた』

 二十年経ってしまうと跡形もない。私は示された場所の前で跪き、亡くなった方への女神の加護と命の平安を祈った。


 テイライドは巨木を見上げて語り掛ける。

『よっ。具合はどうだ? シャリマール』

『……気分は良いです、テイライド。……その方は?』

 巨木から優しい女性の声が聞こえてきた。声に合わせてかすかに葉がそよぐ。


『俺が契約したクラウディオの婚約者のセラフィナだ。俺の義妹いもうとみたいなもんだ』

『そうでしたか。……それでは、ご挨拶をしなければいけませんね。テイライド、少し魔力を分けて頂けますか?』

『おう。任せとけ』

 テイライドが木の幹に手を当て、巨木が一瞬青い光を帯びる。


 巨木に背を預け、ふわりと姿を見せたのは長い淡緑色の髪に白眼のない翡翠色の瞳、褐色の肌をした儚げな女性だった。

『はじめまして。木の精霊シャリマールと申します』

 クリーム色のぴったりとした上着は魅力的な曲線をはっきりと示し、腰から下はゆったりと広がるスカートが美しいドレープを描いている。


「はじめまして。セラフィナ・ルシエンテスです」

 敬意を込めて貴族女性の礼を行うと笑顔で返された。自分は動くことができないと謝罪されて握手を求められる。初めて触れる木の精霊の手は温かくて優しい。


『このお嬢ちゃんは〝月虹〟を使いこなしてるぞ』

『それは素晴らしいことですね。……テイライド、何度も言ったでしょう? 私はここから動かない、と』

 溜息を吐いたシャリマールがテイライドに微笑みかけた。何の話だろうか。


『……すまんな、お嬢ちゃん。…………シャリマールの契約者になってもらえないかと思って連れてきた』

 いつも明るい表情のテイライドが珍しく困り顔で苦笑している。案内する際に迷っていたのは、これが理由なのだろう。


「精霊契約ですか? 私でお役に立てるのなら……」

『セラフィナさん、ダメですよ。テイライドは説明せずに貴女を連れてきたのです。ここは怒るところでしょう?』

 私の言葉をシャリマールが柔らかく遮った。


「私はテイライドにいつもお世話になってばかりですので、少しでもお返しできるのなら嬉しいと思います」

『精霊の契約というのは基本的に一生解除できません。貴女が死ぬまで続くのです。簡単に決めてはいけないのですよ』

「え……」

 クラウはテイライドが突然契約してきたと言っていた。


『あー。俺とあいつクラウの時は、俺が一方的に押し切ったからな。……あの時はイネスを亡くした直後で……あいつは死にそうな顔をしてた』

 クラウはイネスの葬儀の後、〝黒い森〟の中に立っていた。あの家の結界の外にいたからテイライドが見つけることができた。


『親を亡くして、師匠も亡くして、「自分には何も残ってない」って言ってた』

 感情を削ぎ落したクラウの魔力の輝きは、テイライドを一目で魅了した。最初は魔力の輝きが欲しいと思い、徐々に護ってやりたいと思ったと苦笑する。


『精霊契約をしたことで、俺に魔力を供給しなきゃならないって思ったらしい。ちょうど解呪の依頼が来たのもあいつが生きる理由になった。俺は別にあいつを助けるとか、そんな高尚な理由じゃなかったんだけどな』

 やはりテイライドは優しい精霊だった。


『シャリマールはこの木に囚われてる。誰かと精霊契約をすれば、解放されるんじゃねーかと思ってな。すまないな』

 諦めの表情で笑うテイライドが謝罪する言葉を聞きながら、私は自分の無力さを痛い程感じていた。……私だけでは精霊を助ける方法が思いつかない。


「……クラウ……お願い、来てください」

 まだ眠っているかもしれない。それでも、この囚われた精霊を放ってはおけないと思う。


 床に金色の魔法陣が現れて、金色の光の粒が人の形へと集まっていく。


「お呼びですか。我が主」

 片膝を着き、金色に輝くクラウは真っ黒なロングコート姿。今まで見たことのない服は、凛々しくて格好良い。


「お待たせ。セラフィ」

「クラウ、起こしてしまって申し訳ありません」

「大丈夫、十分眠ったよ。……あ、この服? 魔力で構築してるんだ。夜着じゃ格好付かないからね」

 

『……お前、魔力が強くなってないか?』

 テイライドが苦笑している。魔力で服を作るのは、とても高度な魔法らしい。

「たぶんなんだけど、セラフィと一緒にいるから、かな? どうしても護りたいっていう願いが僕の力になってると思うよ」

 

 優しく微笑むクラウにテイライドが説明をして、私を無断で連れ出したことを謝罪する。シャリマールも迷惑を掛けたと謝罪の言葉を述べるので、私は自分の意思で来たと言葉を添えた。


「ん。わかったよ。ちょっと術式を見てみるね」

 クラウの表情が静かなものに変わり、金色がかった緑の瞳が金色の光を湛える。


「これは……難しいな……」

 クラウは木の根元をみながら黙り込んでしまった。クラウの金色の瞳には一体何が見えているのだろう。


『……そっとしておいて頂けませんか。私の命脈は、この鎖に囚われた時に尽きているのです』

 シャリマールがドレスの裾を少し持ち上げると、その足には不吉な黒褐色の鎖が巻き付いていた。その鎖は美しいドレープを描くスカートの下、腰近くまで及んでいるという。


 シャリマールはこの国が出来る前、この神殿が作られた時に捕まった。

『もう滅んでしまったその国では、神殿の礎に精霊を使ったのです。私の他にも、数名の精霊が木に縛られました』

 長い時間の中で寿命を迎えた木と縛られた精霊は共に消滅し、残っているのは自分だけだとシャリマールは静かに笑う。


『この木の寿命も尽きようとしています。私も共に消えるのが運命です。……ありがとう。私の存在を知っていただけただけで、私は十分です』

 柔らかく優しく微笑んだシャリマールの姿は薄れて消えてしまった。テイライドが分けた魔力が尽きたらしい。


 シャリマールが姿を見せることができるのは、空から恵みの雨が降った時と、誰かから合意の上で魔力供給を受けた時と聞いて、テイライドが雨の日に喜んで出掛けていたのはシャリマールに会う為だったのかと納得する。

 

 テイライドが懸命に呼びかけても、シャリマールは沈黙してしまった。

『今日は返事をしてくれそうにないな。……また来るからな』

 寂しげなテイライドと共に、私たちは森の家へと帰った。


      ◆


 その夜、夕食後にクラウと私は赤桃のワインを飲んでいた。淡い紅色の液体は独特のさわやかな酸味があり、甘くて飲みやすい。テイライドは気まずいのか姿を見せない。


「クラウ、シャリマールさんを助ける方法はないのでしょうか」 

「一つだけ方法があるんだ。……セラフィがあの木の精霊と契約をして、鎖から解放する。あの鎖は精霊を追いかけるだろうから、僕が魔力で抑えて壊す」

 精霊契約を行う際には、強力な結界が発生する。それは世界のすべての影響力から切り離し、人と精霊との根源を結ぶ為の一瞬。


 鎖とシャリマールは長い時間を掛けて同化してしまっているので、分離しないままに鎖を壊せばシャリマールも消滅してしまう。テイライドもそのつもりで私を連れていったのだろうとクラウは言う。


「問題は……あの精霊がこの提案を受けてくれるかどうかってこと。結構頑固そうな人だったよね」

 クラウが苦笑するのも仕方がないと思う。少し話しただけでも、優しい姿に隠された強い意思と覚悟を感じた。


「説得できるかどうかはわかりませんが、話をしてみたいと思います」

 シャリマールが消えてしまうとわかっていて何もしないのは悔しい。私はカップに残っていたワインを飲み干した。


      ◆


 翌日、日が落ちてから私は朽ちた神殿へと向かった。朝や昼では呪いの術式は見えにくいと聞いていた。クラウとテイライドはシャリマールに感知されないように魔法で身を隠している。


「シャリマールさん、こんばんは。少しお話をしたいと思って参りました」

『セラフィナさん、こんばんは。……精霊契約のお話なら、お断りですよ』

「いいえ。お聞きしたいことがあるのです」

 優しい拒絶を漂わせる声に、私は語り掛ける。


「シャリマールさんのお顔を見てお話をしたいのですが、……私の神力を受け取って頂けませんか?」

 シャリマールが姿を現すためには、魔力だけでなく神力でも可能なはずだとテイライドが言っていた。

『……少しだけ力を分けて頂けますか?』

 同意の言葉を受けて、私は手のひらに神力を集めた。丸く結晶した白い光が巨木へと吸い込まれて消えると、シャリマールが姿を見せた。


 挨拶もそこそこに、私は本題を切り出す。長々と話す時間はない。クラウはこの巨木が十日以内に命を終えると言っていた。


「あの……テイライドのことをどう思っていらっしゃいますか?」

『……良いお友達です。とても優しい方です』

 頬を染めて微笑むシャリマールの表情は、友人以上の好意を持っていると私に直感させた。


「そうですか……テイライドのことはお好きではないのですね。残念です」

『え? いえ、そうではありません……え、あ、その……』

 私が言葉通りに受け取ったように返答すると、シャリマールが慌てている。


「シャリマールさんがテイライドのことをお好きなら、私は何かお手伝いできないかと思っていたのです。お好きではないのなら、お節介ということになってしまいますね……」

 言葉の駆け引きをしたい訳ではない。ただ、シャリマールの意思をきちんと確認しておきたい。


『……好きだとか愛しているという気持ちは、叶わないとわかっている時には口にするものではありませんよ。私は……想う気持ちを心の中に大事にしまっておくことを選んだのです』

 この人も王女と同じ気持ちなのだと理解した。王女であり巫女という立場で神官のフィデルに告白することができず、命を終えてから後悔していた。


「私は先日、白猫になる呪いを受けました。猫として過ごす間、そして呪いが解けた時、私は学んだのです。自分の気持ちは、口に出さないと正しく伝わらないと」

 全身を使って意思を伝えようとしても伝わらなくて、もどかしい思いをしたことを思い出す。


「私たち人間は、いつ別れが来るか予測が出来ません。あの時伝えておけば良かったと後悔はしたくないのです。ですから常に自分の気持ちを言葉にすることにしています」

 王女の後悔の一言は、私の胸に強く残っている。


『私は貴女がうらやましい。私は……未来を望むことができないのです。そんな私が誰かに好意を告げ、好意を受け取ることは許されません』

「未来ができれば、シャリマールさんもその想いを口にすることができるようになりますか?」


『……もう、この木の寿命は残っていません。青々と茂る葉は、最期のともしび。……未来の夢を見ることは諦めています』

「未来を諦めないで下さい。私たちはシャリマールさんを助けたい。愛する人に想いを告げずに消えてしまう人を、私は二度と見たくないのです」


『……私たち?』

「はい。……クラウ! テイライド! 来てください!」

 私が叫ぶと、金と青の魔法陣が現れて、二人が姿を見せた。


「必ず助けます。一度だけ私たちを信じて頂けませんか?」 

『……セラフィナさん……』

 シャリマールはクラウとテイライドの姿を見て、明らかに困惑の表情を浮かべている。


「シャリマールさん、お願いします。貴女の結界の力を弱めて下さい」

 昨日クラウが見た時には、シャリマールの結界で浅い表層だけしか確認できなかったと聞いている。確実に読み解く為に必要だ。

『…………ええ』

 シャリマールの周囲の空気の温度が下がった。

 

「じゃあ全貌を見せてもらうね。――〝術式展開〟」

 クラウが手をかざすと、うねる木の根元に複雑な紋様が現れる。

「それが鎖ですか?」

「そう。彼女をこの木に縛り付けてる鎖だ。……これは魔法だけでは解けないな……」

 クラウは口元に手を当てて黙り込んでしまった。金色の瞳が紋様を静かに追っている。


「……セラフィ。この鎖を〝月虹〟で射て欲しい」

『〝月虹〟でこの鎖が壊せるというのですか?』

「おそらく。術式を読んだだけの僕の推測でしかないけど〝月虹〟は木の寿命が尽きる前に、君たち精霊を解放する為に作られたんじゃないかな。この鎖を作った人は、永遠に縛るつもりはなかったと思う」

 シャリマールの問いに、クラウが答える。


『……私たちを縛った人は〝月虹〟の製作者でもあります。美しい弓を作るのと引き換えにして命を落としたと聞いています』

 恨みはとうの昔に消えてしまったとシャリマールが苦笑する。


「よし。すべて解析したよ」

 鎖を抑える術式も用意ができたとクラウが頷く。これで準備は整った。


「シャリマール。私と契約して頂けませんか?」

『……よろしいのですか?』


「はい。もしよろしければ、私の姉になって頂けると嬉しいです」

『姉?』

「私には兄しかおりません。昔から姉がいてくれたらと願っていたのです」


『……わかりました。セラフィナ、私が貴女の姉になりましょう』

 私が差し出した手に褐色の手が重なる。淡い橙色に光る魔法陣の中で、互いの名前を交換して呼び合う。


 巨木に優しい橙色の小さな花が一斉に咲いた。周囲には花のかぐわしい香りが広がっていき、シャリマールを縛っていた鎖が砕けた。クラウの指示通りに手を強く引いて、シャリマールを背に庇う。


 クラウとテイライドが魔法でシャリマールを追いかけてきた鎖を抑え込んだ。金と青の光の鎖が、暴れ回る黒褐色の鎖を縛っている。


「セラフィ!」

「はい!」

 呼び出した〝月虹〟に矢をつがえて集中すると、太い木を縛る黒褐色の鎖の中に澱みが七つ見えた。


 木の先端までは大人十人の背丈はあり、木の真下からでは射ることはできない。私は一旦矢を外し、後方に走って距離を取った。


「始めます!」

 澱みは一口大の小さなリンゴ程度の大きさ。神経を極限まで集中させて狙う。弦を引く痛みはクラウの魔法で消されている。


 必ず射抜くという決意を込めて矢を放つ。神力に包まれて白く発光する矢が澱みを射抜いた。

「やった!」

 クラウの歓喜の声が聞こえてくる。

「まだです!」

 二射目を放ち、矢筒から矢を補給する。


 三射目はわずかに逸れた。落胆する心を叱咤して、再び矢をつがえる。シャリマールを二度と縛らせない。悲しい恋を二度と見たくない。


 四射目も外して奥歯を噛み締めた時、クラウの声が聞こえた。

「セラフィ! 力を抜いて! いつものとおりでいいんだ!」

 ああ、そうだ。クラウの言葉で気が付いた。絶対に射抜くとは思っても、気負い過ぎては的には当たらない。


 弓を下げ、深く息を吸い込んで再び構える。

「〝月虹〟貴方の力を貸してください。貴方を作った方の想いを私に教えて下さい」

 この弓が精霊を解放する為に作られていたというのなら、その力を示すのは今しかない。

 

 その時、〝月虹〟自身から白い光が沸き上がった。私の神力と混ざりあい、その光を強めて輝く。張られた弦の重さは増し、引く腕が震える。つがえた矢がまばゆい光になり「放て」という言葉が私の心を直接叩く。


 光の矢がまっすぐに木の幹の中央にある澱みへと向かって命中した。


 次の矢を用意する必要はなかった。白い光が巨木を包み、澱みを光で塗り替えていく。暴れていた黒褐色の鎖が砕け散る。


 すべての鎖が消えた時、巨木は縦に裂けて倒れた。橙色の小さな花が赤と緑の月が輝く夜空に舞う。


『ありがとう。セラフィナ』

「お役に立てて嬉しいです」

 涙を流すシャリマールの両手を握った後、そっと後方を示す。そこには耳を赤くして落ち着かないテイライドが待っている。


「これで未来ができましたね」

 戸惑うシャリマールの背をテイライドの方へと押す。後は二人で話せばいい。


「セラフィ、お疲れ様ー!」

 駆け寄ってきたクラウの温かい腕に抱きしめられて、やっと安堵の息を吐くことができた。シャリマールを助けることができたのは、クラウとテイライドの強力な助力があったから。二人がいなければ、私一人ではどうにもならなかった。


 空に舞い上がった花が、周囲に優しく雪のように降り注ぐ。


「クラウ、ありがとうございます」

 私は感謝の気持ちを込めて、クラウに口付けた。


      ◆


 それから数日後、晴れた空の下、庭にテーブルを運び皆でお茶を飲んでいた。


『テ、テイライド、これは恥ずかしいのですが』

 少々というより緩みきった笑顔のテイライドは、顔を赤くしたシャリマールを膝に乗せて宙に座っている。


『椅子が無いから仕方ないだろ? ほら、魔力を分けてやるから』

 テイライドが椅子はクラウと私の二つだけでいいと言っていた理由がわかった。


 テイライドが手のひらに乗せたクラウの魔力をちぎってシャリマールの口に運ぶ。顔を赤くしながらもシャリマールが口に入れ、お返しとばかりに、私の神力をちぎってテイライドの口に運んでいる。


 これがジルが言っていた「いちゃいちゃしている」という光景なのかと、私は妙に納得していた。


 ……うらやましい。隣に座るクラウを見ると、ふにゃりとした笑顔になったクラウが手招きする。人前で男性の膝の上に座ることは、とてもはしたないと思いつつも誘惑に負けた。


 クラウの膝の上に横座りになって、クラウの顔を見ると既視感を覚える。そうだ。猫の時はよく膝の上に乗っていたし、食事を口に運んでもらっていた。一旦気が付くと、羞恥が消え去った。


「クラウ……口を開けて下さい」

 布を掛けて隠していたクッキーの皿を手に取る。長い時を生きてきたシャリマールの助言を受けながら初めて焼いた甘いクッキーは、形は歪でもとても美味しく仕上がっている。


 口にクッキーを運ぶとクラウが笑顔になる。

「ありがとう、セラフィ。とっても美味しいよ」

 クラウの笑顔とありがとうという言葉を聞くことができて、本当に嬉しい。


「セラフィも食べて」

 笑顔のクラウが、私の口にクッキーを運ぶ。猫の時と同じように、クッキーを食べた後、クラウの指を舐めるとクラウの顔が赤くなる。


 再びクラウの口にクッキーを運ぶと、指を舐められてくすぐったい。

「セラフィ、可愛い」

 耳元で甘く囁かれると、羞恥が頬に集まっていくのは止められない。


 深い深い森の奥。

 小さな家でのお茶の時間は、とびきり甘い空気に包まれた。

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