番外 王女と神官

 この国の第三王女が十四歳で巫女になった日、私は十一歳で見習い神官になった。


 強い神力を持つ王女は隣国へと嫁ぐ予定だったが、相手の王子が流行り病で死んだ。国内外に呪われた王女だという噂が流れ、巫女として神殿へ入るしかなかったらしい。


 女神の前では身分の上下はないとして、巫女になった王女と見習い神官になった私は並んで神殿入りの儀式を受けた。


「はじめまして、私はべルティーナ。貴方のお名前は?」

 長い銀髪に紫の瞳。紺色の髪に碧の瞳の自分とは、全く違う色を纏う王女は神々しく清らかだ。


「……フィ、フィデルです」 

 美しい王女の前で口ごもり、顔を赤くしてしまった私を周囲の神官が遠ざけようとした時、彼女は私の手を取って微笑んだ。


「フィデル、これからよろしくお願いしますね」

 王女の一言によって、私は見習い神官であり身の回りの世話をする従者として彼女に仕えることになった。


 彼女は年を追うごとに美しさと優しさを増していく。十八歳を過ぎ、花の盛りの時期には貴族や外国からの求婚者が中央神殿を毎日のように訪れる。


 彼女が断り続けていても誘拐を企む者が度々現れる。私は彼女を護る為に体を鍛え、体術を習得した。神官らしからぬ男と言われないよう、多くの本を読み知識を求めた。


 外国の言葉や文化を学んでいた際に、とある国では男が女性に白い薔薇を贈ることに意味があると知った。『貴女だけを永遠に愛している』という言葉は、私の心に深く響いた。


 それ以来、毎年の誕生月に彼女に白い薔薇を一輪ずつ贈っている。他者からの贈り物は一切受け取らない彼女も、それだけは受け取って大事にしてくれていた。



「フィデル、袖」

 ある日の午後、後ろを歩いていた彼女が私の手を掴んだ。その細い指の温かな感触に鼓動が跳ね上がる。顔を赤くしないようにと静かに息を整えながら振り返る。


「何か不都合がありましたでしょうか。我が君」

「袖のボタンが取れそうになっていますよ」

 先程訪れた救護院の孤児たちに囲まれた際に引っ張られたのだろう。気が付かなかった。


「私の部屋に寄る時間はありますか?」

「はい。少しなら」

 次の予定までは、時間がある。


 彼女の部屋に入ると、神官服の上着を脱ぐようにと指示されて手渡す。

「申し訳ありません、我が君」

「謝らないでといつも言っているでしょう、フィデル。貴方は何でもこなすのに、裁縫だけは苦手なのですから。何かあれば私に言っていいのですよ」


 手招きされるままに、長椅子に座る彼女の隣へと腰を下ろして、彼女の手元を見つめる。慣れた手つきで糸に針を通し、袖にボタンがしっかりと留められた。彼女は刺繍の名手でもある。


「はい。これで大丈夫」

 微笑んで立ち上がった彼女に促されて立ち上がると、上着を着せつけてくれた。

「も、申し訳ありません……」

 まるで子供のようだと思いながらも、心の底では嬉しい。


 ボタンを留める細い指を感じ、至近距離の彼女から立ち上る花の香りに包まれるこの瞬間は歓喜で心が震える。抱きしめたいと思う衝動を堪えて笑顔を作る。


「ありがとうございます」

 私がお礼を告げると、彼女はいつも頬を赤く染めて笑っていた。



 彼女が三十歳になり、七本目の白い薔薇を贈った日の夜、私はいつも通りに彼女の部屋で本を読み、彼女は刺繍をしていた。彼女の部屋に置かれた長椅子に二人で座っている。


 彼女が刺繍の手を止めて、道具をテーブルへと置いた。いつもとは違う彼女の空気を感じて、私も本を置く。


「フィデル……どなたか、想い人はいらっしゃる?」

「……いいえ。私は女神にお仕えする神官です」

 私の女神は貴女ですと、口にできたらどんなに素晴らしいことだろう。出会った時から、神官になった今も私の心は常に彼女に捧げている。


「……少し疲れたの。肩を貸して頂けるかしら」

「はい」

 ふわりと優しい花の香りと共に、暖かな重みが腕に掛かる。目を閉じて寄り掛かってくる彼女を抱きしめたいと何度願ったことかわからない。


 今日も早朝からの儀式を終え、食事の時間もとれない程の公務をこなしている。さまざまな祭祀を行い、あちこちの町や村に招かれて視察を行う。多くの人々に会い、訴えや悩みを聞く。人が抱える闇は、その者自身でしか解決できない。彼女はそれを熟知しているから、辛抱強く話を聞くだけだ。


 月に三日の休日以外は、夕食後から就寝までの短い時間だけが自由な時間だ。彼女が刺繍をする間、私が部屋から出ようとすると、そばにいて欲しいと望まれた。それ以来、夜は二人きりで過ごしている。


「……フィデル……私……巫女を辞めたいのです」

「何故ですか?」

 突然の彼女の告白に私は動転した。彼女が巫女でなくなって王女に戻れば、私が近づくことができない存在になってしまう。


 寄り掛かっていた彼女が私の胸に飛び込んで来た。思わず抱きしめると、彼女の手が私の背に回って服を掴む。激しさを増す胸の鼓動は抑えることも隠すことも出来ず、これは夢なのではないかと心が惑う。


「王女にも戻りたくない。……普通の女になりたいの」

 彼女は何を求めているのか。……普通の女になりたいとは、どういうことなのか。


 抱き合いながら思いついたのは、今、ここで彼女を穢してしまうことだった。ただの神官と通じてしまえば巫女ではなくなり、王女としても嫁ぐことは難しくなるだろう。


 今すぐ逃げる選択肢は難しい。厳重な警備や騎士の追跡から逃れることができる確率は低い。綿密な計画が必要だ。


「フィデル……」

 腕の中で見上げる彼女の紫色の澄んだ瞳が私だけを見つめていた。触れてはいけないと思い続けた美しい花が腕の中で咲いている。すぐにでも狂いそうな自分を抑えようとしても、抗いきれない。


 見つめ合ったまま、唇を重ねた。柔らかな唇に触れただけで、心臓が破裂してしまうのではないかと思う程に胸が高鳴る。抱き合う彼女の鼓動も早い。


「……ベル……!?」

 彼女の名前を呼ぼうとした時、扉が乱暴に叩かれて、彼女の体が大きく震えて腕が解けた。


「…………少し待っていて頂けますか」

 乱してしまった彼女の髪を指で梳き、息を整えて長椅子から立ち上がる。


「何か?」

 扉を開くと慌てた神官が転がり込むように部屋に入ってきた。よほど慌てているらしい。


「巫女様! 流行り病が我が国にも来てしまいました! どうかお助け下さい!」

 神官の叫びに彼女の顔色が変わった。彼女が巫女になってから、この国では流行り病は発生したことがない。


「……すぐに一番深刻な被害がある場所へ向かいます」

 彼女が椅子から立ち上がっただけで、まるで女神のような清らかな姿だ。先程まで私の腕の中で震えていた彼女は幻だったのかもしれない。

 

「フィデル、今すぐ準備をお願いします」

 その決意の眼差しへ、出発は明日の朝に、とは言えなかった。



 それからの彼女は昼夜を問わず、流行り病に倒れた人々をその神力で癒し続けた。

「我が君、少し眠って下さい」

 彼女自身の体調を心配する周囲の者に懇願され、半ば無理矢理に彼女をベッドで寝かしつけることもあった。眠ってはいられないと起き上がろうとする彼女を押さえつけ、なだめるように唇を重ねる。


「……フィデル……」

 彼女が抵抗を止めても、それ以上の行為に及ぶことはできなかった。

「申し訳ありません。どうかお眠り下さい」

 あさましい私の心と体は痛みを感じる程に彼女を求めている。激しく暴れる衝動を、奥歯を噛み締めながら制御する。


「フィデル、謝らないで。……朝までそばにいて下さる?」

「はい。お望みのままに、我が君」

 行く先々で同じ部屋に泊まり、朝まで過ごす私たちの関係を疑う者も出始めたが、彼女が多くの人々を癒す姿はすべての陰口や悪口を閉じる力を持っていた。



「……今日は日差しが強いのね」

 手で日光を遮りながら、彼女が青い空を見上げる。冬の終わりを迎えた白い太陽は弱々しく、強い日差しとは程遠い。


「日傘をお使いになりますか?」

「いいえ。大丈夫よ」


 国中で発生した流行り病を癒すための旅に出て、すでに三カ月が過ぎていた。短い眠りと移動時間以外は、身分に関わらず人々を癒し続けている。疲れているのかもしれない。


「お疲れではありませんか? 我が君」

「病に苦しんでいる方々に比べたら大丈夫よ。あとは村が三つでしょう? 終わったら長い休暇を頂くつもりよ」

 微笑む彼女が無理をしているのはわかっていた。ただ、それが死に向かうものだとは気が付かなかった。すべてが終わった後、ゆっくりと二人で休むのだという希望を胸に抱いていた。


 そして流行り病に掛かっていた国民すべてを癒した日の夜、突然くず折れた彼女は私の腕の中で息絶えた。私は、自らの愚かさと無力さに絶望し、彼女を生き返らせることだけを望みにして生き続けた――。



 白い光の大木に寄り掛かって座る私の腕の中、眠っていた彼女が目を覚ました。

「――フィデル、何を考えていらっしゃったの?」

「貴女のことですよ。我が君」


 女神の世界と元の世界の境界には、白い光の森が広がっている。この森を漂う者は眠る必要がないが、彼女は私の腕の中で眠ることを好んでいる。


「……名前を呼んでとお願いしているでしょう? フィデルは私の名前を憶えていないのかしら?」

 彼女は明るく笑って立ち上がる。名前を忘れてなどいない。独りで彷徨っていた五百年の間、心の中で呼び続けていた。ただ……彼女の名前を呼ぼうとした、あの時の記憶が口にすることを妨げている。


「今日は、この四人の方の転生よ」

 彼女の手の上に、四つの命が現れて光り輝く。

「どちらへ送るのですか?」


 光の森の中、彼女は私が集めた命を元の世界に転生させている。それぞれの話を聞き、希望を聞き出すのは根気のいることだ。


 女神の世界に行く前に、自分の手ですべての命を転生させたいという彼女の申し出に、当初は驚いていた女神も、今では笑って見守ってくれている。


「異世界に転生したいのだそうよ。かなり難しい希望ですけれど、女神様に直談判して叶えて頂くつもりです」

「申し訳ありません。我が君のお手を煩わ……」

 謝罪の言葉を遮るように彼女の唇で唇を塞がれて、驚きが全身を覆う。羞恥が顔を赤くしていくのがわかる。


「フィデル、謝らないで。……名前を呼んで」 

「…………ベルティーナ」

 至近距離でねだられて、思わず名前を呼んでしまった。心臓はまだ早鐘を打っている。

 

「やっと私の名前を呼んで下さったのね。私、フィデルに名前を呼んでもらえたら、告白したいことがあったの。……私、男性が女性に白い薔薇を贈る意味を知っていたのよ、だから毎年嬉しかったの。誕生月が近づくと、今年は贈ってもらえるかしらって心配と期待で胸がいっぱいだった」


 私の想いは、とうの昔にべルティーナに伝わっていた。それは驚きと、そして気恥ずかしさとが同居する。


「私は出会った時から、ずっとフィデルが好きだったの。そして、今も大好きよ」

 一目惚れだったとべルティーナが頬を染める。年上だったから何も言えなかったと笑う。


「私も……出会った時からべルティーナを愛しています」

 たった一言。それだけで世界が明るく色づくような気がした。一面の白い光の森は、微かに七色に輝いていると気が付いた。


 もっと早く自らの気持ちを口にして伝えていたら、違う未来があったのかもしれない。


 微笑む彼女が私の唇に唇を重ねて、すぐに離れる。不意打ち過ぎて、抱きしめようとした腕は間に合わなかった。


「さぁ、女神様の所へ行って直談判よ。この方たちの願いを叶えましょう」

「はい」


 私が集めた命は気が遠くなりそうな数だ。命を刈り取ってしまった私は、彼女を手伝うことはできないが、彼女を支えることはできる。


 彼女の隣で永遠に。

 愛する彼女の手を取って、私は歩き始めた。 

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