第17話 呪いの終焉

 黒い壁に描かれていた赤い魔法陣は消えていた。部屋の中央には割れた水槽の欠片が散乱している。


『やーっと入れたぞー』

 唐突に現れた水色の魔法陣から姿を現したのはテイライド。ぼりぼりと頭をかく仕草は人間じみている。精霊というのは優雅で怖い存在だという思い込みを、テイライドは簡単に壊していく。でも、親しみが持てる。


「テイライド? どうしたのですか?」

『加勢しようと思ったのに、気持ち悪い力が取り巻いてて入れなかったんだよ』

 その力が消えたので、この部屋にたどり着くことができたとテイライドが苦笑する。


 この場所は〝黒い森〟にある建物の中にあった。町にある神殿から魔法で繋げられていたらしい。


『どうやらその気持ち悪い力が、この周囲にいた魔物を追い払ってたみたいだな。前から薄気味悪い場所だったらしいが、お嬢ちゃんが呪われた頃から突然強くなったんだとさ』

 周囲の精霊から聞いたとテイライドが言う。


「テイライド、結界の補強を手伝ってもらえるかな」

『おう。任せとけ』

 フィデルが作った結界の周囲を水の精霊テイライドの結界が強化する。


 クラウが床に描いた金色の魔法陣の中に導かれた。私とクラウは向かい合って中央に立つ。

「さぁ、始めようか」

 短く切られた髪が風もないのに、ふわりとたなびく。髪が短くなってもクラウは変わらず美しい。


「――〝術式展開〟」

 魔法陣がさらに金色の光を強める。私の胸の中央から、親指の先程の大きさの赤黒い光の球が出現した。よくよく目を凝らせば、赤い光の表面を黒い文字が形を変えながら蠢いている。


「これは?」

「これが〝白猫の呪い〟の核。最後の一層の解析は終わっている。壊すよ」

 クラウが手をかざすと、光の球がその動きを追っていく。


 手の動きに誘導された光の球は魔法陣の外に出て、壊れた水槽の近くで宙に浮いた。表面の黒い文字が、光の球の表面から剥がされると同時に、赤い球が人の頭程の大きさに膨らむ。


「!」

 不気味さに叫びそうになった口を押えて耐える。ぼこぼこと音をたてて泡立ちながら膨らむ様子は気持ち悪くてしかたない。


 大勢の人の悲鳴のような声が部屋に満ち溢れ、赤い球がさらに膨らんで形を変えていく。部屋の中央に、人の三倍はありそうな巨大な赤い人影の上半身が出現した。


「あれは!?」

「……呪いの核。第二王子の君への想いだ。脚は地面の下に埋めてる。でないと動き回るからね」

 赤い人影の慟哭は心を抉る。まるで全身から血を流しているようで見ているだけでつらい。


「あの核を消したら、どうなるのですか?」

「……おそらく第二王子のセラフィへの想いが消える。あれは第二王子の因果……想いのすべてだ。……もしかしたらセラフィに関する記憶も消えてしまうかもしれない」


 これまでの思い出が一瞬で心を駆け巡っていった。寂しい思い出ばかりだと思っていたけれど、すべてがセブリオ王子の好意の裏返しだったと知ると、ほろ苦い思い出に変わっていく。


「ごめん。セラフィの呪いを完全に無くすには、あの核を消滅させるしかない」

 深く息を整えたクラウが魔法の詠唱を始めようとしたのを私は止めた。


「私にも何か出来ることはありませんか?」

 ただ見ているだけではいたくない。私に掛けられた呪いだ。


『お嬢ちゃん〝月虹〟を呼んでみな』

 掛けられたテイライドの言葉が私には理解できなかった。


「〝月虹〟を呼ぶ……のですか?」

『ああ。外界と遮断する妙な力はなくなったから、今は普通の結界しかない。呼べば来るだろう』

 クラウを見上げると笑顔で頷かれた。勇気をもらった私は心の中で呼び掛ける。


 目の前に白い光が現れ、両手を差し出すと白く美しい弓と矢筒が姿を現した。

「〝月虹〟応えてくれてありがとう」

 私は弓を握りしめて感謝の言葉を捧げた。


 部屋の端、赤い人影の手が届かない距離で、私は〝月虹〟を構える。

「……どこを狙えばいいのでしょうか」

「静かに心を整えると見えるはずだよ」


 矢をつがえて静かに息を吐く。今日は手袋はないので、強く張られた弦が指に食い込む。赤い影の中、黒いよどみが三カ所見えた。

「……見えました」


 赤い影は泣いていた。涙を流しながら、私に手を伸ばしている。その姿がセブリオ王子と重なった。可哀想だと思う。正直に気持ちを伝えてくれていたらと思う。……それでも、もう私の気持ちは戻らない。


 〝月虹〟が私の神力を引き出し、白く聖なる光に矢が包まれていく。

 弓を引く私の手にクラウの手が背後から添えられると、指に食い込む弦による痛みが消えた。これなら思い切り引くことができる。


「始めます!」

 最初に射たのは左の手のひら、続けて二射目は右胸。この距離、この大きさなら外すことはない。深く突き刺さった矢が、黒いよどみを白く塗り替えていく。


『何故だ! こんなに想っているのに!』

 セブリオ王子と誰か他の人々の声が重なったような声が赤い影の口から発せられた。

『嫌だ! 消えたくない! 無かったことにしたくない!』

 赤い影が私に手を伸ばしながら泣き叫ぶ。その叫びは私の心を抉るように切ない。


「ごめんなさい! 私は……私は、クラウが好きなの!」

 私の叫びに赤い影が怯んだ。眉間へと放った矢の白い輝きが、赤い影を散らしていく。白い光が強い風を伴って渦巻き、巨大な赤い影を粉々にする光景を、私は静かに見つめていた。


「……僕もセラフィが好きだよ」

 背中からそっと抱きしめられた。初めてのその言葉が嬉しい。

「クラウ!」

 振り返って見上げたクラウの瞳は優しくて、それなのに、少し寂し気で。


「セラフィ、お疲れ様」

 そっと落ちてきた口付けは軽く、一瞬だけで離れた。


      ◆


 セラフィの呪いが解けた夜、僕は何故かベッドの横でセラフィに抱き着かれていた。セラフィはもう猫の姿になることはない。


「えーっと、セラフィ?」

「私を置いて、どこへ行くおつもりですか?」

「ど、どこっていうか……そ、その……」 

 ベッドはセラフィに譲って、僕は別の部屋で寝ようと思っていた。


「イネスの部屋のベッドを整えておけばよかったなぁ……」

 掛け布もマットも処分したので、ベッドは木の台でしかない。


「一緒に眠ればいいのです」

「そ、そうはいっても……その……」

 僕の我慢がいつまで続けられるか自信がない。


「明日は明後日の準備があります。早く就寝しましょう」

「…………はい」

 清らかすぎるセラフィの笑顔に、僕は何もできずに従うしかなかった。


      ◆


 先代の王との面会日がやってきた。化粧をし、アメジスト色のドレスを着たセラフィは女神のように美しい。

「綺麗だ」

 その宝石のような輝きは、素朴な家には似つかわしくないと寂しさを感じる。


「クラウは素敵です」

 短く切った髪を整え、僕は黒地に金の装飾が施されたロングコートを着る。白のシャツに黒のベストとトラウザーズにブーツ。見た目だけは貴族のようだ。着こなせているのかどうかの不安は、セラフィとテイライドの褒め言葉で払拭された。


 移動魔法で指定の場所へと向かうと、王城内の一室だった。初めて会う神官長と挨拶を交わし、何故かこの国の宰相や大臣達と挨拶を交わす。僕がこの十二年間に解いてきた呪いは、貴族や国民を大勢救ってきたらしい。感謝の言葉を掛けられると気恥ずかしい。


 イネスの教えの通り、身なりを整えておいて良かったと思う。いつもと勝手の違う窮屈な服は貴族と見劣りしない。怯むことなく背筋を伸ばして堂々と言葉を交わすことができる。


 内心の焦りというか、初対面の人と話すことの恐怖はもちろんある。それでも、隣にセラフィがいると勇気が出る。セラフィに恥をかかせないようにと必死で言葉を紡ぎ、見知らぬ相手に笑顔を作ることも厭わない。


 王城の裏手に広がる森の中、先代の王の住居が作られていた。ベージュ色のレンガで深緑の屋根。二階建ての小さな家のあちこちをツタが覆っている。セラフィはいつも王城で祖父に会っていて、初めてここに来ることを許された。


「……クラウ。ここは……私たちの家に似ていますね……」

「そうだね」

 本当によく似ている。壁や窓、扉の色や形までそっくりだ。


 扉を叩くと、普通の服を着た老齢の金髪の男性が扉を開けた。シャツの襟には、昔見た緑柱石の小さなピンが留められている。


「よく来てくれた。さあ、入ってくれ」

 先王は僕たちを招き入れ、自ら淹れたお茶でもてなしてくれた。テーブルには祖母のイネスがよく飲んでいた花茶と、好んでいた菓子が並べられている。侍女や従僕は一人もいない。


 挨拶を交わした後、先王が切り出した。

「さて、何の話かな」


「こちらをお返しする為に来ました」

 僕が服の隠しポケットから指輪とブローチの箱を出すと、先王の顔色がさっと青ざめた。


「セラフィナ、少し席を外してくれないか。私は、この青年と二人だけで話をしたい」

「……はい。おじい様。庭におります」

 優雅な仕草で立ち上がったセラフィが、軽く会釈をして扉から出ていく。ドレス姿のセラフィは美しくて、素朴な家には似合わないと痛感する。


「イネスに何かあったのか?」

「祖母は十二年前に死んでいます。その間の手紙は僕の判断で処分しました」  

 外に出すべきではないとセラフィにも確認して燃やした。


「そうか……手間を掛けた。すまない。……ブローチはこちらで処分するが、この指輪は君が持っていて欲しい。私の孫であるという証明になる」

 やはり僕の祖父は先王だったのか。覚悟はしていたので驚きはない。僕が黙ってしまったことをどう思ったのか、先王は話を続けた。


「昔、私は罠にかけられ〝黒い森〟で刺客に襲われて大怪我をした。その時助けてくれたのがイネスだ。私は記憶を無くしていて、普通の男として暮らすうち、イネスとの間に娘が出来た」

 子が出来た直後、先王は記憶を取り戻した。王子の責務を思い出して城へと戻った。


「すぐに迎えに行くつもりだったが、唐突に父王が死に、私が王位を継承しなければ国が乱れそうだった。そこで私は公爵家の娘と婚姻したが、形だけの婚姻だった」

 この国では王の戴冠式と同時に結婚式が行われる。平民であるイネスを王妃とする手続きは間に合わなかった。慌ただしい即位の中、公務や政務に追われて疲れ果てていた。


「王の義務として後継ぎを求められたが、イネス以外を愛することはどうしてもできなかった。追い詰められた私は弟に子を作らせた。――セラフィナは私の孫ではない。それを知っているのは、弟の公爵、私の王妃たち、辺境伯のセラフィナの父だけだ」


 僕が王の血筋をひいているということ以上に、王の行動の誠実さと不実さに眩暈がした。セラフィナの母も現王も知らされていないと聞いて、思いがけず知ってしまった消えるべき闇の深さに頭が痛い。


「王になって一年後、私はどうしても我慢できずにイネスを迎えに行ったが、イネスはすでに他の男と結婚していた。私の娘はその男を父と呼んでいて諦めて帰った」

 それがケイラだったのだろう。


「それから長い時間が過ぎて、男が死んだという噂を聞いた。……君は覚えていないかもしれないが、イネスの家で私と一度会っている」

「覚えています。お菓子を下さり、ありがとうございました」

 言えなかった菓子のお礼をやっと言うことができて、すっきりした。


「王の地位もすべてを捨ててあの家に帰りたいと願ったがイネスは私を追い返した。それ以来、何度向かっても、あの家にたどり着けなくなった」

「祖母が死んだのはその直後です。……おそらく貴方に掛けられた〝白猫の呪い〟の身代わりになって死にました」

 僕の言葉を聞いて、先王は衝撃を受けた顔をした。


「……そう、だったのか……」

 先王は深い深い溜息を吐き、目を閉じた。

 長い長い沈黙の間、先王は何を考えているのかわからなかった。ただ、次に目を開いた時には、一瞬の苦笑の後、穏やかな笑顔を見せた。


「…………君はセラフィナをどう思っている?」

「愛しています」

 唐突な問いに、僕は反射的に答えてしまった。


「セラフィナは辺境伯の娘だ。何の地位も名声もない男が結婚を望んでも、認められることはないだろう」

 僕はその言葉に歯噛みした。それは良くわかっている。だからこそ身を引こうとしているのに改めて確認されると悔しい。


 これまでの解呪の成果を自分の物だと発表していれば魔術師としての功績が少しは認められていたかもしれない。僕は過去の自分を呪った。


「身分や血というものは人の想いを縛る。どんなに愛していても、王族や貴族に生まれ付いたからには義務が生じる」

 そのことを身をもって経験した人だ。言葉は重い。


「その指輪を持っていれば、私の孫だと辺境伯は理解するだろう。ずるい話だと思うかもしれないが、愛する者を手に入れる為の道具の一つだと思ってくれればいい」

 そう囁かれると心が動く。身を引くつもりでも、これがいつか役にたつかもしれないと、僕は醜い打算をして、指輪を受け取った。


「……次はセラフィナと二人きりで話をしたいのだが、呼んできてくれないか」

 僕は庭にいたセラフィナと交代した。


      ◆


 別れの挨拶を交わし、僕たちは森の中を歩いていた。僕たちの家がある森とは違い、道はしっかりと整備されていて柔らかなレンガが敷き詰められていて歩きやすい。


「おじい様は、何をお話しになったの?」

 先王は、セラフィには何も教えなかったらしい。


「……僕の祖母、イネスが好きだったんだって。何度も告白したけど、毎回フラれたそうだよ。この指輪はフラれた証だから手元に残したくないってさ。昔の恋の供養に、しばらく付けて欲しいって」

 先王と打ち合わせた通りの話をして、右手の小指に嵌めた指輪をセラフィに見せる。 


「……それじゃあ……」

 セラフィの顔が明るくなった。この国では従兄妹同士で結婚できない訳ではないけれど、その血の近さを気にしていたのだろう。真実は限られた者の中で葬られればいい。


「前にも言ったけど、僕の祖父はケイラ。母が良く話してくれたんだ。黒髪黒目で、とても強くて頼もしくて、娘に甘い父親だったって」

 いきなり祖父だと言われても実感はない。僕の祖父は今も変わらずケイラだと思っている。


「クラウ、私たちの家に帰りましょう」

「セラフィ、帰る前に美味しい物買って帰ろうよ」

「はい!」

 貴族の前では静かに微笑んでいたセラフィが、いつもの笑顔に戻って僕はほっとする。そして僕たちは王城近くの店で買い物をして家へと帰った。


      ◆


 その夜、僕はベッドでセラフィに迫られていた。

「もう、口付けはして頂けないのですか?」

 懇願するような言葉と悲し気な表情に僕の自制心がぐらぐらと揺さぶられる。許されるなら、いつでも口付けしたい。抱きしめたい。心の中でテイライドに助けを求めても、最近、夜は近くにいる気配すらない。


「呪いは解けたんだ。セラフィは家に戻らなくちゃいけない。一緒に過ごした日々は本当に楽しかったよ。……僕はきっと、この思い出だけで生きていける」

 苦しい言い訳だ。やせ我慢というのは今の気持ちだろう。胃が絞られるように痛む。


「私は思い出だけでは生きていけません。私の家はここなのです。お役に立ちますから、そばに置いて下さい」

 抱き着いて僕の胸に顔を埋めるセラフィの銀の髪からいい匂いがする。夜着越しにもはっきりとわかる柔らかな体が密着すると……滅茶苦茶にしたくなる。


「セラフィは貴族だ。僕は平民で無名の魔術師」

 階級クラスが違い過ぎると続けようとした時、セラフィが唐突に僕の胸から顔を上げた。


「大丈夫です。祖父に王命を頂けるようにお願いしました」

「え?」


「初めての私の希望ですから、すぐに手を回すと約束を頂いております。祖父もとても喜んでおりました」

 王命があれば、どんな婚礼でも祝福を受けられるとセラフィが微笑む。


「婚礼支度金も私の呪いを解いた賞金で十分に賄えます」

 この国では男が女性の家に支度金を出すことになっている。


「待って。僕は賞金をもらうつもりもないし、最初に預かったお金も返す予定だよ」

「それは……」


「……僕の魔術師としての十二年間の稼ぎは賞金よりも遥かに多いんだ。……君の婚礼支度金くらい、簡単に用意できるよ」

 懐の心配までされたら、後には引けなくなった。僕はそこまで情けない男じゃない。床の隠し戸の中には、使うことのなかったお金が入っている。


「……セラフィ、僕のものになる覚悟はある?」

「はい。クラウのものにしてください」

 紫色の瞳を輝かせるセラフィは少女のように微笑む。その言葉の意味を本当に理解しているかどうかはわからない。


 どろどろとした醜い欲望を胸に秘めた僕は、美しくて無垢なセラフィに手を伸ばした。

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