第10章① 外套と拳銃

 日本政府はエネルギー資源の調査に基づいて、B大陸極東部にあるというウラン鉱石を獲得するべく、B号戦争計画を策定していたが、戦争遂行能力の大幅な低下によって、戦争計画の発動は見送られて、中止されたままとなっている。


 政府は、混沌とした地域情勢を利用して、どうにかウランや石油・LNG(液化天然ガス)などを入手できないかどうかを各省庁に指示していた。


※※


日本政府:エネルギー資源に関する省庁間委員会


 省庁間委員会は、首相の行政命令に基づき、各省庁の局長級を委員として、その下に、課長級の実務担当者による分科会・小委員会が置かれた。


 委員会が設置された目的は、エネルギー資源の確保、即ちエネルギー安全保障政策の立案に当たって、首相と内閣の諮問に応える為に、中央省庁の利害調整と統一見解を提出する事にある。


 委員長は、国家安全保障局副長官が兼任する。副委員長のエネルギー安全保障局長(経産省)が、委員長に代わって議事を進行した。


「ではまず、現在のエネルギー資源に関する状況ですが、お手元にある資料の通り、石油供給に関しては、エリザベス王国を植民地にした事で、若干の改善が見られますが、依然として危機的な状況にある事は変わりません。

 我が国のエネルギー需要を満たすだけの石油供給は、数ヶ月先まで待たなければなりません。

 石炭に関しては、こちらは現地人を炭鉱で働かせて、露天掘りでもいいから、とにかく採掘を急がせている次第です。その成果もあって、石炭火力発電に必要な供給量を徐々にではありますが、回復しつつあります。

 LNGに関しては、エリザベス植民地のEEZ内で発見されていますが、安定的な採掘の目途は立っていません。

 但し、中間報告書にある通り、予算と人員を大幅に強化すれば、LNGの安定供給も可能だと推測されます。

 次に、ウランですが…、こちらの供給については未定のままです。正確に言えば、B大陸極東部に対する侵攻作戦によって、ウラン鉱石を奪取するB号戦争計画が策定されていましたが、A号戦争計画の修正によって、事実上の白紙化に至っているのが現状です。

 首相が本委員会を設置した主な理由は、このウランを供給する手段を提案する事にあります。よって、本委員会の議題は、ウラン供給の計画を策定する事が中心となります。何か、ご質問はありますか?」


「B号戦争計画が中止されたという事は、戦争政策以外の手段で、原発を稼働させるという事か?」


「B号戦争計画では、大規模な通常戦争を前提としていますが、我が国の低下した戦争遂行能力に負担を与えない範囲での軍事作戦であれば可能です。

 例えば、小規模な上陸作戦とか、もしくは特殊作戦とかの軍事オプションであれば、現在の国力でも十分に遂行できるはずです」


「つまり、軍事オプションも排除しないと?」


「えぇ、その通りです。現状、採り得る手段の範囲内であれば、如何なる手段も許容されます」


「だが、大陸極東部の情勢は、混沌化しているのだろう?その状況では、大規模な軍事介入以外には、現状を打開できないのではないか?それとも、最初の方針に立ち返って、外交関係の樹立も視野に入れるとでも?」


「検討に際しては、原則としてあらゆる選択肢を排除しません。ですから、外交政策による打開も、当然に選択肢の候補ではあります。

 しかし、首相の存念は、恐らく外交政策を否定するでしょう。未だに、外交官の派遣を拒否しているですから。

 何よりも、外交関係によって、我が国の科学知識や技術情報が異世界に流出する事は、最も回避しなければなりません。我が国が覇権国家である為には、技術を独占する必要がありますからね」


「…それでは、採り得る選択肢など殆どないではないか。軍事と外交が使えないとなると、経済的手段に限定されてくるが、我が国が異世界の諸外国と貿易関係にない以上、それも無意味だろう」


 当然の疑問だった。これに対して、副委員長は、意味深長な笑みを浮かべた。


「先程、申し上げた軍事オプションに、もう一つ付け加える必要があるでしょう。我が国は、核保有国です。

 それも、核の三本柱を維持する核兵器大国です。戦略核弾頭の備蓄は、十分にあります。この惑星を何十回でも破壊できる程の弾頭が保管されている訳です」


「…つまり、軍事オプションには、核攻撃も含まれると言いたいのか?」


「えぇ、その通りです。更に言えば、我が国はNBCR兵器を保有していますから、核兵器のみならず、生物や化学兵器で攻撃する能力も保有しています。放射線兵器によって、意図的に目標地域を汚染する事もできます」


「それは、国内輿論が許容しないのでは?」


「輿論が認めるかどうかなど、さして重要ではありませんよ。輿論の反対が盛り上がっている頃には、既に全てが終わった後なのですからね」


「政権は、先制核攻撃も視野に入れていると?」


「当たり前です。それがあるからこそ、我が国は、かろうじて安全保障を確立しているのです。

 これは極論ですが、異世界の国家を全て核攻撃によって、滅亡させる事もできるでしょう。

 ただ、DIA(防衛情報局)によると、近代国家の存在が確実らしいので、反撃されるかもしれませんが」


「その様な事が許されるとでも?」


 副委員長は、呆れた様に苦笑した。


「誰が許さないのでしょうかね?政策に倫理や道徳は不要です。全ての国家を破壊すれば、我が国は半永久的な平和を獲得できますよ」


 委員の誰かが、気が狂っていると呟いた。


「核兵器を縛る核抑止力は、この世界にはどうやらありません。あったとしても、迎撃すれば良いのです。それに、エリザベス王国に対する戦略爆撃によって、戦略兵器に対する忌避感は、大分薄れてきたのではないでしょうか」


 エリザベス王国に対する核攻撃の効果は、実に劇的だった。政府は、その果実を知ってしまった。核兵器に対するたがが外れかけている。転移前の地球世界では、到底考えられなかった事だ。


 いざとなれば、核戦争によって、世界を滅ぼしてしまえば良い。副委員長の脳裏にあるのは、日本が唯一の国家となった来るべき世界である。


「安心して下さい。核戦争は、飽くまでも最後の手段ですよ。半分は冗談ですからね。できる事ならば、平和的な手段が望ましいと私も思っています」


 副委員長は、核兵器の威力と即効性に魅入られてしまったのだ。


※※


日本政府:首相官邸


 首相は、エネルギー安全保障政策に関係する高級官僚の訪問を受けていた。省庁間委員会の成果を報告する為だった。副委員長を務めるエネルギー安全保障局長が、委員会を代表して、首相の諮問に応じた。


「本委員会は、首相の諮問に対して、二つのオプションを用意しました。A案は、主に外交政策と貿易によって、ウラン鉱石を供給する事。B案は、先制核攻撃によって、B大陸極東部を焦土化し、敵対が予想される異世界の国家を滅亡させる事です」


 副委員長は、そう言って、委員会がまとめた分厚い報告書と、一枚の紙に概要を記した簡略な報告書の二通を手渡した。


 分厚い報告書と薄い報告書に分かれているのは、官僚用と政治家用に分かれているからである。首相は、手渡された報告書に一瞬だけ目を遣ると、執務机に置いてしまった。


 実際に、報告書を読み込む政治家など数える程しかいない。政治家の予定表は、分刻みであるから、報告書など読んでいる暇はないのだ。


 高級官僚達も、首相が報告書を読むなどと期待はしていない。政治家とはそういうものであると、彼らは、身を以て知っているからだ。


「…なるほど、ご苦労様。それで、君はどちらの案を採るべきだと思う?」


「私は、B案がより確実ではないかと愚考致します。異世界の諸国に対する外交政策が通用するとは、到底思えませんし、国交が樹立できないのならば、貿易政策も適当ではないかと。

 それならば、先制核攻撃がより確実な手段ではないでしょうか。エネルギー資源の確保と安定供給が、喫緊の課題である以上、手段の合理性のみを追求すべきで、倫理性や道徳性などを求めるべきではないでしょう」


 首相は、副委員長の発言に沈黙した。彼は、机に置かれた報告書の束に視線を寄越した。どうやら、深く思考の海に潜り込んだらしい。じっと、顔をしかめて黙考する首相に、高級官僚と側近らは、その様子を見守った。


 やがて、重苦しい雰囲気を破る様に、首相は、側近の一人である国家安全保障担当首相補佐官にも、質問を重ねた。補佐官は、B案の採用を主張した副委員長とは対照的に、A案の採用を支持すると意見を述べた。


「B案の効果は劇的ではありますが、核兵器の使用は、最も抑制的であるべきです。我々が核攻撃に躊躇しなくなれば、寧ろ、対外政策の硬直化と選択肢の狭量化を招くだけです。

 飽くまでも、核攻撃は、最後の手段とすべきです。平時から核兵器の使用を前提とするなど、異常以外の何物でもありません。

 これから、核兵器ばかりに頼れば、核攻撃では解決できない問題に直面した時、どうやって事態を解決するというのですか。核兵器は、手段に過ぎません。その手段に依存してはなりません。

 人々は、核兵器が持つ終末的な魅力に取り付かれやすいですが、核兵器が全ての問題を解決できるなど、下らない幻想です。

 一度、全てを破壊すれば、元に戻るまでに、途方もない時間と労力が掛かります。はっきりと言って、こうした提言に核攻撃が選択肢に含まれる事自体が狂気ですよ」


「核攻撃では解決できない問題とは?」


「例えば、この世界に関する研究や情報収集、通商関係による市場の開拓と輸出の拡大、そして、穀倉地帯や耕作可能地域の拡大です。

 もしも核攻撃に踏み切れば、他国の市場を通じて、我が国の経済力を向上させる可能性を潰す事になります。核戦争でなく、経済戦争によって、国富を増大させるべきです。

 それに、核攻撃によって、地域が放射線に汚染されれば、穀物や果実の栽培も遠のくはずです。核攻撃を行うという事は、特定の地域が持つ経済活動や農業などの生産活動の可能性を終わらせてしまうという事に他なりません。

 確かに、核攻撃は非常に魅力的な選択肢です。外交や貿易の確立という面倒な手段に訴える事なく、分かりやすい外形的な暴力です。

 しかし、軍事オプションの行使によって、本来、我々が得られるはずだった、得られたかもしれない果実までを手放してしまうのです。ですから、核兵器の使用は、最終手段でなければなりません」


「つまり、外交手段によって、得られる果実を取れと?」


「はい、仰る通りです。まずは、外交政策と貿易によって、事態の打開を図るべきなのです。勿論、それが為されなければ、軍事オプションや先制核攻撃も視野に入りますが」


「国交によって、我が国の先端技術情報などが流出する恐れもあるが、それはどうする?」


「外交関係・通商関係を結べば、いつかは、技術や情報が異世界の諸国に拡散していく事でしょう。しかし、我が国はそれを単に防止するだけでなく、コントロールするべきです。技術と情報をコントロールする事で、我が国の影響力を拡大すべきでは?」


「ある程度の情報流出は、避けられないと?」


「残念ながら、完全な防諜は不可能です。ですが、それを逆手に取って、衛星画像の様に、シャッター・コントロールを仕掛けてやれば良いのです。

 それによって、異世界の文明レベルを『調整』する事もできます。それから、一国が技術を独占しないように、いくつもの国家に流出させるとか、大国を中堅国や小国程度に分裂させる為に、内戦や内乱を誘導させる工作活動も必要でしょう」


「パックス・アメリカーナを異世界で体現する訳か?CIAが行っている謀略活動そのものだな」


「確かに、米国の覇権政策と似通っているかもしれません。これは言わば、『パックス・ジャポニカ』ですね」


「まさか、異世界で『ジャパン・アズ・ナンバー・ワン』を実現すると?」


「この世界に於いて、我が国は、覇権国家に最も近い立場にあります。地域の覇権を握る事が出来れば、『日本による平和』が実現する訳です」


「…地球世界では、考えられない事だな。果たして、転移して良かったのかどうか…」


「もう転移してしまった以上、それに適応するしか、我が国が生き残る道はありません」


 首相は再び沈黙すると、A・B両案の利益を衡量し始めた。彼は、外交政策による問題解決へと傾いていた。


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日本政府:外務省


 外務省は、省庁間委員会が提案した外交政策に対する首相の好反応に驚喜した。日本国が異世界に転移してからというもの、外務省は対外政策の意思決定に於いて、蚊帳の外に置かれたままであった。


 対外政策の決定は、防衛省・経産省・農水省・国交省の4省が圧倒的な影響力を行使している。政府内で、異世界の諸国との国交の樹立に懐疑的な視線が投げ掛けられる中で、外務省は随分と肩身の狭い思いをしてきたのだ。


 そういった状況であったのに、戦争遂行能力の低下によって、外交政策への期待感が高まっている。外務省の地域別部局は、最も暇な部局になってしまっていたが、エリザベス王国語が研究されるにつれて、外交政策を復活させる活路を見出した。


 非軍事手段の重要性が増している以上、これから日本国は異世界の諸国と意図的に接触せざるを得ないはずだ。そうなれば、地域別部局を地球世界から異世界へと対応できる様に再編する機会になるだろう。


 影響力の復活を願う外務省にとっては、またとない機会であった。外務省は、持てる人的資源を総動員して、政治家・報道機関・大手企業などに外交政策と通商政策の重要性を訴求していた。


 国民はもう戦争にこりごりだろう。だから、戦争でなく外交によって問題を解決しようと訴えたのだ。


 外務省の訴求は、特に国内輿論と大手企業に受け入れられ始めていた。電気の節制を強いられる国民は、転移前よりも生活の質が低下しており、不満が強い。大手企業にしてみても、必要なエネルギーや資源が輸入できず、企業活動さえおぼつかない。 

 その現状を何とかしようと、何とかできると期待された戦争であったが、効果が限定的で、その限定的な効果を実感できる人々は一握りだ。多くは、未だに食糧に飢えている状態なのだ。


 国民は、不足する食糧を自給する為に、家庭菜園を始める者が多かったが、その土地を巡って、暴力沙汰が増加している。人間一人を養う為には、ベランダや庭の面積程度では、とても足りない。


 だから、食糧生産が可能な土地は争奪戦の様相を呈していた。国内の治安が悪化するのは当然の帰結で、人々は自身の家庭菜園を防衛する為に、拳銃や猟銃で武装し始めた。


 日本では、正当防衛法(スタンド・ユア・グラウンド)と城の原則によって、個人の武装権と自衛権が保障されて、アメリカに次ぐ銃社会でもある。


 外務省は、早速、組織の改編に取り掛かった。地域別部局を再編し、異世界の諸国・地域に対応できる体制へと動き出した。そして、西大戦洋地域を管轄する外務次官補と地域別部局を新設した。


 外務省の対応は、日本が異世界に転移してから数か月を経ており、その必要性に比べて非常に遅かった。


 しかし、問題は人材の確保と育成だ。異世界の外国語に習熟した日本人はまずいない。いるとしたら、エリザベス語を学ぶ必要がある、総督府の職員や特殊部隊員ぐらいのものだろう。


 ましてや、それ以外のメルケル語・ルペン語・ラホイ語などを話せる人材は一人もいないのが現状だった。


 そうした状況であるから、折角、新組織を設置したというのに、実際に海外に外交官を赴任させられる様な段階ではない。


 それでも、形だけでも組織を作った以上は、それに相応しい人材を供給する必要があるだろう。外務省は、持てる資源を総動員して、外国語が話せるエリザベス人を捕まえて、語学教師として雇用している。


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日本政府:情報庁第2局


 対外情報活動を担当している情報庁第2局が抱える問題は、外務省の地域別部局と同じで、地球世界の地域に対応した組織を異世界の諸国・地域に対応した組織に改編しなければならないという悩みだ。


 首相と内閣が、外交政策・通商政策へと傾いているという事は、彼らにとっては、より切実に対外情報活動が求められるという事であり、それは彼ら本来の仕事を復活させる好機であると共に、異世界の言語や文化・慣習・価値観に精通した情報官を、一から育成しなければならない、大変な困難を伴う目的と任務でもあった。


 途方もない労力と時間を掛けて、じっくりとインテリジェンスの専門家を育成する必要があるが、彼らに残された時間はかくも短い。政権の方針転換に伴って、各種の情報機関は、その対応に追われている。


 外務省と情報機関は、異世界の言語や文化に精通している現地人の採用に積極的で、熾烈な人材獲得競争を繰り広げていた。


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ルペン共和国:日本・情報庁第2局・第3情報課


 日本政府は、外交政策・通商政策への転換の布石として、異世界の諸国に情報官や工作員を送り込んだ。各省庁の情報機関は、国家情報長官(DNI)の指揮統制の下に、それぞれ担当地域や活動領域が割り当てられた。


 情報機関というものは、中国の国家安全部と公安部、又は米国の中央情報局と国防情報局の様に、激しい対立関係を抱えているが、DNIは、予算権と人事権、情報活動の調整権を通して、そうした情報機関同士の対立関係を緩和し、重複する任務や機能を解消する役割が期待されている。


 DNIは、その調整権を行使し、情報庁第2局に対して、ルペン共和国を含む数十カ国に対する諜報活動に従事する様に命じた。


 ルペン共和国に対する諜報活動を統括するのは、第2局の第3情報課長(大佐)だ。彼は、国立防衛大学法学部を卒業後、イスラエル・ヘブライ大学で軍事史学の修士号を修め、情報庁に入庁した。


 情報庁では、20年以上に渡ってヨーロッパ地域を担当しており、ドイツやフランスに対する諜報活動に従事していた。彼の情報官としての任務は、諜報対象であるEUや政府機関の中に協力者を獲得し、育成する事だった。


 彼の情報貢献は、日欧EPAの交渉に活用された。EPAに人権規定や動物愛護規定を盛り込もうとするEU側とそれを牽制する日本政府の激しい外交闘争は、双方に厳しい輿論の反応を惹起させた。


 日本政府に、死刑制度の廃止や捕鯨の中止を要求する欧州の人権団体(人権屋)や環境保護団体・動物愛護団体の過激な抗議活動は、目に余るものがあった。大佐は、首相の行政命令に基づいて、これらの団体や活動資金を提供している企業、政治家やユーロクラート(EU官僚)の不祥事を次々と収集して、日本に外圧を加えようとするこれらの動きに掣肘を加えた。


 国際人権団体の幹部が関与した、児童に対する性的搾取や、ユーロクラートがオフショア地域に隠し持っている資産などの情報を報道機関やインターネットに流出・拡散させたのだ。


 勿論、日本政府がそれらに関与した証拠は残さなかったが、大規模な不祥事の連続に、国家機関やそれに類する組織の関与がある事が明らかだった。要するに、EUに対する日本政府の明快な警告である。


 大佐の下には、情報庁の職員のみならず、他省庁の職員や諜報企業の従業員、それから当然、ルペン語とルペン文化に精通するエリザベス人も集結している。


 この世界は、一国の情報機関が調べ上げるには、あまりにも面積が広すぎるから、まず情報戦略を立案する上で、地域や国家の優先順位をつけて、情報機関の任務と担当地域の重複も避けなければならない。そうして初めて、対象地域に対する適切な情報作戦を展開する事ができる。


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ルペン共和国首都:ペティオン市


 ペティオン市は、王政時代から王冠領(君主の封土)の首都として、大変に栄えていた。君主は、ペティオン伯を兼ねて、同市の統治に細心の注意を払っていた。


 同市は、市長職が置かれておらず、市民革命の混乱期では、一時的に市長職の改廃を繰り返した。市長職の代わりに、市を12の行政区に分けて、それぞれの代官に統治を委任した。


 首都の統治を巡る主導権の闘争は、君主・司教・特権商人の三者が競い合い、市長職は空席のままだった。革命の混乱期を脱した現在でも、同市には市長職が置かれていない。


 ペティオン市の第2区は、セイネー川を挟んだ地域の一つを統治し、川沿いの高層建築物(※10階建て程度)が向かい合って、官庁街を形成している。川辺と岸壁には、渡船場が設けられて、国内を流れるセイネー川の交通網を利用する事ができる。


 各省庁は、それぞれの庁舎に直結する専用の小さな河川港を利用して、機密書類などを運搬している。セイネー川は、氾濫する事が滅多になく、水量が安定しており、同市は国内第一の河港都市でもある。


 河川輸送であれば、騎兵隊による護送がいらず、大量の書類を積んだ数隻で事足りるからだ。首都が攻撃された有事に於いては、攻囲軍に対抗する重要な物資補給拠点にもなるだろう。


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ペティオン市:日本・情報庁第2局第3情報課


 第3情報課は、同国に情報員・工作員を送り込む為に、あらゆる手段を講じた。潜水艦や空挺による非合法の潜入や、船便による合法的な入国まで、様々な潜入・入国経路を確保していた。


 同課を率いる大佐は、同国に於ける諜報活動を統括する為に、直接、自ら現地に足を運ぶつもりだった。


 彼は、外国人の旅行客という体で、合法的に入国した。入国に必要な旅券を偽造する事は容易い。本物の旅行客が所持する旅券を強奪して、それを複製すれば良いだけだ。


 大佐は、同国の港湾都市からセイネー川を上ってペティオン市に入る途中だった。揺れの少ない渡船に感心しながら、船上から市内の様子を観察していた。航空写真や先遣された情報員が撮影した写真に目を通してはいたが、こうして実際にその発展ぶりを目の当たりにすると感慨深い。


 日本の大都市に比べれば、超高層ビルという大企業の象徴はないが、それでも、建物がどこまでも密集している様は、祖国の東京大都市圏を想起させる。


 単純に都市が拡がって大都市を形成しているのでなくて、都市が都市を呑み込んで拡大しているのだ。だから、都市と都市の境界性は曖昧となって、一つの都市圏を構成している。


 彼が乗船する渡船は、川沿いの光景を楽しめる様に配慮してなのか、ゆったりと進んでいて、周囲の忙しそうな人々や他の河川艦とは違う時間が流れているかの様だった。


 渡船が更に河川を上ると、一際大きな高層建築物が彼と渡船を挟み込む様に出現した。共和国政府の官庁街だ。


 第3情報課の主要目標である官庁街を彼は、何でもないように涼し気な視線を向けるに留めた。いくら旅行客だからと言って、じろじろと不躾な視線を投げ掛けるのは憚られた。


 その程度の事で諜報活動が露見するとも思えないが、長年の習性というのは中々抜けないらしい。


 大佐は、渡船場で旅券を提示すると、易々と首都に潜入した。入国管理は、港湾都市よりも厳格だったが、それでも電子機器や機械による警備がないから、科学技術を駆使して突破するのは容易だった。


 入国審査官の旅券確認はかなり大雑把で、適当に目を通すと入国許可が下りた。港湾都市では、旅券の確認さえなかったから、まだましなのかもしれないが。


 どうやら、入国審査というやつは、内陸に向かえば向かう程、厳格になるらしい。現代の地球世界とは逆である。国境の移動という点では、この異世界の方が緩やかなのだろうか。


 喫茶店に腰を落ち着かせると、一人の女性が席に近付いて来た。彼女は、先遣された情報員の一人だ。雑談に花を咲かせる周囲の客に交じっていれば、日本語で会話を交わしても注目されにくいだろう。仮に注目を集めたとしても、会話の内容は理解できないはずだ。


「この町はどうだ?祖国とは大分勝手が違うだろう?」


「えぇ。確かに、何もかも違うわね。現代の生活が如何に快適でありがたいのかを思い知らされたわ。

 この町は、東京よりも小さいけれども、市井の人々の活気は、東京に負けないわね。何というか、一人一人が未来への期待に満ちているというか、一儲けしてやろうという情熱を感じるわ」


「そうか、全く羨ましい限りだな。情熱というものは、祖国から忘れられて久しい。この町の暮らしは、安全か?治安はどうだ?」


「東京よりは各段に悪いけれども、後進国よりは遥かに治安は安定しているわね。何でも、国民衛兵隊という治安部隊が市内を巡回しているらしくて、近所の知人が仕事終わりに参加しているみたいなの。

 ボランティアの警察官といったところかしら?職業軍人と非常勤の市民兵による混成部隊が市内のあちこちに組織されているわ」


「なるほど、その治安部隊が市民社会に入り込んで、犯罪を未然に防止しているという訳か。地球世界の多国籍軍やアメリカ軍よりも上手く治安の安定化に成功しているみたいだな」


「確かにその通りね。この国は、どちらかと言うと、地球世界のナポレオン帝国に近い側面があるけれども、この国の指導者はどうやらナポレオンの失敗を踏まない様にしているのかしら?」


「失敗とは?」


「ナポレオンの外交政策の事よ。理想主義的な外交政策によって、ナポレオン帝国は崩壊したでしょう?

 いくら戦争に強い将軍でも、外交の失敗で敵国を増やして、味方を減らせば、戦争に勝てなくなるわ。この国の指導者は、その事が良く理解できているみたいね」


「つまり、この国の政治指導者は、現実政治の信徒という事か?もしも、我が国が国交の開設と通商交渉を提案すれば、それに乗るだろうか?」


「それはどうかしら?でも、政権の支持率なるものがあるとしたら、半数以上の国民が支持している程度の感覚はあるから、例え自国に不利でも、譲歩できるだけの地力はある方じゃないかしら。国内をある程度は掌握できているはずよ。

 外交交渉が成立する相手かどうかは、実際に公式の外交官を派遣するしかないわね」


「…そうか。では、情報網の構築は順調か?」


「まだ時間が掛かるでしょうね。現地の協力者を選定している最中だもの。やっぱり、異世界の外国では、どうしても諜報活動がやりづらいわね。

 生みの苦しみと言えば、それまでだけど、どうも価値観から生活様式の何もかも違うから、この国や地域の常識というものを習得するしかないでしょうね」


「そうなると、やはり長期戦は避けられないか…」


「純諜報活動的にはそうだけれど、そもそも祖国には時間的な余裕がないでしょう?不完全な情報網の構築でも良いから、とにかく基本的な情報だけでも収集する必要があるでしょうね」


「現場に負担を掛けてしまうな」


「それは、いつもの事じゃない。それに、情報という価値は、時間が経つにつれて劣化するものだから、できるだけ早く協力者を運用したい政治の情報要求も理解できるわ」


 何でもないと装う彼女に対して、大佐は、いつも苦労を押し付けている事を気に病んでいた。


「必要な物があったら、何でも言ってくれ。できるだけ、揃えられる様に手配しよう」


「あら、ありがとうね。でも、あまり現代の文物があるというのもどうなのかしら?」


 共和国に派遣された情報員が、日本の快適な現代の生活を取り戻そうとして、発電機やら家電やらを持ち込めば、それが現地人や現地政府の耳に入ってしまうかもしれない。


 共和国の生活水準は、西大戦洋地域に於いては十分に文明的と言えるが、現代日本と比較すると快適な生活とは程遠い。


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ルペン共和国北西部:マクロン州


 北西部に位置するマクロン州・オランド州は、共に旧帝国領で、マルクヴァルト邦国との歴史的な係争地帯でもある。両州は、鉱物資源に恵まれて、その資源を巡る紛争が絶えなかった。


 在地の領主や貴族は、自領の独立の為に、旧メルケル帝国と旧ルペン王国の君主と二重の封建契約を結んで、二君や三君に仕える事も珍しくなかった。尤も、二重の封建契約は、当時は諸侯や貴族一般に見られる現象ではあるけれど。


 日本政府は、空軍宇宙軍団及び防衛省国家偵察局(NRO)が運用する偵察衛星を活用して、自国に必要なエネルギー資源を惑星表面上からくまなく探索している。


 地球と同じ様な資源があるらしい事は幸いだったが、問題はそれをどうやって掘削し、自国に輸入するのかという事だ。国交がない以上、外交関係を構築して通商を開始するのか、それともエリザベス王国に対する様に侵略によって、打開するのか。


 NROが作成した資源散布図は、実際の偵察データに基づいているとは言え、所詮は統計上の確率に過ぎない。実際に現地で資源調査を行う必要があるだろう。


 政府が欲して止まないウラン鉱石の散布図を参照すると、共和国領の北西部に集中している事が見て取れる。紫外線に蛍光反応する隣灰ウラン石の鉱床が発見された。


 政府はこの情報に基づいて、共和国領に侵攻して天然資源を奪取するB号戦争計画を策定していたが、現在、その計画を実行できるだけの国力を日本国は持たない。


 そうなると、先制核攻撃によって、共和国を焦土化してしまうか、それとも国交を開設して、通商交渉によって獲得するかの二つしかない。政府は、外交政策・通商政策によって、現状のエネルギー資源不足の打開を図る事を決定した。


 共和国の諜報活動を統括する情報庁第2局第3情報課は、政府の要請に従って、資源調査の専門家も現地に潜入させていた。科学支援や技術諜報を行う情報庁第4局の職員も同行している。


 マクロン州の鉱山は、共和国政府が出資する国策会社が一括して管理しているらしい。係争地帯であった名残りなのか、武装した警備員と軍人が巡回しており、まるで戦時体制の如く警備が厳重に張り巡らされている。


 これでは、現地の資源調査は難しいだろう。警備体制の穴を突いて潜入調査でもするしかない。


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マクロン州:MR鉱石会社


 マクロン州の鉱山を管理するMR鉱石会社は、その商業特権を利用して、組織的に鉱石資源を他国の政府や企業などに横流しをしている。共和国政府は、税収と安全保障の為に、同州にあった複数の鉱石会社を強制的に合併させて、採掘権を独占させている。


 その結果、MR鉱石会社は、鉱山の警備を名目として、私兵を抱え、歴史上の勅許会社の様に、独立性を増していった。


 軍人が会社の私兵と一緒に警備を請け負っているのは、共和国政府が巨大化してしまった鉱石会社を警戒しているからでもあるし、軍部と会社が癒着しているからでもある。


 会社の役員や幹部は、正規の報酬の他に、闇市場などで売り捌いて得た利益を山分けしている有り様で、幹部になれば、報酬を二重取りできる事は、会社の関係者ならば誰もが知っている。


 会社は、人件費を節約する為に、各国の植民地から違法な人身売買で、安い労働力を確保し、その差額も幹部の懐に入る仕組みになっている。


 日本の情報庁第2局第3情報課は、同州に潜入して、この会社について重点的に情報収集を行っていた。同課に所属しているエリザベス人の情報員は、MR鉱石会社の従業員が行き付けにしているという飲食店に足を運んだ。


 採掘の作業服そのままに食事を楽しんでいる集団がちらほらと店内にいて、情報員は、集団に混ざらず一人で食事をしているぶっきらぼうな作業服の男の近くに席を取って、話し掛けてみた。


「もしかして、鉱山で働いている方ですか?」


「何だお前?その訛りはエリザベス人か?どうして、俺なんかに話しかけるんだ?」


「実は、鉱石の買い付けに来たのですが、中々、上手くいかないものでして。それで、現地の方に話を伺ってみようと思いましてね」


「そうか、お前は商社の人間か?」


「はい、その通りです。何分、初めてここを訪れたものでして、勝手が分からないのです」


「それなら、俺に話しかけても、何も得る事はないと思うぞ。俺なんかと話すより、同業者と情報交換した方が有益だろうに」


「それもそうなんですが、新規参入というものはどうも同業他社の警戒心を呼んでしまうようでして、同業者を見つけて話し掛けても、逃げられてしまうのです」


「あぁ、それは既存の商社が価格協定を結んでいるからだろうよ。新規参入を防ぐ為に、業界団体があれこれ画策しているのさ」


「やはり、そうした事情がありましたか。どうすれば良いのでしょうね?」


「俺に聞かれても分からねぇよ。俺は一介の絋夫でしかないぜ」


「ですが、噂によると、鉱石資源の一部を横流ししているとか?」


「もしかして、お前はその噂を鵜吞みして、ここに来た口か?」


「まぁ、それもありますね。表の玄関が駄目ならば、裏口を使うのも手でしょうし」


 絋夫は、横流しの鉱石資源にありつくのも選択肢の一つだとする情報員に、忠告を加えた。


「横流しの鉱石には手を付けるべきじゃないぜ。あの鉱石は血に汚れている。それも汚れ過ぎている程に、真っ赤に染まっている代物だ。素直に価格協定に参加した方が遥かにましだぜ」


「汚れた鉱石とは?」


「お前も鉱石を扱うなら分かるだろう?横流し用に採掘されている鉱石は、人身売買された植民地人の犠牲で成り立っているのさ。採掘場の現場は本当に酷いもんだぜ。 俺が現場監督をしていた頃なんかは、鞭を打って、泥みたいな食事を与えるのは当たり前だったな。あんな扱いは、同じ人間に対するものじゃないぜ。まぁ、それに加担していた俺も同罪なんだけどな」


「だから、横流し品には手を出すなと?」


「あぁ、横流しの取引が拡大すればする程、現場の酷さにも拍車が掛かるだろう?偽善と言われればそれまでなんだが、どうも俺にはここの労働が性に合わないみたいだ」


「嫌なのに働いていると?」


「そりゃあ、お前、家族を養う為には仕事なんて選んでいられねぇよ。苦しむ人間を見るのは嫌だが、家族を路頭に迷わせるのはもっと嫌だろ」


「なるほど、貴方は優しい性根の方なのですね。それは偽善ではありませんよ。人間なら誰もが持っている感情ですからね」


「…そう言ってくれるのはありがてぇが、俺にできる事なんざ何もないぜ?俺に近付いて来た本当の目的は何だ?鉱石の買い付けだけか?」


 絋夫は、情報員が鉱石の買い付けを理由に近付いて来た事を信用した訳ではなかった。一人で食事を取っている絋夫よりも、集団で食卓を囲んでいる連中に聞いた方が、情報を沢山仕入れる事ができるだろう。


 だが、情報員は自身の目的を疑われても、表情を崩さなかった。彼にも養うべき家族がいるし、日本の情報機関に就職した事で、安定した生活を手に入れたのだ。それをみすみす手放すつもりなどなかった。家族の為に嫌いな仕事をしている絋夫がいる様に、同じく家族の為に、敵国の日本に寝返った者もいるのだ。


「鉱石の買い付け以外に何か目的があると?」


「あぁ、俺みたいなしけた奴に話し掛ける奴が今までいなかった訳じゃない。例えば、政府の回し者とかな」


 何でも、この絋夫は共和国政府の間諜ではないかと疑っているらしい。MR鉱石会社と共和国政府の関係を思えば、当然の反応なのかもしれない。


「私が共和国の間諜だとでも?ルペン人ならまだしも、外国人のエリザベス人を使ってわざわざ自国の会社に間諜を放ちますかね?」


「それもそうだが、可能性が無い訳じゃないだろ?自国企業の内偵の為に、外国人を使う国だってあるしな」


「なるほど、それも確かに有効な手段なのかもしれませんね。ですが、そうなると貴方は諜報や内偵にお詳しいので?」


「おいおい、ここは石を投げれば、絋夫か間諜に当たる様な町だぜ。いくら教養のない絋夫でも、何となく詳しくなっていくものさ」


「そういうものですか。ですが、そうなるとこの町にいる間諜は、一体何が目的で来ているのでしょう?」


「恐らく、商社が独占している流通網とか、価格協定に関する情報を狙っているんだろうよ。全く、人の業というものは底がないよなぁ。本当、嫌になっちまうぜ」


 絋夫はそう言って、頭を小さく振った。初対面では不愛想だという失礼な感想を抱いたが、話してみると、意外にも感情の表現が多彩だった。話し相手に飢えているのかもしれないし、同僚よりも気を張りづらいのかもしれない。


「この店に来れば、貴方に会えるでしょうか?」


「それは分からねぇな。まぁでも、奢ってくれるというなら、食事がしら話に付き合ってもいいぜ」


「勿論、奢りますよ。何でも、頼んで下さいね。明日もこの店でどうでしょう?」


「明日は違う店がいいな。折角、奢ってくれるというんだから、少し高い店がいいだろう?家族も連れてきていいか?」


「えぇ、構いませんよ。何人家族なのですか?」


「5人だな。妻と娘3人だ。お前も家庭があるのか?」


「はい、私も所帯持ちですよ。我が家は、妻が死別したので、娘一人と息子一人ですね」


「娘さんは何歳だ?」


「10歳ですよ」


「それは一番可愛い時期だな」


「一番うるさくて、我が儘な時期でもありますが」


「そうだな。全く、そうだ」


 絋夫は自身の家庭を思い出して、自然に表情が緩んだ。


※※


マクロン州:MR鉱石会社


 日本の情報庁に属するエリザベス人の諜報活動は、とても地道な活動で、一歩前進というよりは、半歩ずつの前進だった。


 エリザベス人である彼が、ルペン語に堪能で、ルペン文化にも精通するのは、哲学を学ぶ為に、旧ルペン王国の大学に留学し、大学を卒業後も暫くは現地に留まって、ルペン系企業とエリザベス系企業の橋渡し役を勤めていたからだ。


 貿易業に従事するエリザベス人は、その殆どが港湾都市に本社や支店を置いていたから、日本軍による港湾都市への核攻撃と占領作戦は、相当数のエリザベス人貿易業者を直撃した。


 旧エリザベス王国の港湾都市と海軍基地に対する核攻撃と戦略爆撃は、王国の海上戦力を撃滅する事を狙いとしていたが、その軍事行動の結果として、外国語や外国の文化に明るいエリザベス人の人材を喪失するという副次的な結果をもたらすはめになった。


 その所為で、日本政府と情報機関は、異世界の言語を操る人材の獲得に苦慮している(※注:勿論、外国語を習得しているのは、貿易業者や港湾都市の住民だけではない)。軍事的な成果が政治的な成果に必ずしも繋がる訳でないという好例だろう。


 彼が、日本軍の攻撃から逃れたのは、彼の実家が農騎兵の一族だったからだ。彼は、少ない休暇を利用して、家族と共に、実家がある田舎に帰省していて、穀倉地帯の保全と占領を企図するA方面軍の部隊に保護された。


 彼の実家と総督府は政治的な取引によって、農騎兵の特権と地位を捨てるのと引き換えに、新しい支配者に広大な農地の土地所有権を認められた。


 今では、彼の実家だけでなく、殆どの元・農騎兵が所有する大規模農園は、総督府とA方面軍の為に農作物を出荷している。


 エリザベス人の情報員は、MR鉱石会社や商社の従業員と頻繁に接触を図って、人脈を構築していった。


 前述の絋夫とは、その後も家族ぐるみでの付き合いを繰り返した。社外秘の情報は教えてくれなかったが、それ以外の情報については徐々に集まる様になっていった。


 第3情報課は、これらの情報員からもたらされた情報を、一つずつパズルのピースを埋める様にして、鉱山の警備体制や鉱石資源の横流し、商社の価格協定などの情報に関して、全体像を捉え始めていた。


 しかし、主目的である警備体制の穴を探す作業は容易ではなかった。これでもかというぐらいに私兵と軍人が巡回しており、それは人身売買によって得られた植民地人の脱走や、機密情報の漏洩、鉱石の強盗といった犯罪などを警戒しているかららしい。


 これだけ警戒心が強いのは、違法な経営や営業しているという自覚があるからなのだろう。マクロン州は邦国との係争地帯でもあったから、その名残りという側面もあるが。


 とにかく、現地の資源調査の為には、この厳重極まる警備体制を正面から突破するか、それとも、私兵や軍人に協力者を確保して、潜入する手立てを整えてもらうか、あるいは、戦略輸送機から特殊部隊を空挺降下させて、潜入させるとかぐらいしか手段がない。


 日本政府は、あらゆる手段を用いてでも、資源調査を強行する算段であったから、特殊作戦のオプションが現実味を帯びてきた。


※※


日本政府:首相官邸


 情報庁第2局長は、同庁の軍事問題担当副長官(陸軍少将)を伴って、ルペン共和国・マクロン州の資源調査を円滑に行う為に、特殊作戦軍の協力と使用許可を首相に求めた。


 首相は、特殊作戦軍の幹部を同席させた上で、特殊部隊の使用に慎重な姿勢を見せた。彼は、共和国領土に自国軍を派遣する危険性を深く懸念した。


「本当に、特殊作戦が必要だと?それ以外に方法がないと?」


 第2局長は、さも深刻そうな表情で軍事オプションの必要性を訴えた。


「鉱山の警備体制は厳重で、付け入る隙が全くありません。装備こそ、我が軍よりも遥かに遅れていますが、何分、警備に当たる兵士や私兵の数が多く、相手方に気付かれず突破するのは容易ではないでしょう。

 勿論、警備体制を正面突破する事も可能ですが、その場合は間違いなく、共和国政府の警戒心を惹起させるはめに陥ります。そうなると、特殊部隊によるステルス・インテリジェンスが必要です」


「第3情報課(情報庁)では荷が重いと?第9局の特殊任務大隊があるだろう?」


「我々が持つパラミリタリー(準軍事組織)だけでは、どうしても足りません。是非、特殊作戦軍の支援を下さい」


 首相は、第2局長が熱心に軍隊の使用を求めても、その許可を渋った。


「しかし、仮にも外交関係を構築しようとしている外国に対して、軍隊を派遣すべきかね?

 もしも、我が軍が自国に展開している事を共和国政府に知られでもすれば、国交開設の段階で息詰まるかもしれないだろう」


「ですが、既に我が国は非合法な情報員を共和国に派遣しております。情報員の派遣も特殊部隊の派遣もさして違わないでしょう」


「いや、諜報活動の段階から、軍事活動の段階に移行するのは大きな違いだろう?」


「情報庁の要員は、我が軍の輸送部隊によって、共和国によって潜入しました。それを踏まえれば、輸送する物資が情報員から軍人に変わるだけです。そもそも、情報庁の正規職員の半数以上は、軍人や軍属の身分を与えられているではありませんか」


「情報官僚の君からすれば、大した違いは無い様に思えるのかもしれない。しかし、私の様な政治家の視線から眺めると違いは確かに認められる。

 平時に於いて、どこの国も敵国であるか同盟国であるか、あるいは友邦であるかを問わず、諜報活動を展開しているものだ。

 しかし、それは戦争状態ではない。インテリジェンスとは、平時と戦時を繋ぐグレーゾーンの戦いでもある。

 もしも、軍事力を行使すれば、その平時の段階から、戦時の段階へと移行してしまうだろう?」


「首相、地球世界では、ロシアがクリミア半島を奪取したようなハイブリッド戦や、米国の対テロ戦争の様な事例もあるではないですか。

 現代の戦争というものは、平時と戦時という区別さえ取っ払っているのです。地球世界では、一般的には平和と思われている様な国際情勢であっても、実際には特殊作戦が世界各地で用いられてきました。

 それを考慮すれば、特殊部隊の使用には、平時であるか、戦時であるかを問わず、寧ろ、常続的な戦争方法として積極的に選択されるべきです」


「それは、要するにロシアや米国流の戦争方法を我が国にも適用しろという事か?」


「そこまでは言っていませんが、平時に於ける軍隊の展開と使用にも効果は十分にあります」


「……私は異世界の諸国と戦争がしたい訳ではないぞ。何よりも、我が国に残された時間と資源を思えば、軍事力の行使には慎重でなければならないだろう?国交と通商を求めて、その結果として戦争になれば、それは本末転倒も甚だしい」


「勿論、それは十分に理解しています。少数とはいえ、軍隊を派兵する危険性は大きいでしょう。

 ですが、我が国の軍事力が周辺諸国と隔絶している事も事実です。相手国が我が国の諜報活動を理由に揺さぶりを掛けるのならば、こちらは優勢な軍事力を用いて、強制外交を展開してやれば良いのです」


 第2局長は、強制外交も選択肢の一つであると提言したが、その危険を負担するのは、政治責任を負う首相である。第2局長の提案は、穏健な対外政策へと転換しつつある日本政府の戦略を破綻させる危険を孕んでいた。


「資源調査は、衛星の探索だけでは不足か?現地調査は必須なのか?」


「人工衛星による情報収集だけでは、どうしても限界があります。実際に現場へ足を運んで鉱山を調査する方が、資源散布図の精度は向上するでしょう。

 ですから、資源調査の専門家を護衛する意味でも、パラミリタリーでなく、ミリタリーを使うべきなのです」


 第2局長は、専門家の護衛という観点からも、軍隊の使用を説得した。しかし、それでも首相は派兵に慎重な態度を崩さなかった。


「これから国交を開設しようと準備している時に、軍隊を派兵すべきだと?それでは、目的と手段の転倒ではないか」


「いえいえ。そもそも、我が国が外交政策へと転換した理由は、エネルギー資源の獲得が狙いです。友好関係を樹立する事が目的なのではなくて、我が国のエネルギー安全保障を確立する事が目的なのです。

 つまり、国交だとか、通商だとかという問題は、目的を達成する為の手段に過ぎません。そうであるならば、エネルギー安全保障の為に、我々が持ち得るあらゆる手段を模索すべきではないでしょうか?」


「私の方が間違えていると?目的と手段の関係性についてはともかくとして、我が国に残された選択肢が二つしかない以上、これからは、外交を追求していくしかないだろう」


「それは、(エネルギー資源に関する)省庁間委員会の結論と提言が間違っているのですよ。

 選択肢は二つではなく、三つあります。外交か、戦争かという二元論でなく、軍事オプションを使いながら、外交政策と通商政策を実現させる選択肢も考慮されるべきです。

 先程も私が申し上げた通り、現代では、平和状態と戦争状態の境界線は曖昧で、外交力にしろ、軍事力にしろ、それは目的を達成する為の手段に過ぎません。

 政策やオプションの種類によって、結果と状態を区別するのでなく、目的によって、区別するべきでしょう。

 それを踏まえれば、エネルギー資源を獲得する為に、外交・通商・軍事オプションを同時的に用いる事は、何ら矛盾するものではありません」


 第2局長の説得にも関わらず、首相は首肯しなかった。


「……軍事オプションの使用は、できるだけ回避しなければならない。相手国に露見した際の危険性が大き過ぎる」


 十分な資源と食糧がない上に、予備役の拡大と動員によって、日本軍の作戦能力は弱体化している。


 戦争に突入する様な危険はできるだけ侵したくないというのが首相の本音だった。もう一度、対エリザベス王国戦争の様な大規模の通常戦争は遂行できない。


「もしも、現地の詳細な資源データを得られれば、今後の通商交渉に於いて、我が国は遥かに優位な立場で交渉に臨む事ができます。首相、どうかご決断を」


 決断を迫る第2局長に、首相は眉を寄せたが、その質問に答えず、特殊作戦軍の幹部(陸軍大佐)に話を振った。


「本当に特殊作戦で、問題を解決できると思うか?」


「特殊作戦の目的と効果は、問題解決というよりは、首相が望む状況を作出する事、つまり着地点を誘導するのが我々の任務です。

 その点から言えば、首相が望む様な事態の打開は可能かと思います」


「つまり、どういう事だ?」


「首相が、共和国政府との外交交渉に悪影響を及ぼしたくないという政治の要求を完全に満たした上で、特殊作戦を遂行する能力が我々にはあるという事です」


「本当に可能だと?」


「はい、勿論です。首相が交戦によって生じる外交上の不利益を懸念されるのでしたら、我々はその政治的・外交的利益に配慮した上で、目的を達成して見せます。それが実現し得る作戦計画を策定できます」


「武器を使わないと?」


「例え自衛目的であっても、武器を使用しないと約束致しましょう。彼らは、自死によって証拠を隠滅する事も可能ですが」


「いや、自衛の為ならば、交戦も止むを得ないだろう。そこまでしろとは言わん。しかし、交戦もせずにどうやって、目的を達成するというのか……」


「情報庁は鉱山の警備体制に穴がないと主張していますが、穴のない警備など有り得ません。

 我々を現地に派遣すれば、必ず警備体制の間隙を突いて、資源調査を行えるでしょう。勿論、その際には外交政策に悪影響を及ぼさない範囲で事態に対処致します」


「例えば、特殊部隊員が資源調査の技術を獲得するという事も可能か?」


「それも可能です。ですが、その場合は多少なりとも時間を頂きますが。しかしそれは、件の鉱山に専門家を派遣しないという事でしょうか?我々だけでやれと?」


「専門家の護衛に、精鋭の特殊部隊員を使うのは、もったいないだろう。それに、いくら情報機関に所属している技術者と言っても、軍事活動についていけるとも思えない」


「なるほど。では、その条件で準備しますか?」


「あぁ、政治的な条件はこれぐらいで良いだろう」


「それでは、作戦案が整い次第、連絡差し上げます」


「おぉ、それで頼む」


 首相は、対外政策をどこかで間違えたのではないかという疑念に駆られた。資源と食糧を確保するという政府の試みは、時間という不可逆的な条件によって、悪化しているのではないか。


 政治家として強靭な精神力を持つ彼でさえも、心身共に疲労が溜まってきた。


※※


ペティオン市:日本・情報庁第2局第3情報課


 市内にいくつもの拠点を確保した第3情報課は、共和国政府の要人と如何にして関係を構築するのかという問題に頭を悩ませていた。


 もしも、数年間、数十年間の歳月を掛けて協力者を獲得・育成する事が許されていたのならば、彼らは未知未踏の地であっても、その難題をやり遂げてみせただろう。


 しかし、祖国に残された時間はあまりにも短い。時間という制約の下では、如何なる戦略や作戦も机上の空論でしかないのだろうか。政策や戦略を実行する上で考慮すべき要素と条件はあまりにも多いが、偶然や摩擦と並んで、時間も重要な条件であるのは言うまでもない。


 本来、一国に対する諜報活動や協力者獲得工作というものは、長期間に及ぶものだが、彼らが必要とする時間はない。


 従って、彼らがその任務を遂行する為には、非合法な手段で、共和国政府の要人と家族を拉致・尋問するか、それとも、機密書類が保管された倉庫や区画に潜入して、情報を窃取するしかない。


 日本政府は、合法的な手段だけで自国に必要な情報が収集できるなどとは考えなかった。とにかく時間がないのだから、非合法の手段に頼ってでも、国交開設と外交交渉で使える情報を掻き集めるのだ。


 首相は、各情報機関に対して、法令に違反する非合法な手段を含む諜報活動を許可した。


 第3情報課を率いる大佐は、非合法な手段を使う決心をした。これまで同課が収集できた情報と言えば、市井に流れる噂などの当たり障りのない情報ばかりで、肝心の機密情報は得られずじまいだ。


 同課が収集した情報に基づいて、共和国政府の閣僚や高官などの一覧表を作成すると、襲撃しやすい、潜入しやすい邸宅に狙いを定めた。


※※


ペティオン市第5区:外務次官別邸


 官庁街の第2区から離れた第5区に、外務次官の別邸がある。この別邸は、外務次官の私有財産で、市民革命に協力した共和派の貴族としての功績から、資産の没収を免れた。


 王政時代には、子爵の称号を持つ地方貴族であった彼は、敵対する国王と宮廷貴族を葬り去る為に、自らの特権と地位さえも手放した。借金まみれの地方貴族と、税金で贅沢な生活を送る宮廷貴族の確執は、市民革命を誘発した原因の一つでもあった。


 別邸の警備体制は、緩やかなもので、国民衛兵隊の数人が門前に立哨しているだけだ。貴族の邸宅と言っても、貧乏貴族であった彼に豪邸を維持できる訳もなく、庶民の住宅が二軒か三軒入る程度の敷地しかない。


 彼の政敵である国王と宮廷貴族は、ことごとくが断頭台に送られたから、身辺の安全を憂慮する必要もない。衛兵が常駐しているのは、外務次官という政府高官の面目を保つ為でしかなかった。


 日本・情報庁第2局第3情報課は、非合法な諜報活動と準軍事作戦を行う為に、第9局に属する特殊任務大隊の要員を引き抜いて、今回の任務に投入した。同課は、この任務部隊をRL(Republic of Le Pen)分遣隊として、大佐の指揮権下に収めた。


 邸宅の警備状況を調べた限り、立哨している衛兵が邸宅の中まで入って、巡回警備を行っている様子はない。つまり、衛兵を無力化せずとも、彼らに気付かれずに、邸宅に潜入して、外務次官と家族を拘束する事ができるだろう。


 勿論、外務次官が出勤しなければ、衛兵に怪しまれる事は間違いない。時間が経過すれば、襲撃した事が明らかになるだろうが、捜査が開始される前に、身柄を抑えてしまえば良い。


  RL分遣隊は、事前の偵察に基づいて、邸宅と隣接する集合住宅から降下潜入し、できるだけ殺害せずに、外務次官と家族を拉致する計画を立案した。


 邸宅と集合住宅の間は、細長い壁で遮られているが、過密化する首都の住宅事情を反映してなのか、壁と邸宅を繋ぐ庭の様なものはなく、小さな中庭があるだけだ。


 邸宅と集合住宅は、1mから1.5m程度しか離れていない。防犯やプライバシーの観点から非常に問題があるが、貧乏貴族の邸宅をわざわざ襲撃する様な輩はいないのだろう。


 分遣隊員は、集合住宅から綱を伝って、邸宅の屋上、中庭、切断された格子窓から邸宅へと潜入した。


 分遣隊員の一人が格子窓を抉じ開けると、そこは物置となっているらしく、使い古された家具や埃を被った美術品があるだけだった。彼らが室内扉を開けると、中庭を望む廊下を通り掛かった邸宅の使用人と出くわした。


 彼らは、使用人の姿を認めると、有無を言わさず、非殺傷兵器で気絶させて、物置と化した一室に連れ込んだ。テープで口を封じ、手首を拘束して無力化すると、そのまま部屋の片隅に放置した。


 邸宅の主人は、外国の公使らと夜食を共にした後、書斎に籠って、機密書類でない手紙に目を通すと、返信の為に筆を執った。そうして、机上の燭台に明かりを灯してから数時間が経った頃だろうか。扉を乱暴に開く音とほぼ同時に彼の意識が途切れた。


※※


ペティオン市郊外:農園


 RL分遣隊は、ルペン共和国の外務次官とその家族を拉致すると、邸宅の格子窓から隣接する集合住宅へと連れ込み、そこから用意した2輌の馬車でセイネー川まで運んだ。


 セイネー川からは渡船に乗り換えて、市郊外の農園を目指して河川を上った。農園は、第3情報課が農園主から買収し、河運を利用して物資を運ぶ拠点にしていたが、分遣隊が同課の指揮下に入ってからは、彼らの拠点としても使用される様になった。


 拉致された外務次官(子爵)は、ぼんやりと目を開けて、意識を取り戻し始めていた。ここはどこだろうかと周囲を見回してみると、四方八方、壁に囲まれていて、窓らしきものは見当たらない。どうやら、部屋にいるらしい事が分かったが、どの場所なのかまでは分からない。


 しかし、形容し難い吐き気と既視感を覚えた。深呼吸をして落ち着こうとしたその時になって、口が何かで塞がれている事を知った。身体の下に視線を遣ると、椅子に固定された自身の足があって、動く事すらできそうにない。自分は拘束されているのだ。だが、一体、誰が自分を拘束しているというのか、心当たりが無かった。


 暫くすると、銃らしき武器を携行した集団が一室に入って来た。彼らは6人の集団で、子爵を取り囲み、強引に連れ出そうとした。子爵は必死になって抵抗しようとしたが、拘束されている状態でできる事など限られている。集団は、子爵の抵抗を物ともせず、別室へと連行した。


 別室は、彼が拘束されていた部屋と異なり、見慣れ器具や拷問道具が綺麗に並べられていた。この農園は、市民革命の際に、共和制を支持した当時の農園主が、王政派を拷問する為に、この部屋を準備していたらしい。


 彼は、既視感の理由を理解した。彼が共和派の貴族として、政敵の貴族を次々と粛清した時に、こうした拷問部屋を市中と市外のあちこちに用意させたものだ。


 この別室は、そうした部屋の一つなのだ。壁に染み付いた血痕は、拷問を受けた王政派が流した犠牲を表わしている。因果応報の歴史は事欠かないが、彼は王政派に降り掛かった苦痛と災難を一身に受けるのだろう。



※※


日本政府:合同戦略委員会(JSC)


 西大戦洋地域に派遣された各情報機関の要員は、少ない時間しか与えられていなかったにも関わらず、何とか現地の情報収集体制の構築に成功し、国家情報長官(DNI)の統制によって、合同情報委員会(JIC)・情報評価部門に集約された。


DNI及びJICは、情報評価に基づく報告書を作成し、首相及び閣僚に提出すると共に、国家安全保障局や通商代表部などの関係機関にも配布した。


 首相は、対外政策の方針と大戦略を統一する目的から、戦略立案・戦略問題を担当する機関の長官から構成される合同戦略委員会(JSC)の開催を命じた。


 JSCの公式的地位は高く、閣議及び国家安全保障会議に準ずる扱いを受ける。JSCに与えられた政策分野の戦略を調整する機能と権限は、各省庁の省益を侵して憚らない。


 JSCは、政権が政治主導を実現する為の装置の一つとしても機能する。出席した委員は、国家安全保障局長官、通商代表(大使資格)、経済安全保障局長官、予算評価局長官、委員長を務める戦略問題担当首相補佐官の5人だ。


 ここで下された結論が、首相と正副官房長官会議の最終決定を待つ事になる。


 彼らの手元には、JICが配布した報告書と、戦略問題に関する資料がまとめられていた。委員長は、手元の資料を捲りながら、各委員の見解を質した。


「周辺諸国との国交を開設する件ですが、外務省の提案によると、軍艦による威嚇、つまり砲艦外交や強制外交によって、我が国の軍事力を誇示し、その後に予定されている外交交渉の全般を有利に運ぶべきという意見がありますが、皆さんの意見は如何でしょうか」


「いきなり軍艦を送る必要もないでしょう。まずは、使節団を派遣し、当該国の様子と反応を確かめるのが先なのでは?まぁ、もしも、我が国に対して、舐めた態度を取るのならば、砲艦外交も考慮されてしかるべきですが」


「使節団の安全を確保する為にも、軍艦の派遣は必要なのでは?仮に外国が我が国と敵対する言動を見せれば、その場で軍事的な威嚇を実行できるでしょう?」


「軍艦の派遣だけでは全く足りないな。使節団は、我が国の威信と名誉が掛かっている。最低でも、1個両用即応群と1個海兵遠征大隊の派遣を検討するべきだ。

 使節団の安全を図る為には、海上部隊だけでなく、地上部隊も随伴させるべきではないか?

 外国政府が我が国の使節団を歓迎したとしても、それに反対する国内勢力だっているかもしれん。それを踏まえれば、現地のテロ対策は、いくら厳重に準備しても良い」


「国交開設の外交交渉次第では、戦争状態・紛争状態に陥る可能性もあります。すぐにでも、軍事オプションを行使できる体制を整えておくべきです。軍艦や海兵遠征大隊の派遣だけでなく、各海域に戦略予備部隊を展開させるべきでないないでしょうか?」


 委員は、それぞれの見解を簡潔に述べた。軍艦の派遣に否定的な意見は少なく、寧ろ、軍艦だけなく、地上部隊も派遣すべきとに意見が優勢だ。


 それだけ、彼が異世界の諸国を信用していないからでもあるし、もしも使節団の安全が害される事態が発生すれば、国内輿論が悪化するかもしれなかった。


 勿論、外交官が攻撃された事を口実として、戦争を仕掛けるという手段もあるが、そもそも、日本の国力と戦争遂行能力が大幅に低下しているから、戦争政策から外交政策へと転換したのであって、戦争状態に突入すれば、本末転倒も甚だしい。


「なるほど、皆さんの意見は分かりました。では、各部局には、戦略評価の研究と提出をお願いします。

 次に、エネルギー資源の確保と安定供給に関してですが、省庁間委員会の議論を待つまでもなく、あらゆる手段を検討しなければなりません。皆さんには、各省庁の利害に囚われる事なく、国益を最大限にする戦略立案をして下さい。

 それから、食糧の増産に関する件ですが、本国からエリザベス植民地の移民を募集する方針に従って、本委員会でもこれに戦略上の知見と評価を加える様に、首相から求められていますので、この件も議題としたいと思います。本委員会に附属する戦略評価部門の体制も増員するべきでしょう」


「エネルギー資源問題と食糧問題も我々の預かりとなるという事ですか?」


「我々が専管するという事ではありませんが、省庁間の利害を超越した戦略の調整ができるのは、事務レベルでは我々だけです。

 ですから、現在、乱立された状態にある各種の省庁間委員会や合同委員会を整理すると共に、政策決定者の意思決定と官僚の実務を繋ぐ必要があります。

 異世界転移の問題に対処する為に、あまりにも多くの委員会やら組織やらがあって、却って、業務の効率性が落ちているのが現状です。

 これを機会に、無駄な業務や委員会を廃止する為にも、我々の方で統一した戦略評価を下して、意思決定システムの合理化を図りたいと思います。これは、予算評価局が得意とする事ですから、行政機関の再編も視野に入れて、政策を立案して下さい」


「それは、補佐官としての指示か?それとも、首相の指示か?」


「私が、首相を含む正副官房長官会議の方々と相談して決定した事項です。既存の行政機関と業務執行体制では、限界が見えています。

 多くの省庁が、地球世界の時に作られた組織で、異世界転移後の諸問題に取り組んでいますが、いい加減、組織そのものを変革する時が来ているのですよ。

 戦時体制を維持するのも、国力の消耗が激しいですし、平時の体制と状態を取り戻す為にも、中央省庁の抜本的な再編が求められているのです」


 地球世界を前提とした組織から、異世界を前提とした組織へと改廃しなければならない。


 首相は、異世界転移の混乱で、自国の危機管理体制に不備がある事を痛感した。政権は、混乱を収束する為に、数々の省庁間委員会や新組織を立ち上げたが、飽くまでも、対処療法に過ぎない。


 問題解決には、組織の改革も不可欠だ。しかし、中央省庁と高級官僚は、再編に強く反対するだろうし、妨害も行うだろう。だから、各省庁の利害関係を飛び越えた組織であるJSCにお鉢が回ってきた。


「中央省庁の再編は、JSCの目的とは適合しないと思うのだが…」


「いえいえ、対外政策と戦略の調整・統一が我々の目的である以上、その遂行を妨げる障害の除去も我々のお仕事です。

 本委員会が、戦略を決定したとしても、それを実行する省庁の体制が相応でないのというのならば、相応にさせるだけです。そもそも、予算評価局が本委員会に加わっているのは、こういう事態に対処する為ですからね」


「具体的は、どの省庁や行政機関が標的なのですか?」


「例えば、情報機関ですね。我が国は、各省庁がそれぞれの情報機関を抱えていますが、この異世界を調査する為には、あまりにも非効率的です。DNI(国家情報長官)が何とか調整していますが、ばらばらの情報機関を一つにまとめる事は容易な事ではありません。

 我々が深く認識するべきなのは、我が国の限られた国家資源を浪費する事は決して許されないという事です。ですから、情報機関の統合は、もっとも急務と言えます。将来的には、DNIの下に、各情報機関の大部分を集約してしまうべきですね」


「…それは、省庁の妨害が凄まじいでしょうね」


「それは百も承知です。ですが、我々がやらねばなりません。悪戯に、国家資源を無駄遣いにするなどあってはならないのですから」


 戦略を遂行する為には、予算と時間と組織が必要だ。限られた予算と時間を有効に活用する為にも、組織を聖域化する訳にはいかなかった。


 とにかく、日本には浪費できる資源など一つもないのだ。石油の一滴すら惜しい現在、省庁の重複した業務など、国民に対する裏切りである。


※※


日本政府:中央省庁の再編について・基本方針


政府は、異世界転移後の政策課題に対処する為に、効率的な業務執行体制を構築しなければならない。政策及び戦略を統一し、確実に遂行し得る為には、地球世界に最適化された組織を、この世界に最適化し直す必要があるという認識を持つに至った。


①新たに獲得した植民地及び海外領土を効率的に統治し、現地を安定化させる為に、専門の省庁を置く。(e.g. 海外領土省)


②首相及び内閣の政策立案能力・総合調整能力を強化する為に、内閣官房及び内閣府を統合する(e.g. 首相府)


③対外政策・安全保障政策の立案能力・調整能力を強化する為に、国家安全保障会議及び合同戦略委員会・合同情報委員会の機能と権限を強化する。民間の戦略研究所の知見を活用する為に、人材交流や予算の配分を拡大する。


④広大な面積を誇る異世界に於いて、情報収集体制の効率化を図る為に、各省庁の情報機関を統合化する。各地域の文化や言語を研究する為に、既存の研究機関だけでなく、新規の研究機関を設立し、知識の集積に努める。(e.g. 情報省)


※※


日本政府:情報機関の統合と再編について


①各省庁に分かれている情報機関を、一部を除いて統合する。


②国家行政組織法に基づき、情報省を設置する。


③情報省は、国務大臣を置かず、国家情報長官が省の長を兼ねる。


④情報省の外郭団体として、公益財団法人・大戦洋調査会を設置する。

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