第8章③ 保護占領
ルペン共和国は、マルクヴァルト邦国との諸条約によって、シルヴァニア公国の分割に自軍を派兵する事を約束していた。しかし、邦国の勢力伸長を嫌う共和国総統は、秘密裡に妨害を行う事を決意した。
共和国政府は、公国政府と秘密協定を締結して、保護占領下に置き、自国の軍事力によって、公国の領土と統治機構を温存する方針に変更した。
但し、この保護占領は、地域の情勢次第でいくらでも領土分割が永久化される可能性もある。
西大戦洋地域の国際情勢は、邦国と共和国の軍事同盟締結、そして邦国に対する共和国の裏切りによって、より一層、混沌としていた。
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ダーヌ川:共和国第3野戦軍・第14軍
共和国は、公国と国境を接する北東部に、第3野戦軍を配備し、ダーヌ川で区切られた国境線を守備している。
だが、共和国にとって公国の軍事的な脅威は低い。共和国の方が、国力や兵力で大きく上回っているし、何よりも、大河という自然の国境線が、両国に安心感を与えていた。
第3野戦軍は、2個軍(4個軍団)20万人の兵力を擁し、司令官には陸軍元帥が充てられている。
多くの部隊は、主要都市やその郊外に駐屯し、国境線である大河の付近に張り付けられた部隊は、僅か2個師団に過ぎなかった。
それでも、陸軍の一部には2個師団でも多いという意見すらある程に、公国に対する脅威の評価は低い。
第3野戦軍は、名目上こそ公国との国境線を守備する戦略単位であるが、その実、期待された役割とは、対邦国方面を担務する第1野戦軍の戦略予備であった。
共和国総統は、第3野戦軍に対して、公国南部を保護占領下に置く事を命じた。野戦軍はその命令に対して、1個軍を以て可能であると回答した。
総統は、野戦軍が策定した具体的な作戦計画を承認し、第14軍がシルヴァニア侵攻の援軍として派兵される運びとなった。
しかし、公国への進軍は一つ重大な問題がある。既述した通り、共和国と公国は、ダーヌ川によって国境を区切られている。
この大河があるからこそ、互いに侵攻が容易でなく、両国は目立った戦争がまずないと言っても過言でない。
渡河の為には、架橋するか、それとも河川用の船で渡る必要があるが、当然、渡河される側の相手国もそれは承知しており、河川部隊や大河で生計を立てている漁師などを使って、妨害を試みるに違いない。
今回は、公国政府の要請に基づく保護占領が裏の目的であるから、公国軍の妨害を考える必要はなく、それよりも、如何にして、10万人の大軍を渡河させるかという点に労力が割かれた。
一応の所、陸軍省と野戦軍は、公国への侵攻計画や反撃計画を策定しているが、渡河作戦にあっては、国力が勝るという利点を利用して、大量の船を造船し、物量によって強行突破するという、何とも言えない手段を中核に据えていた。
あるいは、エリザベス王国海軍第3艦隊を仮想敵とする有力な海軍である共和国海軍の海上輸送によって、公国東部に上陸作戦を強行するという案も想定されている。
何れにしろ、公国への侵攻作戦は、極めて大雑把で、国力と物量に大きく頼っている。
共和国政府は、公国政府に対して、渡河作戦への協力を要請した。共和国が緊急に用意した船だけでは、不足するのは明らかである。
公国は、国内にいくつもの河川を持ち、それらを運河として利用している事から、共和国と比べても、数多くの渡船を保有している。
共和国政府は、公国が保有している渡船を借り受ける算段だった。公国政府は、その要求を呑んで、自国船籍の渡船を徴用した上で、共和国政府と傭船契約を締結した。
ダーヌ川は、普段から河川艦や渡船などで混雑しているが、現在はより多くの艦船が並べられながらも、一定の秩序がそこにあった。
桟橋は、かつてない程の規模で、艦船が目一杯、係留されている。共和国政府が公国政府から艦船を借り上げた事で、第3野戦軍が動員できる渡船は膨大な数に上った。
所狭しと並べられた渡船は、注意しなければ、衝突事故が多発してしまう事だろう。
民間の渡船場は、両国が徴用していて、軍人や軍属の姿で溢れている。彼らはこれから、川の向こう側にある公国に進軍するのだ。
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ダーヌ川流域:共和国第14軍
第14軍は、共和国と公国の渡船を大量に集めた物量を以て、公国側のダーヌ川流域に渡河した。両国政府は、将来的にこの大河に恒久的な川橋を架橋する事でも合意していた。
但し、ダーヌ川の川幅は、最大で15km以上にも雄大に流れて、両国に接する川幅は、最短でも3km以上の距離にあるから、架橋事業は、10年単位の国家事業になるだろう。だから、保護占領の展開には間に合うはずもない。
短期間で臨時の川橋を架橋する事は、技術的には可能であっても、そうしてしまうと運河の交通が阻害されるし、交通を阻害しないように、橋を高くしようとすれば、結局、数年間の期間はどうしても掛かってしまう。
そうした事情があるものだから、渡河作戦の選択肢から架橋は省かれた。
1個軍10万人の兵力が、逐次投入とは言え、公国側の流域にまで渡河する様は、古代の海戦を思い起こさせる風景であった。
勿論、彼らが行っているのは渡河作戦であって、海戦などではないのだが、同時代の帆走軍艦でなく、人間を動力とする漕ぎ短艇は、行軍中の彼らをして、古代の海戦を想起させた。
共和国軍に従軍する画家は、この光景をしっかりと目に焼き付けて、創作意欲を掻き立てられていた。
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シルヴァニア公国南部・コスティネル市:共和国第14軍司令部
共和国第14軍は、公国南部の主要都市であるコスティネル市を目指して進軍していた。
もぬけの殻となった同市を素早く占領すると、中央広場に面する市庁舎に臨時司令部を置いた。
第14軍司令官(陸軍大将)は、地理の案内を買って出た公国軍人の随行武官長(陸軍中将)と市長室で再会した。
現地の案内を担当した公国軍人は、皆、愛想が良く、社交的で教養があった。その一方で、会話や態度の節々から、こちらを値踏みする様な、あるいは腹に一物がある様子も伺えた。
そもそも、自国の領土を外国軍に占領させているのだ。彼らからしてみれば、面白くないだろうし、内心では怒りに震えているに違いない。
大将は、公国軍中将に対して、占領に協力した事への感謝を述べた。
「中将、貴卿と貴国のおかげで、我が軍は、無事にダーヌ川を渡河して、進軍する事ができた。我が軍を代表して、感謝する」
「いえいえ、貴軍と貴国の協力があればこそ、我が軍は兵力を温存できております。裏向きの同盟国として、協力を尽くすのは当然でしょう。何よりも、対抗同盟の支援がなければ、我が国は今頃、地図から消え去っていたかもしれないのですから」
公国軍中将は、満面の笑みを浮かべて、感謝を返した。
「そう言って貰えると助かるな。ところで、貴軍の予備役と義勇兵の訓練は順調かな?」
「えぇ、それはもうおかげさまで順調ですよ。何せ、占領された地域で堂々と訓練を施している訳ですからね」
「兵力は、どれぐらいに増えたのだろうか?」
「大体、60万人と言った所でしょう。ですが、邦国軍の侵攻を撃退するには、まだ足りないかもしれません。最終的には、我が国の人口の一割に相当する100万人の動員も視野に入れておりますよ」
「邦国の東部方面軍は、確か35万人の兵力だろう?それならば、60万人の兵力でも十分に防衛できるのではないか?寧ろ、60万人でも多過ぎる程だろう」
「いやいや、60万人の兵力でもまだ足りないぐらいでしょう。我が軍の動員能力は、限界まで見積もっても100万人ですが、邦国軍の最大動員能力は、ざっと400万人から850万人規模です。
もしも、邦国政府が大規模な動員令を発令すれば、その内の数十万人、数百万人という兵力が我が国に押し寄せくるかもしれません。ですから、100万人の兵力でも心許ないぐらいでしょう」
「…邦国政府がそこまでするだろうか?さすがにそこまでの動員は、邦国にとっても負担になるはずだろう」
「邦国の意思を甘く見ない方が良いですよ。連中は、旧帝国領と民族の統一に執念を燃やしているのです。邦国政府にとって、シルヴァニア侵攻は、旧メルケル帝国の復活に他ならないのでしょう。
これは言わば、『メルケル第2帝国』の誕生とも言えるでしょうね。それは貴国にとっても、決して他人事などではないでしょう。
仮に邦国が我が国の併合に成功すれば、次に狙われるのは、共和国のマクロン州やオランド州のはずですよ。貴国と邦国の軍事同盟は、邦国政府にとって、シルヴァニア侵攻の時間稼ぎに過ぎないのですからね」
「邦国政府が同盟を破棄すると?」
「えぇ、現に貴国は既に同盟国であるはずの邦国を裏切っているでしょう?寧ろ、同じ事を邦国がしないとでも?それはいくら何でも、楽観が過ぎるでしょう。邦国にしても、同盟を破棄する時機を伺っていると思いますがね」
「だが、そうなれば、邦国は我が国をも敵に回す事になるぞ?それはつまり、周辺諸国の全てを敵に回して、戦争を行う様なものだろう。そこまで、邦国政府も馬鹿ではないはずだ」
「外交にしろ、戦争にしろ、『可能性がない』という事はありえないでしょう。邦国政府とて、貴国が裏切っている事は、薄々理解し始める頃合いかと思いますよ。
そもそも、表向きの対抗同盟には、貴国と邦国の軍事同盟に対抗できるだけの陸軍力がない訳ですから、対抗同盟の成立には、少しばかり疑問符が付くでしょう。
勿論、対抗同盟には海洋国家同盟の側面もありますから、陸軍力が劣っているからと言って、それが同盟成立にならない理由になる訳でもありませんが。
対抗同盟が発足した経緯を丁寧に追えば、邦国政府も貴国の関与に気付く恐れがあるでしょう。それでも、我が国を支援するのですかね?」
「もしも邦国政府が我が国の裏切りを知ったとしても、それを非難したとしても、同盟破棄になって敵対したとしても、公国への支援と協力は続けられていくだろう。
我が国にとって、貴国の価値は、何よりも緩衝地帯だ。貴国の北部にはラホイ王国があり、西部には邦国がある。その列強諸国と国境を接する、あるいは国境線が長くなれば、我が国の防衛の負担はより重くなってしまう。
折角、領土を拡大しても、宝の持ち腐れだろう。領土拡大にも、限度というものがある。我が国はもうこれ以上、領土を拡大すべきではないのだ。それよりも、内政や経済政策に集中すべき段階だろう」
「そうですか、その通りになれば良いのですけれども。貴国の政府は、また違った考えを持っているのかもしれませんよ?」
公国軍中将の発言は何とも含意が広くて、大将にはその意味を正確に理解する事はできなかったが、背筋が少しばかり寒くなった。
※※
シルヴァニア公国南部・ルペン共和国軍占領地域:公国軍・予備第28師団
公国南部を共和国軍に占領させた公国軍は、その勢力を未だに維持していた。
7個の現役師団は、北部及び東部にまで撤退しているが、21個の予備役師団は、非戦闘員退避作戦(NEO)を担当して、住民を速やかに安全な地域にまで護送している。
その為に、予備役師団は、西部から進撃するマルクヴァルト邦国軍と交戦する機会が多くなっていた。
邦国軍が坑道戦術(※実態は戦略規模)によって、公国軍が予想していた敵軍の行軍日程は、脆くも崩れ去り、それ故に、住民の避難が遅れたのだ。
だから、予備役師団は、避難が遅れた住民を退避させる為に、危険な殿軍を買って出て、邦国軍の侵攻に対して、遅滞行動と妨害に努めている。
そのおかげで、邦国軍は、個々の戦闘や交戦そのものには勝利しても、戦略上の勝利、即ち、公国東部の港湾を手に入れる事には依然として成功していない。
予備役師団は、いくつかの連隊や大隊を喪ったが、それでも、その度に予備役を充足して、戦闘力を確保している。
しかし、このまま不足する兵力を予備役や義勇兵で埋め合わせれば良いというものでもない。
何せ、邦国と公国とでは、人口基盤、最大動員能力にどうしようもない格差がある。
いつもまでも、兵力の自転車操業を続けられる訳がない。何れは、補充できる兵士の数も底を突きるだろう。
従って、公国政府は、それまでに何とか邦国軍を撃退しなければならない。そうでなければ、この土地は、侵略者の手に落ちるしかない。
予備第28師団は、南部地域に配備された6個予備役師団の内の一つで、西部地域に配備された8個予備役師団と比較して、その兵力と装備を完全に保持していた。
公国南部を保護占領下に置いた共和国軍は、これらの公国軍部隊を武装解除する事もなく、寧ろ、資金や武器を援助して、公国軍の拡大に協力している。
公国軍は、対抗同盟の各国が輸送する援助によって、邦国との国力の格差を少しだけだが縮小させた。
※※
シルヴァニア公国西部・ボロジャン市郊外:邦国軍・先遣部隊(第31軍)
公国西部の主要都市であるボロジャン市の占領を担当する予定だった第90師団は、山岳民族に対処する為に、坑道網の防衛、山岳地帯の索敵、山道建設部隊の警備に兵力を割かれていた。
東部方面軍は、要塞群の兵力を1個軍団から1個軍にまで増強して、侵攻作戦の早期決着を望んだ。
山道の再開は、山岳民族の妨害によって、遅滞を余儀なくされたが、邦国軍は自軍の大規模な兵力で無理やりにでも開通しようと試みていた。
邦国軍・第31軍司令官(陸軍大将)は、麾下の全部隊と兵力を、邦国東部の駐屯地から公国西部の要塞群へと移動させた。
大将は、先遣部隊司令官を兼ねて、公国西部の速やかな占領を委任されている。
10万人近くにまで兵力を膨張させた先遣部隊は、公国軍が西部に配備した8個予備役師団の兵力と伍する様になった。
しかし、これは飽くまでも先遣部隊に過ぎない。
邦国軍が西部の全域を占領下に置いたのならば、東部方面軍の3個軍が集結する予定で、侵攻軍の総兵力は合計30万人を数える。
更に、邦国政府が動員令を発令すれば、この数倍の規模の兵力が侵攻作戦に割り当てられるだろう。
第31軍司令部は、要塞群の防衛と予備として3個師団を残置すると、残りの6個師団を西部の主要都市に差し向けた。
公国軍は、予備第9師団を西部の防衛線から前進させて、邦国軍の動きを牽制した。
両軍は、ボロジャン市郊外の平野部にまで進出すると、散発的な遭遇戦を繰り広げた。
正面の戦闘や決戦を回避しようとする公国軍に対して、邦国軍は、自軍が得意とする決戦に持ち込めず、決め手に欠いていた。
そもそも、戦列歩兵と白兵戦を旨とする邦国軍に対して、公国軍は、散兵戦術と長距離攻撃を戦闘教義とするからだ。
邦国軍は、公国軍に対して決戦を強制する為に、2個師団を平野部に集結して、速成の防御陣地を構築した。
公国軍は、邦国軍の防御陣地に対して、夜襲や奇襲を仕掛けたが、陣地の防御力は堅固で、大した効果は得られなかった。
一転して陣地に引き籠った邦国軍に対して、今度は公国軍が攻撃手段に欠く様になった。
しかし、公国軍は、陣地に籠る邦国軍を無視した。公国軍の目的は、邦国軍の後方連絡線を伸長させて、分断を図る事だ。
邦国軍がその後方連絡線を西部の各地にまで延長すれば、必然、軍隊の弱点となる兵站能力への攻撃がしやくなる。
それは、大軍が持つ本質的な弱点でもあるだろう。侵攻作戦を急ぐ邦国軍は、西部の各地に師団を派遣したが、その所為で、補給線は伸びきっている。
要塞群の邦国軍は、坑道内の馬車鉄道から毎日毎時送られて来る物資補給によって、その兵力の維持に何とか成功していた。
しかし、要塞群から進撃した邦国軍は、馬車鉄道による物資補給の恩恵を完全に受けられる訳ではない。
坑道網は、邦国東部と公国西部に跨る山岳地帯に拡がっているだけで、要塞群から攻撃・占領目標の主要都市までは坑道網は掘削されていない。
いくら大国の邦国と言えども、公国の各主要都市にまで坑道網を張り巡らす程の余裕はなかった。従って、要塞群から主要都市への補給は、馬車に頼るしかなかった。
第31軍司令部は、この補給の問題を解決する為に、線路を敷設して、馬車鉄道を延伸する計画も策定していた。
しかし、未だに西部地域を占領できていない邦国軍が線路を敷設した所で、公国軍が鉄道の一部を破壊するだろう。
邦国軍は、各師団を西部の各地に送る事には成功したものの、その兵站能力の維持には非常に多くの困難を伴い、公国軍の妨害と破壊工作に悩まされた。
更に、山岳民族が坑道戦や山岳戦を仕掛けてくるものだから、邦国軍が保持する後方連絡線は、攻撃の脅威に晒され続けている。
東部方面軍司令官は、1個軍をシルヴァニア戦線に投入した判断が間違っていたかもしれないと後悔の念を抱いた。
やはり、速戦を志向するには、公国軍は分が悪い相手だったのかもしれない。
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