第10章② 外交力の効用
戦略の次元に於いて、外交力は、軍事力に優越する。しかし、軍事力による裏付けのない外交力は無価値であるばかりでなく、危険ですらある。
日本政府は、異世界の諸国に対する根深い不信から、即効性があり、分かりやすい、軍事力という外形的な暴力に依存する様になっていた。
政府が、軍事オプションに依存するのも無理はない。言語が通じない上に、科学技術や機密情報が流出する恐れがあるからだ。それによって、不利な地位に転落するかもしれない。
しかし、エリザベス王国に対する侵攻作戦によって、日本国の戦争遂行能力は大幅に低下した。
植民地化によって、エネルギー資源と食糧生産の一部には、改善が見られたものの、依然として、エネルギー自給率・食料自給率共に、危機的状況を推移している事に変わりはない。
一部の品目や項目が好転したからと言って、他の品目が不足している事に変わりはないのだ。
この緊急事態を打開する為には、非軍事的手段も考慮しなければならない。即ち、外交政策や同盟政策によって、友好国・同盟国を増やし、敵国を包囲するのだ。政府の対外政策は、大戦略レベルに於いて、その視点が欠けていた。
日本の国力は、軍事力や経済力、工業力や技術力などの多くの点で、異世界の諸国と隔絶しているが、人口や領土面積・食糧生産の点では、それ程の優位には立っていない。
異世界に於いて、唯一の現代国家であるからと言って、それ以外の国家を全て相手にできるだろうか。
勿論、最終解決手段として、常に先制核攻撃の軍事オプションは維持されているけれども。
※※
ルペン共和国:総統公邸
公邸で一時の休息を取っていた総統は、書斎に飛び込んで来た秘書官に何事かと訊ねた。
秘書官は、エリザベス王国に侵攻した外国が、軍艦を伴って、国交の開設と外交使節の交換を要求しているのだと言う。
総統は、ついにこの時が来たのかと覚悟を決めた。ヴィクトリア市が陥落した件は暫く放置されていたが、いつかは向き合わなければならない事だった。
西大戦洋地域の諸国は、マルクヴァルト邦国のシルヴァニア侵攻やマルクヴァルト=ルペン同盟、対抗同盟などによって、関心が邦国の対外政策に集中している嫌いがあった。
しかし、地域最大の植民地帝国であり、最強の海軍国家であった王国の陥落と、それに代わるかもしれない外国の登場は、西大戦洋地域の国際秩序を更に塗り替えるに違いない。
秘書官は、総統が身支度を整えているのもお構いなしに、その外国についての基本的な情報を概説した。総統は、秘書官の態度を咎めずに話の先を促した。
「エリザベス王国の首都を陥落させた外国の国名は、日本国あるいはJAPANと呼ぶそうです。日本側の使節団は、我が国が保有する軍艦よりも遥かに巨大な艦艇によって構成された海上部隊を引き連れています。
同国が提供した情報が確かならば、王国は既に全土を占領されている状態です。王国政府は最早、存在しないのだとか。
日本国は、王国本土と共に、いくつかの王国の植民地や海外領土も占領下に置いているとの事でして、自国領土に併合しているものと思われます。
日本国の使節団によると、国交開設の目的は、この地域の情勢を把握する事や、鉱物資源などの通商活動を開始したいとの旨です」
「情報の正確性は?」
「それはまだ、鋭意分析中ですが、日本使節団が獲得したと主張する王国の植民地・海外領土に関する情報を照らし合わせると、一部の情報は確からしいと言えるでしょう。
王国が南大戦洋地域の近くに領有していたケイトマン諸島は、依然として連絡が取れないままですが、これらの連絡が遮断されている地域と一致しています。王国政府との連絡が一切途絶えた事からも、占領下にある事が推察できます」
「では、最強の海軍力を誇った王国を降した日本国の軍事力についての情報は得られているか?」
「平時の兵力は90万人ですが、現在は戦時体制にあるらしく、予備役の動員によって、150万人以上の兵力を維持しているとの事です。
最大動員能力は分かりませんが、相当数の予備役がいるのでしょう。日本側の使節団に随伴している海上部隊の軍艦は、我々が今まで見た事もない様な武装ばかりでして、実情は良く分かりません」
「総人口は?」
「約1億2700万人らしいです。それに加えて、エリザベス人も入れれば、恐らくは1億4千万人から5千万人にまで膨れ上がるでしょう」
「それは何とも……。マルクヴァルト邦国よりも4千万人以上は多い人口だな。我が国の倍程度の人口を抱えている」
「はい、仰る通りです。最大動員能力は、地域最大となるでしょう」
「全く、最悪の想定が当たってしまうとは…。王国との戦争に勝利した事を鑑みれば、地域の列強諸国が束になっても勝てるかどうか。これは本当に困ったな。だが、邦国に主導権を握らせる訳にもいかん」
「閣下、国交開設を承認しますか?」
「ひとまずは、そうする他に手段はないだろう。日本国に公使と使節団を派遣して、徹底的に情報を収集する必要があるな。
とにかく、王国を滅ぼした軍事力を我が国に向けられられない様に、細心の注意を払って、外交を展開しなければならない。あぁ、本当に頭が痛くなってきた……」
ここの所、国際情勢の変化が激し過ぎて、頭が禿げそうだ。これでは、禿げ頭を笑えないどころか、自身が笑いものになるかもしれない。
※※
日本領エリザベス植民地:ルペン共和国使節団
ひとまず、共和国政府は日本国がエリザベス王国を降したのかを確認する為に、日本使節団の許可を取った上で、臨時の外交使節団を旧エリザベス王国(日本領エリザベス植民地)に派遣する手筈を整えた。
ルペン使節団は、海軍中佐の代理公使を長として、総統府と軍部の官僚・軍人が大半を占める。外務省の職員は一人もいなかった。
日本側からすると、エリザベス植民地そのものが異世界の諸国に対する巨大な出島でもあるのだろう。戦争の結果と植民地の統治、駐留する軍隊の威容を宣伝できる機会となる。
使節団は、日本側が用意した艦船で到着すると、ヴィクトリア市に置かれた総督府へと案内された。その途中、彼らの目に付いたのが不自然なまでに綺麗な建築物だった。占領したというのに、住民の人影が殆どない。
戦争の影響なのか、崩落した建物の残骸や土台もちらほらとあったが、それらは少数で、多くは現代的な建築物が同居している奇妙な風景だった。歴史ある風景に、プレハブや仮設の庁舎は不釣合いだ。
代理公使(海軍中佐)は、総督(陸軍元帥)と謁見すると、早速、戦争に話題を移した。
「それにしても、驚きました。てっきり、貴国の軍艦が艦砲射撃で街中を破壊しているものとばかり思っていましたが……」
中佐はそう言って、窓外の平穏な風景に視線を遣った。総督府から望む景色は、戦闘があったとは思えない。
「この地域では、軍艦で町を破壊するのが慣例なのかな?」
総督が笑みを浮かべながら中佐をからかうと、彼は慌てて否定した。
「いえいえ、我が国も含めてこの西大戦洋でその様な文化がある訳ではありませんが、植民地戦争ではままある事だと聞き及んでいまして。列強諸国同士の戦争では自制しても、植民地や異文化の国家とは勝手が違いますから」
「なるほど、それもそうか。ところで、この町は如何かな?気に入ってもらえたかな?」
「えぇ、歴史のある都市だけあって、とても美しいですね。実は、依然にもヴィクトリア市を訪れた事があるのですが、その時の感動を思い出させてくれました。
それに、貴国の軍艦とのコントラストも綺麗です。最初こそ違和感がありましたが、目が慣れてくると、まるで絵画の様です」
現代の軍艦が、中世の街並みが残る港湾都市に停泊している様は、確かに美しい光景だったが、中佐にはそれが残酷な事にも思えた。
見慣れない軍艦がかつての植民地帝国の首都にずらりと並んでいる様子は、否が応でも、戦争の結果を知らしめる。旧エリザベス王国が敗北したという言い訳のしようがない証拠だろう。
「エリザベス人の処遇はどうなっているのでしょうか?戦後処理は進んでいますか?」
「エリザベス人やエルフ族などの現地人は我が軍の保護下にあり、植民地法に従う限りに於いて、身体の安全や財産権の保障などの法益が認められている。
勿論、総督府の命令に服しない現地人に権利は一切認められないし、人間扱いするつもりもない。現地人は労働力を提供する奴隷や二級市民といった扱いだな。
まぁ、植民地支配とはそんなものだろう?貴国の企業は、他国の植民地から安価に奴隷を購入して、鉱山で働かせているそうじゃないか。それとさほど変わらんだろう」
「……我が国の鉱山奴隷をご存知でしたか。あれは国の恥部ですよ。私個人としては、鉱山会社の遣り口に賛成している訳ではないのですが」
「それはそうだろう。他人の不幸よりも、自分の幸福の方が重要だ。だが、他国に我が国の植民地支配をとやかく言われる筋合いが無い事は理解してもらいたいものだな」
「えぇ、勿論、その通りです。ですが、植民地統治一つ取ってみても、その国の内情は分かるというものでしょう?
植民地統治と言っても、地域によって千差万別ですし、南大戦洋地域では西大戦洋地域よりも過酷な奴隷労働を強いられているとか。
我が国としても、敗北したエリザベス人の処遇如何によっては、今後の外交政策が変化するかもしれません」
「外交政策の変化とは?」
「あまりにも酷い処遇であれば、同じ地域の国家として同情を覚えるでしょうし、貴国の印象は良くならないでしょう。そうすれば、地域一体となって、貴国と敵対する可能性だってある訳です」
総督は、中佐の警告とも忠告とも受け取れる言に鼻を鳴らした。
「ならば、我が国と敵対してみるか?ルペン共和国にもマルクヴァルト邦国にもその様な余裕などないだろう?戦争がしたいのならば、いつでも相手になるが?
失礼だが、西大戦洋地域の文明レベルでは、我が国には勝利どころか大敗を喫するだろう。
正直に言って、我が国にとっては、国交の開設でも開戦でもどちらでも良いのだ。いつでも、他国を滅ぼせるのだからな」
総督の強硬な発言は、先制核攻撃を念頭に置いたものだった。
中佐がエリザベス人の処遇を気に掛けたのは、同じ人種だからなのかもしれない。ルペン人は、エリザベス人と異なる民族ではあるが同じ白人だ。民族だけでなく人種も違う様に見える日本人に対して、潜在的な警戒心を抱いたのだろうか。
これでは、国交の開設を準備しているというよりも、戦争の準備に近いだろう。二人は少し冷静になってから、友好的な態度に切り替えた。
「この町以外の地域も視察したいのですが、可能でしょうか」
「それならば、アグリフォード市やキングスフォード市が良いだろう。こちらで手配させておこう」
中佐は深く感謝を述べると、話題は両国の戦史へと移った。
「中佐は、革命戦争に参戦していたのか?」
「はい、私はラホイ海軍との海戦に従軍していました。ただ従軍と言っても、陸軍に比べて戦闘は少なったですが」
「つまり、共和派の国民戦線についていたと?王党派でなく?」
「私にとって、共和制か君主制か、革命か反革命かなど、どうでも良い事です。あの頃、王室の散財で海軍兵の一部では給料の未払いが発生していましたが、私の給料も遅滞気味で、生き残る為には、共和派につくしかなかったのですからね」
「祖国への忠誠よりも、金銭だと?」
中佐は、総督の質問に苦笑しながら答えた。
「国家が国民に義務を要求する様に、国民も又、国家に義務を要求するのです。国家が社会契約を履行しないのならば、国民としての義務などどうして果たせますか。私は、義務ばかり要求して、何の対価も支払わない政府を見限っただけですよ」
「それだけ、王室と王党派が酷かったという事か。では、共和派はどこから資金を調達したのだろうか?」
「共和派の資金源は、霧に包まれていますね。今となっては、謎のままです。ですが、噂によると教会や貴族、銀行が関わっていたらしいと聞いた事があります」
彼は、具体的な聖職者、貴族や銀行・企業の名前を挙げてみせた。列挙された名前は、名立たる顔触れで、総督も一度は報告書で読んだ覚えがあった。事前にエリザベス人の部下から講義された内容とも合致する。
「それは何とも……、何れもこの地域では、名門の司教・貴族・企業なのだろう?何故、革命の資金を提供したのだろうか?」
「勿論、利益になると判断したからでしょうが、啓蒙主義の思想に憑りつかれた聖職者・貴族・企業の経営者も多かったですから、はっきりとした理由は分かりませんね。
でも、……普段は政治に距離を置いている私でさえ、革命の熱狂に浮かれていた記憶があります。
もしかしたら、利益とか思想とかよりも、もっと根本的な人間としての本能が革命とそれ以降の革命戦争を支えたのかしれません。
国民としての一体感といいますか、高揚感が国家の全体を包んでいて、それに流されたのかもしれませんね」
彼は、時たま革命期の動乱について思いを馳せる事がある。戦友は、喜んで革命戦争に殉じて、国家を守護した。それが正しかったのかは分からない。
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日本領エリザベス植民地・アグリフォード市:ルペン共和国使節団
バッテンベルク州の大都市であるヴィクトリア市とアグリフォード市は、工兵隊と民間企業が軽便鉄道を敷設しており、アグリフォード地方の穀倉地帯で生産された農産物が、鉄道によってヴィクトリア市へと輸送されている。
ルペン使節団は、この首都から延伸された鉄道に旅客として乗車して、目的地のアグリフォード市へと向かった。
代理公使(海軍中佐)は、座席から流れる風景に釘付けとなった。これだけの速度で大量に輸送できる能力があれば、経済だけでなく、戦争の動員と兵站にも使えるに違いない。
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ルペン共和国ペティオン市郊外:シャンボール宮殿
王政時代に建てられたシャンボール宮殿は、共和国政府が接収して、外国の賓客を饗応する迎賓館の一つとして使用している。
日本側の使節団は、共和国政府の要請によって、市内の高級旅館からこの宮殿に移っていた。
総統は、相変わらず外務省を信用していなかったから、総統府と各省庁からなる国交開設準備委員会を設置して、自身の息が掛かった側近の官僚を送り込んだ。
共和国政府が、国交開設及び通商に必要な予備交渉を日本側の使節団に通知すると、使節団は直ぐにこれを了承して、早速、宮殿で事務レベルの予備交渉を開始するまでに至った。
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ルペン共和国:予備交渉で妥結された合意事項について(交換公文)
①両国政府は、国交の開設と、通商交渉の開始に合意した。両国政府は、在外公館とは別に、貿易や文化交流に関する事務所を相手国の同意に基づいて、設置する事ができる。
②両国の使節団は、相互に外交官特権が与えられているものと見做す。外交官特権とは、駐箚国に於いて、その国の統治権に服さず、従って、現行犯による他は、拘束されず、訴追を受けない(刑事免責)。又、駐箚国によって課税されない(免税特権)。但し、両国政府の合意に基づいて、両国政府が選任した裁判官で構成される仲裁委員会が設置された場合に於いて、外交官の犯罪又は不法行為の審理を附託させる事ができる。
③両国は、相互に領事裁判権を認めない。しかし、この為に、自国民の保護に関する外交事務は妨げられない。自国民の保護に於いて、両国は自国民を被告人とする裁判・法廷に対して、弁護人を派遣し、自国の司法官吏を派遣して、裁判長又は陪席裁判官に対して、意見を陳述する事ができる。両国は、この司法手続を法制化して、運用に努めなければならない。
④通商交渉を開始する為に、国交の開設と並行して、通商に関する閣僚級会合及び首席交渉官会合を開催する。
⑤両国の軍隊は、友好と親善を図る為に、相互に軍事基地を訪問し、合同演習を開催する。
⑥両国政府は、常に地域の情勢について意見を交換し、地域の安定化と平和に寄与する。
附則
交換公文は、交渉期日の一日に遡って、施行される(遡及効)
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シャンボール宮殿:日本使節団
日本政府は、ルペン共和国との予備交渉が妥結された事を記念して、外務大臣を代表とする一団を送り出した。外務大臣を乗せた馬車が宮殿の正門に差し掛かると、総統親衛連隊による儀仗を受けながら、正面玄関前まで誘導された。
総統は、宮殿の玄関口で待機しており、日本の外務大臣が姿を見せると、笑顔で手を差し伸べた。相手も笑顔で手を握り返した事を確認すると、総統はひとまず安堵の息を静かに吐いた。
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シャンボール宮殿:通商交渉に関する閣僚級会合
閣僚級会合は、ルペン共和国側が貿易大臣、日本国側が通商代表を閣僚級として出席させる事を互いに通告し、開催される運びとなった。
通商交渉に先立ち、共和国の貿易大臣はいつになく緊張しており、興奮と不安が一気に競り上がってきた。日本の産業競争力次第では、西大戦洋地域の経済大国でもある共和国の優位性が揺らぎかねないからだ。
他国に対して、自由貿易や関税の撤廃を強制してきた共和国にとって、逆の立場に置かれた事を薄々と感じ取った。軍事力というものは、その国の社会制度や経済力の度合いも反映されるものだ。
だから、西大戦洋地域の列強だったエリザベス王国を打ち破るだけの軍事力があるという事は、相応の経済力も有していると考えるべきだろう。共和国よりも王国の方が経済発展していたから、王国以上の経済力であると推測できる。
彼は厳しい交渉を覚悟した。何とか、自国産業を保護しなければならない。共和国政府は、新興国の日本についての詳細な情報が掴めないまま、通商交渉に臨むはめになった。
一方、日本政府は短期間とは言え、共和国に対する諜報活動の結果から、部分的な情報優勢を確保しつつある。
例え短くとも、どれだけ国交と外交交渉の為に準備したかというのは、今後の両国関係に於いて、じわじわと影響を及ぼしてくるだろう。
貿易大臣と通商代表は、通訳担当官のみを傍に置いて、会食を楽しんでいた。美食の国と讃えられるルペン料理は、日本人の口にも良く合う様で、通商代表はしきりに料理の質を褒め称えて、和やかな雰囲気が流れていた。
貿易大臣は、通商に関する話題は避ける様にして、料理や文化などを話題にした。食事の時ばかりは、仕事など忘れて、純粋に会食したい。
しかし、通商問題を意図的に避けようとすればする程、頭から離れなかった。一体、日本側はどれだけの条件を自国に吹っ掛けてくるのだろうか。そればかりが気になって、料理を味わおうとしても、不安が膨らむばかりだった。
もしも、この通商交渉を含む全般の外交交渉が決裂すれば、日本国はエリザベス王国を侵攻した軍事力を以て、共和国に侵攻するかもしれない。侵攻とまでは言えなくても、軍事的な威嚇はするはずだ。
会食後に行われた通商交渉は、両国の要求項目を相手方に突き付ける事から始まった。
共和国が自国産業の保護を前面に押し出したの対して、日本国は、共和国の市場開放と関税の撤廃を要求した。
貿易大臣は予想していた事とは言え、厳しい交渉になりそうだと感じた。交渉条件を吹っ掛ける事そのものは良くある事だが、果たして、両者の要求水準を中間点に持っていけるだろうか。
お互いに妥協点を探り合いながら、一歩ずつ、時間を掛けて進んでいく事だろう。
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日本政府:ルペン共和国との第1次暫定貿易協定について
我が国は、交換公文に基づき、共和国政府との通商交渉を開始したが、その立場の隔たりは大きく、正式な交渉の妥結には至らなかった。しかし、両国政府は、貿易の早期開始では一致点を見るに至り、そこで暫定的な貿易協定によって、ひとまず、両国の懸案事項を除いた上で、貿易や海外投資などを開始する事で合意した。
①外国為替は、固定相場制とする。決済通貨の交換比率は、別表で定める。
②本協定に関する紛争は、両国政府の代表から構成される日本=ルペン二ヵ国商事貿易裁判所で処理する(紛争処理)。
③関税及び検疫は、本協定によらず、当該国の権限による。
④租税は、当該国に於ける取引の総量又はサービスに対して課される。但し、租税の計算は、当該国から外国の税率を差し引かなければならない(二重課税の部分的回避)。両国政府は、この税制に関する情報を常に共有し、健全な税務の執行に努める。両国政府は、税源の浸食及び不正な利益移転(BEPS)、脱税・租税回避に関する情報を交換し、相互に税務代表事務所を置く(租税回避の防止)。
⑤両国政府は、自国の安全保障上の脅威を防止・削減する為に、防衛装備品及び防衛生産基盤を保護する事ができる。両国政府は、安全保障・防衛の為に、自国の製品・技術・知識・情報・人材の流出を防止すると共に、輸出入を管理する事ができる(安全保障貿易管理)。
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ルペン共和国・ペティオン市:日本・貿易振興機構・駐在員事務所
貿易振興機構(ジェトロ)は、日本政府と共和国政府の交換公文に基づき、首都に駐在員事務所を構えて、日本企業の海外進出を支援するべく、現地の政治情勢や市場調査に乗り出していた。
調査員の一人は、経産省から出向した若手官僚で、将来を渇望されている出世頭でもあった。経産省は、優秀な若手の職員をジェトロの調査員やアナリストとして派遣している。
ジェトロは、単なる天下り団体や外郭団体などではなくて、経産省の別動隊、情報機関としても活躍している。
各省庁の情報機関が情報省に統合化される中にあっても、統合化されなかった情報機関もいくつかあるが、ジェトロはその一つだ。
非公式に情報機関としての性格を帯びる彼らには、高度に暗号化された通信能力を備えた情報端末が支給されている。
調査員は、強固に暗号化された自身のラップトップパソコンを見やって、果たしてこれ程の警戒が必要なのか首を傾げた。
そもそも、電子技術が発達している国家は、日本以外には恐らく存在しないだろうし、仮に解読できたとしても、その情報を利用できるだけの国力が異世界の諸国にあるだろうか。
寧ろ、この情報セキュリティは、他の情報機関や産業スパイから防衛する為なのではないか。
何でも、旧情報庁の経済部門は、ジェトロが持つ膨大なデータベースを寄越せと要求していたらしい。
彼は、正式な貿易協定の交渉を有利にする為に、共和国の非関税障壁を調査する仕事を担う。暫定貿易協定では、関税と検疫に関する事項は棚上げされたが、非関税障壁についても事実上の白紙になった。
しかし、正式な貿易協定を発効する為には、非関税障壁の問題も避けては通れない。
通商代表部は、独自の調査能力に乏しい事から、ジェトロの調査能力に期待し、委託研究という形で、情報収集を要請した。通商代表部には、経産官僚が多く出向しているからなのか、要請は直ぐに受け入れられた。
駐在員事務所は、経済情報を収集する為に、数十人のエリザベス人を通訳や助手として雇用している。
情報機関や外務省がエリザベス人の通訳人材を奪い合っている現状を思えば、ジェトロは非常に恵まれた環境にある。これは、政府が通商政策へと転換した影響が大きかった。
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ペティオン市・中央広場:防衛装備博覧会
日本政府は、軍事力とそれを支える工業力・技術力をルペン共和国に示威する為に、軍需企業に対して、ペティオン市で初めて開催される防衛装備博覧会への出展を要請した。
政府は、戦闘機や戦車といった先端兵器を異世界の諸国に販売するつもりはなかったが、その一方で、小銃や拳銃などの小火器を輸出する計画を準備していた。
日本国の戦争遂行能力に大幅な限界と制限がある以上、ディープ・エンゲージメント(DE)政策よりも、オフショア・バランシング(OB)政策を追求する方が、最善とは言えなくても、次善ではある。
しかし、OB政策を採るのならば、ある程度の武器輸出や軍事訓練を通じて、技術流出や拡散は避けられないし、力の空白を生じさせかねない。
政府は、技術流出と拡散を最小限に留めたいという意図と、友好国を使って大国の台頭を牽制するという目的を調和させる為に、小銃程度ならば良いだろうと妥協した。
尤も、小銃であっても、異世界の諸国と情勢を混乱に陥れるには十分な原因を提供するだろうが。
それでも、重要なのは、日本が地域の覇権国家として君臨する事であり、日本が主導する国際秩序を維持する事であるから、異世界の諸国が互いに競争して、疲弊してくれる分には一向に構わない。
日本国に敵対し得る大国同士を相争わせて、我が国にとって都合の良い勢力均衡を図るべきだ。
博覧会は、三つの主要会場で催されるが、その一つは中央広場を貸し切っていた。
普段は巡礼者や市民で賑わう広場は、軍服を着用した集団で一杯になっている。
即席の舞台に登場した防衛省の軍備担当防衛次官は、軍事関係者で埋まっている客席を見回してから、エリザベス人の通訳を介しながらも、淀みなく日本の軍事力を紹介した。
「――さて、挨拶もこれくらいにしましょうか。皆さんは、きっと我が国の軍事力について知りたくてここに来たのでしょう。
現在、我が国は予備役を含めて150万人以上を動員して、戦時体制を維持しております。司会者が紹介した通り、我が国の人口は1億2700万人(※日本国籍のみで、植民地の現地人は除く)ですから、これは総人口の1%以上に当たります。
陸軍の師団数は、平時16個師団から戦時30個師団にまで拡大している所です。海軍は、この映像にある通り、ミサイル駆逐艦やミサイル巡洋艦という水上戦闘艦を運用しておりまして、これらの艦艇は凡そ80隻、補助艦艇などを含めると200隻以上の威容でございます。
空軍については、ルペン人の皆さんには理解し難いかと思います。こちらの映像だけでは不足でしょう。実際に、空軍をご覧に入れましょう」
次官が合図を送って暫く経つと、会場の上空を戦闘機の編隊が低空飛行で進入していって、轟音が地上を震わせた。
ルペン軍人は衝撃波に驚いて、思わず席を立つが、驚いたのは彼らだけではない様で、場外にまでどよめきが拡がっていた。
次官は、想像した通りの反応を得られて満足すると、席を立ったまま膠着しているルペン人に着席を促して、再び説明を始めた。
「ご覧になられましたでしょうか。今、皆さんが目撃した飛行物体こそ、我が空軍と海軍が誇る戦闘機でございます。あれは高速で空を突っ切り、敵軍を一網打尽にするのです。詳細は映像を交えて説明致しましょう」
舞台の正面を大きく占める巨大なモニターに、戦闘機同士の空戦や爆撃のCG映像や実際の映像が流されていく。
それでも、空軍や飛行機という概念がないルペン人にとっては、映像があってもなお理解し難い(※エリザベス王国などの一部の地域諸国では、航行能力を持った魔導船の伝承や物語が残っているが、ルペン共和国にはない)。
彼らの反応を見る限り、空軍に関する説明が最も難しいのかもしれない。
陸軍ならば、現代の小銃はマスケットやライフルの延長で何とか理解できるかもしれないし、海軍の艦艇にしても同じ事が言えるだろう。
しかし、空軍という軍種についてはそう上手くはいかない。
※※
ペティオン市郊外:防衛装備博覧会
ペティオン市を貫くセイネー川の流域は、豊かな水源と土壌を農地に恵んでいる。河川を挟む様に建物が密集する市街から郊外へと出ると、大小の農園が続く。
流域の外れまで差し掛かると、農園の姿はぽつりぽつりとあるだけで、平原が拡がっている。普段ならば平穏であった平原は、常ならぬ喧噪が沸き起こっていた。
観覧席を埋め尽くすルペン人は、日本軍の軍事演習を食い入るように魅入っている。
機械化部隊が演習場を高速で横切ると、装甲兵員輸送車(APC)と歩兵戦闘車(ICV)の後部ハッチから、続々と小銃を構えて周囲を警戒する歩兵が展開する。
歩兵は装甲車輛と協同しながら、対抗部隊と交戦する。勿論、戦場でこの様な予定調和の戦闘は少ないだろう。所詮はお飾りの演習に過ぎない。
機械化部隊の展示が終わると、次に戦車部隊が演習場に現われた。型落ちした戦車は、衰える事なく、用意された標的に砲弾を命中させていく。
ルペン人にも視覚的に分かりやすい、何十台もの馬車を繋いだ標的を次々と戦車砲弾が貫くと、観客をどっと沸かせた。
展示演習の締めは、榴弾砲の一斉射撃だ。12門の火砲は、小丘に並べられた10km先の目標に対して、有効射向束の位置を取った。
この惑星の水平線が27km(15海里)である事を考慮すると、平原に設営された観覧席からでも十分に着弾を視認できるだろう。
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アゼノール市・軍港:防衛装備博覧会
アゼノール市は、共和国最大の軍港を擁し、人口13万人を超える港湾都市だ。アゼノール軍港は、日本海軍の第171任務部隊が寄港しており、エリザベス植民地を挟んで両国の海上交通の要衝として、日本側の物資と人材を受け入れる中継地点となっている。
日本政府は、ゆくゆく同港をウラン鉱石などの資源を輸送する拠点として使用するつもりで、沿岸警備隊の測量船を派遣し、周辺の水路測量を進めている。
展示演習の花形は、水上戦闘艦による艦砲射撃とミサイルの発射だ。ルペン海軍高官と市の幹部を乗艦させた艦艇から、単縦陣で挺隊が通過する様子は、観艦式の小型版といった所か。
ミサイル駆逐艦「みちつき」は、僚艦から発射された4機の無人標的機を艦砲射撃によって全て撃ち落として見せた。初代からの伝統なのか、防空能力は健在らしい。
戦列艦を擁するルペン海軍兵にとって、「みちつき」の艦砲射撃は何とか自身の軍事知識で理解できる範囲だった。ミサイルの発射よりも、余程分かりやすい。演習が終わると、花火が打ち上げられ、市民の目を楽しませた。
※※
ルペン共和国:国防省陸軍局
陸軍局は、日本の防衛省幹部と軍需企業担当者らによる訪問を受けていた。彼らの訪問の目的は明らかで、防衛装備博覧会で展示された武器の一部を売り付けに来たのだろう。
日本の防衛装備品が優れている事は、博覧会で何度も見せ付けられた。ルペン軍人は、その記憶に嫌でも現代兵器の火力を刻んだ。
ルペン共和国にとって幸いだったのは、日本の軍事力を旧エリザベス王国の様に、戦争という形でなく、展示や演習という形で知る事ができた点だ。
もしも、日本国が異世界に転移した時点でその隣国となっていたのならば、運命がどうなっていたかは分からない。
もしかしたら、その場合には旧エリザベス王国の代わりに侵略されていかもしれない。
国防次官と陸軍局の幹部達は、熱心に宣伝する日本の軍備担当防衛次官に押され気味だった。その次官の隣では、日本企業の担当者が苦笑いしながら、その様子を見守っていた。
営業担当の執行役員を押し退けて、身振り手振り激しく、声高く自国の兵器を詳説する様は、官僚よりも営業職に向いているのではないか。
次官は、共和国が日本製の兵器を導入する意義をこう強調した。
「失礼ですが、現在、貴国はマルクヴァルト邦国という地域最大の陸軍国家と対峙しておられます。
貴国は邦国と軍事同盟を締結していますが、隣国に最大の脅威を抱えている事に代わりはありません!邦国と共和国の人口を比較すれば、邦国が動員能力で優っているのは必然!!
もしも邦国がシルヴァニア公国を完全に併合すれば、次に狙うのは間違いなく貴国の領土です!!
はっきりと言って、貴国が邦国と結んだ条約など、紙切れでしかない!!であれば、どうするのが正解か……、軍備を増強するのです。
それも、邦国だけでなく、周辺諸国でも普及していない我が国の兵器を以て、軍拡するのです!!それ以外に貴国がこの厳しい国際情勢で生き残れるでしょうか?
あなた方は、選ばなければなりません。我が国に付くのか、それとも邦国と心中するのかを!!
皆様は、博覧会を御覧になりましたでしょう?あれこそは、現代の火力!!近世や近代の軍隊など、鎧袖一触です!!」
勿論、日本政府が善意に目覚めたから武器の販売を宣伝しているのでは決してない。悪意があるから、自国製の兵器を押し売りしているのだ。
国防次官は、遠慮がちにまだ検討中だと返すが、日本の次官はその程度では挫けなかった。
地球世界では、日本製の兵器は国際市場で悪戦苦闘したものだ。それに比べれば、ちょっとやそっとの隔意など歯牙にもかけない。
エリザベス人の通訳担当官は、影に徹する事に決めた様で、この事態に何も反応しなかった。
国防省の幹部らは困ってしまった。武器輸出の問題がこじれて、日本側を怒らせたくはないが、即座に武器を輸入する訳にもいかない。何とも、じれったい状況だ。日本の次官は、ここぞとばかりに畳み掛けた。
「我が国は、貴国に販売総額の殆どを借款する用意もありますよ!!一括して購入して下されば、1挺当たりの単価も大幅に割引致します。どうでしょうか?是非、購入を検討して下さい!!」
終始、押され気味というか、引き気味だったルペン側だったが、安易に頷く訳にはいかない。新兵器の導入は、軍隊にとって重大な決断だ。
おいそれと、軍政の官僚が決定できるものではないし、巨額の金が動く軍需政策は政治家も容喙してくる。
国防次官は、日本側を不快にさせないように注意を払いながら、丁寧に留保した。
※※
ルペン共和国:国防省陸軍局・装備委員会
陸軍局の装備関係部署による委員会が急遽開催された。日本政府が主催した防衛装備博覧会は、共和国政府の期待と不安を多いに煽った。
日本の軍事力に恐怖するルペン軍人がいる一方で、その軍事力や武器に魅入られて、自国の為に利用しようと企む軍人の一派もいる。
型落ちした武器でも良いから、日本製の現代兵器を輸入して、周辺諸国の軍制改革に対抗しようとする動きが活発化している。
他方、既存のルペン系軍需企業は、日本企業という新たな競争相手の出現に警戒心を露わにした。
ルペン企業にしてみれば、外国企業に自国市場を奪われる様なものだ。ただ、ルペン企業にしても、一部には日本企業の軍事技術を取り込もうとする向きもあるが。
つまり、国内では日本の武器・軍事技術に対して、輸入するかしないか、技術協力するか、まるっきり姿勢が分かれてしまっていた。
軍部内でも状況は同じで、輸入賛成派と反対派に分断されている。その中間は、技術協力派と言った所か。
とにかく、日本政府側の提案である武器の輸出に対して、意見を統一しなければならない。
しかし、共和国政府の姿勢如何によっては、マルクヴァルト邦国との軍事同盟や対抗同盟に関する対外政策を転換させる可能性が強い。そうでなくとも、なにかしらの影響を受けずにはいられないだろう。
委員長を兼ねる陸軍局長(陸軍少将)は、軍需課長(陸軍大佐)に武器輸入の是非を問うた。
「――それで、我が国は日本国から武器を輸入すべきなのか?仮に輸入した場合、我が国の軍事力はどの程度増強されるのか?」
「私見を述べる前に、論点を整理しますが、そもそも、①販売価格は適正か、我が国の財政で負担できるのか②新兵器を我が軍が導入した際の周辺諸国の反応③ルペン企業の生産基盤を保護できるのか④新兵器の導入に掛かる教育訓練の費用⑤日本製品の導入による日本の影響力の拡大の5点が問題となります。
販売価格についてですが、初めに提示された価格は、1挺で我が軍の1個大隊を新設できる程の高価格です。
どうやら、我が国と日本の物価や購買力が著しく異なる様でして、日本製の兵器を一つ購入するだけで多大な財政的負担となります。
しかし、日本側の提案によると、購入総額の9割以上を借款する用意があるとの事でして、条件如何によっては、極めて安価に日本製兵器を導入できるかもしれません。
2点目ですが、我が国が日本製兵器を導入し始めれば、周辺諸国も導入を急ぐでしょうし、我が国に対する警戒心や不安を煽るかもしれません。
ただ、それを考慮したとしても、圧倒的な火力を持つ武器の導入は不利益よりも利益が上回ります。
3点目に、我が国の軍需企業を保護する観点からは、悪影響は確実にあるでしょう。
兵器の輸入でなく、技術協力の形を取ったとしても、そのお零れに預かれない企業は必ず出てきますし、新兵器の生産には膨大な設備投資が不可欠で、これも中小企業には相当の負担です。
大企業の軍需部門にしても、投資の負担を嫌って、事業を撤退させるかもしれません。
しかし、自国企業の保護を優先して、軍事技術の世代交代に乗り遅れれば、日本製の兵器と技術を導入するかもしれない他国に追い越されるのは必死でしょう。
4点目の教育訓練に掛かる費用ですが、これは一番無視できない要素です。兵器や装備は導入してそれで終わりではありません。
それを兵士が使える様に教育する必要がありますし、その為には、兵器それぞれに合わせた操典を策定しなければなりません。
新兵器の導入とは、詰まる所、既存の教育体系を捨てて、新しい教育と操典を受け入れるという事でもあります。
仮に日本製の兵器を輸入するのならば、それに合わせて、我が軍の軍事教育と訓練も一新しなければなりません。
その費用と時間がどれだけ掛かる事か、正直に言って、予測ができません。相当の準備期間が要されるでしょう。
それも数か月単位でなく、数年単位で見るべきです。教育訓練を試行錯誤していく内は、多大な資源を消費する事になり、その間に本格的な軍事行動は厳しいでしょう。
恐らく、教育訓練と操典の研究が始まれば、今までの教育訓練にも影響を及ぼさずにはいられないでしょうから、一時的に戦争遂行能力が却って低下するかもしれません。
我が国の教育訓練が十分に完了しないまま、他国と戦争に突入する事は悪夢以外の何物でもありませんし、もしかしたら、日本と敵対して、戦争状態になる可能性もある訳です。
5点目の日本の影響力の拡大についてですが、武器輸出や技術協力を通じて、我が国の対外政策に間接的な影響力を行使するはずです。
日本政府による明確な命令や指示が無かったとしても、政府の意向は多少なりとも反映されるでしょうし、我が国がそれを拒否できるのかどうかは甚だ疑問です。
以上の論点を踏まえて上で私見を述べますが、日本との技術協力が良いのではないでしょうか。
武器輸入では財政的負担が重いですし、借款では日本の影響力が強過ぎます。そして、何よりも、日本製兵器の輸入は我が国の企業にとって打撃となるでしょう。
しかし、我が国が日本から兵器や技術を導入しなければ、他国がそれをするだけです。
それは看過し難い国防上の危機となりますから、日本の軍事技術を導入した上で、我が国の企業が生産するべきです」
大佐は、日本の軍事技術を導入する危険としない危険、自国企業の保護を重視して、技術協力に留めるべきだと主張した。これに対して、教育総監(陸軍中将)は強く武器輸入に反対した。
「大佐が指摘した通り、新兵器の導入にはとてつもない労力がいるだろう。日本側の協力があったとしても、日本軍の教練をそのまま我が国に適合できるとも思えん。一から教育課程を練り直す必要がある。
今、地域情勢が緊迫化している中で、その様な余裕などない。我が軍は、現在の武器と装備で十分に効果を発揮している。
それをわざわざ新兵器に置き換える必要性がどこにある?金と時間を無駄にするだけだ。
我が国が現在享受している平和など、所詮は虚構に過ぎん。時が経てば、マルクヴァルト邦国や周辺諸国と戦争になるかもしれないだろう。
今、我が軍に求められているのは、既存の軍隊を強化する事であって、新兵器や新技術を導入する事ではない!!」
中将の意見は、新兵器の導入とそれに伴う教育訓練の開発が面倒だという事だ。日本製兵器の輸入に現を抜かしている軍部に警鐘を鳴らした形だ。
しかし、現代の軍隊と兵器に魅入られてしまうのも無理からぬ事だろう。
現代の戦争は、ルペン軍人に心理的・思想的な衝撃を与えた。それが良い影響であれ、悪い影響であれ、自分達の軍事技術や戦術が時代遅れである事を突き付けられたのだ。
例え中将が嫌がったとしても、教育や戦術は変わらざるを得ないのではないか。大佐は心中でそう反論したが、言葉にはしなかった。
※※
ルペン共和国:総統府
総統は、日本側が提案した武器輸出や軍事技術協力に前向きだった。新たな列強の登場と台頭によって、共和国の対外政策は転換を迫られていたが、一方でこの情勢は好機でもあった。
日本国と敵対せず、友好関係を喧伝するのにはちょうど良いし、マルクヴァルト=ルペン軍事同盟と対抗同盟に二股を掛けている共和国にとって、いつそれらを破棄するのかという時機を見極める上で、日本製武器は外交カードにもなる。
共和国軍は、邦国のシルヴァニア侵攻が停滞気味な後も、引き続き公国南部を保護占領下に置いているが、それを返還せず、自国に併合する機会にもなるはずだ。
邦国に対して、最大動員能力と人口が劣勢な共和国は、常に軍制や士気・戦術などの側面で優位に立つ必要があるが、日本製兵器の絶大な火力は、その優位性を確固たるものにしてくれるに違いない。
二つの同盟を破棄して、日本国と同盟を締結するのも選択肢の一つだ。
それに、日本の政治体制と価値観はどちらかと言えば、共和国に近い。
対抗同盟に秘密加盟した共和国だが、自国の王室を処刑した共和国に対する周辺諸国の嫌悪感は未だに払拭されていない。
共和国の周辺諸国は、その大半が君主制国家なのだ。二つの同盟は、利害の一致に過ぎず、価値観の一致を意味するのでない。
彼は、側近集団を自身の執務室に呼び寄せて、対日政策と二つの同盟政策について議論を促した。平和局長を兼ねる上級顧問官は、二つの同盟を維持したままで、日本国を取り込むべきだと進言した。
「二つの同盟、即ちマルクヴァルト=ルペン軍事同盟と対抗同盟を破棄するべきではありません。
今はまだ、その様な時機でもないでしょう。経済成長を持続する観点から、邦国市場は魅力的ですし、それを放棄すべきとは思えません。
対抗同盟にしても、我が国が秘密加盟をしているおかげで、対邦国政策の協調が図れる上に、各国の外交機密にもアクセスしやすくなっています。
日本国という新しい大国が台頭したからと言って、それらの同盟政策に変更を加える程ではないかと思います。
寧ろ、我が国が二つの同盟を維持している事こそが、新興国に対する牽制として機能するのでは?その上で、日本国が持つ技術や投資を取り込めば良いのです」
平和局長の提言に対して、軍事顧問官(海軍中将)は懐疑的だった。
「君は同盟を維持しろと言うが、果たしてそれが日本国に対する牽制になるものなのか?
相手はあのエリザベス王国を降した国家なのだろう?西大戦洋地域の列強諸国の総力で対抗できるとでも?
かつての王国は、我が国だけでなく、海洋国家同盟によっても対抗できなかったではないか。
日本国が王国を占領したという事は、その植民地帝国よりも強大な国力を備えているという証明だろう?
南大戦洋地域などの他地域の列強諸国にも増援を呼び掛けるべきではないのか?」
中将は、植民地帝国として西大戦洋地域に君臨していたエリザベス王国に勝利した日本国の軍事力に懸念を抱いていた。恐怖と言っても良い。平和局長は、日本国と技術協力や投資で協力すれば良いと言うが、中将にはそれが楽観に過ぎると感じた。
※※
シルヴァニア公国北西部・チェレチェス市:公国軍・予備第10師団
チェレチェス市は公国北西部の主要都市で、北シルパチア山脈を挟んでラホイ王国南部と接し、鉱山産業が盛んな地域だ。人口は14万人前後で、郊外には美しい田園風景が延々と続いている。
公国軍は、西部に配備した8個予備役師団の内、予備第10師団を同市の防衛に回した。
師団の第10軽騎兵連隊は、師団司令部に対して、邦国軍1個師団の接近を警報した。
師団長(少将)は、敵軍の接近警報にすぐさま詳細の報告を求めた。騎兵士官(少佐)は、乗馬服を着替える余裕も無く、早々に司令部へと戻った。
少将は、敵1個師団の兵力・構成だけでなく、その荷馬車隊や後方連絡線についても質問を重ねた。
「敵1個師団の戦闘部隊の編制は、邦国軍の標準的な編制と変わりませんが、後方部隊・補給部隊は通常よりも増強されている模様です。
特に、荷馬車隊の数は900輌以上もあります。それから、どうやら馬車鉄道の敷設を専門とする工兵を1個大隊規模で帯同しています。
恐らく、敵軍が西部に建設した要塞群から北西部へと馬車鉄道を延伸させるつもりではないでしょうか」
「つまり、敵軍は現地徴発に頼れないから、自前で補給網を構築しようとしていると?」
「はい、恐らくはその通りかと思います。我が軍の焦土戦術に対抗した措置です」
「馬車鉄道網が完成したら、我が軍の脅威となるな。完成前に妨害を行うべきか……」
「我が連隊を使いますか?」
少将は、少佐の提案に唸って腕を組んだ。軽騎兵連隊は、師団の貴重な耳目だ。それを阻止攻撃や縦深攻撃に使用すると、偵察部隊の兵力が急減してしまう。少佐もそれは理解していたが、それでも問わずにはいられなかった。
「いや、我が師団の使命は、敵戦力の誘引だ。この町まで敵軍をよくよく引き付けてから、後方連絡線を遮断するべきだろう。西部に展開している他の予備役師団にも連絡しろ。敵師団をこの町で挟撃する」
「では、市街戦も考慮すると?」
「そうだ。平野では邦国軍に勝てない。市街地にまで敵軍を引きずり込んでやる」
少将は、自国軍の士気を高く評価していたが、一方で邦国軍の野戦能力についても評価している。邦国が『旧帝国領の回収』に最も成功した国家となったのは、その優れた野戦能力によるものだと彼は見抜いていた。
※※
チェレチェス市の戦い:邦国軍第92師団、公国軍予備第10師団
シルヴァニア侵攻の先遣部隊である邦国軍第31軍に属する第92師団は、公国北西部の主要都市であるチェレチェス市の占領を企図して、西部の要塞群から行軍を強行していた。
強行軍の結果として、補給線は伸びきるばかりで、荷馬車隊の負担は増すばかりだ。
それでも、速戦即決を志向する邦国陸軍・東部方面軍は、強行軍を止める事はできなかった。
軍事的な理由ばかりでない。政治的な理由も強く働いた。
戦果が芳しくない程、将兵の死体が積み上げる程、方面軍はより結果を求められていた。
シルヴァニア侵攻の中止や縮小を準備し始めた政権は、公国政府との停戦交渉を有利にする為に、『劇的な勝利』を要求し、公国全域の占領を主張する議会の多数派は、軍事的勝利を求めて止まない。
国民も国内輿論も、厭戦的な主張がある一方で、好戦的な主張も市中を闊歩している有り様だ。
東部方面軍は、政権から、議会から、国民からも政治的圧力に晒され続けている。
邦国軍は、公国軍による妨害を受ける事が殆ど無く、チェレチェス市郊外に展開した。
飽くまでも野戦を強制しようとする邦国軍に対して、公国軍は、市内から邦国軍の陣地に目掛けて砲撃を浴びせてきた。
どちらが先に音を上げて、野戦を行うか、それとも市街戦を行うのかという競争になってきた。
しかし、不利なのは邦国軍の方だ。補給が滞りがちで、物資の徴発も望めない邦国軍に対して、公国軍には内線作戦の利がある。補給の面でも公国軍の方が有利なのは明らかだ。このまま、膠着状態が続けば、邦国軍の物資は枯渇しかねない。
止むを得ず、邦国軍は郊外の陣地を引き払い、市内へと侵入する姿勢を見せた。もしかしたら、野戦に応じない公国軍は、兵力が乏しいから市街戦を望んでいるのかもしれない。
仮に同程度の兵力が配備されていたとしても、最新の兵器で武装した邦国軍の火力が優勢かもしれない。
それは常ならば楽観と誹られても当然だが、か細い補給線に依存する邦国軍にとっては願望でもあった。邦国軍は自ら罠にかかりにいった様なものだ。
邦国軍の師団長が決断すべきだったのは、市内への侵入でなく、部隊の後退だろう。師団を安全圏まで後退させて、補給網を構築するまで待つべきだった。
しかし、軍事的勝利を熱望されている第31軍に後退などできるはずもない。それに、都市に籠る公国軍を撃破できれば、公国軍が溜め込んだ物資を当てにできるかもしれない。
兵站能力では公国軍が有利だが、戦闘の結果如何によって、覆せるかもしれない。邦国軍は、希望的観測や願望が入り混じった感情に突き動かされて、市街戦に突入した。
邦国軍が市内へと侵入すると、市街は静かで、敵兵の銃声は聞こえない。これは公国軍が撤退した後なのだろうか。
最初こそ慎重に市街を進む邦国軍であったが、次第に緊張感が薄れてきた。同市の中心部である広場まで行進しても、敵兵の姿は現われず、相変わらず銃声も響かない。
師団の4個連隊(2/3)が市内に収まると、邦国軍はこの広場を拠点として陣幕を張った。邦国軍に恐れをなしたのか、もう公国軍は撤退したのかもしれない。市内の邦国軍は、士気が弛緩し始めた。
やがて深夜になると、邦国軍の洋灯は頼りなく、かと言っても市内で焚き火を行うのは憚られた。火事になっては堪らない。
公国軍は、深夜になった頃を狙って、市内の下水道から1個小隊・1個中隊単位で地上に投入し始めた。寝静まる邦国軍を奇襲する為だ。
勿論、邦国軍の宿営には寝ずの番を強いられた将兵が欠伸を我慢して、警備に励んでいる事だろう。
公国軍は、砲弾を爆弾代わりに次々と引火させて、榴弾砲やカノン砲で市内の建物を砲撃して、あるいは擲弾を発射し、休息を取っていた邦国軍の目を覚まさせた。
何度も砲撃音と爆発音がこだまして、邦国軍の将兵は耳が痛くなってきた。しかも、榴弾の破片がそこかしこに降り注ぐのである。
慌てて陣幕や建物から出てきた将兵は、榴弾の破片を一身に浴びて、身体中をずたずたにされた。
市内の様子は惨憺たる様子だ。建物は崩壊し、あちこちに瓦礫が散乱し、人間の一部だった手足や頭部が飛び散っている。
公国軍も無傷だった訳でない。味方の誤射に命を落とした者も少なからずいる。それでも、公国軍の砲撃は止まず、地下から砲口だけを覗かせた榴弾砲は、なおも邦国軍を生き埋めにしようと徹底的に建物を砲撃し続けていた。
邦国軍第92師団の4個連隊が市中で孤立した一方で、それ以外の部隊は変わらず、1個歩兵連隊と1個騎兵連隊が郊外に留まっていた。
そこに、公国軍予備第10師団から連絡を受けた予備第15師団が迫っていた。予備第15師団は4個の戦闘連隊(歩兵2個・騎兵1個・砲兵1個)の完全充足編制で、これに対峙する邦国軍は僅か2個戦闘連隊の兵力しかない。兵力は邦国軍が劣勢だ。
しかし、ここで撤退すれば、市中で孤立した味方部隊を見捨てる事になる。邦国軍は、味方部隊の救出の為にも、ここで踏ん張らなければならない。
邦国軍2個連隊は予め決められた指揮序列に従って、騎兵連隊長の大佐が2個連隊の指揮を執ると、公国軍に対して2個騎兵大隊を以て、敵側面に機動させ、1個歩兵連隊を4列横隊に整理すると、背後に予備として2個騎兵大隊を配した。
敵左翼に突撃した2個騎兵大隊は、銃剣付きマスケットを構えた歩兵による防御を突破しなければならなかった。
しかし、1個歩兵連隊を左翼に配した公国軍はこれを撃退して見せた。邦国軍が何度か騎兵突撃を繰り返すが、その度に公国軍の歩兵は押し返した。
公国軍歩兵連隊の前列を崩しても、すぐに後列の歩兵が騎兵を受け止めて、押し返してくる始末だ。
公国軍は優勢な戦況のままに、砲撃を続けており、敵側面に孤立した2個騎兵大隊を、邦国軍歩兵連隊は救出できない。
そこで、邦国軍2個連隊の指揮官(騎兵大佐)は、予備の2個騎兵大隊の内、1個騎兵大隊を以て、今度は敵右翼に突撃させた。
そして、砲撃が降り注ぐ中で、歩兵連隊の前進を決意し、土が抉れる中でも、部隊を前へ前へと押しやった。
戦友の手足が吹き飛ばされても、なおも前進する邦国軍将兵の気迫は、死を悟った者のそれだった。
邦国軍1個歩兵連隊は、1個大隊にまで兵力を減らしていた。それでも彼らは前進した。市中に孤立した同じ師団の将兵を助ける為に、救出の時間を少しでも作り出す為に、彼らは駆ける足を止めなかった。
前進を止めない邦国軍に対して、公国軍も焦り始めていた。敵兵の士気は旺盛で、衰える気配は無い。
そもそも、公国軍は野戦を前提としていない軍隊だ。野戦能力に優れる邦国軍に驚くのも無理からぬ事だ。
だが、公国軍の将兵にも戦う理由はある。祖国の領土を死守するのだ。
公国軍は、左翼に突撃した敵2個騎兵大隊を半壊させると、右翼に突撃している敵1個騎兵大隊に味方の1個騎兵大隊を当て、騎兵突撃の圧力が緩和された歩兵連隊から2個大隊を抽出し、前進する敵歩兵大隊の正面を塞いだ。
更に、2個騎兵大隊を敵歩兵大隊の両側面に機動させる。そうだと言うのに、寧ろ、邦国軍は前進を加速して、公国軍の2個歩兵大隊に一斉射撃を浴びせた。
まるで、自身の両側面に迫る騎兵大隊など恐れないとばかりに、応射を止めない。
しかし、兵力の格差は歴然だ。やがて、邦国軍の銃声と喊声は途絶えた。重症の邦国軍将兵は、降伏に応じて、公国軍に捕虜として連行された。
邦国軍第92師団は、公国軍の挟撃と市街戦で兵力を消耗し、壊滅状態に陥った。
組織的抵抗力を喪った師団の敗残兵は、命からがら、西部の要塞群へと敗走を余儀なくされた。
要塞司令部から、1個師団の壊滅の速報に触れた大書記官長は、停戦条件の譲歩を真剣に考える様になっていた。
※※
マルクヴァルト邦国:大書記官長官邸
大書記官長(侯爵)は、シルヴァニア公国特使の秘密訪問を受けていた。
シルヴァニア侵攻を中止し、公国と停戦する為だった。大書記官長に停戦を決断させたのは、公国西部に展開していた1個師団が後方連絡線を遮断されて、壊滅したらしいという速報がもたらされたからだ。
1個師団の壊滅、その兵力は90個師団以上を常備する邦国にとってはそれほど大きい兵力という訳でもない。
しかし、退役軍人の乞食問題や、傷痍兵の病死問題に、国内輿論が注目した現状ではまずいとしか言い様が無い。
退役軍人と傷痍兵は、全国規模の団体を結成して、政府に軍人恩給の増額や医療施設の充実を要求している。
立憲君主制へと移行するに当たり、市民が暴動やシュプレヒコールを起こしたが、それを許したのが良くなかったのかもしれない。
一般市民は、政府に要求する術を身に付けた。シルヴァニア侵攻の継続を要求する市民団体が街道を行進すれば、侵攻の中止を訴える団体が対峙する。市中はまるで市民兵の行進訓練である。
政権は追い詰められていた。侵攻の拡大と中止、どちらに転んでも味を占めた市民は声高に要求を繰り返すだろう。
全く、民主政というものは面倒だ。何度、そう思った事だろうか。いっその事、武力で弾圧してやりたいが、何とか理性で押し留めていた。
それに弾圧すれば、同盟を結ぶ共和国政府が難色を示すだろう。世の中は、ままならないものだ。
侯爵が公国特使に停戦を持ち掛けたが、特使の反応は冷たかった。
「そちらから侵略しておいて、今更、停戦協議ですか?都合が良すぎませんかね?」
特使の言い分は尤もだ。大書記官長もそれは十分に理解している。
「それを承知の上で、こうして停戦を要請しているのだ。今次戦争は、両国にとって若者の死体を積み上げる作業となっている。どこかで、歯止めを掛けなければ、利益を得るのは、周辺諸国だろう?」
「失礼ですが、侯爵閣下は我が国の決意を甘く見ているのではないですかね。例え臣民の死体が築かれようとも、我が国は領土を死守する覚悟です。停戦などできるはずもない」
「領土を死守するというが、南部はどうするのか?あそこは共和国軍に占領されたままだろう?それも奪還すると?もしも、我が国と停戦が合意されれば、南部地域の奪還も視野に入るだろう?」
「勿論、南部も共和国軍から奪還します。言われるまでもありません」
「二大国を敵に回して、戦えるとでも?」
「我が国には対抗同盟による支援もありますし、兵力もまだまだ健在ですよ。我が国は過去、二大国よりも強大な勢力と版図を誇った帝国の侵略を幾度も撃退した栄誉ある戦士国家です。
その祖国が、大国の脅迫と侵略に対して屈服するなど言語道断ですね。寧ろ、戦争はかつて騎馬遊牧民族であった頃の血が騒ぐというものです」
そもそも、公国と共和国は内通している。共和国は邦国と同盟を締結しておきながら、対抗同盟にも秘密加盟している。
邦国政府はまだその事実を知らなかったから、二大国が公国を攻撃しているという誤った認識も止むを得ない。
だが、公国にしても余裕がある訳でない。いつ、共和国軍の保護占領が併合に変わるとも知れない。
公国と共和国の関係、対抗同盟との関係が悪化すれば有り得る事だ。侯爵は、特使に対して飽くまでも仮定の条件だと断った上で、停戦条件を提示した。
「……もしも、両国が停戦協議を開始するとして、我が国は、貴国に対して戦争に係る賠償金は請求しないと約束しよう。それから、我が軍が占領下に置いている都市と地域の復興にも資金を供出できるが?」
特使は、侯爵の提案に呆れた表情を隠さなかった。
「戦争賠償金の放棄ですか?侵略国に請求権があるとでも?随分と傲慢ですね?貴国の援助など必要ありませんし、我が国は何度も帝国の侵略を跳ね返し、その度に荒れた土地を復興してきました。貴国の手など借りる必要もありません」
「歴史を繙けば、賠償金の請求は戦勝国の権利だろう?それを放棄すると言っているのだ」
「戦勝国の権利ですか?確かに歴史書はそう教えてくれますけれども、果たして貴国が今次戦争の戦勝国なのですかね?違うでしょう?
だから、こうして、停戦を提案しているのではないのですか?それとも、貴国が戦勝国だと言うのならば、どうぞ戦争を継続されるとよろしい」
侯爵の提案は、随分と大国の傲慢が過ぎる。特使は、祖国が小国であると舐められていると感じた。
大国だからと言って、傲慢に振る舞って良い訳でない。邦国よりも巨大な国家である帝国に抵抗し続けてきた公国にとって、大国の要求に膝を屈するなど有り得ない。
侯爵は、改めて特使に公国は戦争を継続する意思なのかと確認した。本当に停戦するつもりはないのか問い掛けた。それでも特使は、抗戦を主張した。
「停戦にしろ、講和にしろ、貴国軍が我が国から完全に撤退するのが前提ですよ。外国軍が自国の領土に留まっている限り、交渉の余地はありませんね」
「仮に停戦が合意されれば、我が軍を撤退しても良いが?」
「それは交渉以前の問題です。いいですか?停戦交渉の前提は貴国軍が撤退してからです」
侯爵が譲歩しても、特使はなおも強硬だった。それでも、こうして公国政府が侯爵の求めに応じて特使を派遣した事はまだ希望があるのかもしれない。
「貴国政府が特使を派遣したのは、停戦の意思があるからではないのか?」
「停戦の意思があるというよりは、閣下の意思を確認する為です。そこは勘違いしないで下さい」
公国政府が侯爵に対して特使の派遣を了承したのは、停戦提案の真意を確かめる為だ。停戦条件の如何によっては、公国にとっても良い条件を引き出せるかもしれない。
公国は現在、対抗同盟による援助があるとは言え、苦しい戦時体制を強いられている。本心では、公国政府も侯爵と同じで停戦と講和に持ち込めるものならそうしたい。
しかし、侵略国とそう簡単に交渉する訳にもいかない。国家の体面にも関わる。それに、莫大な援助を行っている対抗同盟の顔に泥を塗る事にもなる。
公国政府は、邦国と対抗同盟の間で板挟みになっていた。
邦国がシルヴァニア侵攻で苦しむ様に、公国も又、自国の防衛で苦しみを味わっているのだ。シルヴァニア侵攻は既に、勝者なき戦いへと移行していた。
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