第7章① バランス・オブ・パワー

 西大戦洋地域の勢力均衡は崩れ去った。圧倒的な海軍力で周辺諸国を睥睨していたエリザベス王国は、植民地帝国としての権威を失墜した。



 王国は、国民も領土も何もかもを喪った。列強諸国は、旧王国領の海外領土を併合しようと企むだろう。熾烈な植民地戦争を繰り広げる列強諸国の勢力均衡は、否が応でも再編される。それも、日本国という新しい帝国の登場によって劇的に変更されるのだ。



※※



マルクヴァルト邦国:フォルクバンク宮殿



 君主は、大書記官長(侯爵)と軍事内局長(陸軍少将)を執務室に呼び付けていた。エリザベス王国海軍第1艦隊の壊滅は、首都陥落という情報に拡大されながら、周辺諸国へと伝播した。



 当然、列強諸国はその情報に基づき、新たな対外政策を展開するだろう。大陸の軍事大国である邦国は、特にその動きが顕著だった。



 侍従武官から一報された君主は、すぐさま側近の参内を指示した。緊急を要すると言って、直ちに参内せよと命令したものだから、呼び出された側近達は息を整えながら執務室に現れた。君主は、側近達を労うと時間が惜しいとばかりに本題を持ち出した。



「これは、好機ではないか?」



 君主の問い掛けに対して、大書記官長は慎重に応じた。



「陛下、好機とは戦争の好機でしょうか?それとも、エリザベス王国に侵攻したらしい外国との国交でしょうか?」



「勿論、戦争の好機だ。国交の樹立は後回しで良い。それよりも、旧帝国領の回収と民族統一が重要だ」



「旧帝国領の回収と言いますと、例えば共和国が実効支配しているマクロン州とオランド州などでしょうか?」



「それも含むが…、それだけではない。全てだ。全ての旧帝国領と我が同胞達を開放するのだ。各国は、植民地戦争で疲弊しているだろう?


 軍事力を温存する我が国ならば、帝国を復活させる事もできるのではないか?」



「…旧帝国領の全てを併合するとなると、全ての周辺諸国を敵に回すという事になりますが?いくら邦国の陸軍力が強力だからと言って全ての周辺諸国を敵に回せるとはとても…」



「では、一部の旧帝国領ならば併合はできるか?エリザベス王国が復活するにしても、相当の年月がいるだろうはずだろう?我が国が勢力を伸張できる機会ではないか」



「間違いなく、他の列強諸国もこの情勢に乗じて領土を切り取ろうとするでしょう。我が国は、他国の動きをよく観察するべきです。今は、情報収集に徹するべきです」



 君主は、大書記官長の反論に対して憮然とした様子だった。何としても、旧帝国領を併合したいらしい。彼は、賛同を得ようと質問する相手を軍事内局長へと切り替えた。



「少将、君はどう思うか?領土を拡大する絶好の機会とは思わないか?」



「陛下、大書記官長の主張は軍人から見ても合理的かと。何も、全ての旧帝国領を回収する蓋然性はありますまい。


 しかし、一部の領土ならば、回収できるかもしれませんな。例えば、中小国程度の軍隊ならば、我が軍の敵ではないですから、一部の領土を回収できるかと」



「つまり、全ての領土の回収は難しいと?」



「えぇ、一部の領土で我慢すべきですな。欲を出して、滅んでは元も子もない」



「…どうしても、できないか?」



「陛下、焦りは禁物ですぞ。いくら邦国と言えども、周辺諸国の全てを敵に回せば、戦略的な包囲下に置かれかねない。少しずつ、少しずつ、併合を既成事実化すべきですな」



「例えば、共和国領の一部を切り取れないものか?」



 側近達は、一様に苦い顔をしたが、君主は止まらなかった。少将は、強い口調で反駁した。



「共和国軍は我が軍と比較しても、精強であります。我が国が『旧帝国領の回収』を名目とすれば、必ずや共和国は『自由の十字軍』を大義名分に逆侵攻作戦を開始するでしょうな。


 そうなれば、革命戦争の再現になるやもしれませんぞ。最大の君主制国家と共和制国家の戦争は、他の列強諸国に利益を与えるだけの結果に終わる可能性が高い。両国とも、強力な陸軍を擁するからこそ共倒れになりかねん。


 寧ろ、共和国政府と和解して、同盟を締結するのも手ではありませんかな?それに、共和国は先進技術の開発や経済成長が著しい。


 同盟国となれば、我が国は東部方面軍を削減し、余剰の兵力を西部正面・南部正面に配備する事もできる。そうすれば、旧帝国領の回収はよりやりやすくなる」



「共和国と講和せよと貴様は言いたいのか!ありえん!!ありえんぞぉ!!我が父祖の無念を忘れたか!!


 先代君主は、革命戦争で殺された!!あの薄汚い共和主義者が殺したのだ!!和解などできるはずもない!!同盟など以ての他だ!!!!」



 君主は、少将の持論に目を見開いて激高した。邦国政府の内部でも少将の様な同盟論者がいない訳でない。



 しかし、邦国の先代君主は市民革命の阻止を名目とした、あの革命戦争に自ら出陣し、戦場に散ったのだ。自ら共和国に侵略しておいて、その責任を共和国に求めるなど、犯罪の加害者が被害者に謝罪を要求する様なものだろう。



 そもそも、戦争は国家集団がお互いの生命を懸けた儀式だ。殺し殺されるのは、軍人の宿命だ。実父が殺されたからと言って、その感情に囚われる様では、一国の政治指導者としては相応しくない。



 少将は、君主の逆鱗に触れたが、大して気にも留めなかった。彼は、既に見限っているのだ。少将は肩を竦めると、喚き散らす君主から離れて執務室を後にした。



 少将が宮殿の前庭まで歩を進めると、後ろから声を掛けられた。大書記官長を務める侯爵だった。



「少将、君の同盟論だが、軍部ではどれくらいの支持がある?」



 彼は、侯爵の真意を図りかねた。侯爵が共和国との同盟論に前向きなのか、それとも咎める意図があるのか分からない。侯爵の意図を確かめる為にも、彼は質問を質問で返した。



「侯爵は、共和国との軍事同盟に賛同されると?」



「それも選択肢の一つだろう。今でこそ敵同士だが、昔の戦争では何度か共闘している。どうかな?これ以上は私の馬車の中でしようじゃないか。陸軍省まで送っていこう」



 少将は侯爵の御礼を述べて、同乗することになった。



 車内は少将と侯爵の二人だけだった。侯爵の従者は、他の馬車に便乗しているらしい。先に口を開いたのは、侯爵だった。



「先程と同じ質問になるが…、軍部の同調者は多いのかな?」



 少将は、直ぐには答えなかった。



「安心したまえ。この車内では、一切の秘密は漏れない。そういう造りになっているからな」



「…侯爵は、同盟も有り得ると考えているのか?」



「その通り。我が国と共和国が手を結べば、勢力圏の相互不干渉と再編も容易だろう。いい加減、我が国は拡張をやめるべきだ。


 領土の拡大というものは、慎重の上にも慎重を重ねて行うべき国家事業だというのに、陛下ときたら冷静さを欠いておられる。自ら親征したいという欲求が強過ぎる。


 今の邦国に必要なのは、戦争でなく内政の安定化だろう。領土を切り取るゲームをしている暇があったら、共和国との通商を拡大して、国富を貯めるべきではないかな?」



「なるほど…、侯爵の考えは良く分かった。自分の同盟論に同調する軍人は、軍部に相当数いる。陸軍大臣や西部方面軍司令官などがその代表だ。


 しかし、兵力を削減されるだろう東部方面軍司令官は、強硬に反対するだろうな。軍部でも、共和国と再戦するべきか、それとも同盟を締結すべきか、意見が分かれているのが現状だ。


 それに、同盟論者の中でも意見は更に割れている。共和国と軍事同盟を締結した上で、その他の列強諸国に侵攻すべきだとする論者も少なくない。言わば、西大戦洋地域というパイを我が国と共和国の二カ国で切り取ろうという事だな」



「つまり、軍部でも意見は纏まっていないと?」



「そういう事だ。それに、共和国に恨みを持つのは陛下だけではない。あの戦争を経験した退役軍人や遺族の意見も無視はできない。


 そうした不満が、議会開設の要求へと繋がる恐れもある。共和国と同盟関係になれば、我が国の政治制度は否応なく変化を求められるだろうな。


 共和制への転換とまではいかなくても、公選議会の設置や、新憲法の制定ぐらいは有り得るかもしれん。特に、国内の共和派が共和国と内通する可能性も高い」



「軍部は、共和国との再戦の可能性をどの程度だと見積もっている?」



「正直な所、分からない。開戦の可能性が高いとも言えるし、低いとも言える。両国の領土問題だけに着目すれば、開戦の可能性は極めて高いだろう。


 しかし、そこに両国の戦力比較を加えれば、仮に戦争をしても膠着状態に陥る事が予想される。


 特に、ルペン陸軍は、我が国からの侵攻を見据えて、堅固な防御陣地を築いている。革命戦争の時もそうだっだが、奴らは『国土の防衛』という状況下では、粘り強く持久してみせる。我が国も国民軍ではあるが…、共和国軍の士気は異常に高い。


 彼らは共和国の理想に殉じる事を誇りにさえ思っている。まるで宗教戦争じみているが、だからこそ精強な軍隊を維持できるのだろう。


 全く、敵ながら天晴れな連中だ。こればかりは、実際に矛を交わさないと理解できないだろうが」



「君は、共和国と開戦しても、労力の無駄だと言いたいのか?」



「あぁ、きっちりと防御を固めた士気の高い軍隊に突っ込むなど、狂気でしかない。やるなら、防御の手薄な国家を攻撃するべきだというのに。


 それが分からない馬鹿が世の中には多過ぎる。尤も、その馬鹿な連中は軍部にも大勢いるが」



「しかし、主戦派の主張にも一定の合理性があるのではないかな?エリザベス王国に対する侵攻によって、この地域の勢力均衡は崩れかかっている。


 各国は、火事場泥棒を試みようとするだろう。我が国が共和国や周辺諸国に侵攻して、機先を制するという考えも分からないではないのだ」



少将は、侯爵の反論に腕を組んで鼻を鳴らした。



「他国が火事場泥棒をしたければ、そんなもの放置してしまえば良い。確かに、国際情勢の変化には迅速に対応するべきだが、だからと言って戦争政策に頼るなど安直過ぎる。


 対外政策というものは、熟慮して決定すべきだというのに、陛下は拙速と浅慮の違いが分からないらしい。共和派が君主制を批判するのも、頷けるというものだ」



 彼の言葉は、君主に仕える軍人としてはだいぶ過激だった。要するに、自らの君主を無能だと痛罵しているのだから。侯爵は、君主の側近中の側近である彼から王政に対する批判が出た事に、少しばかり驚いて見せた。



「拙速と浅慮は大して違いはないのでは?」



「いや、大違いだ。少なくとも、拙速というものは時間の大切さを理解しているが、浅慮はそれすら理解できない大馬鹿者だな。


 『戦争は、陣地を取り戻す事はできるが、時間は取り戻せない』という軍事学の金言は、他の全ての事柄にも言える」



 侯爵は少将の言い分に、なるほどと相槌を打った。



※※



マルクヴァルト邦国:陸軍省



 大書記官長と軍事内局長の二人を乗せた馬車は、正面玄関の車寄せに車体を滑らせた。少将が降車すると、侯爵を乗せた馬車は帰路についた。少将は、衛兵の敬礼を受けながら、陸軍大臣の執務室を目指した。



 執務室には、陸軍大臣と軍事内局長の他に、兵站総監や砲兵総監などの陸軍高官が集結していた。彼らは、共和国との同盟を目指す派閥である。



 但し、同盟論者と言っても、その内訳は実に様々で、邦国の勢力圏を維持するのか、それとも拡大するのか、勢力圏を拡大するのならば、中小国を併合するのか、あるいは列強諸国をも併呑するのかで更に意見が割れているのが現状だった。



 「共和国との同盟」は彼らにとって飽くまでも手段であって、目的などではないのだ。だからこそ、各々の「目的」が異なるのも仕方ない。陸軍大臣は、軍事内局長に対して君主のご機嫌を訊ねた。



「陛下の様子はどうだった?相変わらず、喚き散らしていたのか?」



 陸軍大臣の声音には、若干の軽蔑が含まれていた。



「あぁ、それはもういつもの通りだった。沈黙を保っているかと思えば、いきなり叫びだして…あれが、いわゆるヒステリーとかいうものなのか。


 陛下はえらく、精神が不安定な様だ。これは飽くまでも私見だが…、陛下は執務能力が欠如している。いい加減、皇太子殿下に譲位すべきだろうな」



 陸軍高官の一同は、軍事内局長の報告に呆れたり、嘲笑を浮かべたりして見せた。君主の精神状態が悪化しているというのは、予想通りの結果ではあったが、実際に報告を受けると改めて侮蔑の感情が沸々と湧いてきた。兵站総監が呆れながら、宮中の様子について訊ねた。



「陛下は、一体いつ皇太子殿下に譲位するのか?宮中では、譲位について噂になっていないのか?」



「…陛下は、一部で譲位するべきという意見に対して神経質になっている様だ。宮中では、女官達がそういった噂をしているが、所詮は噂話の一つに過ぎん。陛下の日頃の言動を鑑みるに、恐らく、皇太子殿下に譲位しようなどとは微塵も考えていないだろうな」



「つまり、自らの手で親征したいという方針は相変わらずだと?」



「恐らくは、その通りだろう。共和国に対して親征を行う事で、父王に対する血讐とするのだろうな」



「…今の時代は、フェーデ(私権を回復する為の実力行使)が盛んだった中世ではないのだぞ?君主が国軍を用いて私戦を行うなど反逆罪に悖る行為だ」



「だが、法的には、陛下に開戦の権限がある。我が軍が、陛下の軍隊である以上、陛下の裁可は必要だ」



「議会や他省庁は何と反応している?」



「議会は、共和国への侵攻に協賛するらしい。海軍省と外務省も賛成に回るはずだ。つまり、共和国との同盟を支持しているのは、大書記官長と陸軍省の一部と言った所か。侵攻論者に比べると、同盟論者は些か勢力で見劣りするな」



「全く馬鹿げた事だ。侵攻派は、戦力の比較もできないのか?我が軍が共和国に侵攻した所で、小康状態に陥る事ぐらい予測できるだろう。


 それに、邦国の敵は共和国だけではない。旧帝国領の諸国も潜在的な敵国だ。


 邦国が共和国へと侵攻すれば、周辺諸国は邦国へと軍勢を進めるに違いない。それならば、この微妙な勢力均衡を維持する方が、遥かに費用が少ないし、最も効果的だろう」



「いや、侵攻によって利益を享受できる連中がのさばっている以上、連中にとっては最も効果的な手段なのだろう。


 事実、銀行家や鉄鋼会社などが、侵攻派にすり寄っているらしい。マクロン州とオランド州は鉄鋼資源に恵まれているから、その分け前を頂こうという算段だろうな」



「要するに、我々の様な同盟派は少数という訳ですな。まぁ、国民感情や輿論という次元でも、侵攻論は抗い難い魅力を放っていますからな。わざわざ、敵国との同盟を主張する我々は、変人なのでしょう」



 陸軍の長老である砲兵総監がそう愚痴を溢して、一同は苦笑を漏らした。



「まぁ、やりようはいくらでもある。やろうと思えば、どうとでもなるだろう」



 侵攻派に対して、同盟派は劣勢であったが、陸軍大臣はそれほど心配していなかった。いざとなれば、陸軍の組織力によってクーデターを起こせば良い。同盟に前向きな皇太子を君主に推戴し、軍事政権を発足すれば良いのだから。



※※



マルクヴァルト邦国:東部方面軍



 邦国の東部国境は、いくつもの係争地帯を抱えている。特に、現在は共和国領であるマクロン州・オランド州は、幾度となく戦乱に飲み込まれて、支配者をころころと変えた。



 東部正面を担務する東部方面軍は、旧帝国領であるマクロン州・オランド州・シルヴァニア公国の奪還を悲願に据えており、その為に、邦国の4つある方面軍の中でも35万人という最大の兵力を誇る。



 東部方面軍と対峙する共和国第1野戦軍の兵力は、30万人であるから、兵力差は1個軍団程度しかない。



 一方、同じく東部方面軍と接するシルヴァニア公国軍の兵力は約15万人で、邦国軍の兵力には大きく劣るものの、第1野戦軍と公国軍を合わせれば、総兵力は45万人となり、東部方面軍の兵力を1個軍程度上回る。



 つまり、共和国にしろ、公国にしろ、両国にとって軍事同盟を締結する事は、自国の安全保障を確立する上で、極めて重要な対外政策だと言える。それにも関わらず、両国の軍事同盟が成立しないのは、ひとえに、共和国政府側の外交姿勢に原因があった。



 共和国政府の国防次官が揶揄した様に、外務省と外交官は、自らが『自由の十字軍』の一員である事を堅固に信じ、啓蒙主義の皮を被った自国の優越性を周辺諸国に喧伝している。



 共和国の周辺諸国は、殆どが君主制国家だ。自国の宮廷に出入りする共和国の外交官が、しきりに共和制や国民の自由を訴えて面白いはずがない。



 この時代にあって、宮廷外交の重要性は低下してはいたものの、その様な宣伝活動など歓迎される訳がなかった。共和国政府は、政治的イデオロギーに縛られるあまり、国益に基づく有効な外交政策を打てずにいる。



 一方、公国側の反応はどうかと言うと、こちらもあまり軍事同盟の締結には消極的だった。



 そもそも、シルヴァニア地方は、旧メルケル帝国に併合される以前は、独立国として存続しており、帝国に併合された後も、選帝侯国として領邦高権を維持していた。極めて独立性と自治権が強く、独立不羈の精神に富んでいる地域である。



 シルヴァニア地方の独立性を支えたのは、優れた良港と穀倉地帯をいくつも抱えて、それらを結ぶ道路や河川などの経済基盤と、帝国の有力な諸侯家門を輩出した閨閥、メルケル人とは異なる言語と文化だ。



 帝国が崩壊した直後、独立したマルクヴァルト邦国は、『民族統一』の大義名分を掲げ、旧帝国領の諸国に対して自国への併合を提案したが、シルヴァニア公国はこの提案を拒絶している。



 公国は、第一に旧メルケル帝国の分邦国として対等の地位にある事、第二に邦国は旧帝国の継承国でない事、第三にシルヴァニア人はメルケル人でない異民族である事を理由に反論した。公国の主張は全くその通りで、一つの瑕疵もなかった。



 民族統一というのならば、異民族のシルヴァニア地方を併合する根拠にはならない。邦国と公国は、それぞれ旧帝国の選帝侯国であり、領邦としての諸権利は同等であった。



 邦国が旧帝国を継承できる法的な根拠はなく、皇帝・帝国議会の何れの議決も得ていない主張に過ぎない。つまり、邦国が国是として掲げる民族統一は、領土拡大の口実でしかないのだ。



 併合を提案された諸国は、その見え透いた思惑に気付いてはいたが、圧倒的な軍事力を誇る邦国に対して、軍事力で劣る小国は無力だった。邦国は、それらの小国に対し、民族の保護を根拠として軍隊を進駐させて、併合の既成事実化を積極的に進めている。



 武力によって進駐された小国は、進駐軍の軍事力を背景とした邦国政府の要求を呑まざるを得なかった。しかし、そうして強引に併合するものだから、旧帝国領の住民は、邦国に対して反感を強める結果となった。



 東部方面軍司令部は、エリザベス王国海軍第1艦隊壊滅の報を受けて、西大戦洋地域の勢力均衡が崩壊した事を悟った。大戦洋は、その由来の通り、更なる戦火に包まれるだろう。「戦争の海」である大戦洋が平和になる事などないのだ。



 東部方面軍は、既述した通り、主に共和国領であるマクロン州・オランド州とシルヴァニア公国に対する最前線である。地域の秩序が崩壊するのならば、それは秩序の再編がよりやりやすくなるという事でもある。



 国際情勢の変化は、東部方面軍にとってまたとない機会だった。彼らの存在意義は、旧帝国領の回収なのだ。



 そうなると、共和国と公国の情勢について詳細に把握しておかなければならない。植民地帝国である王国の支配力が弱体化するという事は、その領土を手中に収めようとする動きが表面化するだろう。



 勿論、共和国と公国もそうした国際情勢の変化に影響を受けないはずがない。共和国は、最大の陸軍国家である邦国と、最大の海軍国家である王国の二大列強に挟まれた地理的な位置にある。それは、隣国である公国も似た様な状況だろう。



 もしも、王国海軍の圧力が緩和すれば、それに対抗する軍備と兵力を他国に対して差し向ける事ができる。その余剰となった軍備は、両国の仮想敵国である対邦国へと配分されるのは明らかだ。



 つまり、東部方面軍は、両国の兵力再編が完了する前に、侵攻する必要に迫られる。その上、両国が対邦国の軍事同盟を結べば、それだけで兵力は邦国を上回る事態に陥る。



 陸軍大臣の使者が、東部方面軍司令部を訪ねたのは、王国侵攻の情報を受けてからだいぶ時間が過ぎた頃だ。地理的には、北部にある首都よりも、王国に近い東部の方が速報性は高いから、対応の遅さは仕方がない。



 東部方面軍司令官(元帥)は、陸軍大臣の使者(大佐)を応接室に招き入れた。使者は、陸軍大臣の首席副官で、大臣の懐刀として知られている男だ。



 元帥は、大佐に対して階級が大きく離れているのにも関わらず、丁寧に応対した。大佐を軽んじるという事は、大臣を軽んじるという事だからだ。目の前にいる大佐を通して、大臣の元帥に対する評価は上下するだろう。



「閣下、急の訪問で申し訳ありません」



「いやーなに、気にするな。大臣閣下は息災かね?」



「えぇ、いつもの如く、ぴんぴんしています。部下としては、元気すぎて少々迷惑ですが」



「そうかそうか、それは何より。…ところで、緊急の訪問という事は、それなりの要件なのだろう?」



「はい、旧帝国領の回収についてです。閣下の意思を確認したく、こうして足を運んだ次第です」



「私の意思とは?私は大臣の命令ならば、喜んで従うのだが」



「実は…、陸軍省の一部では、共和国との同盟を目指す意見がありまして、それについての閣下の存念をお聞きしたく、参った次第です。大臣は、同盟によって邦国の勢力圏を再設定したいと仰っています」



 元帥は、大佐の発言を遮って確認した。最早、丁寧な対応などしている場合ではなかった。



「待て、同盟だと?共和国と講和しようというのか?どういう事だ?それは、我が軍の任務を知っていて発言しているのか?


 そもそも、東部方面軍は、対共和国戦線の統一によって誕生したのだぞ?もしも、同盟が実現すれば、我が軍はどうなる?手持ちの兵力が削減されるのは目に見えているだろう?」



「閣下の仰る通りです。しかし、一度ご再考下さい。もしも、同盟が成立すれば、相互不可侵協定によって、シルヴァニア地方への侵攻が容易になります。


 共和国領への侵攻は諦める事になりますが、そうするよりも、ずっと簡単に領土を拡大し、戦果を挙げる事ができるでしょう。


 仮に、従来の方針である共和国への侵攻作戦を発動したとしても、将兵の多大な犠牲によって頓挫するだけに終わる可能性が高いのです。それは、共和国軍と直接に接する司令官である閣下だからこそ、より理解できるはずではないでしょうか」



「…つまり、私の意思とは、同盟に賛成するか否かという事なのか?大臣は私が味方になるか、それとも敵になるか見極める為に、君を寄越したという訳か」



「確かに、賛否を確認せよとの命令は受けていますが、何も閣下が敵だとは考えていません。邦国の将兵は、全てが戦友です」



 元帥は、大佐の言い訳に鼻を鳴らした。



「戦友だと?戦友だと思うならば、この様な使者など送ってくるはずがないだろう。結局、軍部の権力闘争の一環という訳か。下らん、そんなものに私を巻き込むな」



 大佐は、元帥の態度に怯まなかった。こうなる事は、予想できた事だ。



「閣下を侮辱するつもりは、微塵もありません。ですが、共和国の脅威に備える閣下の意見は、無視できないものであります。


 いくら、大臣とその一派が同盟論を推進しようとしても、実際に方面軍を指揮統率する司令官が反対すれば、実現は低くなるでしょう。


 だからこそ、閣下の存念も確認しなければなりません。不愉快とは思いますが、政策決定の上で避けては通れません」



「確かに不愉快な奴だな。こちらが裏切るかもしれないと疑われているのだから。私は、そんなに信用ならないかね?」



「いいえ、そのような意図は全くありません。飽くまでも、確認です。疑っている訳ではないのです」



「だったら、こう言えば良い。『大臣は同盟を支持している。お前も賛成に回れ』とな。その一言で済む話だろう?」



「その様に閣下に対して要請する事は、一介の大佐には厳しいものです。閣下に命令するつもりはありません」



「あのなぁ、君と私は軍人だ。軍人の関係ならば、命令すれば済む事だ。君は、大臣の使者として私に面会しているのだろう?それなら、君が大臣を代理して、私に命令すれば良い」



「使者と代理人には、法的に異なる権限が付与されていますが…」



「それぐらい分かっている。私が言いたいのは、堂々と同盟に賛成しろ言えば良いという事だ。婉曲的な表現よりも、直接的な表現の方が分かりやすい。私に話が回ってきたという事は、大臣はもう腹を決めたという事だろう?ならば、私はその決定に従うだけだ」



「…もっと反対されるかと覚悟していたのですが」



「君は、私を何だと思っている。勘違いしている奴が多いが、私は軍人であって戦争屋ではない。国家の命令にはきちんと従うとも」



「ですが、もう一つ問題がありまして。どうやら、宮廷や政府では侵攻も止む無しという意見が多勢だとか。特に、陛下が共和国との再戦を強く主張しているのです」



「その政治情勢で、大臣は同盟に持ち込めるのか?」



「はい、どうやら大臣はそれほど心配していない様子です。何でも、陸軍の組織力があれば、どうとでもなるはずだと」



 陸軍の組織力という言葉が何を意味するのか、元帥は直ぐに理解した。状況如何によっては、軍事クーデターも辞さないという事を示唆しているに違いない。



「そうか…、大臣はクーデターさえ考慮に入れているという事だな?だから、同盟を締結する前提で、私に話を持ち込んだ訳だ」



「はい。自分が思うに、陛下は玉座に相応しくありません。寧ろ、皇太子殿下の方が統治者として優れているでしょう。陸軍は、皇太子殿下を君主に推戴する予定です。


 それに加えて、勅選議会を公選議会に改編し、新憲法を発布して、立憲君主国へと政治体制を変更させます。その為には、共和派や自由主義者とも手を結ぶ用意があると」



「なるほど。この機会に、人民が望む政治改革も併せてやってしまおうという意図だな?それにしても、皇太子殿下は、君主大権の制限に賛意されるのだろうか?」



「はい。そもそも、軍事クーデターを提案したのは、殿下ですから。殿下曰く、共和国の市民革命によって、絶対君主制の時代は終わりを迎えたのだと。だから、我が国は変わらなければならないと力説していました」



「そういう正論を言う奴に限って、独裁者になったりするものだけどな。まぁ、少なくとも、陛下よりは良い治世になりそうだ」



「閣下、ご冗談を…」



「冗談じゃないぞ。歴史上、幾度となく繰り返してきた事だ。まぁ、精々、殿下にも気を付ける事だな。


 殿下からクーデターの話があったという事は、それなりに政治的関心があって、野心があるという事だろう?もしかしたら、大臣は殿下に足を掬われるかもな」



 大佐は、まさかその様な事はあるまいと思ったが、心裏ではその可能性についても有り得ると納得している矛盾した感情に囚われた。



※※



ルペン共和国:総統府



 総統は、邦国公使館に勤める駐在武官(少将)の訪問を受けて、会談に臨んだ。少将は、会談に際して全権委任状を提示した上で、総統に対して、同盟の締結を持ち掛けた。邦国との軍事同盟は、以前から、少将が総統に対して非公式に要求していたものだったから、総統に驚きはなかった。



 もしも、少将から同盟の話がなされなければ、総統は、邦国への先制攻撃を主張する陸軍に同調していたかもしれない。邦国と同盟を締結するという手段が、頭の片隅に残っていたからこそ、総統は先制攻撃論を支持しなかったのだ。



 共和国にとって、邦国と開戦し、兵力を悪戯に消耗するよりも、講和し、同盟関係を結ぶ事の方が、国力の温存に繋がる。勿論、共和国の歴史的な敵国である邦国と手を携える事は、国内政治上の激しい抵抗を呼ぶだろう。



 国際政治上も、列強諸国同士の同盟締結は、既存の勢力均衡を刷新するに違いない。同盟締結は、即ち、西大戦洋地域の支配権を二つの大国が配分するという約束に他ならないのだから。同盟によって、両国は益々の繁栄を享受するだろう。



 しかし、両国と国境を接する小国にとっては悪夢だ。公式に両国の勢力圏を設定するという事は、それに付随する小国が両国の衛星国化されるという事でもある。



「いつから、駐在武官は大使になったのかな?」



「我が国の政府が公式に要請する事が憚られるからでしょう。それに、貴国にとっても非公式会談の方が、国内輿論の激化を鎮静化する上で良いのでは?」



 少将は、総統の皮肉に対して真面目に返した。総統は、少将の真面目腐った態度に少しだけ白けてしまった。



「貴国に、我が国の輿論を心配して貰う必要はない。同盟締結に反対する勢力は抑え込めるだろう。寧ろ、貴国の輿論の方が心配なのだが?」



「総統閣下、ご心配なく。新聞社は事前に検閲を布いていますし、いざとなれば、民衆の暴動を発生させて、混乱を作出する事もできますから。国家の改造には、多少の流血は止むを無いでしょう」



「それではまるで、革命だな。急進的な改革は、陸軍の保守派からも反対されるのではないのか?」



「そもそも、同盟論を唱える陸軍大臣が、保守派の代表格ですから。保守派とて、政治改革の必要性は痛感しているでしょうし、保守派の造反を陸軍大臣が許すとも思えません」



「つまり、カウンター・クーデターの心配はないと言う事か?」



「はい。仮に皇太子のクーデターに対抗したとしても、他の王族を担ぎ出す事は難しいかと。心配があるとすれば、海軍司令官の王子元帥殿下ですが、海軍の能力では陸軍には対抗できません。


 国内でクーデターを起こす能力があるのは、現時点では陸軍だけでしょう。教会勢力の動きが少し気になりますが、同盟派の脅威になる程の勢力ではありませんね」



「…そうか。貴国の事情に踏み入って申し訳ないが、クーデター政権と合意を結んでも、それを反故にされたら、こちらも困るのでね」



「閣下のご心配は、御尤もであります。ですが、我が国が立憲君主国となり、より民主的な政府となれば、貴国との政治的な価値観は以前よりも遥かに近接するはずです。そうなれば、同盟は益々強固な絆となるでしょう。


 両国の同盟は、短期間の内に破棄される様な類のものでなく、今後、百年間に渡る両国の友好関係と繁栄を約束するに違いありません」



「私もそうなる様に祈るばかりだよ。ただ…、我が国と貴国の繁栄は、周辺諸国にとっては悪夢以外の何物でもないだろうがな」



「国家というものは、他国の不幸で生きている様なものです。勿論、個人や企業にも言える事ですが」



「確かに、少将の言う通りだ。エリートには、他国を踏み台にしても自国を繁栄させる義務がある。本当に、貴国が敵国とならない事を願うばかりだ」



 二人は会談が終わると、馬車に乗り繁華街へと消えていった。



※※



マルクヴァルト邦国首都:ヴァーツェン市



 ヴァーツェン市は、180万人の人口を抱える邦国の最大都市である。同市は、君主制を支える強力な官僚機構を持ちながらも、同時に、共和派や自由主義運動が盛んであった。



 君主制の根拠地でありながら、共和主義者や自由主義者が跋扈するのは、同市にある大小無数の教会を管理するボイテル大司教の保護があるからだ。



 ボイテル大司教は、元々、旧メルケル帝国の聖界諸侯で、帝国大書記官長の官職を代々受け継ぎ、皇帝選挙の事務を管理する立場にあった。旧帝国の崩壊に伴い、大小無数の領邦は独立するか、大領邦に併合されるかしたが、ボイテル大司教領の運命は、後者であった。



 旧マルクヴァルト選帝侯国が邦国として独立すると、その軍事力を用いて、周辺の中小領邦に進駐し、併合を既成事実化した。大司教は、聖界諸侯として絶大な権威を有していたが、その足元は決して盤石ではなかった。



 封土としての大司教領は、一つの司教座都市と周辺の小都市・農村からなる。それに加えて、司教座都市は、常に大司教から独立する事を企み、皇帝に接近していた。こう言っては難だが、その権威に比して領邦はさして大きくない。



 それも、邦国の中にぽつんと陸の孤島の如く位置していたから、歴史的に軍事的な従属を強いられる関係にあった。邦国は、大司教領の独立を認めず、自国軍によって占領下に置き、ボイテル州という単なる地方自治体に格下げした。



 これに対して大司教は、邦国への編入を認める代わりに、地位の保障を邦国政府に要求した。邦国政府は、併合を円滑に進める為に、大司教の要求を受け入れ、首都の大聖堂を彼に寄進した。大司教は、聖界諸侯としての義務から解放されて(あるいは奪われて)、聖職者としての職務に邁進している。



 共和国に対する反革命戦争に於いて、父王を亡くした皇太子に王冠を授けたのも彼の仕事だ。彼が、共和派と自由主義運動に手を貸すのは、旧帝国に対する郷愁があるからなのかもしれない。



 帝国大書記官長・聖界諸侯として強力な政治力を誇った彼の権力は、邦国の軍事力によって喪失した。その政治権力を、公選議会の設置や新憲法の制定という形で、復活させようという意図である。



 幸いな事に、旧帝国領の諸国と共和国はまだ幼い国家だ。老練な政治家でもある彼にとって、付け入る隙は十分にある。実際に、彼の努力は共和国の市民革命という形で実現したのだから。



※※



ヴァーツェン市:大司教座聖堂



 市の中央広場は、1個軍団をすっぽりと収容できる程の空間を住民に提供していた。市場を開いて商売をする者や、大道芸で身を立てる者、読書に没頭する者など、市民は思い思いに過ごしている。広場に面した大聖堂へと向かう巡礼者の群れも、市民にとっては見慣れた風景の一部だった。



 聖堂参事会付きの司祭団が、巡礼者の群れを次々と捌いていく中、ボイテル大司教は、巡礼者団体の代表の表敬を受けていた。この巡礼者団体は、単なる宗教組織というだけでなく、大司教に、物的にも精神的にも支援を受けた自由主義運動の隠れ蓑にもなっている。



 大司教は、聖俗を問わず、異邦人であるかも問わず、とにかく自身の政治力を復活させる見込みのある政治団体を支援したり、又、組織化を支援したりして、国内外に影響力を拡大していた。彼は、共和国を含む周辺諸国の政治団体や宗教団体に、ゆっくりと己の触手を伸ばして、浸透を図っている。



「猊下、日頃からのご支援、誠にありがとうございます。猊下の支援によって、組織は益々巨大化して、民衆の支持も拡大しております。特に、司祭や助祭などを始めとする教会の皆様には、随分と助けられています」



「うんうん、そうか。私は、君達に支援を惜しまないとも。教会は、市民の自由を擁護すべき立場なのだからな。市民の自由を抑圧する圧政は、神の御意思の下に、正さねばならん。専制君主の時代は、終わったのだ」



「猊下の仰る通りでございます。民衆は、自らの財産と地位に相応しい政治参加を求めております。勅選議会などという、君主によって極めて恣意的に任命される議会などでなく、自らの選挙によって国民の代表を議会に送り込むべきなのです。そして、市民の権利と自由を防衛する憲法の制定も為されるべきでしょう」



 大司教は、巡礼者団体代表の民主政に対する渇望を内心では聞き流していた。彼にとって重要なのは、聖界諸侯として君臨していた、かつての政治権力を復活させ、教皇に対抗できるだけの教会勢力を築く事にある。



 教会勢力の栄光は、栄枯盛衰の歴史をなぞり、その権勢と名誉は、大分落ちぶれてしまった。強力な常備軍と官僚機構を備えた国家権力は、国民生活の隅々まで、その支配を強めている。



 啓蒙主義や合理主義、あるいは産業革命以来の機械論的な思想運動は、教会が独占していた神秘の領域を狭めている。このまま、教会勢力が何らかの手段と対策を講じなければ、宗教と教会は、やがて過去の遺物として歴史の隅へと追いやられるに違いなかった。



 そこで大司教は、教会を『神秘と奇蹟の独占者』から、『民主政と自由の擁護者』に生まれ変わらせて、再び、歴史の表舞台へと復活する事を目論んだ。



 歴史ある教会が、歴史の流れに身を任せて滅ぶなど、あってはならない。




※※



ヴァーツェン市:皇太子府



 陸軍大臣とボイテル大司教の両者は手を結んで、皇太子のクーデターが成功する様に、謀略を張り巡らしていた。



 クーデターを成功させる為には、正当性と根拠が必要だ。陸軍部隊を首都に展開する上で、一応の理由が必要となるから、軍隊の国内出動に根拠を与える何かしらの擾乱を発生させるべく、大司教は、自身の影響下にある自由主義運動の諸団体を用いて、その状況を誘発させようと策動している。



 近衛連隊の治安出動と、民衆の暴動は、クーデターを正当化する為の自作自演でしかない。



 皇太子は、自身の宮廷と官庁を兼ねる皇太子府に、クーデターを主導する陸軍大臣・ボイテル大司教・自由主義政党指導者の三者を招いていた。但し、自由主義政党の方は、宮廷を参内するには外聞が悪いから、飽くまでも、大司教聖堂の巡礼者団体を装っている。



 皇太子は、啓蒙主義の信奉者で、密かに自由主義運動への共感を覚えていた。彼は、君主制から共和制に転換する事には反対だが、絶対王政から立憲君主制へと転換する事には、大いに賛成している。



 彼が王族男子の伝統として、士官学校の門を叩いて以来、平民出身の士官候補生や将校と寝泊まりし、学業や訓練に励んだ青春の記憶が、民主政に対する理解を促しているのかもしれない。



 革命戦争の事実上の敗北は、邦国の軍制に少しずつではあるが変化を与えた。それまで、士官学校に入学する少年と言えば、軍国主義の伝統と慣習を先祖から受け継ぐ地主貴族が大半を占めていた。革命戦争の結果は、貴族将校に大きな衝撃と価値観の転換を強制した。



 平民将校が指揮する共和国軍に、伝統的な君主制国家の軍隊が撃退されたのだ。貴族は、平民が持つ大きなエネルギーを認めざるを無かった。



 いや、平民という階級よりは、一つの国民意識という強烈な国家主義と民族主義が、空想世界から、現実世界へと巨大な奔流となって歴史を動かし始めている事は、誰の目にも明らかだったからである。



 価値観のコペルニクス的転回を迫られた邦国軍は、平民の士官学校入学を大幅に拡大した。貴族による将校の独占は、没落した貴族・騎士階級に対する経済的な救済という側面もあったから、貴族階級の反対がない訳では無かった。



 しかし、最早、膨張する一方の国民軍の士官を貴族階級だけで独占する事など出来るはずもない。当代の君主は、この状況を大いに嘆いたというが、時代の流れは、軍制改革を要求した。君主は、嫌々ながらも、軍制改革に着手する命令書に裁可を下したという。



 尤も、没落した貴族将校よりも、成り上がりの平民将校の方が、伝統的な貴族生活を楽しんでいる様は皮肉であるが。大司教が、一同を代表して皇太子に挨拶を述べた。



「殿下、お久し振りでございます。祝日は是非、我が教会にお越し下さいませ」



「猊下、教会へ足を運ぼうとすると、途端に体調が優れなくなるのです」



 大司教の当て擦りに、皇太子は決まりの悪い表情を浮かべた。皇太子は、熱心な信者ではない。啓蒙主義を奉じる彼からすれば、宗教は旧時代の悪弊そのものだ。



 自身の政治目的の為に利用する事はあっても、積極的に関わり合いたい相手ではない。大司教もそれが分かっていながら、敢えて求めただけだ。陸軍大臣も皇太子に賛同した。



「殿下に同じく、私も教会に行くと体調が悪化する口でしてな。子供の頃は、良く母に無理やり教会へと連れて行かれたものですな。ですが、聖歌隊の修道女に一目惚れしましてね。


 そこから、足繫く教会に通う様になった事もありましたな。修道服の上からも分かるぐらいの巨乳が素晴らしかったなぁ。一度で良いから、揉めば良かったと後悔している…」



 陸軍大臣の告白に、一同は大きく頷いた。彼らは暫く、巨乳の修道女について熱く語り合った。皇太子は、自由主義政党の代表に尋ねた。



「ところで、民衆の暴動はきちんと制御できるのだろうか?」



「はい。党には専属の規律維持部隊がいますし、教会の修道騎士や内務省の私服警官も借り受けています。あまりにも暴力活動が本格化すれば、出動した近衛連隊も本気で鎮圧せざるを得ないですから、クーデターに割く兵力は大きく削られてしまいます。ですから、近衛連隊が鎮圧に移る一歩手前まで抑え込みます」



「改めて、確認したいのだが、君は本当に共和制よりも立憲君主制を望むという事か?」



「えぇ、その通りです。隣国の市民革命では、随分と血が流れました。出来る事ならば、流れる血は最小限であって欲しい。国民の自由権が保障されるというのならば、君主制とも共存できる道が必ずあるはずです」



 陸軍大臣は、政党代表の意見に付け加えた。



「彼の意見に、私も賛成だな。それに加えて、仮に我が国が君主制から共和制へと転換すれば、今まで我が国が併合してきた旧帝国領は、独立運動を強める結果を招くだけだろう。


 我が国が君主を喪えば、併合の根拠としている『旧メルケル帝国の継承国』という資格も剥奪される。『民族統一』を掲げて、旧帝国領の回収を続行する事もできるが、併合の正当性は著しく下がるだろう。


 それよりは、周辺の小国を衛星国化するに留めて置いた方が、周辺諸国の反感も少なくて済む」



「大臣は、これ以上の併合には賛成していないと?」



「殿下、我が国はもうこれ以上の膨張をすべきではありません。周辺諸国に進駐している経費は馬鹿になりません。軍事費と治安維持の費用は天井知らずであります。


 これ以上の膨張政策は、財政破綻へと突き進むだけでしょうな。国家経営の観点から、経済力に見合った財政均衡を取り戻さなければ、結局、残るのは膨大な退役軍人と借金だけです。王室に浪費癖が無い事が幸いですな」



「つまり、経済危機や破綻も有り得ると?」



「殿下の仰る通りであります。それも、多いに有り得る事態です。この情勢下で経済危機に見舞われた場合、穏健な立憲君主制への移行は、最早、不可能です。


 そうなる前に、我々憂国の士が事態を解決する他にないと確信するに至ったからこそ、こうして謀議しているのです」



「我が国の財政はそこまで悪化しているのか?私も予算と歳出には目を通しているが、悪化している様には感じられないぞ」



「殿下も含めて、官僚も、軍人も、そして国民も国債を発行する事に慣れてしまっているのです。現状、国債は歳入の2割以上を占めていますが、歳出に於いては、3割近くが国債の償還費に充てられております。


 借金をするという事そのものは悪い事ではありませんが、それは飽くまでも返済できる事が前提であります。


 税収があまり増加していないというのに、このまま歳出が拡大すれば、何れは破綻します。だからこそ、私は最大の敵国を同盟国に変えて、軍隊の大幅な再編をするべきだと主張しているのです」



「大臣は軍縮も視野に入れていると?」



「兵力の上では軍縮ですが、軍制改革を断行する事により、我が軍の火力と機動力は増大するでしょうな。


 特に、共和国の軍事技術は喉から手が出る程に欲しい。通商拡大によって、兵器の輸入が再開できればなお良いですが」



「…なるほど。だが、共和国と再戦する可能性もあるのだろう?」



「それは当然でしょう。所詮、平和は戦間期に過ぎないのですから」



 陸軍大臣は、吐き捨てる様に言った。共和国との同盟は、邦国にとっては飽くまでも次の戦争への準備でしかない。



 皇太子に指摘されるまでもなく、勿論、共和国と再戦する可能性も十分にある。それでも、同盟締結は、邦国の内政基盤を強化する為の時間稼ぎにはなるだろう。



※※



マルクヴァルト邦国:ヴァーツェン市



 ヴァーツェン市は、熱気に包まれていた。共和主義者や自由主義者が、公選議会の設置と憲法の制定を求めて、市内各地で暴動を起こしているのだ。普段は買い物客で賑わう市場は、シュプレヒコールを叫ぶ民衆によって埋め尽くされている。



 陸軍大臣は、首都に配備された6個近衛連隊に対して、市内の要所を抑える様に命じた。命令書には、偽造された国璽が押印されていた。



 表向きの理由は、市内各地で発生している自由主義者の暴動に対する治安出動である。それが、クーデターによる偽装命令であると知るのは、一部の陸軍高官と、陸軍大臣と内通する自由主義運動の指導者のみであった。



 しかし、暴動鎮圧が名目であるのにも関わらず、近衛連隊の動きは、政府機関や住民を保護するというよりは、それらを監視下に置く様な部隊の配置を行っている事から、官僚や住民の中には、薄々、これが陸軍によるクーデターだと勘付く者もいた。



 治安出動した近衛連隊は、すぐさま暴力に訴えて暴動を鎮圧しようとはしなかった。一方、暴動を起こした民衆側もそれぞれが指導者に率いられている組織的な行動で、暴力的な行動に出たのは僅かに留まった。



 商店や役所を襲撃して、金品を略奪しようとする様な輩は、自警団風の連中が勝手に取り締まっている。



 民衆の暴動を護衛するかの様に寄り添う自警団は、実際には教会の武装警備員であったり、内務省の私服警官であったりして、クーデター派の統制が及んでいる。クーデターに伴う流血は最小限にしたいという皇太子の意向が反映された結果だった。



 そもそも、国内の抜本的な改革と、共和国との同盟締結という政治目的を達成する為には、国民の流血は抑えなければ、本末転倒というものだろう。



 共和国の市民革命は、歴史上の偉大な出来事ではあるが、それに伴う民衆の犠牲と流血は膨大な数に上った。その失敗した点を受け継がずに、政治体制を転換するには、やはり国民の流血は最小限にしなければならない。



 クーデター派の高官にとっては、自由だとか民主政だとかは、自身の権力闘争を勝ち抜く為の口実でしかないのかもしれないが、流血を拡大すれば、一体何の為にクーデターを実行したというのか。 国民の自由を掲げるからには、例え大義名分に過ぎずとも、クーデターの正当性を主張する為には、それに徹しなければならない。



※※



ヴァーツェン市:フォルクバンク宮殿



 皇太子は、宮殿を守備する第6近衛歩兵連隊の1個小隊を伴って、宮中に参内した。宮廷に勤める女官や職員は唖然とした様子で、皇太子一行を眺める事しかできなかった。皇太子は、父王の主寝室へと向かった。主寝室は、広い間取りの端に一つの寝台が置かれている質素なものだった。



 君主でありながら、豪奢な生活を良しとしないのは、質実剛健を旨とする軍国主義国家・マルクヴァルト邦国の有り様が、その寝室に凝縮されているからだろう。



 歴代の君主は、選帝侯国の時代から、一軍人として前線にその身を晒していた。ルペン革命戦争に於いて、前線の指揮を執って戦死した君主は、父祖の遺風に相応しい。しかし、皇太子にはそうした伝統が時代遅れに思えた。



 確かに、先祖が歴史に打ち立てた業績は誇るべきものだけれども、だからと言って自分にも前線で指揮を執る様に強制する父王の事を、心底、嫌っていたのだ。



 どちらかと言うと、学究肌の自分にとっては、軍隊生活など青春を犠牲にした辛い体験でしかなかった。何も、君主や王族が軍人である必要などない。軍事は、職業軍人と専門家に一任すれば良い。君主のあるべき姿とは、「君臨すれども、統治せず」である。



 皇太子が主寝室の扉を開け放つと、そこには、軍服姿の男が寝台に蹲っているだけで、他に人影は見当たらない。君主は、先代が崩御した時から、一人で寝室に籠る様になっていた。君主がこんな状態なものだから、皇太子が政務を代行する事も珍しくなかった。



 彼は、父王の姿を認めて、ただただ哀れに思った。そして、それは自分の未来を暗示しているかの様で、不気味な光景でもあった。「剣で栄えた者は、剣で滅びる」と諺は教えてくれるが、剣で滅びる前に、精神病で滅びるのではないか思ってしまう。



「陛下………」



 皇太子の問い掛けに、君主は答えなかった。代わりに、君主は虚ろな視線を投げ掛けた。君主は、皇太子一行の剣吞な雰囲気に大体の事情を察した。彼は、静かに結末を受け入れた。



 皇太子は、自身の正統性を確立する為にも、国王夫妻を弑逆するつもりだった。国王夫妻が生き残ってしまえば、復位の可能性が残るからだ。皇太子が軍刀を引き抜くと、君主は軍刀の反射光に目を細めて呟いた。



「これでようやく、父の下に行けるのだな…」



「えぇ、そうですね」



 これが最後の会話になった。皇太子は軍刀を水平に保つと、真っ直ぐに心臓を貫いた。



※※



ヴァーツェン市:大司教座聖堂



 大聖堂は、新しい君主を一目見ようと、市民で溢れかえっていた。宮殿から近衛兵に警護されて大聖堂へと入る皇太子を、民衆は歓声で迎えた。皇太子が大聖堂の奥まで辿り着くと、ボイテル大司教が待ち構えていた。大司教の傍には、司祭が侍立し、王冠を高く掲げている。



「殿下。何故、玉座を欲するのか?」



「国家の為、国民の為。そして、これから生まれてくる子供達の為に、私は玉座を欲する」



「それは、私利私欲の為ではないのか?」



「断じて、否。この身は、己の為でなく、国家の為に存する。国家の利益を追求し、国民の権利を擁護する事が、私の天命。私は、先祖の血統によって王位を継承するにあらず。国民の負託によって、王位を継承する」



「民衆よ!!市民よ!!異議のある者はいるか!!!!」



「「「「異議なし!!!!」」」」



 割れんばかりの歓声が、大聖堂を覆った。この儀式は、王位継承の度にしている儀式でしかない。それでも、民会で自分達の王を選んだ古代の選挙王制にまで遡るこの儀式は、かつてない程の熱狂を以て幕を閉じた。



※※



マルクヴァルト邦国:勅令第1号



余は、愛する臣民に対して、以下の勅令を布告する。



①勅選議会を解散する。各州の代表からなる議会を召集し、憲法を制定する。


②憲法の制定後、直ちに選挙を実施する。選挙は、公正を期すために、選挙管理委員会を各州に設置する。


③神のご加護の下に、臣民の諸権利は遵守される。政府と軍隊は、これを侵してはならない。


④君主大権は、大書記官長の助言によって行使されなければならない。



幸いなるマルクヴァルトよ、汝は平和を欲さん。



※※



ルペン共和国:政府発表



共和国政府は、マルクヴァルト邦国と以下の点で合意に至った。



①共和国総統は、共和国を代表して、邦国で行われた選挙の結果と憲法の制定を歓迎する。


②両国は、地域の平和を愛する大国として、相互不可侵の軍事同盟を締結した。


③両国は、個人及び法人の自由な経済活動を支持し、貿易協定を締結した。


④両国は、互いの政体及び政治制度の変更を要求しない事を確認した。


⑤両国は、軍事同盟に基づき、両国の何れに対する攻撃も、両国の体制に対する攻撃と見做し、反撃する権利と義務を負う。


⑥両国は、国境画定条約に基づき、シルヴァニア地方の分割に合意した。それに併せて、共和国領のマクロン州・オランド州の帰属が永久に共和国領である事を確認した。一方で、マクロン州・オランド州・シルヴァニア地方を除く、旧メルケル帝国から独立した諸国の帰属は、今後の協議によるものとする。

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