第5章② 軍政下の風景

ヴィクトリア市(バッテンベルク州):エリザベス総督府



 第二次世界大戦後、初の植民地を獲得した日本政府は、エリザベス王国をエリザベス植民地(日本領エリザベス王国)と改称し、同国の統治機構及び地方行政区画を再編した。



 広大な領土を誇る公領・辺境伯領などを州として再編し、その他の封土は州の管轄権に属するものと決められた。



 従って、有力諸侯の領地を植民地支配の中核拠点として整備し、周辺の荘園・騎士領も併せていつくかの大都市圏を構成している。



 各地方の中心都市は、交通の要衝を抑えた地域に建設されている為、占領軍を展開させる拠点としても使用できる。



 地方を統治する軍政長官には、当該地方を占領下に置いた師団長を充て、不足する人材は陸海空軍の将官をその官職に任じた。



 人口が多い地域の軍政長官は、中将に昇進させた師団長や国内の地域軍司令官を横滑りさせる形で人材を補充していた。



 防衛省・国防軍は、他省庁からの軍政長官の派遣を全て断り、植民地支配を機会に軍部の影響力を拡大させている。



 特に、国防軍にとって、強い政治力の獲得は悲願である。大戦の反省という名目で奪われた軍部の政治力を復活させる機会を虎視眈々と狙っていた。



 植民地総督は、A方面軍最高司令官を務める陸軍元帥が兼任し、総督の代理を務める政務総監は、防衛次官が兼任する。



 総督府の政府構成員(閣僚)は、4軍の将官が過半を超え、その他は関連省庁の幹部が出向する。つまり、植民地と総督府は、軍部が大半の権力を掌握した。



 軍部が要職を独占できたのは、占領政策の施行に当たって国防軍の軍事力が未だに必要とされたからである。



 日本軍の核攻撃から逃れた王国軍は、王国軍第41師団だけでなく、各地に駐留する近衛連隊や農騎兵連隊も含まれる。



 そして、東部及び南部に勢力を伸張する自治領の軍事力も温存されていた。



 これらの独立勢力を牽制、もしくは平定する為にも一定の軍事力は必要であったし、何よりも、本来の目的である食料・資源を日本国に輸入する上で、植民地の治安維持と、植民地を大陸の列強諸国から保護・防衛する役割が重視された。



 それ故に、方面軍は王国を占領下に置いた後も、解散する事なく、寧ろ、予備役の拡大によって、その兵力を大きく増強していた。35万人だった方面軍の兵力は、95万人以上にまで膨張している。



 そして、その多くの兵力を貧困層出身の兵卒で補填しており、政府は彼らの生活を保障する代わりに、都合の良い植民兵として労役を課している。



 屯田兵に毛が生えた程度の練度であるが、それでも現代の軍事技術で武装した彼らの大兵力は、占領軍の補助兵力として歓迎された。練度が低くとも、一応は占領軍の軍人であるから、占領地域に対して一定の威嚇力を備えていた。



※※



エリザベス総督府:定例長官会議



 総督府の会議室では、閣議に相当する定例長官会議が開催されていた。出席者の過半は軍服を着用し、四つ星の階級章を身に着けている。



 転移前であれば、大将のポストはごく少数の限られた指定席だったが、戦時体制に伴い大将ポストが急増し、方面軍による占領が開始されると、その兵力を統率する為に、更なる大将の増加が求められた。10人前後だった大将は、現在では30人以上にまで膨らんでいる。



 大将ポストのインフレが起こった所為で、その上位である元帥ポストも増員されて、陸海空軍の参謀総長、国家憲兵隊・沿岸警備隊の司令官も元帥に昇進した。



 そして国軍最高司令官である首相の軍旗は、五つ星から六つ星へと加えられて、さながら、元帥達を率いる首相は大元帥といったところか。現行法の規定では、大元帥なる階級は存在しないはずだが、軍旗の星を一つ増やす事で、国軍最高司令官の権威を誇示していた。



「我が軍の兵力は、95万人に増強されましたが、現地の治安維持を占領軍が一元的に担務している現状を鑑みると、必要とされる兵力には遠く及びません。


 国家憲兵隊から派兵された9個憲兵師団の兵力だけでは、最低限の治安維持すらままならない状況です。広大な国土を誇る以上、最低でも60万人以上の国家憲兵が必要とされるでしょう。


 しかし、我が国にそれだけの兵力を揃える事は、現状の国力から不可能です。従って、現地人、特に自治領の異民族・外国人を補助兵ないしは補助警察官として採用・訓練する事を提案します。彼らを警察軍として組織し、準軍事組織を新設する事で、総督府及び方面軍の負担を軽減できるでしょう」



 公安長官(憲兵大将)の提案に対して、司法長官(法務大将)が反駁した。



「憲兵隊はテロリストを育成したいのか?間違いなく、連中は反占領軍を掲げる武装勢力になるぞ?それとも、仕事をサボりたいだけか?


 確かに、少数民族をエリート化する事は、本国政府の基本方針だが、それは飽くまでも分割統治を目的としたものであって、テロリストを輩出する事を目的としている訳ではない。明らかに、中東地域に於ける米軍の失敗を繰り返す愚行だ。検討する価値さえない!!」



 司法長官は、力強く反論した。同じ軍人であるが、だからと言って完全に意見が一致している訳でもない。寧ろ、軍人長官達は、4軍の利益代表と化していた。



「警察軍の件は保留するにしても、我々が整備したインフラを警備する為には、やはり人員が足りません。兵站業務だけでなく、戦闘任務でも、PMC(民間軍事会社)の活用を視野に入れるべきです。民間企業に警備を委託する事で、警備費用の低減と雇用の創出も見込めるのでは?」



「PMCに現地の警備を委託するべきだと?傭兵は、我々の軍法・軍紀の埒外だ。ブッラク・ウォーター社が起こした事件を思い出すべきだろう。


 警察軍を設置するにせよ、PMCを利用するにせよ、何れにしろ、規律が緩み、事件になるのは目に見えている。我が軍からわざわざ、叛乱分子を育成し、犯罪者を生み出す必要などない!!」



「PMCの社員は、『傭兵』ではなく、『武装警備員』です。少なくとも、我が国の法制上は、そういった法解釈でしたよね?


 それに、事件を教訓として、PMCに対して、業法が整備されているはずです。我々、占領当局が彼らの行動を監督すれば、問題の発生は抑制できるでしょう」



「PMCが法律を遵守するとでも本気で考えているのか?連中は、そもそも我が軍の軍法に抵触した不良軍人の除隊組が多数を占めていたはずだ。


 そんな人間のクズみたいな連中に、治安維持など到底任せられない。現地人と民間企業に依存すべきではない!飽くまでも、警備の主力は正規軍であるべきだ!!」



「…司法長官の考え方は、時代遅れだ。現代の軍隊が民間企業や現地人を兵力として活用する事など、ごく一般的に行われている事だ。それこそ、人類が古代からやってきている事だろう?


 今や、兵站業務には民間企業の協力がなくしては成立しない。それと同じ様に、警備業務も民間企業の手を借りるべきだ」



「正規軍がPMCに依存する様では、最早、国防軍とは言えない。ただの義勇軍だ。一体、幾らの金銭を軍需企業から貰ったら、そこまで民間企業に肩入れできるのやら…」



「司法長官!!私が賄賂を受け取っているとでも言うのか!!私は、国益と効率を考えて提案しただけだ!!」



「それならば、結構。しかし、公安長官。私は君の汚職をいつでも事件化できるという事を忘れるな。いいか?他の連中も現地人と民間企業に依存する事だけは絶対にするなよ?それは、我が国の国益を長期的に損なう結果を生み出すだけだ」



 司法長官は、一般の検察官と同じく警察権・公訴権が与えられており、憲兵隊とは別個独立した捜査を行う事ができる。その職権は、法務大臣と検事総長を兼ねる役割を期待されたからであった。



 そもそも、彼が総督府の司法長官に任命されたのは、現地の法執行を独占する憲兵の暴走を危惧した首相と内閣が、高等軍事裁判所長官を務める法務中将を大将に昇進させた上で、国家憲兵を中心とする方面軍憲兵隊及び総督府公安総局に対するカウンター・パワー(対抗権力)として送り込んだ次第である。



 国軍最高司令官である首相から、直接に己の任務と役割の重要性を説明された彼は、責任感と正義感が強い自分を一層、奮い立たせ、総督府の手綱を握る為に、軍人・官僚の区別なく、汚職犯罪の捜査に邁進している。



 同じ軍人長官達からは、裏切り者として嫌われているが、彼はそんな事など構わず、大規模な綱紀粛正と汚職対策を断行している。



 植民地利権にありつきたい官僚連中にしても、不正を許さない司法長官の態度に辟易としていた。彼はあまり融通が利く方ではないのだ。だからこそ、首相と内閣は彼を司法長官に任命したのだろうが。



 司法総局及び植民地裁判所は、総督府の中にあって、もう一つの総督府といった感じの勢力を築いている。首相としても、総督府をいつかの権力グループに分散させる事で、本国政府の決定に逆らえない状態を作出する事を望んだ。



 特定の権力が総督府の意思決定の全てを支配する事などあってはならない。植民地の勢力均衡を維持する事でこそ、本国の安全と繁栄は守られるのだから。



「では、不足する兵力をどの様にして補うというのだ?更に予備役を拡大するとでも?」



「少なくとも、本国政府の意向は、安価な予備役を大量に動員する事が唯一の解決策だと聞いている。首相からも、職に焙れた貧困層の国民を奴隷同然に使役すれば良いと仰っていた。


 悪戯に餓死させるよりも、国家の為に死んでもらう方が効率的で、生産的だろう?日々の生活に困る国民を救済する事もできて一石二鳥じゃないか」



 司法長官の答えは、警察軍の案やPMCの案よりも、非情だった。彼が国家と首相に仕えている事を考えれば、何も不思議ではない。国家とは、国民の血肉と犠牲によって維持される。その原則と現実を、首相と法務大将が認識しているに過ぎない。彼の提案に一同は、沈黙を選択した。



「貴方達は、もっと、自分達が侵略戦争の当事者であり、それに加担する共犯者としての自覚を持つべきだな」



 司法長官が長官らを一喝すると、議長を務める政務総監が仲裁に入った。



「まぁ、今日の会議はここまでにしましょう。皆さん、来週の月曜日に集まって、この案件は持越しとします。それでは、解散ということで」



 定例長官会議は、本国政府の閣議が行われる火曜日・金曜日の前日に設定されている。重要な占領政策の最終決定を、首相と内閣に諮る為である。



※※



日本政府:正副官房長官会議



 第二次○○政権の事実上の最高意思決定機関である正副官房長官会議の本日の議題は、植民地に対する本国政府の支配力を如何に維持していくかという事であった。



 首相と内閣は、大日本帝国に於ける関東軍や、フランスのアルジェリア戦争の様な事態を引き起こす事を非常に恐れていた。



 植民地の治安維持という名目で、方面軍の兵力は今なお増強され続けている。国内の貧困層を中心とした予備役兵の招集と軍事訓練は、本土の日常的な光景になって久しい。



「総督府は、本国政府に対して更なる国家憲兵の増員を要求しています。併せて、現地人を主力とする警察軍の創設や、民間企業に軍務の一部を代替させる事も提案している次第です。


 しかし、方面軍の要求を完全に受け入れれば、本国と植民地の兵力は逆転し、仮に彼らが内乱の準備を謀議した場合、我が国はこれを鎮圧できるだけの軍事力を持たない事にもなりかねません」



「そうは言うが、植民地から食料と資源を輸入しなければならない本国政府の立場としては、結局、総督府と方面軍の要求を呑まざるを得ないのでは?現地の治安維持が優先される事は間違ってはいないでしょう。それに、方面軍が叛乱する前提で議論を進めるのは如何なものかと思いますが」



「やはり、国家憲兵でなく、国家警察を送りこむべきだった!我々は、国家憲兵隊を肥大化させすぎたのだ。そもそも、国家憲兵隊が創設された目的は、内務省の警察権力に対抗させる為だったはず。 


 それが今では、戦時体制に伴って、国家憲兵の権勢が内務省を押し潰そうとしている有り様だ!軍部の政治力を削るのは、今からでも遅くはない!!」



「植民地の利権は、防衛省とダイヤモンドを組んだ経産省・国交省・農水省が殆ど独占し、他省庁からの横槍を阻止しようとしています。我々がやるべきは、彼らの結束を緩めてやる事です。彼らの勢力の中に更なる勢力を作り、権勢を削ぐべきでしょう。


 更に、ダイヤモンドを突破する為に、続々と本国から人材を送り込みます。軍部の拡張によって不遇を囲っている外務省と内務省の情報機関を利用しましょう。


 彼らを植民地へと派遣して、徹底的に総督府の幹部達のスクリーニングをやるべきです。いざという時に、本国政府が手綱を握れる様に、しっかりとインテリジェンスを抑えるべきです」



「PMCだけでなく、民間企業の進出を更に認めれば、国内の冷え切った景気を上向かせる事もできるのでは?これ以上の景気の悪化は、財政状態を更に悪化させ、最悪の場合は財政破綻もしかねないほど危険な状態です。


 特に、軍事費・戦費の増大は天井知らずで、今も増え続けているのが現状です。折角の植民地なのですから、経済政策・雇用政策の観点からも、積極的に本国の国民と企業を移植させてしまいましょう」



「総督府と方面軍が本国に対して、蹶起した場合の対処計画ですが、まず周辺海域にパトロール待機させてある原子力潜水艦には、海軍特殊部隊の先遣隊と大量の巡航ミサイルが搭載されています。これらの水中に隠匿している原潜部隊と特殊部隊によって、素早く叛乱を鎮圧致します。


 あるいは、生物・化学兵器の使用も検討されている次第です。それから、大量の動員されている予備役兵を、復員令によって段階的に一般社会へと復帰させる事で、兵力の削減と厭戦気分の創出を行うオプションも有り得るでしょう」



「復員令を餌にして、予備役達の士気をコントロールすると?あるいは、職業軍人を主体とする正規師団と予備役師団を対立させる算段か?彼らには、本国政府が生活保障を付けているから、寧ろ、復員令を拒絶して、軍務にしがみつくのではないか?」



「いいえ、予備役の一部には既に厭戦気分と士気の低下が確認されています。特に、市街戦や治安維持作戦に就いている予備役は、職業軍人と比較しても高い精神疾患を患っているのが現在の有り様です。


 政府の生活保障を手放しても、戦地から本国へと帰国したいと願う将兵は、現役・予備役の区別なく、相当数がいる模様です」



「…現役・予備役の双方に精神病が蔓延しているというのならば、そもそも、軍人達だけで占領を行わせるのは酷だったのでしょう。


 彼らは飽くまでも外敵に対して戦うのであって、内側の敵と戦う様には設計されていません。特に、方面軍でCOIN(対叛乱作戦)の訓練を完了している部隊は極一部に過ぎないのが現状です。


 我々が、大した訓練も、必要な訓練も施さずに彼らを王国に送りこんで、この様な状況を招いた訳です。


 いい加減、占領軍を植民地防衛のみに専念させて、それ以外は、文官に占領統治を任せるべきです。現地で広がる戦闘ストレス障害や戦争神経症は皆さんが想像するよりも遥かに深刻なのです。


 このままでは、数十万人・数百万人単位で国民が精神病に罹患する事態にもなりかねません。今からでも、方面軍の一部を帰国させるべきです。そうでなければ、ますます、彼ら将兵の社会復帰は遅れる事になるでしょう」



「武官でなく、文官に占領統治ができるとでも?官僚連中も使えないだろ。寧ろ、総督を始めとした長官職には、私の様な政治家・国会議員を当てるべきだろう。


 自民党からも人材を送りこんで、事態の収拾を図る方が賢明では?軍人や官僚には、高度な政治判断など荷が重いだろう?総督には、是非とも栄転してもらい、大臣クラスの政治家を総督に任命するのが健全な判断だ」



「仮に議員を総督や長官に任命するとしても、国会と植民地の仕事を両立できるのか?」



「それは、国会法・内閣法の運用で如何様にもできます」



「いや、それだと、国会から出席を要請されたら、わざわざ本国まで出向く必要が生じるのではないかね?」



「緊急事態の体制下では、閣僚の国会への出席は免除されています。現在、我が国は戦時体制にある事から、この規定が適用されるかと。


 それに、仮に出席しなければならないのだとしても、テレビ会議システムやインターネット国会システムを活用すれば、採決や論戦にも参加できるのではないでしょうか」



「いっそのこと、新法を成立させて、植民地統治の法制を整備した方が良いだろう。そもそも、我が国の法体系では、占領行政を想定している規定が少ない。あるとしたら、軍法の一部に軍政長官の規定が置かれているぐらいか」



「内閣は独裁権を確立した訳ですから、『法律と同等の効力を持つ政令』を制定する事もできます。いちいち、国会の審議に掛けているほどの時間は、我が国には残されていません。国会の承認は、事後に得れば良いのです」



「国会の承認は、事前に得た方が良いのでは?あまり国会を蔑ろにもできませんし…何よりも、緊急権の濫用は、適正手続保障の観点から望ましくないのでは?」



「法の手続の話なら、そもそも、緊急権の発動は、正当な法律に基づいたものなのだから、何の問題もない。寧ろ、こういう問題にこそ権力を行使すべきでしょう」



「いや、私が言いたいのは、あまり強権的な事ばかりすると後々に禍根を残すという事で…」



 始めは、植民地統治と本国政府のコントロールを巡る議論だったのが、いつの間にか、法学の議論へと変化していた。



 喧々諤々の議論というよりも口喧嘩に近い官房副長官と首席補佐官の論戦に、首相は呆れ気味だったが、官房長官が制止に入った。


 どちらかというと個人主義的な官房副長官と、国家主義的な首席補佐官はいつも相容れない様子だった。官房長官が強引に彼らの話を遮った。



「とにかく、植民地の軍隊をどうするのかという話だ。総督府の要求通りに更なる増強を認めて予備役部隊を増派するのか、それとも、兵力を削減させて植民地防衛に任務を限定させるのか」



「精神病患者を本国に帰国できるものか。元々、予備役は植民地で磨り潰す予定だっただろう。今更、正義感を発露させる偽善ぶりを発揮させる必要もない。


 本国から棄民を送るから、植民地と呼ばれるのだ。植民地は、農場と流刑地として活用していけば良い。つまり、方面軍に対して更なる増派をする事で、本国の食糧問題を解消できるかもしれん。今は、一人でも多く、口減らしをして、中流階級以上の国民を守るべきだろう」



「いやいや、その様な手法ばかりを採れば、犯罪者予備軍を育成する様なものです。早急に、予備役を本国に召還した上で、方面軍の規模も最低限度まで縮小すべきです。


 我が国にこれ以上の戦争を遂行するだけの国力も財政もありません。軍縮によって、財政的な体力を早期に回復させるべきです。


 そもそも、植民地から輸入する体制は着々と整備されている訳ですから、これ以上の軍拡は必要ありません。国力を超越する軍事力の拡大は、我が国を亡国に進ませるだけです」



「そうは言うが、現地の治安維持も重要な役割だろう。これを民間企業や現地人に任せるのは論外だが、正規軍にやらせるのは、全域の平定も視野に入れた上で妥当ではないか。


 それに、不足していた弾火薬・爆弾の生産も増産体制に入っているのだろう?だったら、もう一回、空爆を再開させて、完全に戦争遂行能力を破壊してやれば良い。


 現地人の人口を更に減少させれば、犯罪の母数を物理的に激減させられるだろう。現地人の犯罪が問題だと言うのならば、連中を根こそぎ殲滅すれば良い」



「いえいえ、現地人の人口はこれ以上減らすべきではありません。寧ろ、攻撃目標と占領目標からも外れた小都市・寒村があるからこそ、犯罪を抑制できているのです。


 現地の治安を維持する上では、ある程度の政治共同体は必要です。一部の都市や自治領の司法制度と法執行能力が機能しているからこそ、占領軍は、現地人を抑え込めているのです。


 その事実を忘れてはなりません。我々の統治方法は、直接統治を基本としつつも、間接統治的な手法も既に活用しているのです。


 それがあるから、総督府は少ない人材を何とか遣り繰りできているに過ぎません。これ以上の戦略爆撃は、寧ろ、我が国の占領政策に悪影響をもたらすでしょう。


 現地人と信頼関係を構築する上でも、ある程度は彼らによる自治を尊重すべきではないでしょうか。わざわざ、上手くいっているものをこちらから破壊して、その負担を総督府が負う必要などないのです」



「方面軍を植民地防衛に限定するというが、そもそも、周辺の列強諸国の軍事力はそこまで脅威になるものだろうか。


 植民地帝国として周辺諸国を睥睨していた王国を我が国が打ち破ったのだから、喧嘩を吹っ掛ける様な真似はしないだろう。


 軽武装の国家警察や沿岸警備隊でも十分に対処が可能なのではないか。方面軍を撤退させて、自国の国力回復に回すべきだろう。


 方面軍を再配備するのは、我が国が完全に国力を回復してからでも遅くはない。軍事費を食料生産とエネルギー生産に振り分けた方が賢明ではないか」



「方面軍を植民地に駐留させているのは、何も植民地防衛の為だけではありません。植民地を我が軍の前方展開基地として利用し、ゆくゆくは、大陸諸国への侵攻拠点としても使える便利な位置にあります。


 植民地から大陸までは、凡そ1,650km程度しかありませんから、海上輸送や上陸作戦・航空作戦の基地としても活用できる絶好の地政学的プレゼンスを保持しています。


 これを利用しない手はないでしょう。国力を回復させるのは賛成ですが、だからといって、みすみす未来の果実を手放す必要もありません」



「予備役の招集と訓練は継続すべきです。彼らを食料確保の為に犯罪に走らせるよりも、軍役という仕事と時間を与える事で、余計な事をする手間暇を奪う事ができているのが現状です。


 言わば、既に犯罪者予備軍である彼らを社会に留めておく為にも、仮に方面軍を縮小ないし撤退させたとしても、国内の治安維持の観点から、郷土防衛軍の増強は図られるべきです。


 彼らを無為徒食に放任すべきではありません。国家が軍令という強制力を以て、基地に収容させておく方が無難でしょう。


 戦争計画にもあるように、彼ら予備役を植民地に移植して、帰農を促す方が生産的ではないでしょうか?」



「…植民地は、第二の北海道という訳か?大量の軍人を送りこんで、帰農させて、本国の食料基地として利用すると?彼らがそれを望むだろうか?いくら職に焙れているからと言って、第一次産業に従事するとは思えないが」



「彼らに拒否権などありませんよ。どの道、就職が限られているのですから、嫌だろうが何だろうが、我が国の食料を作らせるべきです。何よりも優先すべきは国家の存続なのですから。広大な面積を耕して、国家の空腹を満たすべきなのです」



 側近達は、めいめいの考えに従って、議論を続けていた。首相の政治スタイルとして、まずは側近や部下に論を戦わせて、それぞれの主張で納得ができる部分を抽出して、自らの考えを整理するという手法を多用していた。



 論点が集約されていけば、利点と欠点が明らかになっていく。そうした要素を一つ一つ組み上げていくと、意思決定に必要な情報へと加工する事ができる。



 それに、意思決定システムに部下を交える事で、独裁的だとか強権的だとかといった批判を多少なりとも抑えられるだろう。



 いくら政治基盤が盤石だからと言って、内部の意見を無視すれば不満が溜まり、それが自らの失脚に繋がる恐れがある。



「なるほど、君達の議論も踏まえると、方面軍を植民地防衛に限定して、縮小させる方が良いだろう。しかし、予備役の招集・訓練も続けていくべきか。精神病対策として、本国から更なる軍医の派遣と病院の増設も検討の余地がある。


 更に、占領任務は数週間程度の交代制として、現場の将兵の心理的負担を減らす。復員令を以て、現地に移住させるか…それは当人の自由意思に基づくべきだが、志望者には土地を貸与又は譲渡をするのも有りだろう。


 警察軍の創設は論外だ。我が国はテロリストを育成するつもりなどない。総督府に派遣した法務大将には、引き続き反対の論陣を張って貰わなければならないな」



 首相が下した最終決定は、何とも玉虫色の決断だったが、それでも、植民地支配と方面軍に関する基本方針が示された。



※※



キングスフォード市(キングスフォード州):第18任務部隊司令部



 キングスフォード地方に駐留する占領軍司令官(陸軍中将)は、モニター越しに映る統合参謀次長(陸軍大将)に現状の打開を訴えていた。



 麾下の将兵は、治安維持任務に疲れ果てている。それは、戦争関連の精神病が増加しているというデータを軍医が報告しているからでもあるし、すれ違う部下達の表情や体調が明らかに芳しくないからでもある。



 今すぐにでも、本国に帰国させて、休養を取らせるべきだろう。このままでは、「心失者」が大量に発生しかねない。いや、現に今も精神の不調を訴える兵士達が続出しているのだ。



 敵か味方か分からない現地の住民、時々、占領軍を睨み付ける住民、よそよそしさを感じる態度…侵略して占領下に置いているのだから当然の待遇ではあるのだが、それでも、見知らぬ外国の地で将兵の心理的な負担は増すばかりだ。



「大将閣下。これ以上、彼らを占領任務に従事させる事は危険です。軍医と病院が足りません。すぐにでも帰郷させるべきです」



「死傷者が増えているとでも?」



「いいえ、死傷ではなく、心障です。彼らの心は、傷ついています。我が軍による治安作戦が長期化する中で、まるで先の見えない戦争に駆り出されたかの様に、心身ともに疲弊している次第です。


 このままでは、我が軍の心が先にやられます。故郷の土地に戻して、故郷の空気を吸わせて、療養するべきです。精神的な健常者であっても、任務に投入すると次第に能力を喪失していきます。


 それは、円滑な占領を行う上で好ましい事態ではありません。現地の治安維持には、職業軍人を中心とする少数精鋭の治安部隊と、国家警察の要員を補充すべきです。


 数週間の訓練を施した速成の予備役達は、次々と心体を壊しています。はっきりと言って、軍人には占領と治安維持など向いていません」



「方面軍の交代については、本国政府でも議論されている。しかし、交代が可能な兵力をどこから調達するのかで揉めているのが現状だ。


 本土防衛には、最低でも5個師団を保全するべきだが、その他の師団も戦力投射能力を担保する上で欠かす事のできない部隊だ。


 それを捻じ曲げて正規軍の7個師団及び3個MEB(海兵遠征旅団)を派兵した事が、防衛態勢の負担になっている。植民地に対する増派部隊が予備役を中核とするのも、正規軍の負担を軽減する為だ」



「交代しようにも、交代させる為の新しい兵力が必要という事ですか?その為に、予備役の招集を更に拡大すると?全く、悪循環ですね」



「そうだ。そんな事を続けていったら、我が国は、軍人だらけになってしまう。兵力の自転車操業だ。それを解決する為には、方面軍の規模を縮小するか、それとも完全に撤退させてしまう他はあるまい」



「それで、本国政府は何と?」



「これは部外秘の情報だが…方面軍を縮小し、植民地防衛に任務を限定するそうだ。併せて、復員する予備役兵は、当人が希望するならば、植民地の土地を譲渡して、商売や農業に従事させようとしているらしい。これは、オフレコの情報だから、外には洩らすなよ?政府高官から裏を取った情報だ」



「…具体的には、どの程度まで兵力を削減するのでしょう?」



「それはまだ分からん。しかし、最初に派兵した35万人以下に抑えられるはずだろう。政府は大陸諸国に侵攻する事を既定路線としている節があるから、ある程度の大兵力を植民地に残置させるかもしれん。


 もしかしたら、大陸にあるというウランを狙っているのか…何れにしろ、政府の上層部は、方面軍の規模縮小と負傷兵の帰国を優先するだろう。


 少なくとも、10万人程度にまで縮小する様な事はしないはずだ。その兵力では、広大な島国を防衛できない。ところで、君の所の部隊は全体の何パーセントが精神的な負傷兵になっている?」



「15~17%前後を推移しています。私の部隊は、10万人近い兵力を持ちますから、その内の15,000人以上の将兵が何らかの精神障害を罹患しているものと推定される様です。


 とても、カウンセリングが追いつきません。とにかく、医療体制の構築が急務です。民間からも精神科医やカウンセラーを派遣できないでしょうか。


 あるいは、本国の精神病院に入院させるべきです。このままでは、部隊は何れ崩壊します」



「そうしたいのは山々だが、予備役でない一般人を戦地に送る権限は持っていないし、国内の精神病院は空いている病床が少ない。我が国の精神医学の体制では、現状の打開は如何ともし難い」



「精神病院の病床は過剰供給だったと記憶していますが?」



「それは少し昔の話だ。厚労省が問題視して、精神病院を次々と閉鎖させた影響だろうな。身体拘束とか、人権の観点からも問題になっていたからな」



「…そうなると、彼らをこの地に放置する以外にありませんが?」



「まぁ、必要なのはトリアージだ。中将、麾下の将兵の生命を選別しろ」



「部下に優先順位を付けろと?私は、現役であれ予備役であれ、区別なく遇するつもりですが。そもそも、統合参謀本部と本国政府は、派兵した責任があるでしょう。その責任を取らないつもりですか?」



「将官にとって、責任を取るという事は、物事の優先順位を見極め、いざという時に見捨てる事ができる覚悟と能力だ。更に星が欲しいならば、それぐらいの判断はして見せろ。


 いいか、中将。部下の命を預かるという事は、何も彼らを無事に故郷へと帰す事を意味するのではない。その命の使い方に責任を持つという事だ。


 必要な時に、必要な命を磨り潰す責任が指揮官にある。それができないならば、即刻、本国に召喚するぞ」



「…部下が目の前で苦しんでいるのを見逃す事が将官として正しい事だとでも?」



 大将は、あからさまに溜息を吐いて、中将を叱責した。



「軍人の役割は何だ?正しい事を為す事か?軍人とは、善悪の価値判断ではなく、国家の意思表示に基づく武力を行使する暴力装置だ。


 国家の暴力を体現するという存在が軍人であり、軍隊だ。それを忘れるな。そこに、正しさなど割り込む余地はない。


 いいか、我々は正義でも警察でもない。裁判官や検察官でもない。部下を慈しむ心は、国家に対して向ければ良い。将官としての責任と役割を果たす。お前ならできるだろう」



「…承りました。ですが、本国からも精神科医とカウンセラーの増援をお願いします」



「できるだけ期待に応えられる様、手配しよう」



 モニターには、先程まで映っていた大将の影はなく、中将の疲れ果てた表情が映るばかりだった。戦場で部下の命を選択しておいて、いざ治療のトリアージを拒否するなど、偽善でしかない。それでも、どうしようもない悔恨を感じざるを得なかった。



※※



キングスフォード市:仮設病院



 占領軍は、市内に混乱をもたらした皮革職人組合の本部を徴用し、不足する仮設病院の庁舎として活用した。仮設病院は、増加する戦闘ストレス障害に対処する為にメンタルヘルス対策の拠点として整備されている。



 市内の蹶起事件の際に、乱射を引き起こした憲兵少尉は、この病院に移送されて、定期的な検診を受けていた。彼は、軍医大尉に対して精神治療薬の処方と、前線への復帰を何度も訴えていた。それに対して軍医は、心理的カウンセリングを中心とする治療プログラムの継続を推奨している。



「先生、自分はいつになったら現場に復帰できるのでしょうか?多少、副作用が強くても良いから、即効性のある治療薬が欲しいのです」



 毎度、同じ質問と要求を繰り返されるが、軍医の答えも拒否の繰り返しだった。



「いいですか、何度も言った通り、薬効が強いという事はそれだけ身体にも影響が大きいという事です。直進するよりも、回れ右をして迂回する方が結果としてはご自身の将来を安泰にするのです。ここでゆっくりと静養する方が望ましいでしょう」



「ですが、自分の小隊がどうなっているのか不安で…。折角、士官学校を卒業したというのに、この体たらくでは、両親にも顔向けできません。


 仕事をしていないと不安なのです。ずっとベッドに寝たきりなのは耐えられません。せめて、何か自分に仕事を下さい。院内の事務や草刈りでもなんでも良いのです」



「その許可を出したいのは山々なのですが…貴方の立場を考えるとなかなか厳しいでしょう。仮に、早く復帰したとして、軍法会議に招待されたくはないでしょう?貴方の名誉と安全を守る為にも、暫くはここで療養する方が良いと私が判断したのです」



「…自分は犯罪者なのでしょうか?ここにいると患者というよりは、まるで囚人の扱いそのものです。自分の判断は間違っていたのでしょうか?


 あの時、威嚇射撃を実施しなければ、叛乱もなかったかもしれない…。どうする事が正解だったのでしょうか。ずっと考えているのですが、一向に答えは見つかりません。何よりも、何よりも自分は……」



 少尉はそこで言葉を続ける事ができなかった。乱射事件の記憶がぶり返したからだろう。普段のコミュニケーションは、さほど問題がないのだが、こうして事件を振り返ろうとすると、負傷させた戦友や住民、壊れた建物、興奮した叛乱民兵の様子が鮮明に思い返される。



 彼だけではない。事件の鎮圧に当たった将兵の少なくない人数が、大なり小なり精神症状を現している。



 政府は、戦闘ストレス管理医療中隊や分遣隊を現地に派兵して事態に対処しているが、如何せん、戦闘ストレス障害の専門家は不足気味だ。



 軍医も、まさか自分の専門分野が重要になるとは思わなかった。大戦後、小規模な紛争を繰り返す程度であった日本国は、米国の様に兵士のメンタルヘルス対策をあまり重視してこなかった背景がある。そのツケを償還しているに過ぎない。



 しかし、メンタルヘルス対策に5,000億円以上もの予算を注ぎ込んでいる米国政府でさえ、状況が好転せず、四苦八苦している事を鑑みれば、今更、日本政府が医療体制を増強した所で、焼け石に水でしかないだろう。



 日本国は、今次戦争の戦勝国であるはずだが、参戦した兵士達は敗戦国の軍隊の如く疲れ果てていた。



 少尉の心身を第一に考えれば、安全地帯の病院に留まらせるよりも、前線の軍務に就いている方が、却って精神の安定に寄与する事だろう。



 ベトナム戦争の教訓を踏まえれば、精神疾患の将兵をいきなり後方の安全地帯に移すよりも、前線に残置した方が、急激な緊張状態の緩和による症状の悪化を防止できる。



 しかし、乱射事件の被疑者という少尉の立場がそれを許さない。錯乱状態に陥った少尉を復帰させたくないと考える上官達や、一方で、早急に軍法会議を開廷すべきだとする法務士官連中が色めき立っている。



 軍医としては、せめて院内を自由に散歩できる様に取り計らいたいものだが、それでさえ、上層部や法務部が文句を付ける事だろう。



 彼の考えは、心神喪失の状態にあろうが無かろうが、犯罪者は処罰されるべきだが、自らが責任を持つ患者を法廷に出廷できる様に心身を回復させる事が果たして医者として正しい姿と言えるのだろうかという疑問だった。



 一度、錯乱した者に武器を持たせたくない上層部の考えは理解できるし、刑事責任を問おうとしている法務部の主張も一理ある。



 しかし、自分にはその意見を退けても適切な治療を施す専門家としての職権が付与されている。様々な部署の思惑に挟まれながらも、軍医は己の信条を貫こうとしていた。



※※



キングスフォード市:第18任務部隊司令部



 乱射事件に関して、憲兵・軍医・法務の各参謀が司令部にて会合を持った。事件をどう処理するかという問題は、単なる一現場の問題ではなく、既に政治問題化している。



 軍部内に於ける権力闘争の様相を呈する様になっているというのもあるし、将兵の家族及び国内社会で戦闘ストレス障害の懸念が広がっているからでもある。



 戦争政策によって、現状の諸問題を打開しようとする内閣への国内輿論が徐々に悪化しているのだ。開戦の当初こそ、輿論は戦争の高揚感に包まれていたものの、戦況の膠着化と国内状況の頽廃が重なる様になって、戦争の興奮は醒めていった。



 司令官及び参謀陣にとっては頭の痛い問題である。政治問題化した事件の解決など、現場の処理能力をとうに超えている。



 しかし、本国政府、総督府、統合参謀本部、方面軍は、この問題に対する最善の正解を持たなかった。要するに、現場の第18任務部隊に問題解決を押し付けた格好となる。



 本来であれば、ハイレベルで政治決着を図るべき案件であるが、軍高官の誰もがそうした政治責任を取りたがらず、問題は宙に浮いたままだ。



 一般社会の法感覚を参照すれば、憲兵少尉は処罰されて然るべきだろう。しかし、軍法会議の開催によって、占領政策の問題点が浮上し、政府の政策に対する批判を惹起させる事を恐れた。



 一刻でも早く現場に復帰させたい軍医と少尉、軍部の法秩序を徹底したい法務士官、輿論の関心が薄れるまで少尉を療養させたい政府上層部及び憲兵隊の思惑がそれぞれ交わり、結果として三者とも身動きが取れずにいた。



 それでも、何れは結論を出さねばなるまい。司令官は、三者の利害を代表する参謀を招集し、事態の打開を図った。麾下の将兵にも、不安や動揺が広がっているのだ。



 政府や軍部が手を拱いていると言うのならば、自らの手で決するべきだろう。司令官が参謀陣に意見を求めた。



「君達は、この問題をどう処理すべきだと考える?この際、政治や輿論の都合など考慮しなくても良い。政府と軍部の連中が我々に責任を押し付けるならば、こちらはこちらの都合を押し通す。


 しかし、将兵の動揺と不安を想えば、繊細な対応が求められるのは言うまでもない。占領任務や治安維持作戦への不信感や任務拒否を拡大させてはならない。


 これ以上、戦闘ストレス障害が部隊内に広がれば、我が軍は遠からず戦闘力を喪失するだろう。つまり、この問題の解決は、方面軍全体の利益に資するものでもある。君達の専門家としての意見と助言を期待する」



「軍医の立場としては、彼の心身の回復を最優先すべきです。逆説的ではありますが、完全に隔離された安全な本国の病院に移送するのではなく、前線に近い仮設病院に留めて、適度な緊張状態に置きながら、職務への復帰を支援したいというのが、衛生部門の総意です」



「少尉は、心神喪失の状態にあるのだろうか?刑事責任能力は認められるのだろうか?」



「そもそも論になりますが、精神医学上の精神障害と法学上の心神喪失・心神耗弱は別個のものと考えて下さい。


 彼は、戦闘ストレス障害という精神疾患の状態にありますが、事理弁識能力は認められ、一方で行動制御能力については疑問の余地があります。


 ですが、いわゆるトラウマ(心的外傷)を刺激しなければ、通常、一般人が持つ行動制御能力がありますから、こればかりは軍医の判断というよりは、法律家の判断次第でしょう」



「法務部の見解としては、軍法会議の判断を仰ぐ他はないと思います。精神障害と心神喪失の関係については、最高裁でいくつかの判例が出ていますが、事件によってまちまちというのが、実情です。 


 それでも、敢えて当て嵌めるとすれば、心神耗弱の状態と理解すべきかもしれません。限定的な責任能力は認められるかと。何れにしろ、裁判官の判断によるとしか言いようがありません」



「…何とか、執行猶予や無罪にする事はできないか?」



「やろうと思えば、いくらでも恣意的な判決は出せます。建前では、法律的な判断が優先される事になっていますが、その実、軍法会議というものは、司令官の意思を法律で以て正当化する為の道具に過ぎません。


 法務士官と言えども、軍人である訳ですから、司令官の命令に服しなければなりません。我々は政治将校ではありませんから、司令官の命令権の下に、統一された指揮命令系統に属しています。


 一応の所、法務士官の独立性は軍法で保障されていますが、それが形式でしかない事は言うまでもないでしょう。


 法務士官制度そのものが、言わば軍部の政治的な道具として設計された背景を踏まえれば、司令官はいくらでも法律を捻じ曲げられます。結局の所、武力の前で、法律は沈黙を選択するのです」



「執行猶予や無罪は厳しいのでは?我が軍が保護すべき住民の多くにも死傷者が出ている事を鑑みれば、無罪は有り得ません。我が軍の占領政策にも悪影響を与えるだけでしょう。


 それに、執行猶予とするには、量刑が重すぎます。寧ろ、彼を有罪に処して、法と統治の公正さを住民に示すべきです」



「占領政策の観点から厳罰にするという意見も分からなくはありません。ですが、そもそも問題の出発点は、部隊の士気低下と戦闘力の回復が焦点です。仮に彼を有罪にするのだとしても、あまりに刑罰が重いと、士気の低下は更に著しいものとなるでしょう。


 精神疾患の全てが犯罪に繋がる訳ではありませんが、潜在的な犯罪者は多いと見るべきです。そうであるならば、心神耗弱を理由に減軽するぐらいがちょうど良い妥協案ではないでしょうか」



「いやいや、妥協すべきではない。刑罰を減軽すれば、却って、犯罪を誘発するのでは?彼を無罪にするにせよ、有罪にするにせよ、どちらかであるべきで、減軽などという妥協は中途半端な占領政策を招くだけだろう」



 参謀陣の意見を一通り聴取した司令官は、本音では憲兵少尉を無罪又は減軽にしてやりたかったが、司令官という地位が私情を挟む事を阻んだ。



 参謀は何れも無理筋な主張をしている訳ではない。その背後に彼らの権力闘争的なものがある事を考慮に入れても、それなりに合理的な根拠がある様に思える。結局、司令官の決断如何に懸かっているのだ。



※※



キングスフォード市:軍法会議



 辺境伯領の上級裁判所として使用されていた庁舎に、第18任務部隊司令官の直轄機関として第28高等軍法会議が設置された。



 高等軍法会議は、司令官を首席裁判官(裁判長)として、法務士官を陪席裁判官とし、各師団長に隷属する師団軍法会議の控訴審としての機能と権限を持つ。これより上位の軍事裁判所は、方面軍高等軍法会議及び本国政府の高等軍事裁判所のみである。



 司令官は、高等軍法会議の首席裁判官としての職権を行使し、下級裁判所隔意制度を利用して、乱射事件の被告人である憲兵少尉を自身の法廷に召喚した。



 本来であれば、少尉が属する憲兵師団の軍法会議に諮るべきだが、事件の重大性に鑑みて、自らの権限で裁判を行う事を決心した。



 最早、事の次第は、師団長レベルで処理できるものではなく、だからと言って軍高官の連中が適切な方策を持っているとも思えない。そうであるならば、任務部隊の最高責任者である司令官が自らの責任と権限を以て処理する他はない。



 形式的な審理が終了した後、判決文を持った首席裁判官の後ろに、ぞろぞろと陪席裁判官が列をなして、各々の座席に着した。首席裁判官は、開口一番、主文を後回しにする旨を宣言した。法廷を見学している人々がざわめく。



「被告人の行為によって、我が軍が保護すべき住民に多数の死傷者を出した事は、占領行政上、望ましからざる事件である。


 一方で、被告人が置かれた立場と任務を考慮すべきでもある。被告人の士官学校での成績は良好であり、普段の勤務態度も極めて良好である。上官・部下を問わず、人物評価も非常に高い。


 そうであるにも関わらず、本事件を引き起こした原因は、治安維持任務に於いて極度の緊張状態が恒常化し、それによって戦闘ストレス障害を発症した点が大きいと推測される。


 暴徒化・興奮した民兵に対する警告射撃は、至極、正当なものである。しかし、警察権を行使する憲兵は、一般の軍人・戦闘員よりも厳しい職務上の注意義務を負っており、被告人はその義務を果たしたとは言えない。


 刑事責任能力については、軍医の証言通り、一時的な行動制御能力に疑問はあるものの、それが心神耗弱に相当するとまでは言えない」



 首席裁判官は一旦の間を置いた。



「主文。被告人を禁固3年とする。酌量により、1年6月を執行猶予とする」



 判決文を読み上げた彼からは表情の程が伺えなかった。しかし、その心中は苦悩に満ちたものだった。実刑としなかったのは、まだ若い憲兵少尉の将来を案じたからである。



 建前では、士気の低下を防ぐだとか、貴重な人材を弄ばしたくないという理由があったにしろ、首席裁判官を務める司令官にしてみれば、軍紀の維持以上に部下の名誉が重要であった。



 政治家や軍高官に対する意趣返しでもある。厄介事ばかりを現場に押し付けて責任を取ろうともしない連中など知った事ではない。既に彼は、政府と軍部を見限り始めていた。



※※



キングスフォード市:旧代官公邸



 辺境伯領の代官を務めた男爵夫妻は、占領軍の捕虜になった後、占領政策に協力する事を前提として、捕虜の身分を解除され、旧代官公邸の一室を宛てがわれていた。夫妻は、一時的に別離していたものの、破鏡の憂き目を見る事もなく、仲良く生活を送っている。



 男爵は、司令官から贈られた絵画や彫刻などの美術用具一式の具合を確かめる傍ら、第18任務部隊の政治顧問としても活動している。



 彼自身は、捕虜となり自国の敗戦が濃厚となった時点で、政治や軍事の一線から退き、静かな余生でも送ろうかと考えていたが、この地方を治める軍政長官から、前代官としての知見と人脈を活用したいと懇請されて、仕方なく創作活動との両輪で引き受けた。



 相当額の報酬が顧問料として支給されるという条件に、男爵夫人が飛び付いて、彼を説得した部分が大きい。



 退役軍人とその家族には、軍人年金や恩給制度が整備されているが、王国政府と王国軍が日本軍に制圧された以上、支払い能力を期待するというのは、なかなか酷だろう。



 総督府が、元軍人の反乱や暴動を警戒して、支払いを肩代わりしてくれる可能性がない訳ではないが、今の所、どうなるかは予測がつかない。



 勿論、男爵夫妻には、君主から下賜された荘園とその荘園収入もあるが、日本政府が貴族制度の廃止を宣言している以上、貴族が領有する封土の安堵が為される可能性は低い。



 占領軍が市民の財産権を保障しているからと言っても飽くまでも原則であって、王侯貴族や聖職者・教会財産などについては例外規定が置かれている。



 領土高権と土地所有権の違いから生じる対応であるが、主権国家体制が成立しているにも関わらず、未だに封建制的な慣習法も生き残っていた。 



 日本政府のこうした決定は、植民地の法律を近代化させ、日本法の支配下に置き、軍事面・インフラ面だけでなく、法律体系にも影響力を及ぼす為である。



 どちらかと言うと、英米法に近いエリザベス王国法を大陸法に変更する機会は、圧倒的な軍事力で占領下に置く今を措いて他にない。



 勿論、英米法から大陸法への変換は、通常は膨大な時間と準備が掛かるだろうが、現在の日本政府と総督府にそのような時間的余裕はなく、独裁的な権力を握る今だからこそ、困難な政策を消化していくべきだ。



 公邸に滞在している男爵を訪ねたのは、同館の主人である。軍政長官は、通訳担当官と副官を伴っていた。彼は、蹶起事件の処理と対策について、政治顧問を務める男爵に相談を持ち掛けていた。



 軍政下に於いて、占領軍の都合が優先されるのは言うまでもないが、それでも、統治の費用を思えば、住民感情にも配慮しなければならない。



 占領軍の都合と住民輿論の衡量は、繊細な政治力が求められるという点で、なかなか難しいが、その地域の専門家や有力者の協力があれば、ずっと容易いものとなる。この地方を治めていた前代官である男爵は、その最有力者だろう。



 軍法会議の結果は、男爵を始めとする地方の有力者達にも、一般住民にも既に告示されている。占領軍の協力者となった一部の有力者は、更に情報官を通じて軍法会議の詳細な過程を入手している。 分割統治とまでは言えなくとも、既存の支配層を植民地行政の道具とする算段であるのは明らかであった。



 都市貴族・職人としての矜持と名誉を優先して、占領軍に対して蹶起事件を引き起こした皮革職人組合の様な場合を除けば、有力者達は、己の矜持よりも、宗教や商売などの利益・既得権の保護を優先した。



 男爵夫妻に付けられた使用人が紅茶の用意をしている間、軍政長官は男爵が描いた絵画や彫刻を鑑賞しながら、談笑していた。



 彼らは、男爵がこの屋敷に再び住まう様になってから、同館の住民として毎日の様に顔を突き合わせて、昼間の茶会を楽しんでいる。



 茶会の話題は様々で、下らない与太話から、真面目な政治談義までと多岐に渡り、軍政とは何ら関係の無い話題が終始続いた事もしばしばだった。軍政長官は、軍法会議の顛末について触れた。



「件の憲兵少尉は、実刑でなく執行猶予付きの判決です。住民の方々からすれば、彼の行為の結果と釣り合っていないかもしれませんが」



「執行猶予というのは、確か貴国の法制度の一つだったかな?我が国の宣告猶予とは少し異なる様だな。貴軍の法務官が概要を説明してくれたが…外国の法律というものは、なかなか面白い。


 自治領の異民族と接していても思う事だが、自分達が抱く価値観など、所詮はありふれた一つに過ぎないのだと痛感させられる。


 特に、ローマ帝国の歴史は興味が尽きない。大陸に存在した古代の帝国といくつか類似点がある。講義を担当してくれた彼女は、学校の教師にもなれるだろう」



「ローマ帝国に興味があるのですか?法務官の講義は法律が中心だったはずですが」



「最初は日本法の講義だったのだが、その歴史が古代の法律にまで遡り、私がそれを質問していったら、いつの間にか話が脱線してしまったという具合で…まぁ、大学の講義では良くある事だろう。法制史も面白いが、国家が歩んできた歴史や戦争史にも興味がある」



「なるほど、もしも日本語を完全に習得されたら、それらの名著を一読するのも良いかもしれません」



「私はもっと日本語の学習がしたいのだが、如何せん活用できる資料が少ないのが難点なのだ。設置された図書室や資料室の蔵書は少な過ぎる。


 もう少し、蔵書数を増やせないものか。我々、王国人や異民族が貴国の公用語を学ぶ機会を逃せば、占領統治に支障が出るのではないか?」



「耳が痛い話ですが、本国政府はどうやら、インフラ建設の為の物資輸送を最優先にしている様でして、それ以外の部分が疎かになりがちになっている様です。


 我が国の文物を輸入できる体制を構築するには、もう少し時間が掛かるでしょうね」



「…それは残念だ。しかし、貴国の状況を思えば無理からぬ事なのだろう。ところで、蹶起事件の始末だが、私の助言は役に立ったのだろうか?」



「えぇ、審理に於いては大変に参考になりました」



「正直に言えば、判決内容は玉虫色というか、灰色に近い。不満がない訳ではないが、だからと言って、彼一人の責任という訳でもあるまい。


 そもそもは、占領軍に対して蹶起を主導した連中が一義的には悪いのだからな」



「責任の一部は私にもあるでしょう。指揮官は部下の失敗に責任を負う訳ですから。しかし、将校というものは、一人で責任を負うからこそ、特権と待遇が認められていると私は考えています。


 悲しい出来事ではありましたが、武官の定めなのでしょうね。閣下は、どうすべきだったと思いますか?」



「有罪か、無罪か、そのどちらかにすべきだっただろうな。当然、執行猶予などという妥協はすべきではなかった。中途半端な判断は、指揮官としては好ましくない。無責任だと誹られても、仕方がないだろう」



「…仰る通りだと思います。しかし、部下の心情と将来を想うと、どうしてもやるせない…」



「君は、軍人よりも教師の方が向いているだろうな」



 軍政長官は、男爵の言い様に苦笑を返した。



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アグリフォード市(バッテンベルク州):総督府農務総局・北西農政局



 王国の第二都市であったアグリフォード市は、日本軍の爆撃機部隊によって無力化された後、総督府農務総局の地方支分部局が設置されていた。



 同市の任務は、国内最大の穀倉地帯を管理する事にあったから、その役割に回帰したに過ぎない。但し、同市が担っていた国際金融都市としての役割は、ヴィクトリア市に移されるだろう。



 本国から大量の農業技術者と軍人が流入している事から、占領地域にしては、非常に活気づいてはいるものの、それでも、第二都市としての栄華は依然として喪失したままだ。



 北西農政局は、バッテンベルク州を含む北西部を管轄し、穀倉地帯をいくつも抱える事から、総局の主要な実働部隊として最大の職員数を擁している。



 その重要性から、非公式に「ミニ総局」とも呼称されるが、これは言わば現代日本に於ける警察庁と警視庁の関係性に近いだろう(※作中では、内務省が存続している)。



 農林水産省は、この支局に、キャリア・ノンキャリアを問わず、同省の優秀な人材を省庁の威信を懸けて、大勢の職員を出向させていた。



 食糧の確保は、戦争目的の根幹であるから、農水省の力の入れ様と意気込みは極めて高い。普段は、他省庁の影に埋もれがちで、農水省に焦点が当たる事など殆どないから、彼らが袖を捲り上げているのも無理はない。



※※



アグリフォード市:第24任務部隊(占領)



 アグリフォード市の市政は、アルファ区域(北西部の穀倉地帯)の占領を担当した第31歩兵師団が軍政下に置いている。



 キングスフォード市を占領した第12歩兵師団と同じく、師団長は中将に昇進した上で、アグリフォード地方を統治する軍政長官に補職されて、31師団と3個予備役師団の合計4個師団で構成される第24任務部隊司令官も兼ねている。



 キングスフォード地方を軍政下に置く第18任務部隊司令官に与えられたのが3個師団なのに対して、第24任務部隊司令官に4個師団が与えられているのは、最大の穀倉地帯という重要性もさることながら、アグリフォード地方を含むバッテンベルク州が600万人以上の人口を抱えるからでもある。



 バッテンベルク州の人口は、日本軍の戦略爆撃によって、大きく減らしてはいたものの、それでも、穀倉地帯が支える地力によってなのか、半数以上の住民が何とか生き延びていた。しかし、日本軍によって占領行政が布かれているという状態は変わらない。



 住民達は、占領軍を通して、日本政府・総督府からの保護を受ける代わりに、彼らに忠誠を誓い、彼らの手足となって働く他に生存の選択肢は無かった。戦争の惨禍から逃れる事が叶っても、肝心の仕事は、からっきし無い。農民はまだ良い。再び鍬を取れば、占領軍から雇用されるのだから。



 しかし、農民以外の職業に就いている商人や職人、貴族や聖職者はなかなか仕事にありつけない。



 日本人は、商人が売買している商品に大した興味を向けなかったし、職人が手作りした一品や工場生産された商品にも関心が薄い様だった。精々、物珍しさから、日本軍の士官が土産物として購入する程度であった。



 日本人向けの商売に走らずとも、自国民向けに商売を再開すれば良いのかもしれないが、戦争によって人々の財産というものは焼失するか、あるいは戦争の混乱に乗じて賊徒に強奪される有り様で、とても商売をするだとか、生活必需品を購入すると言った経済活動でさえ、ままならないのが現状だった。



 他方、貴族や聖職者は占領に戦々恐々としていた。総督府は、貴族制度の廃止を宣言しているばかりか、貴族の荘園や教会財産の没収も示唆しているからだった。占領軍に対して、武器を取った貴族や聖職者がいない訳ではない。



 しかし、結果は明らかだった。総督府は、速やかに軍隊を派兵して降伏を認めず鎮圧した。総督府は、貴族と聖職者に対して、最低限の生活保障はするというが、それが豪奢な生活を送ってきた彼らを満足させるものでない事は言うまでもない。



 諸侯の中には、表向き占領に協力しながらも、裏では荘園収入や財物を隠匿しようと企む輩が絶えなかったが、総督府は、住民に対してこれらの諸侯の所業を密告する事を奨励して対抗した。



 拘束された諸侯は、占領軍に対して刑罰の減軽や免除を訴えたが、いくら占領行政に協力しているからと言って、脱税や財産隠匿の犯罪に例外を設けてはならない。



 保護の対価として協力と忠誠を尽くすのは当然の事であって、それが特権を伴ってはならないのだ。そうなってしまえば、植民地統治は、数日もしない間に崩壊してしまう事だろう。



※※



アグリフォード市:市庁舎



 市庁舎の一室に、荘園の代官らが集合した。軍政長官が日本政府の代表として、現地の有力者達との占領協定を締結する為であった。



 日本軍が王国の中央政府を打倒した為、外交交渉を一本化できず、総督府は各地の有力な勢力との個別交渉を余儀なくされた。



 日本政府は、国内の社会経済システムを復旧する為に、食料生産と天然資源の調達を優先しており、どうしても戦後処理が疎かになりがちだった。



 もしかしたら、国土の過半を武力によって掌握した事で、繊細さが求められる占領政策が敬遠されて、大雑把な武断主義が本国政府と総督府の双方に底流しているのかもしれないし、あるいは単に優先順位の違いでしかないのかもしれない。



 何れにしろ、お世辞にも占領政策が何事も無く機能しているとは言えなかった。本国政府の方針がころころと変わるものだから、現地の将兵と官僚は混乱した状態で職務を行う事が日常の風景となっている。



 それでも、その状況の最中にあって、軍政長官に任命された将官らは、まるで占領政策に一つの瑕疵もないかの様に、泰然と構えている。彼らも一般の兵士と同じく人間であるのだから、内心はさざめきが起っているだろう。



 しかし、彼らは将官なのだ。心裏の動揺を部下達に見せる訳にはいかなかった。政府の場当たり的な政策に不満を持つ彼らは、独自のネットワークを構築して、横関係の情報共有を密にすると共に、愚痴をこぼしたり、相談したりして、激務の捌け口にしていた。



 階級こそ、少将や中将と言った軍部の実力者で、司令官として大幅な権限が与えられてはいるものの、実際には政府・総督府と部下の将兵・被支配民に挟まれた中間管理職でしかない。



 軍政長官の補佐官が代官らに向かって協定の詳細を一通り説明すると、代官の一人である少女が質問を投げ掛けた。彼女の恰好は軍人そのもので、大佐の階級章を身に着けていたが、そうした出で立ちの者は代官の集団にちらほらと見受けられる。



 王族士官という身分だろう。士官という身分そのものが元首の代理であるから、直轄領の代官を勅任された彼女達は、二重の意味で君主の代理人と言える。占領協定の交渉相手としては、その正統性から重要度が高い。



「それでは、代官である皆さんと正式に協定を結びたいと思います」



「わたくしが協定の締結を拒否した場合はどうなるのでしょう?処分されるのでしょうか?」



「拒否は認めません。協定書に署名しなければ、皆さんをこの部屋から出しません。士官待遇を解除し、自由刑とします。つまり、これまで我々が貴方達に保障していた一切の生活保障を提供しないという事です」



「それでは、わたくし達には自由がないではありませんか。契約や交渉というものは、任意且つ対等な関係で行われるべきでしょうに」



「殿下、御身は自身の立場を良く理解しなければなりません。我々はお願いしているのでなく、強制しているのです。交渉とは、常に不平等なものです。他国に占領されるという事は、その最たるものでしょう。


 まぁ、王国の植民地と同じ様なものですよ。本国の意思が植民地の住民よりも優先されるのは言うまでもないでしょう。土地の主人が変わったのですから、当然です」



「…それでは、わたくし達の名誉は守られるのでしょうか?わたくし達は傀儡の人形でしかないと?」



 彼女は、静寂を保つ他の代官と異なり、自らの感情を素直にぶつけてくる。彼女の主張に賛意を示す代官はいなかった。占領軍を刺激したくないからだろう。静観している様だった。



 相対する補佐官は、溜息を我慢した。まだ幼い彼女は、大人の世界に慣れていないのかもしれない。それとも、王族として周囲が甘やかしているのか。



 王族士官として軍務に服しているはずだが、侍従武官の教育が良くないのか。何れにしろ、交渉相手が理性よりも感情や衝動を優先する様な輩だったら面倒だ。



 補佐官は、まさか自分の娘ぐらいの年頃の少女が代官をやっているとは思わなかったから、中世と近代に挟まれた近世という時代の封建的な側面や価値観は、現代人からすると理解が及びづらい。歴史家ならば喜びそうなものだけれど、彼はただの官僚でしかなかった。



「殿下。不満があっても、納得がいかなくても、占領軍には従って貰います。戦争に敗北するという事は、勝者である我々に唯々諾々と服従するという事に他なりません。どちらが勝者で、どちらが敗者かなど、分かり切った事でしょう?」



「嫌です。わたくしは祖国の敗北など信じません」



 補佐官の説教に対して、彼女は口を尖らせるだけだった。責任者である補佐官が決意すれば、彼女の士官待遇を取り消し、収容所に送致する事もできる。



 しかし、総督府が占領政策に重点を置く様になってからは、彼女達の様な有力者や一般住民との信頼関係を構築する事は、植民地統治の費用を軽減する上で、極めて重要で優先されるべきである。  



 従って、補佐官はすぐには強硬な手段を採らずに、彼女の教育係である侍従武官を呼び寄せて、説得させる事にした。



※※



アグリフォード地方:第51農騎兵連隊



 首都郊外に広大な農場を経営する農騎兵は、それぞれの連隊を組織し、有事にあっては君主に兵力を供出していた。



 君主は、首都侵攻という未曾有の国難に際して、各地に駐屯する農騎兵連隊の動員令を決断した。身分上は平民でありながら、君主に直隷し、紋章と荘園支配権を下賜された彼らは、その歴史と任務に大変な誇りを持ち、君主の動員令に対して即座に応じる構えであった。



 しかし、彼らの参陣は侵攻軍の歩兵師団によって、その進路を塞がれた。不幸中の幸いなのは、農騎兵の根拠地が日本国の戦争目的そのものであったから、戦略爆撃や核攻撃の対象から外されていた事だろう。



 その為に、進路を妨害する日本軍に戦いを挑んだ一部の連中を除けば、農騎兵の多くは生命財産を喪失していなかった。



 戦時や敗戦の混乱で財産を失った大衆、領地を没収された貴族、教会・修道院を接収された聖職者に比べれば、農騎兵は遥かに幸運と言える。



 もしかしたら、この戦争の勝利者は国力を大きく消耗した日本国でなく、彼ら農騎兵達なのかもしれない。



 戦争を生き延びた農騎兵は、崩御したであろう君主に対する忠誠よりも、生活基盤の維持を優先した。彼らは、占領軍に協力する代わりに、武装解除に応じる事で農騎兵としての役割を終えて、単なる豪農の集団へと変貌した。



 総督府は封建制を認めていないから、彼らの荘園は解体された。尤も、荘園支配権は土地所有権という別の法形式に取って代わって事実上の存続が許された。歴史と伝統のある農騎兵連隊は、新しい君主に仕える事になったのだ。



※※



ベータ区域駐留部隊(王国南東部):LO室



 統合参謀本部から派遣されている連絡士官(中佐)は、依然よりも手狭になった室内を見渡して、感慨深げに一人ごちた。



「そろそろ、引っ越しも考えないとな…」



「つい最近、引っ越したばかりではないですか。大体、これより広い部屋はそうそう空いていないですよ」



 中佐の独り言に対して、部下の軍曹がそう応じた。同居人の連絡士官やその部下達もその通りだと頷いた。彼らは、本国政府や総督府から増派された連絡士官の一団だ。



 中佐は、先任士官として彼らを纏めるLO室長に補職されていた。連絡士官が増員されたのは、それだけベータ区域の重要性が跳ね上がっているからだろう。



 ベータ軍事都市とも称されるベータ区域は、方面軍最大の空軍基地であり、最大の農業試験場でもある。国防関係者のみならず、大勢の農畜業関係者もこちらに出張していた。



 業務量の増大に伴い、統合参謀総長の特命任務を帯びた中佐はそれどころでなく、連絡士官としての本来の業務を優先して処理せざるを得なかった。



 軍民問わず、相当数の要員が忙しく行き来するこの軍事都市は、方面軍の防諜能力に多大な負担を掛けている。



 ベータ区域の防諜を担当する第10軍事情報大隊は、上級部隊の第100軍事情報旅団からの増員を受け入れているが、それでも必要とされる兵力は不足しがちであった。



 これが単なる一般部隊であれば、人員をローテーション展開させて、現場の負担を軽減する事もできただろう。



 しかし、防諜に必要なのは任務の継続性だ。インテリジェンスの専門的な訓練を受けた人材が、常続的に特定の分野と地域を専属しなければならない。



 情報機関は、どれだけ組織を膨張させようとも、その末端は極めて属人的なのだ。近年は、ICT(情報通信技術)の発達に伴い属人的な職人芸に依存する傾向は低下したものの、依然としてヒューミント(人的諜報活動)の世界では個人の技量に左右される。



 だからこそ、CIAやKGBの様な巨大組織が、外国の小さな情報機関に翻弄されるのだ。シギントやイミントを除けば、ヒューミントを主な領域とする防諜部門では、人員の配置転換は向いていない。 



 思うままに人員を遣り繰りできないのにも関わらず、業務量だけが増大する一方であるから、第10軍事情報大隊の防諜能力が低下するのは言うまでもなかった。



 従って、中佐が駐在する様になった以前に比べれば、内偵活動はやりやすくなったと言える。味方を味方と見做さない、言わば「内部の敵」を探知する事に長けた中佐にとっては、付け入る隙が多いという事だ。



 但し、業務量の増大は防諜部隊だけでなく中佐の表向きの任務であるLO業務にも当て嵌まる事だから、内偵活動は遅々として進まなかった。



 彼は、絶好の機会を捉えられないこの状況に歯噛みした。その悔しさたるや、余人には理解できないだろう。



 特に、出世競争に明け暮れる同期の士官連中が自分を敬遠して、下士官連中が陰口を叩いている事ぐらいは百も承知だ。



 それでも、例え元帥の犬呼ばわりされようとも、中佐は己の職務に誇りを抱いている。士官学校では落ちこぼれ、出世コースからも脱落した自分にとって、佐官に引き上げてくれた上に、軍事エリートの頂点である統合参謀本部の情報参謀となったのだから、恩義を感じるのは当然だった。



 国防軍の地方協力本部で、しがない募集担当官であった大尉にとって、この中佐という階級はこれ以上望めないくらいの栄達だった。



 同期の出世頭からすれば、中佐なんて単なる通過点、単なる中堅幹部でしかないのだろう。しかし、彼にとっては他の士官や下士官兵の評価など、どうでも良い事だ。恩人である元帥に対して、義務と忠誠を果たせればそれで良いのだから。

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