桜花は色褪せぬ約束



「好きです」

 ほんの少し前のことだ。遊園地の観覧車、その一番てっぺんで、私は藤緒ふじお先輩にそう言った。女同士なのにそれを言うのは、とても勇気の要ることだった。結果としては、すでに相思相愛だったらしく、先輩は潤む瞳になって、言葉では返事を返さずに、私たちの初めてのキスで応じてくれた。最高のスタートだった。



「ほんと、どうしよう……」

 三月下旬の今、欲求に素直な藤緒ちゃん(恋人として、先輩とは呼ばなくなった)は、私の前で頭を抱えているのである。

 北河きたがわ藤緒という人は、勢いで行動するわりに、あるいはバンドのボーカルをずっと務めてきて、バンドの顔として堂々とするべきなのに、ひどく小心者なのが難点である。もちろん、そんなところも含めて愛らしいと思うし、実際に愛している。

 夕刻、公園のベンチでふたり座り、自販機で買った飲み物を飲んでいた、とは言い切れず、悩める藤緒ちゃんは、自分が買った紅茶のことを忘れているふうだった。

 先刻まで、両親が仕事で不在の、藤緒ちゃんの家にいた。藤緒ちゃんの部屋で何をしたかと言えば――

「元バンドメンバーの妹を食べちゃって、私、いったいどうやって釈明したら……」

 ――済ませることを済ませたと言うべきか。

 やっぱり藤緒ちゃんは衝動で行動して、後に肝の細さを露呈する。荒ぶるロミオと評判の、あえて言えば暴力的なドラムを叩くのが私の姉、星合ほしあい千華ちかで、藤緒ちゃんと〈So Longソー ロング, Julietジュリエット〉というバンドを組んでいた。その星合千華の三つ下の妹が私であり、星合真千子まちこである。〈So Long, Juliet〉は、今は解散だか、活動休止だか、そんな状態になっている。

「ねえ、藤緒ちゃん、それどころか、私、藤緒ちゃんと一緒の、新しいバンドに加わったわけなんだよね」

 ジュリエットでリードギターだった九鬼くき絹子きぬこさんは遠くへ引っ越した。ドラムだった姉はひとりで黙々と個人練習に励み、当面、バンドに加わる気はないらしい。

 そのふたりを除いたメンバー三人は、一年程宙ぶらりんでいたのだが――誰も姉の後釜になりたがらなかった――そこに私が加わり、四人編成のバンドとして再始動することになったわけである。

 しかしまあ、藤緒ちゃんの肝はどうしたら太くなるのか。なおも弱気で言った。

星合千華の妹に手を出して、そのうえバンド内恋愛だなんて……」

 前のバンドでは、うちの姉のキャラが立っていたからいいけど、これからははっきりと藤緒ちゃんがバンドの顔である。強気でいてくれないと困る、のだが、やっぱり反応は好ましくない。

「あれ、ユキホ先輩もバンド内恋愛じゃなかったっけ? だからって、星合千華にどう理解を求めたら……」

 姉はずいぶんと恐れられたものである。ドラムを叩く時は往々にして荒ぶる姉、しかし普段は気が弱い、のだが、けっこうなシスコンであるから、どう反応するかはまだわからない。

 姉にしてみればかわいい妹、私はここ最近、頻繁にドラムの稽古をつけてもらっていた。おかげで、藤緒ちゃんと同じバンドに、どうにか入れるだけの実力は身につけられたと思う。まだまだではあるし、ライブの経験は数少ないのだけれど。

 バンドのサウンドをリードしていた絹子さんと姉が不在とはいえ、藤緒ちゃんたちはそのふたりと同じステージに立っていた実力者だ。長くドラムが加わらなかったのは、姉の存在感ばかりが原因じゃないかもしれない。弱気になりたいのは私なのだが、なかなかそうもいかない。

「藤緒ちゃん、私と別れるのと、千華お姉ちゃんが荒ぶるのとだったら、どっちを選ぶの?」

 藤緒ちゃんはわずか怯えるようになって、ちょっと泣きそうな顔をして、けれど答えは迷わなかった。

「真千子を食べられなくなるのは、絶対に嫌」

 欲望に正直な藤緒ちゃんである。食べると言って衝動的に行動するわりに、いざその時になるとやはり気弱になるらしく、八割くらい、私が主導権を握っていた気がするのだが、いや、何も言うまい。



 そう、弱気になりたいのは私なのだ。

 私が加わってスタートするバンド、〈Letレット Kicksキックス Beginビギン!〉は、地元のライブハウス、キラービーで四月一日に行われる、エイプリルフール・フェスに出演が決まっている。きちんと審査を通ったゆえで、私はもっと堂々としていてもいいはずが、心中ではどうしてもじてしまう。

 私のライブ経験はお遊びで数回したくらい、それも、学校の教室程度の話だ。他のメンバーは何度も何度も、キャパの大きく、客の目も厳しいキラービーというライブハウスで演奏し、オーディエンスを沸かせてきている。とにかくみんなに恥をかかせないようにと、私は練習に励む日々を続けてきたが、それでも自信は湧かない。

 藤緒ちゃんに、堂々と歌わせてあげたい、そんなドラムが叩きたい。そう願う。

 ちなみにバンド名を考えたのは藤緒ちゃんだ。私がドラムでキックすることを由来にしたのは明らかで、嬉しいんだけど、それちょっと重い。



 ライブまで残すところ二日、自宅のガレージの端で、私はひとり、熱心に電子ドラムを叩いていた。三月下旬、いい陽気なのであれば、うっすら汗さえ滲んだ。

 姉に考えてもらった練習メニューはとっくにこなした。ゴーストノート、リムショット、裏打ち、他諸々、思いついた端から追加で練習をして、やっと手が止まる。麦茶でも飲もうと家に入ろうとして、急に弱気になる。結局、何も手に取らずにドラムチェアに戻って、スティックを握り、いや、やはり休んだほうがいいと首を振る。そんなことをもう何度繰り返したのか。

 スタジオで個人練習をする予定があるのに、こんなに電子ドラムを使うことはない、わかってはいても、チェアから離れがたい。ふっとうなだれる。

「真千子、ちょっと代わって」

 姉の声が頭上から降ってきた。家の二階からだ。私ばかりドラムを占領しているわけにもいかず、まして、私を休ませるために言ったことではないかと思われてくれば、素直にスティックを置き、チェアから離れるよりなかった。



 スタジオの予約までまだ時間がある。その後は四人そろって合わせでの練習がある。少し休まなくてはならない。私は気晴らしのために近所の公園を訪れていた。昼前の向嶺むこうみね西公園では、子供がサッカーらしきことをして遊んでいて、ベンチに座った私の視界に入るものは、立派な桜木さくらぎだった。今がまさに花の盛りで、枝という枝いっぱいに、桜花おうかは花開いている。

「花見? 私も一緒に、いい?」

 今度は背中に言葉を投げかけられた。振り返らなくても、声の主は絶対にわかる。

「藤緒ちゃん?」

「千華と話してたんだけど、そしたら、妹の面倒を見てくれって。たぶん、この公園にいるだろうから、って」

 思い出してみれば、私は何かにつけてこの公園に避難してくる。親とケンカした時も、苦手なホラー映画をうっかり目にしてしまった時も。言うことは別にあった。

「シスコンのお姉ちゃんが慰め役を譲るなんて、相当よっぽどだよ」

「もうばれてるのかもね、私たちの関係」

 もともとが、ステージに立つ姉に目もくれず、いちオーディエンスとして藤緒ちゃんばかりを――ときめきながら――追っていた私である。急におしゃれに気を遣いだした私である。見破るのは簡単かもしれない。

「桜の花言葉ってね、約束、なんだよ」

 藤緒ちゃんが何でもないことのように言うので、私はすっかり信じてしまった。

「そうなんだ。知らなかった」

 藤緒ちゃんはベンチをぐるりと回り、私のすぐそばで立った。愛おしげに桜に目をやる顔つきに、ぞわりとときめいた。

「嘘。ちっともそんなことない。私、桜の花言葉なんて知らないし」

「どうしてそういう嘘吐くかな」

 私は不満げにしたが、藤緒ちゃんはにこりと笑った。どきどきして心臓がうるさくなる。この人と同じステージに立つのか。私大丈夫か。

「そうだったらいいなって」

「桜の花言葉が約束だったら?」

 約束、それでもいいような気がしてくる。桜花はすぐに散ってしまうけれど、また次の春に再会できる。次の春も、その次の春も。まるで終わらない約束をしているみたいだ。

 藤緒ちゃんは私の隣に座り、そして、驚くべきことをごく普通の抑揚で言った。

「私、〈So Long, Juliet〉を正式に脱退してきた。再結成の予定は、一応、あったんだけどね。何かひとつ、ふっきれた気がする」

「え、どういうこと?」

 頭が混乱する。〈So Long, Juliet〉は、インディーズながらCDのリリースの誘いもあったほどのバンドだ。うちの姉とギターの絹子さんが主体とはいえ、藤緒ちゃんはそれに次ぐ古株だ。ジュリエットの歌声は藤緒ちゃんだと、もはやその認知は拭えないはずなのだ。

 藤緒ちゃんには、何かを残念がるふうはなかった。むしろ、未来に思いを向けていた。

「千華と絹子がずうっと〈So Long, Juliet〉であるように、私もずうっと〈Let Kicks Begin!〉でいたいから。だから、ジュリエットは抜けてきた」

 風が吹き、桜花の一片ひとひらたちがちらほらと舞った。ああ、そう、あの花が、そうだったらいいんだ。そうだったら。私は思わず言っていた。

「私、知ってるよ。桜の花言葉はだって」

 春陽を受けて、桜花はきらめく、終わらない約束がそこにある。

「ねえ、藤緒ちゃん、私もずっと、〈Let Kicks Begin!〉でいたい。どんなに下手でも、藤緒ちゃんの背中を見ながら叩き続けたい」

 藤緒ちゃんはにやつきを隠せない顔になった。私の胸中は昂揚を続ける。ふたりで一緒に桜に目を向ける。姉も――たぶん絹子さんと遠距離恋愛をしている――こんな気持ちになったのだろうか、わからない。わかることは、私たちは私たちであることをやめない、ということだ。

 藤緒ちゃんがおまけのように言った。

「これ、プロポーズかな」

 どさくさに紛れるのは藤緒ちゃんらしいと言えばらしいが、大目に見られるものと見られないものがある。そこは根性を見せてほしい。

「だめ。そこは先輩として、ちゃんと指輪持ってきて。千円のやつでもいいから」

 バンドマンは常に懐が寂しい。楽器は高いしスタジオ代もかさむ。だから贅沢は言わない。少しばかりお願いはするけれど。

 私はそっと、藤緒ちゃんの手に自分の手を重ねた。

「持ってきてくれたら、もう一度この景色の中で、約束しようね」




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柚子崎百合物語 ―甘々ガールズラブ短編集― 香鳴裕人 @ayam4

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