「また会えるかな」〈上〉
三月三十一日、今日――
――夕方になれば、私は、引っ越し先に向けて発つ。
三月二十一日、祝日、十日前――
――私と
千華をバンドの仲間として見ることができなくなり、だからこそ生まれた気持ちは、その後十日間、私はひたすらに思い知るだけ、けれど、伝えられていない。
「また会えるかな」と、ホットのセイロンティーをひと口飲んだ後、千華はひどく寂しげに言った。落ち着いた顔立ちの彼女であれば、寂しさがよく映えてしまう。言ってすぐ、私が何かを言うより先、彼女は自分で否定した。
「何言ってるんだろう、私。ごめん、また心配性だね。会えないわけないのに」
すぐに言葉が返せなくて、落ち着く瞬間だけ欲しくて、オリジナルブレンドのコーヒーを飲んだ。それでも味わいは口に満ちる。この味、美味しさを、舌に焼きつけなきゃいけないのが私だった。町を出て行くのが私だった。
千華の寂しい顔を見たくない。それは今も昔も同じ。バンドの仲間だったなら、千華の不安を本当に打ち消せる言葉を、いくらでもかけてやれたのに。たった十日より前なら。
今は、どうにか気を落ち着けようとして、それさえできない。認めよう。五年半遅れの初恋は、千華とふたりで喫茶店にいるだけで、私をどきどきさせる。これまでなら、狭いスタジオにふたり残された時も、何度だって自然に振る舞えたのに。
知る人ぞ知る、とびきりのコーヒーが飲める喫茶店〈
店長さん――とても気さくで素敵なお姉さん――は、もうひとりだけいる客、カウンター席の端が指定席の、常連らしい女の子と談笑しているので、なおさらに放っておかれた感じがあった。
「ほんと心配性。千華、ステージの上だと、誰より肝が太いのにさ」と、私は称えるくらいの気持ちで言ったのだが、千華は「バンド仲間なら褒め言葉だけど、ねえ、
一応、私を気遣ったのか、千華は「まあ、気分でセットリスト変えたり、本番で別なアレンジにしちゃったり、絹子のギターにやる気がないと勝手にドラムソロ始めたり、常習犯だけど」と、加えた。まあ、肝がどうこうと言われても文句を言えないのは確か。
ライブで、私の不出来な演奏に怒った千華が唐突にドラムソロを始めると、それがまた鬼気迫るドラムプレイなものだから、オーディエンスは、
せめて少しでも、千華の不安を消せればいいのにと思った。
「とにかくさ、何言ってるんだか、だよ。会えるに決まってる。海外に行くわけじゃないんだし、たかが電車で三時間!」
そう言う私の声に、強がりが多いことは自覚した。もう二度と会えないなんてことは絶対ない。それでも、三時間。途中で新幹線に乗れば三時間。交通費を節約するべくバスを選べば、およそ七時間。そのくらい、夏休みにバンドで遠征をしたことはある。気軽に会える距離ではない。
五年以上も一緒にやってきた。互いの気持ちは、少なからず感じられる。私と似たように、千華も十日前から、何か新たな気持ちを抱いているとは思える。恋人になってくれ、と言ってOKがもらえるものかどうか、どうなんだろう。遠のく距離にも阻まれる。私は何も言えないでいる。
追加でそれぞれケーキを注文していたので、店長さんが盆にケーキをふたつ乗せてやってきた。苺のショートケーキとガトーショコラ。千華とふたり、しょっちゅう来ている店だから、店長さんとは顔なじみだ。解散ライブはたまたま店の定休日と重なっていたので、なんと店長さんはライブハウスまで足を運んでくれた。テーブルにさりげなく置かれた伝票には、ボールペンでメッセージが書かれていた。
――ケーキはおごり。ライブ、よかったよ。しびれた。
「どうぞごゆっくり」と言って、店長さんはすぐ、カウンターに身を向ける。すごく嬉しい賛辞で、私と千華はいっぱいの笑顔を向け合った。カウンター席で、常連の女の子は何か思うところがあったのか、「姉さん、同じようなこと他でされると、私が特別扱いじゃなくなる」と噛みついていた。「子供扱いすると怒られるから、
ガトーショコラのフィルムを丁寧にはがしつつ、千華はふっと言った。
「今の店長さん、いつくらいからいたかな」
苺のショートケーキのフィルムを勢いよくはがしつつ、私は思い返す。
「誰にヘルプ頼むか相談してた時は、まだいなかったかな。ちゃんとメンバーそろった時に初めましてだった気がする」
「じゃあ、五年ちょうどくらいかな。まだ、私たちのほうが長いね。夏のビーチ音楽フェスで五周年。記念だからお色気サービスの水着でしょ、って誰かが言って」誰かとは私だ。「食べても食べても太らない本人はいいけど、メンバーの女子三人、練習と並行してダイエット。みんな愚痴ばっかり。なのにみんなの前でシュークリームとか平気で食べるしね?」太らないのは私だ。シュークリームが好きなのも私だ。「私は痩せる必要なかったけど、トレーニングで筋肉ついてるから、羞恥がね? 絹子、私のこと嫌いなのかなって本気で思ったよ」千華の乙女心を考慮しなかったのも私だ。
反省しきりの中、ひとつの言葉が引っかかった。
まだ私たちのほうが長い。
そのうちに抜かれる。
もう、ジュリエットのサウンドは、どこからも鳴らない。続かないのは、終わってしまった理由は、私だ。私がこの町を出て行くから。現メンバーの誰もが同じ認識だった。勝手に抜ける私でさえ、口には出さないながらも、そう思った。
他の誰が入れ替わってもいい、けれど、絹子と千華、ふたりがそろっていなければ、それは〈So Long, Juliet〉じゃない。ジュリエットの音にはならない。
五年半。
それは私が、千華のことを最高のバンド仲間と思ってきて、そして、その関係が他の何より嬉しかった期間。恋人なんて要らなかった。それより大事な繋がりがそこにあったんだから。
別な音楽スクールで習っていた中学一年の千華と私、引き合わされたのは、周りの技量に合わせて抑えて叩けない千華と、周りとちっとも歩調を合わせられない私、手に負えない者同士、あるいは噛み合うのではないかと思われたから。両者の講師ともに、半ばやけっぱちだったらしいんだけど、見事に合った。
中学は別々だった。千華と海辺で待ち合わせて、ああだこうだと言って、砂浜に小枝で色々と書いては消し、やがてついに、〈
思えばいつもわがままなバンドだったかなと、私は口の端だけで苦笑いした。
千華はビーチでのフェスの話を続けた。「もう二度と、ビーチサンダルでバスドラ叩くの、勘弁だからね」と言ってから、息をひとつ挟み、加えた。「って、言えたらいいのにな」次はないのだから、言えない。
口をついて出た私の言葉は、「もし、ビーチサンダルで叩く二度目があったら?」自分で言って、ひどいと思った。千華は嫌がるそぶりなく、「そこに絹子はいる?」と確認するので、私は頷いた。千華はそれを受けて、迷いなく答えた。
「下駄だっていいよ。叩いてあげる」
いくら千華でも無理だ。笑みを導こうという話のはずが、どうしてか、私は胸がうるさくなるのを止められず、視線をそらしてケーキを見た。顔が火照った感じがした。視界の端で、千華のフォークがガトーショコラに触れるも、そこから動かなかった。
「最初からプロを目指していたら、違ったのかな」
千華はぼんやりと言う。私と千華の見解は一致していて、もしプロになるとしても、大学を出てからでいい、というものだった。インディーズレーベルから〈So Long, Juliet〉でCDをリリースしないかという誘いもあったが、断った。もっとも、私と千華、ふたりそろって同じ大学に進むことを思い描いていた時の話だ。
「四年後の春に再結成?」
深く思い悩まず、私は言った。誰に禁止されたというんじゃない。私と千華が遠くに離れて住むから続けられない、それだけのことのはずだ。けれど、私が顔を上げてみれば、千華の表情は泣きそうにも見えてしまって、声は弱々しかった。
「それ、今は自信ない。四年後、私と絹子がどういう関係か、不安で。今も、気持ちがこんがらがって。誤解しないで、嫌いになるとか、そういうの絶対ないからね」
次、千華が言ったことで、私の心拍は跳ねた。
「私、好きな人がいるの」
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