「また会いに来たよ」 (同題異話・三月)



「また会いに来たよ」と、西ケ谷にしがや雛菊ひなぎくは、カウンター席の端――私が意図的に空けているスペース――に予備の椅子を勝手に運んでから置き、腰かけて、満面の笑みで言った。よくもまあ、笑顔の在庫が切れないものだと思う。というのは、こうして彼女の笑顔を見るのは、今日一回目ではないから。

 幼さの残る十四歳、中学三年生の笑顔は、ちょっと怖いくらいに眩しい。雛菊が、もともと顔立ちに恵まれたのはそうだけど。私が毎日鏡で見る、くたびれた二十八歳の女の顔とは、天地どころか太陽と海王星くらいの差がある。ひと言で表せば、雛菊はかわいい。店に来るようになった当初、左右で結っていた髪は、最近はずっと下ろされている。子供っぽい服は避けるようになった。少し背伸びをするふうな様子もグッド。

 私は冴えない喫茶店の雇われ店長、そして雛菊は常連客である。雛菊の家からすぐのところに、雑誌で何度も紹介されるような洒落たカフェ、〈ル・ミリュウ〉があるというのに、雛菊はてくてくと――いまだに自転車に乗れないので――片道三十分もかけて歩いて、うちの店まで来る。休日になると必ず来る。それが一日一度の来店で済まない。春休みである今は、店の定休日を除き、毎日やって来る。

 コーヒーの味には自信があるが、それだけで、何せこの店は冴えない。窓から良い景色が見えるでもない住宅地の一角で、もともとは高級感を醸していただろう木製の机や椅子も、創業から遙か時を経て、今では古ぼけて見えるだけ。

 商売が成り立っているとも言い難い。もともとの店長だったオーナーが、愛着の深い店を畳むのに忍びなく、しかし老境に入っては店に立つことが難しく、私を雇ったわけだった。要するに暇な時間が多い。今もまた、雛菊の他に客はおらず、閉店二十分前――十九時四十分であればさして緊張感もない。もはや都合がいいと、私は話を振った。

「雛菊の言う、『また』は、何か違う」

「そう? 季子すえこ姉さん、いつものお願い」

 雛菊に注文を受けるより早く、もう私は動いていた。雛菊の言うは、その日何回目の来店なのかで変わる。その日一回目ならホットのアメリカン、砂糖は要るがミルクは要らない。二回目ならアイスティー、ガムシロップもミルクも要らない。

 ちょうど今、三回目なら特製フルーツミックスジュース、特別に雛菊だけはパインが多め、である。冷蔵庫からカットした果実を取り出して、ミキサーに放り込む間で、雛菊はスマートフォンを使い、『また』の語意を調べたらしかった。

「季子姉さん、文学部だったんじゃないの。、って、前にあったことが繰り返される、とか、再び、とか、そういう意味みたいだから、いいんじゃない」

 確かにそれはそうだろう。聞きつつ、ミキサーに少々、氷を入れた。試行錯誤の末に辿り着いた比率、果実と氷のサイズ、うちの店ではコーヒーの次に自信のある一杯であり、私が店長にすわる前はメニューになかった品である。雛菊からの注文だと、パインが多くなるとともに、氷の比率が若干変わる。

 ミキサーが回り、うるさく音を立てるので、私の声も大きくなった。

「たった一時間半前までこの店にいたのに? もあったもんじゃない。戻ってきたって感じ」

 雛菊は嫌なことを聞いたという顔をして、そのままで、ミキサーが止まるまで待ってから、普通の声量で言った。分かっちゃいたけど呆れている、そんなふうだった。

「季子姉さん、今わりと、というかすごく下品なこと言わなかった?」

「そりゃあ、いいとこの家のいいとこの女子中の三年生とは育ちが違うから。季子すえこの名の通りに末っ子で、上に兄が三人もいれば、お上品は培われない」

 コップにジュースを注ぎ、太めのストローを差した。私は言ったことのしるしのつもりか、だん、と音が鳴る勢いで、自慢の一杯を雛菊の前に置いた。雛菊はそれで怯まない。むしろ私のふところに入り込もうとする。

「何度聞かされたかな、それ。何度も言うけど、だから、姉さんって言って懐いてくる十四歳を邪険にできないんでしょ。妹いなくて、そう呼ばれると嬉しいから」

 何度も言われるというのは、実際にそれが本当で、一度も否定したことがないからだ。今日も同様に否定できない、どころか、婉曲に肯定することをする。私は伝票を手に、ボールペンで、そこに書かれるはずのないことを書いた。

 伝票をカウンター席のテーブル、雛菊の前に置けば、雛菊の目は見開かれ、ほんのわずか、呼吸を忘れたようになり、けれどすぐさま、雛菊の顔は喜びを抑えられないものとなる。原因はよくわかる。私が伝票に、〈卒業・進学おめでとう。ジュースは私のおごり。〉と書いたからだ。直後、雛菊から聞かされたのは、感謝の言葉ではなかった。

「姉さん、もう素直に認めたらいいのに。私が好きで仕方ないって。普通に大好きなんでしょ? 結局、妹とかじゃなくってさ」

 こうも雛菊が自信を持って言うのは、最初はこっそり探りを入れるだけの問いだったのが、聞かれても聞かれても私が何ら否定しなかったからだ。直接に聞かれた今にしても、やっぱり私は否定しなかった。

「ノーコメント」

 雛菊は美味しげにジュースを飲み、合間、「でも」と言ってから、立っている私を見上げ、強い目線を向けた。「これすごく嬉しいけど、でも、誕生日プレゼントもこんなんだったら、私、怒って、もうこの店来ないからね」

 ずいぶんな脅迫だ。言いたいことはわかる。雛菊の誕生日は四月一日。学校の一学年では最も遅い誕生日となる。中学生であるうちに、雛菊の十五回目の誕生日は来ない。その日、雛菊は中学生ではなく高校生だと、だから子供扱いするなと、そういうことだ。

 もう客は来ないだろう、雛菊から追加の注文もないだろう、そう思って、レジの前まで行き、そこにあるお金を数え、確かめだした。どういう顔をして雛菊の前にいればいいかわからないから、というほうが正しかった。

 どうしたものかと思う。実際、本当に雛菊が大好きで仕方ないのであって、夢に出てくる度に告白してるくらいだし、誕生日祝いで喜ばせたい。うちの店に来なくなったら、ショックで店長を辞めるかもしれない。ちなみに、夢の中での告白の成功率は五分五分。

 焦りも覚えた。今日はもう三月二十五日で、四月一日まで残り一週間。プレゼントのことを忘れていたのではなく、ずっと決めあぐねていた。一ヶ月くらい前から。

 ふと視線だけ向けると、雛菊はやれやれと、わざとらしく肩をすくめてから、しかしどこか怖がるふうにヒントを出した。雛菊の声音に震えが混ざっているのを感じ取れた。

「私、遠慮してたんだよ? いくらなんでも、中学生が相手じゃ、季子姉さんの体裁が悪すぎるだろうって。だから、我慢して、私からは言わなくて。わかって」

 雛菊にそう言われてしまっては、私なんかで、とか、もう三十手前なんだけど、とか、諸々、色々、こちらの不安や遠慮が何もかも吹き飛ぶのを知るだけだった。雛菊の言葉が色っぽく感じられて、くらっとして、飛ばずに残ったのは好意だけ。完全敗北で白旗を振る。

 私はいったんレジのお金をもとに戻し、ボールペンを握り、わざと雛菊に背中を向け、見られたくない物を自分の体で隠して、尋ねた。

「お客さん? ご注文は、女友達からの気の利いたプレゼント?」

 雛菊がテーブルに手をつく音が聞こえた。身を乗り出すようになっているのだろうか。雛菊からのオーダーは別だった。

「そんなの欲しくない。それ、もらっても傷つくだけ」

 雛菊から顔を背けたまま、私はどうにか笑みをこらえた。まだ気が早い。

 うちの店には、六枚綴りのコーヒーチケットがある。五杯分の料金で、六杯飲めるというものだ。お得なはずが、なぜか雛菊は使いたがらない。レシートを拒み、必ずお釣りが発生する支払い方をする。私はありがたく雛菊の手に触れさせてもらっている。

 さて、六枚綴りのチケットを渡したとして、アイスティーには使えない。ホットのアメリカンには使える。特製フルーツミックスジュースにはもちろん使えない。つまり、雛菊は一日に一枚しか使わない。今は春休み、雛菊は毎日来る。明日から使えば、定休日を挟み、六枚目を使うのは四月一日になる。

 ボールペンを握る私の手には緊張があった。急に不安にもなる。これで外したらどうしてくれよう。とてつもなく格好悪い。そもそも、ふられたら立ち直れるのか。やっぱり店長辞めそう。なんて思いながら、コーヒーチケットに、やはり書かれるはずのないことを書き込んだ。少しだけ息を整え、不安を押し込める。今くらい、二十八らしく大人ぶってみよう。ちょうど二倍の年齢差は、あと一週間すれば二倍に満たなくなる。それからずっと、二倍に戻る日は来ない。

 私はゆると歩いて雛菊のもとへ。コーヒーチケットを手にして、すぐ前に立った。私が思った通りに身を乗り出していた雛菊は、椅子に座った。

「四月一日は仕事だから、定休日まで待って。一緒に買い物に行こう。気に入った物、プレゼントしてあげる。これ、当日に渡せない分の埋め合わせ」

 私は雛菊の前、ジュースのそばに、ゆっくりとコーヒーチケットを置いた。目にしてすぐ、雛菊のかわいい顔に憤りの気色きしょくが混じる。そうだろう。私は、チケットを置くための手を、なるべく長い間、六枚目に重なるようにした。気づくのを遅らせた。演出というのが半分、怖かったというのが半分。雛菊は声を荒々しくした。

「仕事はしょうがないじゃん。待つって。そうじゃなくて、こんなの。こういう子供扱い、もうやめてっ――て――」

 言う途中、強い語気は急に失せ、代わり、何も言えないまま、雛菊の顔がみるみる赤くなっていった。こっちまで恥ずかしい。よかった、外さなかった。とてつもなく格好良いかはわからないけど、悪くはなかった。たっぷり沈黙した後、雛菊は主張をひるがえした。言うことに反して、顔は緩みっぱなしになっていた。

「今回は特別に許すから。これ、もらう。次やったら許さないから」

 雛菊はチケットの六枚目をじっと見つめる。これ以上緩みようがないだろうと思えた顔つきが、さらに緩んでいった。外さなかった、というより、逆転サヨナラ満塁ホームランの大当たり、という感じだった。

 私がボールペンを走らせたのは、六枚目だけ。高校生になった雛菊が、誕生日に来て使う一枚だけ。そこには書いてある。書いたのは――

 ――〈四月一日『雛菊・季子 交際記念日』毎日来てね。〉

 雛菊は誰にも渡すまいという勢いで、がっとチケットを掴み、「めっちゃ恥ずかしい。こういうの、二十八の大人がやること?」と言うので、格好良いからは程遠かったらしい。雛菊は鞄から財布を出し、チケットを入れようとして、しかしためらった。

「これうっかりなくしたら、すっごい立ち直れない。絶対になくさない場所ってどこだろう。鞄の底板の裏?」雛菊はそう言って鞄と格闘してから、ふと私に目を向け「ああもう、恥ずかしくてまともに顔見れないし」と言うなり、ストローを無視して勢いよくジュースを呷り、ごん、と音を立てて、空のコップを置いた。ずいぶんとせわしない。

「ほんと恥ずかしいし」

 ぽそりと言って後、雛菊はチケットをしまう場所をどうにか落ち着けたらしく、鞄を閉めるなり席を立った。普段の雛菊であれば、自分で運んできた椅子をもとの位置に戻すのだが、今夜、その手間は省かれた。雛菊は私に顔を見せまいとしている。店のドアへ向かい、途中、私に背中を向けて、雛菊は言った。

「あー、顔燃えるってば。ジュースおごってくれてありがと」

 私は何も言わずに見送った。私も今、顔真っ赤、なんて、言えなかったので。半ば駆けるようになって、雛菊は店のドアを力強く開け、外へ。ドアに付いたベルががらんと鳴る中で、雛菊はやっと振り返り、私に真っ赤な顔を見せて――そして私の真っ赤な顔を見て、ひとつにやけてから――威勢良く言った。

「また会いに来るからね!」




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