百合咲く歓喜
「何これ」
思わず聞いてしまった。
私がこの
この高校は確かに景観がいい。内にいても外にいても。海を見下ろす岬に校舎があれば、そうなる。
坂の上に校舎があるわけだが、登下校のみならず体育の授業でグラウンドに出る際にまで坂を上り下りしなければならない苦労というのは、美冬にとっては考慮に入れるに値しないものであるらしい。もっとも美冬は、ちょくちょく体育をさぼる。
彼女に言わせれば、「美しくない」だそうだが、それについては美的センスの問題ではなく運動神経の問題――例えばまっすぐにボールが投げられないとか、逆上がりができないとか、であると、小学校からの友人である私は知っている。
美術室の一角、美冬は美術部で絵を描く際の定位置に座り、目の前にはイーゼルが立てられ、そこには描きかけのカンバス――私をモデルにした人物画、も置かれているし、油壺や溶き油、絵筆のたぐいもすっかりそろえられているのだが、パレットの上にあるのは絵の具ではなく、くしゃくしゃになった赤の折り紙だった。私はそれを指して、何なのかを問うたわけなのだ。
「薔薇香る憂鬱、だったもの――と、椿本・ベルナデッタ・
開け放した窓の向こう、空から海から差し込む陽光を浴びながら、美冬は物憂げに言った。絵を描くのに邪魔になると、ごくごく短く切った髪は、表情の一切をさえぎらない。
なるほど、と、私は納得してしまうのだった。美冬とその姉、美景の姉妹は、美的センスを足して二で割らずに、妹に全部を振り分けたようなのである。あの姉なら、この得体の知れない造形も成してしまえるだろうと、そう思える。そもそもが、歩く前衛芸術みたいな人なのだ、美冬のお姉さんは。
「香るの? それ」
「香ってたよ。昨日の夜は。ローズじゃなかったけどもね。たぶんシトラス」
まあ、さもありなん、というところだろうか。あのお姉さんならば。
「で、今は何になったの?」
「薔薇香る憂鬱は潰されて、百合咲く歓喜になった――と、椿本・ベルナデッタ・美景は言ったわけなのだけど、
当然、私にはわからない。首を横に振って応じた。
私は椅子をひとつ持ってきて、美冬の隣に置き、腰かける。話し相手を務める役得と思って。
私はこの角度から見る美冬の顔がたまらなく好きなのだ。窓の向こうに光と海と空があり、その手前に前を向く美冬がいる、これが見たくて美術部に入ったと言っても過言ではないくらい、ひどく好ましい。
横顔を向けてくれていればそれでいいわけで、パレットにあるのが絵の具ではなく謎の折り紙でも問題はなかった。このまま話を続けたくて、私は美冬に尋ねた。
「それで、その〈百合咲く歓喜〉は、何で美冬の手もとにあるの?」
「恋が叶う魔力があるから、って、ほとんど強引に渡されてね。私、好きな人なんていないし、いたこともないんだけどもね」
私にとっては非常に残念なことに、美冬とその姉、美景の姉妹は、恋愛への意欲を足して二で割らずに、姉に全部を振り分けたようなのである。美冬は恋愛に興味を示したことが一度たりともない。
すなわち、私の恋が実る気配は――それを自覚した小学校五年生の頃から、全く、ちっとも、これっぽっちも、ない。
さておき、疑問は別なところで湧いた。
「だったら、なおさら不思議なんだけど、何で美冬の手もとに? 恋が叶う魔力って、あのお姉さんのほうが必要としてるんじゃないの?」
「それが一番恐ろしいところでね。私はもう恋人ができたからいらない――と、椿本・ベルナデッタ・美景は言ったの。本当に魔力があるのかと、疑いたくもなるわけ」
美冬のお姉さんは、恋に破れるのが趣味なのだろうかというくらいのものなので、私としても美冬と似たような気持ちになる。
「それ、本当に?」
「お姉ちゃんの胸元にキスマークがあってね、
すでにキスマークが胸元にあるとなると、その次は――まあ、美冬が憂鬱に感じるのも無理はない。
「その、〈百合咲く歓喜〉ってやつ、私がもらってもいい?」
私はと言えば、
「いいけど、詩子、好きな人いるの?」
「目の前にいるよ」
匂わせるどころか、こうして明言してみても、美冬は美冬のままなので困る。
美冬は自身の眼前を見る。描きかけの人物画。モデルは私。
「ああ、ナルシシズム」
美冬はひとつ頷く。かわしているというのでなく、本当に納得しているふうなので始末に負えない。もうひとつ頷いてから、美冬は言い足した。「確かに、自己愛って、永遠に叶わない恋かもしれないね」こう言って、真顔なのである。
私の恋は永遠に叶わないかもしれない、そんな気にさせられる。
恐れはあった。でもそれ以上に限界だった。四月、五月と、こんなやりとりを毎日のように続けていれば、振り切れもする。私は、半ばひったくるように〈百合咲く歓喜〉を手に取り、勢い任せで言ってしまった。
「じゃなくて、私、美冬が好きなの。言ってることわかる?」
「ああ、確かに。詩子の目の前にいるの、私だね」
理解はいくらか前に進んだようだが、会話は噛み合わない。
「好・き・な・の。わかる? だ・い・す・き。わかる?」
「私、美しいものが好きなの」
美冬はこちらを向き、やはり真顔なのである。これは遠回しにふられたのだろうか。そう思い、ひるんでしまっていると、美冬は私に顔を近づけ、そのまま一気に距離を縮めて、私の唇に自分の唇を重ねた。唇を離してから、吐息を感じられる至近距離で、話を足した。
「で、私、美しいものじゃないと、描きたいと思わないわけね」
わずかの間、息ができなくなった。
描きかけのカンバスは人物画、モデルは私。私は美冬の中で、描きたいと思う美しいもの、つまりは好きなものに分類されているようなのである。それは大変嬉しい。が、理解が及ばないところもあった。
「どうして? 美冬って、恋愛なんて興味ないでしょ」
「それはそうなんだけども。詩子の裸が見られるなら、悪魔に魂を売ってもいいような気がして。プールの着替えの時とか、ちゃんと全部見られないのが残念だなって、思ってたわけね」
私だけが顔を赤くしていて、美冬はやはり真顔だった。
「……えっと、何? 体目当て?」
まあ、それでも許してしまえるくらいには、美冬のことが好きなんだけども、それは言わない。
「失礼なこと言わないでほしいよ。ヌードモデル目当てと言ってほしい」
人にキスしといてそう言うほうが、よっぽど失礼だからね?
「美冬、ばか。キスとかしなくても、美冬が描くんだったら、ヌードモデルだってやるよ。さすがに、美術室だと困るけど」
と、言ってみれば、美冬はむしろ悩ましい顔つきをするのだった。
「ああ、そうか。絵に描いちゃったら、詩子の裸を独り占めできないんだね」ひとつ納得して、美冬は付け足すのだった。「やっぱり、体目当てということで」だいぶ最低なことを言われた気がする。
「独占したいの?」
この際、
「うん。詩子を独り占めしたくて、できれば毎日、裸を見たい」
たぶん自覚はないんだろうけど、それ、ほとんどプロポーズだよ。
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