分かった。あの人、ブレインウォッシングされてるんだ

 料理長への禁断の恋心も落ち着きを取り戻した後、私は料理長が丁寧に仕上げた烏龍茶を二つ、設楽さんたちが待つ個室へと届けた。


「こちら! アイス烏龍茶になりまぁあす!!」

「……」

「はいどうぞー!」

「おう。ありがと」

「はいッ!! どぞー!!!」

「ありがとうございます」


 先程、お昼のメロドラマよろしくあれだけ泥沼の男女関係のもつれを演出していた個室部屋の雰囲気は、意外にも明るかった。さっきのあのドロドロのセリフは何だったのかと首を傾げながら、私は烏龍茶を運び終わり、何事もなく厨房に戻ってきた。


 そして今、私は熱いお茶を堪能しつつ、小休止に入っている料理長と二人で、厨房で椅子に座って休憩中だ。本来なら休憩中は事務所で寛いでもよいのだが……今日はオーナーが事務所にいる。あのやる気のない死んだ魚の目をしたオーナーと同じ部屋で長時間過ごすなど、まったくもって落ち着かない。


 それよりも、同じく小休止している料理長と一緒にいたい。どうせなら、ホッと安心できる料理長と一緒にいたいと思うのは、私だけではなく誰しもが思うところだろう。それに……


「川村さん。はいどうぞ」

「? どら焼きですか?」

「『をだや』のどら焼きです。私の教え子が今日いくつかくれたんです。お一つどうぞ」

「ありがとうございます!」

「美味しいですよー」


 料理長と一緒にいれば、こうやって何かしらおやつをごちそうしてくれるから。


 今日のおやつは和菓子の人気店『をだや』のどら焼き。食べたことがある人が言うには『もはやどら焼きではなく神さま』と思えるほど美味しいらしい。


 料理長と二人で、どら焼きを頬張る幸せ。んー……疲れているときの甘いおやつは美味しいなぁ……料理長も幸せそうな顔で上品にどら焼きを頬張っている。同じものを食べて同じ幸せに浸れる……うーん……今日は色々と大変だけど、その分うれしい出来事も多いなぁ。


 そうして、二人でどら焼きを堪能しながら休憩すること、約15分。お客様の誰かが従業員を呼ぶ、『ピンポーン』という音が厨房に鳴り響いた。


「あら」

「お?」


 私と料理長は、揃って壁掛け時計の隣に配置された電光掲示板を見る。従業員を呼ぶお客様の番号は28。この番号は……設楽さんたちの個室だ。


「あ……行かなきゃ」


 つい条件反射で、椅子から立ち上がってしまう。残り少ないどら焼きを口に放り込み、私は急いでそれを咀嚼した。


「川村さん、休憩中なんだから、行かなくていいですよ?」


 そんな私の様子を見かねて、料理長が優しく私を制止するのだけれど。


「でも料理長。あの個室には、私が行かなきゃ」

「責任感があることはよいですが、休憩も立派な仕事の一つですよ?」

「でも見て下さい料理長」


 私は厨房から見えるフロアの様子を指さした。料理長も不思議そうな表情で、私が指差すフロアを眺める。


 フロアは今、てんてこまいだ。数人のフロア担当がせわしなく動き回り、誰一人として今の設楽さんたちからのピンポンに気付いてない。……いや、気付いてないフリをしている。


「……あれ。今、フロアってあんなに忙しいんですか?」

「……そうみたいです」

「でも厨房の方は、今そんなに忙しくないですよね? オーダーも溜まってないし」

「そ、そうなんですけど……」

「お客様だって、言うほどいらっしゃってないですよね?」

「ま、まぁ……」


 ……私には、見えていた。フロアのみんな……特に朋美ちゃんは、別段忙しいというわけではない。だってさっきまで、朋美ちゃんは暇そうにあくびをし、眠そうな目をゴシゴシとこすっているのが、私には見えていたから。


 ではなぜ今、みんなあんなに忙しそうにせわしなくフロアを右往左往しているのか。それはひとえに、設楽さんたちの個室に足を運びたくないからだろう。


 だからみんなは、さっきまではあんなに暇そうにしていたのに、『ピンポン』が鳴り響いた途端、まるで覚醒したかのように機敏な動きでフロアの中をうろつきはじめたのだろう。朋美ちゃんの、あの超高速の反復横跳びがすべてを物語っている。表情が鬼気迫っていて、あれではフロアの他のお客さんは声をかけづらいのではなかろうか……そんな余計な心配をしてしまう。


 そんな不審な光景を眺める料理長も、やがてすべてを察したようで……


「……分かりました。では川村さん、お願いできますか?」

「はい。行ってきます」


 と、私が設楽さんたちの個室に行くことを呆れながら許可してくれた。その上……


「そのかわり……今晩の残りで適当にお弁当作っちゃいますから、持って帰って召し上がって下さい」

「いいんですか!?」

「いいも何も休憩中にも働くんですから、それぐらいさせて下さい。私からのお礼です」


 とこんな具合に、ご褒美のお弁当を作ってくれる約束までしてくれた。料理長のお弁当……さぞかしとても美味しいお弁当なんだろうなぁ……仕事が終わった後の楽しみが増えたぞこりゃ。設楽さんたちの相手は正直とても疲れるけれど、その分、ご褒美はとても豪華だ!


「ありがとうございます! では行ってきますね!!」

「はいお願いします」


 うれしいご褒美も料理長からもらえるようだし、私は意気揚々と設楽さんたちの個室へと向かうことにする。口の中に残るどら焼きの甘さを、料理長が淹れてくれたお茶でさっぱりと洗い流し、私は胸を張って、個室へと向かった。



 そうして私は、個室の前に到着。しかし、この個室を前に、私はまたもや異変に気付いた。


「……う?」


 目を凝らさずともわかる。個室を仕切る障子の隙間から、灰色の瘴気がじんわりと漏れ出ているのが、私には見える……


「うう……また何かあったのかなぁ……」


 さっきまでの勢いはどこへやら……途端に私の心が萎縮し、右手がニギニギとエア乳搾りを行い始めた。


 ……しかし、いつまでも妄想の中の花子のおっぱいに癒やされ続ける訳にはいかない。意を決し、私はエア乳搾りをやめて、障子に手をかけ、そして勢いよく開いた。


「大変おまたせ……!?」


 途端に私の視界いっぱいに広がるのは、どよーんと重苦しく、そして灰色に着色された室内の空気。まるで夏の日の湿度が高い時の空気のように、重苦しい空気が私の全身にまとわりつき、頑張って絞り出した私の空元気と決意をどんどんと吸収していく。


 そして……


「……ずーん」


 今までの、人を殺しそうなほど鋭かった設楽さんの目に覇気がなくなり、顔色が青黒く変色していた。まるで2時間ドラマで毒物を飲まされてしまった被害者のように生気がない。その目も鋭さは失ってはないものの、どこかうつろで濁っている。


 これは、設楽さんの身に何かあったに違いない……このセンパイさんに何かひどいことでもされたのか!? 考えうる可能性が頭を駆け巡っていくけれど、まずは設楽さんの様子を伺うのが先だ……ッ!


「……て、どうしました!?」

「だ、大丈夫です……た、ただ、この人に……」

「!? な、何かされたんですか!?」

「調教され、も、弄ばれて……」

「!?」


 調教されて弄ばれていたとな!?


「誤解を招く言い方はやめろと言ったはずだッ!!」


 センパイさんが何やら言い訳を必死に叫んでいたが、そんなものは私の耳には届かない。


 設楽さんは、このセンパイさんという男に調教されて弄ばれていた……最初に私の頭をよぎった二人の関係性……それは、あながち間違ってなかったのか……いや、想像していたよりも、事態はもっと深刻でおぞましい……


―― おい設楽ァ……俺以外の人間には、もうそのカワイイ笑顔を向けるなよォ

   さもないと……分かってるよなぁ……?

―― は、ハイ……先輩……うう……


 そんな、設楽さんの弱みに付け込んだセンパイさんの悪行の数々が……設楽さんから笑顔を奪ってしまったのかもしれない……


 設楽さんは気付いたんだ……今日、自分が洗脳されていたことに……これは、設楽さんにとってはチャンスなんだ……このセンパイさんから逃げ出し、自分だけの自由な人生を歩みだす……その一歩なんだ。


 ならば私は、そのお手伝いをしなければ……お客様を守る……それは、接客業として当然の行い……まして、あの料理長の元で働く、このチンジュフショクドウのフロア担当であれば、なおさら……!!


「……ッ!!」


 私は振り返り、センパイさんをにらみつける。これ以上、設楽さんを好きにさせるわけにはいかない! 設楽さんに手を出すことは、この私が許さないッ!


「……えーと」

「……ッ! ……ッ!!」

「……注文、いいかな?」

「お決まりですか……ッ!?」

「あの……さつまいもアイス、ふたつで」


 ふざけたことを……さつまいもアイスのオーダーで私を煙に巻こうとするとは……しかし、オーダーはオーダーだ。私には、オーダーを厨房に持ち帰り、その品を再びお客様の元に届ける義務がある……。オーダーは持ち帰らなければならない……。


 しかし、だからと言って私も黙って引き下がるつもりはない。このセンパイさんをひときわ厳しい目で睨みつけ、そして『これ以上設楽さんに何かしたら許さんッ!!』という、私の揺るぎない決意を叩きつける。


「以上でよろしいですか……!?」

「お、おう……」

「では……ごゆっくり!!」


 私の揺るぎない決意を全身に受けて戸惑うセンパイさんをよそに、私は一度設楽さんの様子をチラと伺って、個室を後にする。障子を閉じるのを忘れていたが、ピシャリと障子を閉じる音が聞こえたから、センパイさんが閉じたようだ。センパイさんめ……あの密室の中で、設楽さんにどんな悪事を働くつもりだ……


 ともあれ、これから厨房に戻って、設楽さん救出作戦を考え無くてはならない。私は頭をひねりながら、厨房へと戻っていく。


 警察に連絡して、逮捕してもらおうか……いやダメだ。センパイさんが設楽さんを弄んでひどい目に遭わせたという証拠がない……ならば従業員全員で踏み込むか? ……いやそれもダメだ。他のお客様に迷惑がかかるし、なにより大事になってしまう……


「ぁあ川村さんおかえり……て、どうしました?」


 厨房に戻るなり、どら焼き片手に緩みきっていた料理長が、私の顔を怪訝な表情で眺める。私はよほど厳しい表情をしていたらしい。料理長にそう言われて、はじめて自分の眉間にマリアナ海溝レベルのシワが寄っていることに気付いた。


「……あ、料理長」

「何か問題でもあったのですか?」

「えっと……大問題です。あの設楽さん、センパイさんという男の人に、洗脳されていたんです!」

「へ……?」


 私は料理長に、先程個室で明るみになった驚愕の事実を告げる。センパイさんに弱みを握られ、言うことを聞かざるを得ない設楽さん……そんな設楽さんを洗脳し、おのが欲望のままに設楽さんを調教して弄んだセンパイさん……そして今日、その洗脳が溶けて自分を取り戻した設楽さん……


「そ、そんなことが……」

「あったんです。にわかには信じられないことですが、これは事実です……」


 料理長が、私と同じく眉間にシワを寄せる。先程センパイさんの大声がお店の中で鳴り響いたときのように、その眼差しは歴戦の武道家のように厳しい。きっと私と同じように、設楽さんを守らなくてはならないという正義感が、料理長の中で芽生えているのだろう。


 しかし、これはどうしたものか……このままあの二人を二人きりにさせておくのは危ないし……かといって、意味もなくあの個室に顔を出し続けていれば、あのセンパイさんに必ず怪しまれる……余計な警戒心を抱かれては、設楽さんをあのセンパイさんの魔の手から救うことは出来なくなるだろう……


「えっと……川村さん?」

「はい」

「何かの間違いということはないですか?」


 私の報告を聞いた料理長は、落ち着いて私にそう問いかけるが……やはりこの人は優しい。きっと性善説を信じ切っているのだろう。私は料理長のそんな優しさが好きだけれども……


「えっと……料理長」

「はい?」

「私の報告を聞いても、信じられないということでしょうか……?」


 料理長のその態度は、要は私が信じられないと行っていることと同義だ。それに、手をこまねいているうちに、設楽さんをセンパイさんの魔の手から救うチャンスを逃すということもある。善は急げだと思うのだけれど……


 でも、料理長が言いたいことは、実はそういうことではないらしい。


「違います。私の周囲にもいるのですが、とかく言葉選びが特殊で、それが原因で人に誤解を与えてしまう人というのが、世の中にはいらっしゃいます」

「はぁ……」

「その設楽さんという方も、そんな感じの人なのではないでしょうか?」

「でも……」

「直接お会いしてないので何とも言えませんが、設楽さんという方には、そんな印象を私は持っています」


 ……つまり、言い方が大げさなだけで、設楽さん本人は決してあのセンパイさんからひどい目には遭ってないということか……?


「アイスは急いで作りますから、とにかくそれを持って行って、もう一度様子を伺ってみてください。ホントにそういう状況なら、次は私が行きます」

「……分かりました」

「くれぐれも、見切り発車で先走りしてはいけませんよ?」

「でも……」

「これはお客様だけでなく、川村さんを守ることにもなるんですからね?」

「……はい」


 最終的に『先走るな』と釘を刺された……心の中に少しだけ不満をためながら、私は料理長がさつまいもアイスを作り終わる、その瞬間を待った。



 料理長がアイスをキレイに盛り付け、さつまいもチップをアイスにぶすっと差し込んだ。これでご注文のさつまいもアイスは完成。その2つを料理長から受け取り、お盆に乗せて個室へと運ぶ。


 料理長は『先走るな』と言っていたけれど……もし、設楽さんが洗脳されている証拠を私が見つけた時は……その時は、容赦なく二人の間に割って入るつもりだ。


 設楽さんは私に『調教され、弄ばれた』と訴えていた。……つまり、設楽さんは私に助けを求めたのだ。見ず知らずの飲み屋の従業員に助けを求めざるをえなかった……つまり、それだけ設楽さんは追い詰められているということになる。


 お客様が、従業員である私に助けを求めた……ならば、私がその人を助けなくてどうする? この状況を我が身可愛さに手をこまねいて見ていたら……私は、故郷の花子に顔向けできない。胸を張って花子の乳搾りができなくなってしまうではないか。


「大丈夫。私なら出来る……見ててね、花子」


 個室が近づくに連れ、自然と花子の姿が脳裏に浮かぶ。私は、あのつぶらな瞳の花子と、後ろめたさを感じることなく、胸を張って会いたいんだ。故郷のあの牧場で私を待ち続ける花子に会った時、胸を張って乳搾りをしたいんだ。


 個室の前に到着する。緊張する胸を沈めるべく、何度か深呼吸する。お盆を持つ手が震える。一度そばのワゴンにお盆を置き、目を閉じて、花子を思い浮かべる。


――ヴモッ……ヴモォオッ


 私の頭の中の花子は、つぶらな瞳で私にこう語りかけていた。


『大丈夫。あなたなら出来るよ 私の乳搾りのように、簡単に』


「よしッ。行くッ!!」


 意を決し、そばのワゴンに置いたお盆を手にとって、私は再び障子を開いた。


「大変おまたせいたしました! さつまいもアイスお2つでーす!」


 障子を開くとすぐに、出来るだけ元気な声で挨拶をする。設楽さんには、『私達がいますよ。だから安心してくださいね』という意味を込めて。そしてセンパイさんには、『設楽さんに何かしたら、張り倒す!!!』という威嚇の意味で。


「はいどうぞー」

「……」


 設楽さんの前に、さつまいもアイスを置いた。かわいそうに……設楽さんはうつむき、私の方を見ず、肩を震わせて佇んでいる……私がしばらく見ないその間にも、このセンパイさんに何かひどいことをされたのか……はたまた何かひどいことでも言われたのか……とにかく心配になるほどの意気消沈っぷりだ。


「……ッ!!!」

「んお?」


 続けて私は振り返り、設楽さんの向かいにいる、センパイさんを睨みつける。もう一つのさつまいもアイスを手に取り、そして……


「……はい、どうぞッ」


 ガシャンとテーブルの上に、乱暴にさつまいもアイスを置いた。


 これは、センパイさんへの牽制であり、宣戦布告であり、そして設楽さんに何かあったら許さないという、私の揺るぎない決意の宣言だ。


「あ、ありがと……」


 私の牽制はセンパイさんも理解出来ていたようで、額から冷や汗を垂らし、苦笑いを浮かべていた。私の迫力に萎縮しているようで、睨みつける私の目を見ず、目をそらしている。


 ……私は知っている。こういう風に周囲の人にひどい仕打ちをする人というのは、実は根っこは小心者な人が多いということを……。


「……ッ!!」

「……えーと……」

「……ッ! ……ッ!!!」

「なんすか……?」


 白々しい……私の迫力に押され、何も言えなくなったくせに……


「……ッ!」

「……?」

「……ごゆっくりッ!!」


 私はセンパイさんをひとしきり睨みつけた後、そのままの面持ちで勢いよく障子を開き、そしてピシャリと閉じた。閉じた時、障子の音がスパンと鳴って、私の怒りを代弁してくれたかのようだった。


 ……しまった。センパイさんのブレインウォッシングの証拠を見つけることが出来なかったが……まぁいい。あとでお茶を持っていかなければならないし、最後のお会計のときもある。その時は覚悟しろ。私はセンパイさんとやらの魔の手から、設楽さんを救い出す。


 ……花子、私はがんばるからね。


――ヴモッ ……ヴモォオオッ

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