泥沼の愛憎劇に陥りそうで

 あの二人がこのお店に来て一時間ほど経過した。私は変わらずあの個室に料理やお酒を運び続けているが……何度もあの個室に通うことで瘴気にも慣れてきたのか……私の警戒心は、次第に薄れつつあった。


 今も私は、新しいオーダーのホッケと軟骨の唐揚げ、そしておかわりの黒霧島ロックを、二人が待ち受けるあの個室へと運んでいる。最初こそあれだけ重かった私の足取りも、今では500グラムほどで落ち着いている。


 個室前に到着する。来店時の時のような緊張も特になく、私は勢いよく障子を開けた。


「大変お待たせいたしましたー! ご注文の品でーす!」


 その途端に会話が静まる二人。私達三人を沈黙が包むが、それもそろそろ慣れてきた。


 適当に説明を済ませホッケと軟骨の唐揚げを置いた後、黒霧島を設楽さんの眼の前に置く。併せて空になったグラスとお料理の皿を回収し、私は一言『ごゆっくりー』と声をかけて、障子を閉じた。


『ホッケうまっ』

『美味しいですね』


 途端にそんな声が聞こえてくる。私のメンタルがこの状況に慣れてきたせいか、二人の声が心持ち、柔らかく、優しい印象を持ち始めた。手に持つお皿に視線を落とすと、料理長が作り、私が運んだ料理の数々は、残さずキレイに平らげられている。まるですでに洗ったかのようにキレイなお皿を見るのは、お料理を提供した側としてはとても気持ちよく、そしてうれしいものだ。


「なんだ……いいお客さんじゃん」


 ホッと出たため息とともに、そんな言葉が口から出た。キレイなお皿を眺める私の口が、自然と微笑んだのだが……


 そんな平和も、あまり長くは続かなかった。


「料理長! お料理を運んできましたっ!!」

「はいありがとうございます。お皿はそちらに置いておいてください」

「はいっ!」


 厨房に戻った私は料理長に言われるままに、回収してきたお皿とグラスを厨房のシンクの中へと置いておいた。いつもなら、今ぐらいの時間になるとシンクの中は洗い物でいっぱいになっているのだが……不思議と今日は片付いている。


「今日は洗い物少ないですねぇ料理長?」

「今日はフロアの皆さんが率先してお手伝いしてくれるんです」


 料理長はそう言いながら、ヤリイカの活造りを仕上げている。これはあとで詳しく聞いたのだが、設楽さんの個室に料理を持って行きたくない朋美ちゃん以下私以外のフロア担当の全員が、我先にと厨房のお手伝いを買って出ていたそうだ。


 おかげでフロアのみんなは『私は忙しいからあの個室には行けない』アピールをすることが出来、厨房の料理長もお料理に専念することが出来る。私は私であの個室にも慣れ始めていたため、とても気が楽な上、他の仕事は朋美ちゃんたちがこぞって進めてくれるから、仕事が少なく楽になった。つまり、みんながwin-winの状態だ。素晴らしい。


 料理長が入れてくれたお茶をすすりつつ、料理長の手際を眺める。料理長がスッスッと手際よく切っていくイカの身は、まるで水晶のようにキレイに透き通っていて、見ていてとても美味しそう。足がうにうにと動いているから、とても活きが良いイカのようだ。


「美味しそうなイカですね~……」

「美味しいですよ? せっかくですから、あとでみんなで食べましょうか」

「いいんですか?」

「少し多めに仕入れてるんです。仕事が終わったら、みんなでちょっと食べましょ」

「楽しみです!」


 ……懐かしい。故郷でよく食べた、ヤリイカの活造り……遠く離れたこの地で、またあの味に会えるとは思ってなかった。


 郷愁が私の胸に訪れる。あの広大な土地を見渡せる母屋……その隣にある、独特の匂いを振りまく厩舎……そしてその中で私の乳搾りをいつも待ってくれている、つぶらな瞳の雌牛の花子……懐かしい……。


「ぐすっ……」

「川村さん?」

「あ、すみません……なんか、故郷の事を思い出して……」

「ああ、そういえば川村さんのご実家って、酪農をやってらっしゃるんでしたっけ」

「はい。牛の花子がカワイイんです!」

「そういえばこの前いただいた牛乳、美味しかったですもんね」

「はい! 花子のおっぱいは私も大好きです!」

「また頂いても良いですか? そのまま飲んでも美味しいですし、あれで作った牛乳プリンがまた格別なんです」

「はい! またお持ちします!」

「楽しみにしてますね。その時は川村さんにもおすそ分けしますから」

「はい!」


 そんなうれしい提案を笑顔の料理長の口から聞けた、その時である。


『例えが意味不明で大げさすぎるッ!!』


 男の人のそんな怒声が、お店の中に鳴り響いた。


「「「……!?」」」


 従業員の全員が、声の発生源に顔を向ける。ついさっきまで私と談笑をしていた料理長はもちろん、フロアで忙しそうに動き回る朋美ちゃんをはじめとしたフロア担当の人たち……そして『何事?』と事務所から出てきたオーナーのにごりきった眼差し……全員が、声の発生源を見た。


「!?」


 もちろん、私もその方向を睨む。その声の発生源……あの、設楽さんたちの個室のある、お店の奥の方を。


「……何事でしょうか」


 料理長が、いつになく深刻な声で呟いた。その眼差しはとても鋭い。まるで歴戦の戦士を思わせるそのキリッとした眼差しは、いつもはお母さんのように優しい料理長とは正反対の厳しさだ。


「何でしょう……」

「聞こえたセリフから察すると、そこまで物騒なアクシデントにはなってないようですけど……」


 料理長はその厳しい眼差しのままお店の奥の様子を伺うが、その後は大きな声は聞こえてこない。さっきのセリフを冷静に思い返す。『例えが意味不明で大げさすぎる』? セリフの字面通りに受け取ると、なんだか漫才のツッコミのセリフに見えなくもないけれど。


 思い当たるのは……やはりあの二人。仏頂面で不機嫌オーラを振りまく設楽さんと、そのセンパイさんが巣食う、あの戦慄の個室部屋……しかし、あの人達はちょっと仏頂面で機嫌が悪そうに見えるだけの設楽さんと、ぬぼーとして目が死んでいるけど気遣いは出来るセンパイさんの二人が、ただ美味しくご飯とお酒を楽しんでいるようにしか見えないんだけどなぁ……


「咲希ちゃん……今の聞いた?」

「ぁあ朋美ちゃん」


 心配になったのだろうか。フロアで存分に『私は忙しい』アピールをしていた朋美ちゃんも厨房にやってきた。すでに発生源の目星はついているようで、左手がカタカタと震えている。何より顔が青白く、気を許せば途端にエジプトのミイラのようになってしまいそうな様相だ。


「ねえ咲希ちゃん……やっぱり、さっきの声……」

「……そう思う。きっと、設楽さんたちの個室からだと思うよ」

「ひいッ!? ごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃぃぃ」


 私の口から『設楽さん』という単語が出るなり、途端にゲッソリとやせ細ってツタンカーメンみたいな顔つきになる朋美ちゃん。私に背を向けてその場にしゃがみこみ、何かをぶつぶつつぶやき始める。


「朋美ちゃん?」

「いやだいやだいやだ……」


 ……そんなにあの個室が恐いのか。そんな個室にだんだん慣れてきて、平気で顔を出せるようになってきた私は、一体なんなんだ。


「……ちょっと様子を見てきてもらえませんか?」


 私と朋美ちゃんを尻目にいまだ警戒を解かない料理長が、声がした方を見つめながら私にそう指示を出した。


「私がですか?」

「ええ。さすがにさっきの大声は……」

「慣れてきましたし、別にいいですけど……」

「ありがとうございます。何か問題があれば、すぐに戻ってきてください。私が出ますから」


 そう答える料理長の顔は険しい。これは私を気遣っているゆえの『私が出ます』ではない。自分でなければ対処が出来ない場合もあると判断した故の、みんなの長としての使命感がそうさせているのだ。きっとそうだ。


 タイミングよく、従業員を呼ぶ『ピンポーン』という音が鳴り響いた。その途端、私の隣でうずくまっていた朋美ちゃんがハッと顔を上げ、使命感を帯びた真剣な面持ちで私を見上げるが……


「……ハッ!! 私、今呼ばれたから!」

「へ?」

「私! 今のピンポンのお客様のところに行かなきゃいけないから!!」

「う、うん……」

「だから設楽さんの個室は! 咲希ちゃんがお願い!!」


 そう言って元気よく立ち上がり、右手をシュタッと上げてフロアに向かおうとする朋美ちゃん。だけど、今しがたピンポンを鳴らした席を電光掲示板で確認するなり……


「……ひぃぃいいい!?」

「朋美ちゃん?」


 悲鳴を上げ、頭を抱えて再びうずくまってブツブツと何かをつぶやき始めた。よく聞き取れないが、『天にまします我らの父よ……父と子と御仏の御名において……なんまんだーぶなんまんだーぶ……』とキリスト教と浄土真宗の決まり文句を適度にブレンドした、独自の呪文を唱えていた。よほど気が動転しているのか、あるいは何か新しい宗派に目覚めたのか……


 電光掲示板で光り輝く数字は28……この番号は、あの設楽さんたちの個室を表す番号だ。さっきの大騒ぎのあとにもかかわらず、私たち従業員にオーダーを取りに来いと催促しているのか……。


 ともあれ、このまま手をこまねいているわけにもいかない。ピンポンも鳴らされたわけだし、キチンと二人の様子を見てこなければならない。料理長から下されたミッションは、私でなければ完遂できないだろう。


 私はキッと前を向き、設楽さんたちが待ち受ける悪夢の巣窟を睨みつけた。


「料理長……私、行ってきます」


 そして、料理長に決意を伝える。あの場所へは、私が行かなければならない。


「よろしくお願いします。無理だと思ったら、すぐに私と交代してくださいね」


 料理長の気遣いが胸に暖かい……そしてその暖かさが、私に前進する勇気を与えてくれる。


「はい。……行ってきます!」


 そんな料理長からの暖かい激励を受け、私は意を決して、お店の奥……設楽さんたちが待ち受ける渦中の個室へと、足を伸ばした。


「うう……無事に戻ってきて咲希ちゃん……うぇぇ」


 そんな、朋美ちゃんの嗚咽を聞きながら。



 個室前に到着。設楽さんたちの個室周辺は意外と静かで、先程大声が聞こえてきたとは思えないほど、落ち着いている。


「えっと……中の様子、どうかな……」


 しかし、周辺が静かだからといって油断は禁物だ。物静かな個室であったとしても、障子のその向こう側では、阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっていることだってある。事実、ここでバイトをはじめてからこっち、私は何度もそんな光景に直面してきた。


 障子の向こう側の様子を伺うため、そっと耳を澄ませてみる。途端に障子の向こう側から、設楽さんの悲鳴のような声が聞こえてきた。


『バカなっ! 私の身体をここまで好きに弄んでおきながら!?』


 ……ちょっと待ってちょっと待ってよ……やっと設楽さんたち二人の様子に慣れてきたっていうのに……ここに来て驚愕の新事実が発覚するのやめてよ……設楽さん、あのセンパイさんに弄ばれてたの? あのセンパイさんとかいう男の人、ぬぼーってしてるけど、ホントは女の人を弄んでは捨て歩く、ドクズの代表格みたいな人なの……?


 続けてセンパイさんが、何か勘違いだろと言わんばかりの口答えをしていたのだが……それはまったく私の耳に入ってこない……それどころか、設楽さんの次のセリフが私の良心にさらに衝撃を与えてきた。


『私のブラだって見たのに!?』


 下着姿を見せるってどんな状況なの~……私だって花子にすら見せたことないのにぃ~……今までなんだかんだでいい雰囲気の個室だったのにぃ~……なんでいつの間に泥沼になってるのぉ~……


 私の右手が、勝手にニギニギとエア乳搾りを行い始めた。私の身体が花子の乳搾りを求め始めた証だ。花子ぉ~……乳搾りさせてぇ~……あなたのおっぱいの感触で、私の心を癒やしてよぉ~……


―― ヴモォォオオオオオ


 私の脳裏を、ホルスタインの花子の姿が駆け巡る。白黒まだらの、あの可愛くて美しい花子の身体……あのつぶらな瞳……その瞳に映る故郷の全景……帰りたい……帰りたいよ花子……都会っておっかないよ……花子のおっぱいの方が何倍もあったかいよぉ……


 ……しかし、ここで逃げていてはいけない。


―― 川村さん 勇気を出して がんばって

―― ヴモッ ヴ……ヴモォォオァアアアア


 なぜなら、私の脳裏によぎる花子の傍らには、大好きな料理長の姿があったから。私の頭の中の料理長は、私が大好きな笑顔を浮かべ、そして花子とともに私を見つめて、必死に勇気づけていた。


 ……そうですね。いつまでも花子のおっぱいに逃げてちゃダメですね料理長。私、がんばります。


 見ててね花子。あなたのおっぱいに頼ってばかりじゃいられないよね。私、頑張るよ。


 『ふんッ!!』と鼻息を立てて気合を入れたら、勢いよく障子に手をかけ、そして開く。


「大変おたませ、いたしましましたぁあッ!!」

「お、おう……」

「……」


 中にいた設楽さんたちは、多少噛んでしまった私の勢いに飲まれたらしい。センパイさんはあっけにとられ、設楽さんもビクッと波打った後、口をつぐんだ。心配していたよりも空気は柔らかい。交わしていた言葉こそ物騒この上なくドロドロとした泥沼だったが、空気そのものはそう重くないようだ。


 だがそれすら、今の私には恐ろしい。ここ数十分の間に幾分持ち直しはしたものの、度重なる二人の奇行のせいで、今の私のメンタルはとてもセンシティブだ。そんな状態の私だから、たとえ思ったより軽く柔らかい空気感でも、それが逆に次の混沌を呼び込んできそうで、恐ろしくて仕方がない。


「えっと……烏龍茶を2つ」

「ほ、ホットとアイス……どちらになさいますって!?」

「えーと……アイスで、お願いします」

「かしこまりしたぁあ!! アイスお2つ!!」

「お、お願いします……」

「お待ちくだっし!! ごゆっくりゃあ!!」

「お、おう……」


 なんだか威勢のいい築地市場のおっさんみたいなやけくそなやり取りの後、私は急いで障子を閉じる。私とやり取りしたセンパイさんはだいぶ呆気にとられていたようだけど、そんな様子は頭に入らない。


「早く……早く料理長に帰らないと……ッ!!」


 オーダーのメモを取ることすら忘れ、私は急いで料理長の待つ厨房へと向かう。スタスタと足早にフロアを歩き抜け……そして……厨房が視界に入った。


「料理長!」

「ぁあ! 川村さん!!」


 その厨房で待っていたのは、大好きな料理長。心配そうに曇らせていた顔が、私の姿をを見るなりパアッと明るくなった。そして手に持つ私の腕ぐらい長さの柳刃包丁をまな板の上に置いて、濡れた手を自分のエプロンの袖で拭いた。


「おかえりなさい川村さん!」

「りょうりちょ……りょうりちょぉおお~……!」


 そんな料理長の顔を見るなり、私の全身に安堵が訪れる。覚悟を決めたとはいえ、やはり私の心は緊張しっぱしなだったようだ。そのままフラフラと料理長の元まで駆け寄った私は……


「ふぁぁああん……りょうりちょぉおお~……」

「ほっ?」


 そのまま、両手を広げて私を待つ料理長の胸に飛び込み、抱きついてしまった。料理長も最初は戸惑ったようだったが、やがて優しい笑顔で私を見つめ、頭を撫でてくれた。


「お疲れ様でした川村さん」

「ふぇええ……りょうりちょ……」

「はい?」

「えっと……ひぐっ……烏龍茶、2つ、オーダーです……ひぐっ……」

「オーダーだったんですね。よかったです」


 よくないですよ……あそこ今、泥沼の様相を呈してますよぅ……


「とりあえず私は烏龍茶の準備をしますから、川村さんは熱いお茶でも飲んで、落ち着いてください」

「はい……うう……」


 料理長の気遣いがとてもうれしく、そして疲れ切った私の心に染み入っていく……ああ……料理長……今の私にそんなふうに優しくされたら、私、料理長のことが好きになってしまう……でも、料理長には音楽家の素敵な彼氏がいたはず……うう……これはいけない恋だって分かっているけれど……そんな許されざる恋慕を、あなたに抱いてもいいですか料理長……。


 そんな感じで吊り橋効果よろしく、私を癒やしてくれる料理長に禁断の恋心を抱きそうになった、その瞬間。


―― ヴモッ ヴモッ


 こちらを見つめる、つぶらな瞳の花子のイメージが私の頭を駆け巡った。そうだ。私には花子がいたじゃないか。あのつぶらな瞳とあったかいおっぱいで私を癒やしてくれる花子が、私の故郷で待っているじゃないか……。


「だ、ダメですっ!」

「はい?」


 私は急いで料理長の懐から離れた。このまま料理長の温もりに包まれていては、私はこの人から離れられなくなってしまう……それはいけない。この人には約束された人がいるんだ。この人を好きになってはいけないんだ……私の理性の最後の一欠片が、料理長への恋慕に待ったをかけて、泥沼の三角関係に陥ってしまいそうな私を救ってくれた。


 ……そう。あの設楽さんたち二人のような泥沼の愛憎劇には、陥らなくて済んだようだ。ありがとう花子……私はあなたに救われたよ……帰ったら、いっぱい乳搾りしてあげるね……。


――ヴモォオッ 


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