犬好きへの偏見
設楽が入社して一年ほど経過した、ある日のことだった。この頃になると設楽はすでに俺の元を離れ、数人の部下を任されるまでに出世。もはや指導社員だった俺よりも立場上、上になった。つまり俺は、設楽から見て格下になるわけだ。
おかげで設楽も、最近はスーツ姿が増えてきた。キリッとした猫顔の美人がスーツでパリッと決めている……まさにキャリアウーマンという様相だ。キリッとした設楽には、タイトなパンツスーツがよく似合う。
今日も設楽は、黒のスーツでパリッと決めていた。こんな美人が上司なら、そらぁたしかに部下のやつらもやる気がでるだろうなぁ。こいつ、黙ってればホントに美人だからさ。
「……先輩」
「おう設楽」
「そろそろお昼ごはん食べませんか」
「……お、そうだな」
だが、立場上俺よりも出世した今でも、相変わらず設楽は俺に話しかけてくる。昼飯だって、時々自分の部下と一緒に外食することはあるが、基本的には、こうしてわざわざ俺の席までやってきて、俺と一緒に昼飯を食べるわけだ。
「しかし設楽よ」
「はい」
「お前、もう俺と席離れたし、無理して俺と一緒に昼飯食わなくていいんだぞ」
「なぜ」
「なぜってお前……」
自作の弁当の包みを開く俺を、相も変わらない仏頂面で見つめる設楽が手に持っているのは、ピロシキと焼きそばパン。そして何の飲み物が入ってるのか分からないタンブラーが一つ……。
「だってお前、もう部下もいるだろ?」
「おかげさまで」
「だったら俺と食べる必要ないだろう。部下と一緒に親睦を深めるとか、外で顧客と飯を食べるとか、色々あるだろう?」
「いや特には。その手のことはすべて勤務時間内に済ませてますので」
「そ、そうか……」
焼きそばパンの包装を開きながら、俺の心遣いを見事に拒否する設楽は、やっぱりいつもの仏頂面だ。
俺の今日の弁当はというと……なぜか突然食べたくなった、白身魚のフライとブロッコリー。そして……。
「よしっ」
「? どうした設楽?」
「今日も卵焼きは入ってますね」
「当たり前だ」
「……では、今日も私は、先輩の卵焼きにありつけるということですね」
「……」
大好物の卵焼き。今日の味付けは出汁で、万能ねぎをいれて作ってみた。
そうだ。こいつは俺の弁当の卵焼きを失敬して以来、卵焼きを必ず強奪するようになっていた。本人曰く……
『私に“食べて下さい”と言ってくる卵焼きの方が重罪です』
『私は卵焼きを食べているのではありません。卵焼きの毒牙にかかり、食べざるを得ない状況に陥っているのです。いわば私は被害者です』
と、仏頂面でよく分からない弁明をしていた。
以前は問答無用で俺の卵焼きを拝借していく設楽に腹も立ったが、今ではその分も見越して卵焼きを焼くようになった。おかげで卵の消費スピードが早い早い……以前までは卵一日一個だったのが、今では一日二個だからな。以前の倍だ。
今日も今日とて、設楽は焼きそばパンを口いっぱいに頬張りながら、俺の卵焼きをジッと見つめ、強奪のタイミングを計っているようだ。猫顔なだけに、その様はネコ科の猛獣を思わせる。猛獣が目を光らせて狙っているのが卵焼き……一体何の冗談だ。
「……先輩」
「なんだよ」
「卵焼き」
「好きなタイミングでとれよ……お前の分も計算に入れてるからさ」
もっきゅもっきゅと焼きそばパンを頬張る設楽の鼻が、ピクリと動いた気がした。
「ではいただきます」
「はいどうぞ」
俺の返事を聞く前に、設楽は俺の弁当から卵焼きを強奪し、急いで口の中の焼きそばパンを飲み込んで、その卵焼きを口に放り込んでいた。
「……今日もめちゃくちゃ美味しいですよ先輩」
「ぶすーっとした顔で言われても、説得力がなぁ……」
「失礼な……上長に対する態度ではありません」
「うるさいよ。それ言うならお前も入社時の態度はとてもじゃないが先輩に対する態度じゃなかったぞ」
そんな軽口を叩きながら、互いに自分の昼飯を食らう。今日の設楽のタンブラーの中味はどうやらけっこう酸っぱい飲み物のようで、飲む度にほんの少し身体をブルッと震わせていた。
そうして、俺がもうすぐ卵焼き以外を食べ終わろうかという頃。
「では、もう一ついただきます」
「はいどうぞ」
設楽が右手にピロシキを持ち、そして左手で俺の卵焼きをつまみ上げた時に、俺は設楽の異変に気付いた。
「……」
「……設楽」
「はい」
「お前……上着の袖、どこかにひっかけただろ」
「……」
設楽の動きが止まる。設楽のスーツの左腕の袖……あるべきボタンが取れて、糸がほつれてしまっていた。
「……なぜ見抜いたのですか」
少しだけ眉間にしわを寄せ、いつもより若干険しい仏頂面で、設楽が俺を睨む。だってそらぁお前……右手の袖にはボタンが3つついてるのに、左手の袖にはボタンが2つしかついてなかったら……誰だって気付くだろう。
「そら気付くわ。ボタンが一個なくなってりゃ」
「私のこと、常日頃から監視していたのですか」
「人聞きの悪いこと言うな。糸だってほつれてるし」
卵焼きが入った口をもごもごと動かしながら、設楽が険しい顔で自分の袖口を見る。
「……あら、たしかにボタンが一個飛んでますね」
「引っ掛けたのは気付いてたのに、ボタンが無くなってたのは気づかなかったのか……」
「はい」
「鈍感っつーか何つーか……」
しかしボタンが取れる時って、結構な衝撃があるよなぁ……それに気付かないってどんだけ急いでたんだ? 気付く余裕もなかったのか?
まぁいい。気付いたのなら、あとは取れたボタンを付け直せばいいだけだ。
「まぁ分かってよかったじゃないか。食べ終わったら付けなおせよ」
「どうやって?」
「どうやって……ってお前……スーツなら、換えのボタンがあるだろう?」
「ありませんが」
「それをソーイングセットで……」
「持ってませんが」
マジか……こういうことを言うとジェンダーフリーな人に文句を言われそうだが、女なら誰でも突発的アクシデントに対応出来るよう、ソーイングセットを持っているものだとばかり思っていた……。
……まぁいい。幸い俺は、常にソーイングセットを持ち歩いている。もしもの時のための、俺のスーツ用のボタンもいくつかあったはずだ。なら、それを使えば……
見てしまった以上、仕方がない。設楽のスーツのボタンを付け替える覚悟をした俺は、最後に残った卵焼きを箸で取り上げ……
「設楽、口開けろ」
「はぁ」
俺を睨みつけるような眼差しの設楽の、そのあんぐりと開いた口の中に放り込んでやった。
「な……もぐもぐ……なんてことを……」
字面自体は困惑した感じだが、設楽本人はいたっていつもの仏頂面だ。俺はそんなことには目もくれず、空になった弁当箱をちゃっちゃと片付け、自分のバッグの中から、柴犬のシールが貼られたソーイングセットを取り出した。
「設楽、ちょっと脱げ」
「先輩……なんと卑猥な」
「なんでだよ」
「社内で後輩の女子に『脱げ』などと……私に露出の趣味はありませんが」
「ボタン付けてやるからさっさと上着を脱げよ」
「ホントですか」
「ホントだよ。いいから早く上着を脱いでこっちによこせよ」
俺の言葉に従うように、今度はピロシキの残りを口の中に放り込んだ後、設楽は上着を脱いで俺に渡してきた。渡す時に……
「もっきゅもっきゅ……ではふぇんふぁい……もっきゅ……よおふぃふ……もっきゅ……おねふぁい……ふぃまふ」
とよく分からない言語で何かを言われた時は、正直言って、殺意が芽生えた。
今日、設楽が来ているスーツは黒色のものだ。俺のスーツも黒色だったから、ボタンの色は大丈夫。ただ、どうしても大きさや細かい形状で差異が出てきてしまうが……手のひら大の柴犬ソーイングセットを開き、中に入っているボタンの在庫を確認したのだが……
「……う」
「どうしました?」
「しまった。お前のスーツに合うボタンがない」
「そうですか」
俺は使った覚えがないが……俺のスーツ用に取っておいた紺色のボタンがいつの間にかなくなっていた。その代わりあるのが、このソーイングセットにセットでついてきた、真っ赤でちょっと大きな、ポップなデザインのボタンだ。
「……では先輩、その真っ赤なボタンでお願いします」
……ほわっつ? こいつ、マジで言ってるの?
「本気か? どう考えても浮くぞ?」
「ダメですか」
「ダメだろどう考えてもー」
俺は血迷った判断を下そうとしている設楽の暴挙を水際で食い止めようと、必死に紺色のスーツに真っ赤なボタンは合わないことを伝えたのだが……それらは、すべて設楽の耳には届いておらず、馬の耳に念仏だったようだ。……いや、こいつは猫顔だから、猫に小判的な。
「……先輩」
「お、おう」
「構いません。付けて下さい」
「……いいのか……あとで後悔しても知らないからな……?」
「その後悔こそが、より私を成長させるでしょう」
と、最後には必要以上に意識が高い言葉で煽られ、俺は渋々、どう考えてもスーツから浮くであろう真っ赤でポップなボタンを、設楽の黒色のスーツに縫い付けてやった。
「……マジかよ……浮くだろ……」
「……」
「えーと……よっ……」
そして、俺がボタンをつけてる最中、設楽は、その一部始終をジッと見つめていた。……てわけではなく……
「おい設楽、つけてやったぞ」
「……」
「ボタンはお前にやるから、休みの日にでも、店でちゃんとしたボタンにかえてもらえ……って、設楽?」
「……あ、出来ましたか。ありがとうございます」
「何を熱心に見てたんだよ」
熱心……というか、いつもの仏頂面が見守るもの……それは、柴犬のシールが貼られた、俺のソーイングセットだ。
「……犬がお好きなんですか」
「まぁ、好きだな」
唐突な設楽の質問。まただよ……また会話のキャッチボールが明後日の方向を向き始めたよ……一体何なのよ……ボタン付けと犬が好きかどうかって、言うほど関係ないだろう……いや実際犬は好きだけど。つーか動物全般、好きだけど。
「犬がお好きということは、犬を飼ってらっしゃるんですか」
「好きだが、飼ってはいない。うちのアパートはペット禁止だ」
「では、ご自宅には愛しの柴犬『ワタベ』がいて、家に帰るなり『わたべぇぇええええん! ただいまぁぁあああん!』とか猫なで声で話しかけてじゃれついたりは……」
「ないな」
「『ワタベぇぇええ……ワタベぇぇえええ……ワタ……オフ……あー……』といった具合の、はたから見れば変態以外の何者でもない怪しい声を上げながら、愛しの愛犬『ワタベ』といちゃついたりは……」
「お前のその犬好きへの偏見は一体どこから仕入れてきたんだ」
「さっき私の上着にボタンをつけるときも、実はボタンではなく、手作りの愛犬『ワタベ』アップリケを付けたくて付けたくて仕方なかったけど、後輩である私の手前、TPOをわきまえて泣く泣くボタンをつけることにしたとか……」
「だからお前のその偏見は一体何なんだ。つーかそこまで犬が好きなわけじゃないし、犬アップリケなんて作ってもねーよ」
「そうですか。残念です」
「大体なんて犬の名前が俺の名字なんだよ」
設楽の妄想を一つ一つ確実に潰した後、俺はソーイングセットの蓋を閉じた。それにしてもこいつ……この犬好きに対する必要以上な偏見は何なんだ。昔の知り合いに病的なまでの犬好きがいるとかか……?
頭にはてなマークを浮かべる俺とは対象的に、設楽は俺から受け取った上着を羽織ったあと、真っ赤なボタンがついた袖口を仏頂面で眺めつつ……
「……」
「……?」
鼻をピクッと動かしていた。
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