デート先には、薫がいっぱいだ

 俺が薫の髪にブラシを通してやることで、不思議と寝癖はすんなりと直りやがった。あの寝癖は『夫婦でゆっくりしたい』という薫のわがままが爆発したことによる、堅い決意の寝癖だったのか……


 無事に寝癖が直った薫は、一度そのまま寝室に戻って外出着に着替えてきたのだが……


「薫?」

「はい?」

「別にいいが……暑くないか?」

「先輩こそ、寒くないですか?」


 半袖の普通のTシャツに着替えた俺とは対象的に、薫はいつもの『ふつう』のクソTの上から、パステルグレーのカーディガンを羽織っている。


 春先でいい天気の今日は、どちらかと言うと暖かい。天気予報でも、俺好みのたぬき顔のお天気お姉さんが「今日は一日中良い天気に恵まれ、場所によっては真夏日となるでしょう」と香港の夜景のような笑顔で言っていた。


 そんな天気だから、俺は半袖のTシャツでも少々暑く感じるぐらいなわけなのだが……一方の薫はというと、そんな天気なのに『寒い』といい、クソTの上からカーディガンを羽織っている……はて?


「まぁいいか」

「?」


 まぁ気温の感じ方なんて人によるしな。本人から聞いたことはないが、こいつは案外冷え性なのかもしれんし。



 準備が整った俺と設楽は、そのまま2人で家を後にする。


「で、どこ行くか決めたか?」

「考えたのですが、オーソドックスに水族館はいかがでしょうか」

「そういやデートで水族館て行ったこと無いな」

「はい」


 スマホでここから行ける水族館を確認してみると……最寄り駅から3つほどのりついだところに、深海生物が売りの水族館がある。デートとなると、もっと可愛らしい動物が多い水族館の方がふさわしいと思うのだが……ペンギンとか久々に見たいしな。と俺は考えていたのだが……


「深海生物が見たいです」

「マジか」

「はい」


 という、カーディガンを羽織った設楽の仏頂面に進言され、俺達は件の深海水族館へと足を伸ばすことにした。



 海のすぐそばにある件の深海水族館は、とてもこじんまりとした施設だ。水族館というにはちょっと小さい建物の中で、深海生物以外にも、シーラカンスの冷凍標本なんかも展示されている。


 ちょっとうれしいのが、魚市場や旨い魚を食べさせてくれる店など、周囲に食事ができる店が充実している点だ。近海をクルージング出来る船の発着場などもあり、ちょっと他にない観光地の様相を呈した場所になっている。


「ではさっそく行きますか先輩」

「……」


 現地に到着するなりキラキラと両目を輝かせ、薫は俺の手を引っ張って我先にと深海水族館を目指す。その様は待ちきれない子供や、はたまた実年齢より若干幼い印象の、可愛い女の子の様相なわけだが……


「……」

「どうしました?」

「……いや」


 仕草は確かにそうなのだが、顔はいつもの仏頂面なだけに、傍から見ると、怒り狂った妻にこれから地獄に落とされる、哀れな夫のようにみえるんだろうなぁ……


 ここに来て、薫はとても元気になっていた。朝のご機嫌斜めな薫は鳴りを潜め、今は絶好調で機嫌もいいらしい。


「いらっしゃいませ! 深海水族館へようこそ!!」


 それが証拠に、こいつは普段なら俺以外には絶対に軽口を叩かないはずなのだが……


「それでは人数は大人2人でよろしいですか?」

「はい。私たちは夫婦です」

「それはそれは」

「結婚してまだ一年経過していません」

「おめでとうございますー」

「夫婦なんです。私は仕事、夫は家事で互いを支え合う、結ばれる運命にあった夫婦なのです」

「は、はぁ……」

「そんな私たちにぴったりなチケットを準備していただきたいのですが」

「……か、カップル割でよろしいですか?」

「新婚割引みたいなものはないのでしょうか。もしくは運命のふたり割とか」

「……すみません、カップル割でお願いします」

「バカな先輩っ! それではまるで私達がまだ結婚してないみたいではないですかっ」

「いいんだよ。水族館のお姉さんに無意味な機転を強要するな」


 とこんな具合で、水族館入口のチケット販売窓口のお姉さんをその軽口で振り回し、水族館に対して、迷惑この上ない理不尽な営業妨害を働いていた。



 そうしてチケット窓口のお姉さんに迷惑を振りまいた俺達は、そのままカップル割のチケットを使って入場。建物内を順路に従って2人でてくてくと歩いて行く。


「先輩」

「なんだ」

「海の生物ってのは、やっぱり見ごたえがありますね」

「確かにな」


 順路に沿って配置された水槽には、陸上ではお目にかかれない珍妙な生物が所狭しとひしめき合っている。海老や蟹などの甲殻類はもちろん、ヒトデやウニ、はてや一本一本がぶっとい糸くずの塊みたいな生き物まで……そのバリエーションは様々だ。


「……あ、先輩」

「ん? どしたー?」


 薫が、ある珍妙な魚の水槽に興味を持った。それは、その姿形こそ至極普通の魚だが(若干口が尖って飛び出ているが)……その泳ぎ方が独特だ。頭を下にして逆立ちの状態でゆらゆらと水槽内を漂っている。


「おお……」


 薫が水槽に釘付けになっている間に、俺がその魚の名前を確認したところ……名前は「ヘコアユ」というそうだ。海水魚なのにアユ……そこには何か理由があるのか……


「……なんか、家事をしてるときの先輩みたいですね」

「そうか?」

「はい。なんかシャキーンてしてます」


 また意味不明なことを……そう思い、俺もヘコアユの群れを眺めるが……これは、俺にそっくりというより、むしろ……


「……つーかむしろ、仕事中の薫みたいじゃないか?」

「そうですか?」

「おう。なんかシャキーンてしてるところが」

「はぁ」


 マヌケな返事を返す薫をよそに、俺はヘコアユのスマートな出で立ちと、にも関わらず逆立ちで泳ぎ続けるその珍妙な様相、そしてキリリとしてシャキーンとした目鼻立ちに、いつしか仕事中の薫の仏頂面を重ねて見ていた。


「……夫婦ですね」

「だな……まさか互いに相手を重ねるとは……」


 困ったことに、その後も見る生き物見る生き物、すべてが相方に見えてくる俺達。例えば……


「先輩先輩」

「んー?」

「こっちにおっきなカニがいます」


 大きめの水槽を食い入る様に見つめる薫が、少し離れたところでヒトデの裏側を眺めていた俺を、大声で呼んできた。周囲の人のクスクス声に恥ずかしさを覚え、赤面しつつ薫の元に行ってみると、そこには『世界最大のカニ』と呼ばれるタカアシガニが数匹、微動だにせず佇んでいた。


「おー、タカアシガニか」

「はい。大きいです」

「これだけ大きいと流石に見応えがあるな」


 そんな俺達の好奇の目などどこ吹く風で、目の前のタカアシガニは微動だにしない。足やハサミは数ミリも動く気配はなく、唯一口元の触覚みたいな部分だけがピロピロと動いていることが、そいつが生きていることをかろうじて俺たちに伝えている。


「動きませんね」

「だな」

「休みの日の薫みたいだな」「仕事中の先輩みたいですね」


 腹立たしい意見の一致を見たところで、記念に写真でも撮っておくかとスマホのカメラを向けた。


 だがその途端にタカアシガニの野郎は突如機敏に身体を動かし始め、カメラの準備に追われる俺を尻目に、水槽の奥の方へと逃げていった。


「……逃げましたね」

「……残念。もう写メ撮れないな」


 口惜しい気持ちを心の奥底にしまい、俺がスマホを懐にしまっていたら……俺の視界のすみっこで、さっきのタカアシガニがこっちを覗き込むように身体を傾けているのが見えた。『どうしたオラ。俺様を撮影してみろやオラ』というやけにイキった吹き出しが、タカアシガニ野郎の頭上に、見えた気がした。


「……くそッ!」

「?」


 霊長目ヒト科として節足動物ごときにこんな気持ちを抱くのは大人気ないが……俺はこのとき、あのタカアシガニ野郎に、純粋な殺意を覚えた。



「先輩。こっちに仕事中の先輩がいます」


 タカアシガニへの憤りに身を焦がしていたら……いつの間にか別の場所へと移動していた薫が、今度はこんな腹立たしい呼び方で、俺の逆鱗を逆なでしてくる……一体何を見つけたのかと、薫が興味津々に覗き込んでいる、その水槽の中を覗いてみた。


「……なにこいつ」

「仕事中の先輩です」


 薫が熱心に眺めていた生物……それは説明書きによると、深海生物の一つ、「メンダコ」らしい。展示されている写真によると、なんだか出来の悪いちょうちんに、やけに鋭い目つきの目と可愛らしい耳がくっついた、とても愛くるしいデザインの生物のはずなのだが……


「写真と全然違うな。だらしないし、愛くるしさがない……」


 今、目の前にいるメンダコは、陸に打ち上げられたクラゲのようにだらしなくびろーんと広がりきっており、写真のような愛くるしさはどこにも見当たらない。しかも、風貌はそんなふうにだらしないのに、目だけはやけに鋭く、目が合う者を殺気がこもった眼差しで威嚇している。


「そんなところが、仕事中の先輩そっくりです」


 ドヤ顔でそういい、俺に得意げに仏頂面を向けてくる薫を見ながら、俺は思う。


 この、だらしなく広がった、やる気が感じられない風貌……ぴろぴろと愛嬌を振りまく耳……そのくせ、表情は相手を殺さんばかりの仏頂面……これ、むしろ休みの日の薫そっくりじゃないか?


「……これ、お前だろ」

「失礼な。私はいつもシャキーンてしてますが」

「いや失礼てなんだよ」

「これは仕事中の先輩以外の何者でもありません」

「いや、これは休みの日の薫以外の何者でもないな」

「失礼なっ」

「お前こそ失礼だっ」



 その後も俺たちは、目に入る生き物をことごとく相手のイメージに照らし合わせていた。足を使って海底をちょこちょこと歩く魚を見れば「まるでお化け屋敷に入るときの薫」と俺があざ笑い、ちっちゃいフグの仲間を見ては「まるで珍しく仕事にやる気を見せている先輩」と薫が俺を罵倒する……


「先輩、この冷凍標本のシーラカンスですが……」

「おう」

「まるで実力を大きく上回る仕事を押し付けられて、凍りついてる先輩にそっくりです」

「そんな瞬間見たことあるんかい……」

「ありませんが、こうなるという確信があります」

「……それはそうと薫」

「はい?」

「このオウムガイだが……」

「?」

「休みの日に仏頂面でえらく上機嫌に部屋の中をふわふわと漂うお前みたいだ」

「失礼なっ。私は休日中こんなにやる気なく部屋の中を彷徨ったりなどしていませんが」

「しとるだろ。しかも仏頂面で」

「していませんが」

「してるし」


 そんなこんなで、互いに互いを深海生物になぞらえて罵倒し合う、憎悪渦巻く水族館探訪は幕を閉じた。機会があればまた来たいな。今度はあの憎きタカアシガニ野郎を写真に収めたいし。



 その後、水族館から少し離れたところにある、魚市場の隣の食堂で昼食を取ることにした。水族館のすぐそばの売店では、名物と思しき『深海魚バーガー』なるハンバーガーが売られていたのだが……やはりそこは、生粋の日本人。『こういうとこでは、コメの飯で生魚が食べたいなぁ……』という己の欲望に従うことにした。薫も同じだったようで……


「お刺身が……あとキスの天ぷらが……」


 と、水族館を出てから食堂に入るまで、悪夢にうなされている少女のような口調で、ずっとぶつぶつつぶやいていた。


「先輩」

「んー?」

「美味しいです」

「だな」


 俺が頼んだのは、マグロやエビなどの刺し身がてんこ盛りの海鮮丼とカサゴの唐揚げ。薫は宣言通りの具だくさん天丼と刺身の盛り合わせを頼んでいた。


 薫はちょくちょく俺のカサゴの唐揚げの身を強奪していく。俺もお返しとばかりに薫の天丼からエビやキスなんかを強奪していくわけだが……やはり、どのメニューもうまい。海のすぐそばで、魚市場の隣という立地上のメリットを最大限に活かしていると言えよう。


 互いのメニューにちょっかいを出しながら舌鼓を打つ俺たち。最後の海老天を口に運んだ薫が、俺のことをジッと見つめていた。


「……ふぇんふぁい」

「口の中の海老天をまず飲み込んだらどうだ」

「ぐぎょっ……先輩」

「おう」

「……今日は、ありがとうございます」

「ん?」

「会社をサボって、私と遊んでくれて」


 なんだそんなことかと、俺はいつかのように鼻を鳴らす。


「いいんだよ。薫は最近、ホントによく頑張ってたし」

「……」

「ちょっとぐらいサボっても、誰も文句は言わん。仮に言う奴がいても、そんなの関係ない」

「……」

「それにだ。妻のバイオリズムをコントロールするのが、旦那の俺の役目だし、それに……」

「それに?」


 次の言葉をこんな場所で言うのは恥ずかしいが……逆に言えば、こんな機会でもなきゃ、言えないしな。意を決し、俺は恥ずかしい本音を口にする。


「……正直、薫とゆっくり出来なくて、俺も寂しかった」


 言ってしまった……途端に顔が熱くなる。自分の顔がまっかっかになって、熱を帯びてきているのが、自分でもわかるぐらい、顔がカッカカッカして熱い。


 ……でも本当のことだ。薫があの仕事をやりだしてからこっち、こうやって満足に会話する機会なんて、ずっとなかった。俺が朝起きたら薫はすでに出社してたし、薫が帰ってくるのは、いつも真夜中。晩飯だってずっと一緒に食べられなかったし、それこそ、会話なんて出来なかった。


 素直に認めよう。そんなすれ違いの日々が、俺も寂しかったんだ。こうやって、薫と久々に遊びたかったんだ。久しぶりに二人で遊んで、軽口叩きあって、仏頂面を眺めて、そして笑いたかったんだ。


 薫を見ると……


「……ニヘラぁ」

「う……」


 昨日のミーティングのときにほんの一瞬だけ見せた……でもその時よりも何倍もキモいニヘラ笑いを浮かべていた。


「ニヘ……先輩」

「ん?」

「もっと言ってください」

「何をだ」

「『俺も寂しかった』って……ニヘ……ニヘヘ……」

「キモいぞ」

「ちくしょう」

「……」

「……」

「……寂しかった」

「ニヘラぁ……」


 俺の『寂しかった』という言葉がそんなにうれしかったのか……世界一の美女である俺の奥様は、その美貌を台無しにするキモい笑みをやめようとはせず、食堂を出るまでの間、終始『ニヘ……ニヘヘ……』とほくそ笑み続けた。


 そんな薫の笑顔を見ながら、俺は思う。


「調教されたのかなぁ……」

「ニヘ……先輩が……寂しいって……ニヘヘ……」


 困ったことに、俺は奥様がいないと生きていけないよう、いつの間にか調教されてしまっていたのかもしれない。


 まぁいいか。こんなに可愛い奥様なら。


「……そろそろ出るぞ。顔引き締めとけ」

「はい」

「……」

「……ニヘラぁ」 


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