奥様のわがまま

 朝。俺はいつもの時間に起き、朝食をいつものように作っていた。


 結局あの後、薫が途中で目をさますことはなく、今もずっと眠りこけている。これ以上のんびりしていると会社に遅刻してしまうわけだが……まぁ今日ぐらいは遅刻してもいいだろう。俺はそう判断し、薫を起こすのはやめておいた。


 弁当も、今日は別にいいだろう。昨日飲み会に出なかった分、今日の薫は部下たちにたかられるはずだ。こういうときに部下を大事にしておくのも、人心掌握術としては大切だしな。今日は素直に部下たちと昼飯を食ってくるがいい。


 そうして、俺が朝食の卵焼きと鮭の塩焼き、そして納豆を準備し終わった頃……


「……おあよーおあいあふ」

「はいおはよー。しかし今日は珍しく寝癖がひどいな」

「そうえすか?」

「おう。いいから顔洗って歯を磨いてこい」

「うぁい」


 普段に比べ、一際眠そうな薫が起きてきた。自慢のロングストレートの黒髪が大爆発していて、寝間着代わりのTシャツも裾がめくれ上がって腹が出ている。割とモデル体型の薫が、そんなセクシーな佇まいをしているわけだが……不思議なことに、今日はまったくムラッとこない。素敵な奥様に欲情しないのはどうかと思うが、今日に限って色気をまったく発揮しない、薫のせいだと思うことにする。


 俺に歯磨きを促された薫はそのまま洗面所へと姿を消し、ほどなくして戻ってきた。さっきと比べると、幾分その仏頂面にいつもの凄みが戻ったのだが……寝癖は相変わらずひどい。まったく直ってない。まるで二昔前の爆発コントの時のドリフみたいな寝癖だ。


「寝癖、直さなかったのか」

「めんどくさくて……うー……」

「あとでちゃんと直せよ。シャワーでも浴びたらどうだ?」

「はい……うー……」


 俺の提案に、普段口にしない『うー』という唸り声で答える薫。なんだよそのやる気のない猛獣が、愛くるしい生まれて間もない子鹿に向かって、愛想程度に威嚇してきたような声は。


 なんだか不機嫌そうな眼差しで、俺が準備した朝食をジッと見つめたあと、薫は椅子に座って朝食の納豆をかき混ぜ始めた。俺もエプロンを外し、薫の向かいに据わって自分の納豆をかき混ぜることにする。


「いただきます……うー……」

「シャワー浴びるんなら急げよ? 会社遅れるぞ?」

「……寝癖直してくださいよ」

「んー?」

「私の寝癖、先輩が直してくれればシャワー浴びなくても済みます」


 納豆をかき混ぜる手を止め、口を尖らせてそっぽを向きながら、設楽はそうつぶやいた。暫くの間、部屋の中では、俺が納豆をかき混ぜる音のみが響く。


「俺がお前の寝癖を直す?」

「はい」

「どうやって?」

「ブラシ通して下さい」

「自分で通せ」

「先輩は私の面倒を見る運命なのに……うー……」


 薫の様子がなんか変だな……普段なら寝癖なんて自分で直すのに……ご機嫌斜めなのか?


 薫の機嫌にいささかの疑問を抱きながらも、俺達の朝食は静かに続く。納豆を存分にかき混ぜた薫は、そのまま大好物の卵焼きに箸を伸ばし、口に入れた途端、


「……ん?」


 と眉間にシワを寄せ、俺作の卵焼きを、目で殺さんばかりの仏頂面で睨みつけた。心持ち、卵焼きが冷や汗をかいているように見えた。


「どうかしたか?」

「いつもと少し味が違う気がします……」

「そか?」

「はい。味がうすいような?」


 はて? いつものように味見しながら作ったし、味も普段と変わらないはずだが? 今回は特に何もミックスしてないから、味が薄まったというありがちな失敗も起こるはずがないし……


 俺も試しに食べてみたが……別段いつもと変わらない。


「まずくはないだろ?」

「はい。まずくはないですが……」

「なら今日は我慢してくれ。それから今日は弁当作ってないから」

「なぜ」

「今日は仕事を手伝ってくれた部下たちとランチしろ。昨日は飲み会出なかったんだから」

「……」

「わかったか?」

「はい。うー……」


 また唸る……一体どうしたというのだ薫……。


 その後は何事もなく朝食は終了。だが。


「俺が皿洗ってる間に寝癖直せよー」

「はーい。うー……」


 俺の指示に対して、ふてくされたようなやけくそに近い返事を返した薫は、テレビ前のソファにあぐらをかいて座り、そこから一向に動こうとしない。


 ついに俺が皿を洗い終わるまで、薫はまったく動かなかった。


「結局寝癖は直さなかったのか……」

「直してくださいよ先輩」

「わがままを言うな。寝癖ぐらい自分で直せ」

「うー……」


 ……おかしい。薫はよく軽口で俺を振り回すが、わがままを言って相手を困らせるタイプではない。それなのに今日は、やけに俺にわがままを言ってくる。一体どうしたというのか。


「ほら直せって。会社遅れるぞー」

「いーやーでーすー」


 ……ほら。今にしてもそうだ。俺は設楽の右手を取って無理矢理引っ張り、洗面所に連れて行こうとするのだが、薫は立ち上がろうとせずソファからずり落ち、俺に引きずられるままになってしまっている。掃除したばかりだからいいものの、そうやって床の上で引きずられ続けると、寝間着が汚れるぞ薫。


「遅刻しちゃうだろー!」

「いーやーでーすー!」


 俺も負けじと薫の両手を取ってひっぱるのだが……薫の抵抗の意志は凄まじく、床の上を引きずられても、抵抗の意志を崩さない。これじゃまるで人間モップだ。


「支度しろってー!」

「先輩がやって下さいよ~!」


 そうやって暫くの間、俺たちは互いの意地をかけてのぶつかり合いを演じていたのだが……いい加減俺も疲れてきた。廊下まで引きずってきたところで、俺は薫の両手をパッと離した。


「……どうした?」

「……」


 俺が手を離した途端、薫は廊下のど真ん中であぐらをかき、その場に座る。口を尖らせてそっぽを向き、俺と目を合わせようとしない。仏頂面以外の顔を拝めるのは新鮮でいいのだが、どうも今日の薫は考えが読めない。


 廊下のど真ん中であぐらをかいてふてくされる薫の前に座り、まっすぐ顔を見ながら、こいつの話を聞いてみることにする。これ以上まごついていたら仕事にも遅れる。俺は別にいいが、こいつはそれじゃまずいだろう。


「お前、いつもそんなにわがまま言わんだろ」

「だって……」

「ん?」

「……最近、先輩に面倒見てもらってない……」


 薫は、俺の追求に対し、とんがった口で不満そうにそうつぶやいた。


「面倒?」

「私は……先輩に面倒見てもらう運命なのに……面倒を見てもらうために結婚したのに……」

「……」

「やっと大仕事も終わったから、昨晩は二人でゆっくりしようって思ってたのに、私は寝てしまった……そして今朝はいつもどおり……」


 ……ははーん。なんとなく、こいつが何を不満に思っているのか見えてきた。


「……薫」

「なんですか……」

「わかった」

「……」


 ……わかった。なら、願いを叶えようじゃないか。薫をそのままほっといて、俺は一度居間に戻り、自分のスマホを取った。


「……」


 ちらっと薫を伺うが、アイツは俺に背中を向けている。完全にへそを曲げたようだが……気にせず俺は、会社へと連絡を取った。


『……はい。月島商事……ですが』


 数回のコールのあと、俺の電話に出たのは、ちょっと眠そうな声をした課長だ。昨日は打ち上げのあと、会社に泊まったのか? 二日酔いの時特有の声をしてる。頭に響く痛みを気にしてか、声も少々小さい。


 だが、課長に元気がないというのなら、好都合だ。


「課長、渡部です」

「渡部か……どうしたこんな朝っぱらから」

「今日と明日、渡部夫妻は有給をいただきまーす」

「お、おお……て、ちょっと待て渡部! お前はいいが設楽に休まれると困る!」

「そんなの知ったこっちゃありませーん。では木曜日にまた~」


 受話器の向こう側がやいのやいのと騒がしいが、気にせず通話を切った。これでよし。今日と明日は、会社を気にせずとも良い。


「薫」


 まだ廊下から動かない薫の方を見たら……あいつ、俺の電話が聞こえてたのか……こっちに背中を向けていたはずの薫は、いつの間にか振り返り、眉間にシワを寄せたものすごく険しい仏頂面で、こちらを見つめていた。


「……休んでいいんですか?」

「ああ。今日と明日は会社を休む」


 薫の鼻が、ぷくっとふくらんだ。


「ホントですか?」

「本当だ」


 薫の座高も、『ぴこん』と音を立てて少し伸びた。


「今日は先輩とのんびり過ごして良いんですか?」

「もちろんだ。そのための有給だ」

「今日一日は……先輩と、何してもいいんですか?」

「常識はわきまえろよ?」


 そして薫の眼差しにハイライトが戻り、見る人を殺しそうな勢いも戻ってきた。やっといつもの薫に戻ったか。やっぱりお前、久しぶりにゆっくりしたかったんだなぁ。


「で、では先輩……」

「おう」

「私の寝癖を直してくれたあと、どこかに遊びに行きませんか?」

「……寝癖は俺が直さないといかんのか」

「はいっ」


 『結局寝癖は俺が直すんかい……』と心の中で毒づく俺を尻目に、薫は、瞳をキラキラと輝かせ、眉間にシワを寄せて生き生きした仏頂面を浮かべていた。 

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