後日、判明した真相
「本日、19時から個室で予約していた渡部ですが」
明日から長い連休に入るため、少し心が浮足立っている今日。その人は、久しぶりに私達のお店にやってきた。フロアは朋美ちゃんに任せている状況で少々手持ち無沙汰な時間を過ごしていた私が、その人の対応をしたのだが……
「いらっしゃいませ! 渡部様ですね」
「はい」
「えーと……個室でよや……へ? 渡部様?」
「そうですが」
あれ……このお客さんの名前、設楽さんじゃなかったっけ?
「えと、すみません……設楽様、でしたよね?」
「? 私のことをご存知なのですか?」
「いえ、ほら一度こちらにお越しいただいたことが……」
「はい。……でも、よく覚えてらっしゃいますね。確かに私は設楽ですが」
やっぱり……設楽さんはそう答えて、鼻の穴を一瞬だけぷくっと膨らませていた。忘れたくとも忘れられません……あの強烈な思い出は……
あの、設楽さんとセンパイさんがうちのお店に混乱を振りまいたあの日から、ちょうど二ヶ月ほど経過していた。世の中は明日からゴールデンウィークに突入ということで、この居酒屋『チンジュフショクドウ』も、お客さんで大変賑わっている。
私自身も、明日から暫くの間は実家に帰る。帰郷するのは年末年始以来だ。帰ったら愛しの花子とのエンドレス乳搾りヘブンが待っている。久々に花子に会えると思うと、今から気持ちがはやって仕方ない。油断していると私の右手が喜びのエア乳搾りを行い始めるから、中々に気を抜けない日々が続いている。
そんな今日の午後7時10分前。設楽さんはあの時と変わらない、ぶすっとした表情で来店した。個室席で予約を入れていたらしいが、なぜ『設楽』ではなく『渡部』なのか……。
「まぁいっか。ではお席に案内いたしますねー」
まぁ、お客様の名前が違うこと自体は大した問題ではない。世の中には、店にやってくるグループの代表者の名前で予約を取る人もいるし。そう思い直して、私が設楽さんを個室へと案内しようとしたときである。
「……ちょっと待ってください。連れがすぐ来ます」
準備していた予約席に案内しようとした私を設楽さんは制止した。と同時に、設楽さんの背後の入り口ドアが開き……
「うぃー着いた着いた~……なんだ設楽。お前も今か」
「はい」
「早過ぎだろ。まだ10分もあるぞ?」
この人も忘れようがない……あの日、この設楽さんと一緒に私たちを意味不明な混乱に陥れたセンパイさんが入ってきた。あの時と比べて髪が少し伸びてはいたが、そのぬぼーとした無気力さは変わってない。
「会社にいても何もすることないですし、早く来たかったので」
そう言って設楽さんはセンパイさんに向き直り、私に横顔を見せていた。さっきと同じように、ほんの少し鼻の穴をぷくっと膨らませているのが、私にも分かった。
「そっか……」
……んー? センパイさんの顔がちょっと赤くなった?
「……先輩どうしました?」
「……いや。んじゃ個室って空いてるかな?」
設楽さんから私に視線を移したセンパイさんは、私にそんなことを聞いてきたんだけれど……予約は個室で取ってるから大丈夫だってこと、センパイさんは知らないのかな?
「大丈夫ですよ。渡部様のお名前で個室席で予約頂いてますから」
「そうなの?」
「はい!」
どうやら、センパイさんはホントに知らなかったようだ。ほっぺたをポリポリとかきながら設楽さんに向き直るセンパイさんのほっぺたが、さらに赤くなってくる。
「なぁ設楽」
「はい」
「お前、俺の名前で予約取ってたのか」
「いけませんか?」
「ダメってわけじゃないけど、なんで俺の名前?」
顔そのものは設楽さんの方を向いてはいるけれど、視線は確実に設楽さんから外れてる……そんな、ともすれば恥ずかしくて目を合わせられてないようにも見えるそんなセンパイさんに対し、設楽さんは、表情は変えず、でもあのグサリとするどい眼差しでじっとセンパイさんを見て……
「……一足先に、“渡部”と名乗ってみたかったものですから」
と答えていた。
そしてその直後、設楽さんのほっぺたがほんのりと赤く染まる。
「……お、おう」
センパイさんの顔も、さらに真っ赤に染まる。なんかもう料理長に茹で上げられた直後のタコみたいに真っ赤っ赤だ。
この瞬間、私はすべてに合点がいった。
なるほど……あの日、二人が相手に対して誠実に向き合っていた理由は、これか……。
「えっと……じゃあ、渡部さま?」
「はいっ」
私の呼びかけに、センパイさん本人よりも素早く振り返る、将来の渡部さん。その表情はとても険しいし、眼差しだって鋭くて、こちらの胸に刺さってくるけれど……ほっぺたが少しだけ赤くなっていて、不思議とその様子は、とても柔らかく可愛らしい。
「ではお席にご案内いたしますね渡部さま!」
「ありがとうございます」
「おう。ありがと」
センパイさんも、私にお礼を言う姿が、どことなくうれしそうだ。相変わらず顔は恥ずかしそうに真っ赤だが、顔そのものは柔らかく微笑んでいるし、目もどこか柔らかい。確かにやる気は感じられないが、この人は優しさと女子力で相手に好かれるタイプの人なんだろう。
私が先導し、二人を案内する。渡部さんたちは私の背後で二人並んで歩いているから、二人がどんな顔で歩いているのか分からない。でも、二人で寄り添って、仲良さそうに歩いているのがよく分かる。
だって……
「先輩先輩」
「んー?」
「私、“渡部”様と呼ばれました」
「それがどうした」
「渡部薫……」
「……」
「……ニヘラぁ」
「顔引き締めろって……」
「だって……ニヘヘ……」
そんなうれしそうな会話が、私の背中越しに聞こえてくるから。
お二人とも、おめでとうございます。私は心の中で二人に祝福を捧げつつも、二人の仲の良さにあてられて、早く花子に会いに行きたいと思い始めていた。
おわり。
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