あっちのモザイクじゃないですよ?
(いきなり台無しにしてくスタンス)
インドあたりの経典にも感じることですが、イスラームについてもつくづく思うのは、言葉そのものが一つの文様であり、レリーフとなっている、と言うこと。そしてこれはまた、この小説でも強く実感したのです。言葉が持つ含意ではなく、ただその響きが一つのモザイクとして胸に届く。
オスマンの近くにハプスブルクがいたあたりとか、そのあたりの歴史に疎い自分にしてもなんやねんそのゴジラ対ビオランテ感があります。どっちがゴジラでどっちがビオランテかなんて、この場では些細な話です。ここで言いたいのは頂上決戦を傍観する「目線」と言う奴が大変な好物であり、見事に潮流から取り残されたものの安堵と空虚と後悔と達観のないまぜとなるラストがご褒美でした、ということなのです。くっそう、サマになるよなぁ、イスラームの奴ら……!
シルキーな肌触りの文藻と、敗者の尽きせぬ想いと。大変美味しゅうございました。このあたりの歴史を学んだ上で、再訪したいものです。
16世紀西アジアの二大大国であるオスマン帝国とサファヴィー朝イランが衝突した「チャルディラーンの戦い」。この敗戦は、強烈なカリスマと人望で勝利を重ね自信に満ち溢れたイランの王イスマーイール一世にとって、衝撃的な事件でした。その後、イスマーイールは政治への関心を失くし宮殿に籠るようになるのです。
過度に堅くなりがちな歴史モノを、カジュアルだが軽薄にはならない絶妙な文章でテンポよく書き綴られています。
ちょっと勉強の息抜きに……、と思っていたはずが、知らぬ間にページを次々とめくってしまい、なんと読み終わっていました。あらまあ。
ですが、スラスラ読めるといっても、中身がないわけではありません。むしろ、チャルディラーンの敗戦を通して描かれるイスマーイール一世の人物像や幼い頃から才能を発揮してきた王がおそらく初めて味わった挫折、そしてイスマーイールの悟った宿命は、味わい深く私たち読者の心に響くものだと思いました。
さすがにオスマン帝国という言葉くらいは聞いたことあるけど、それ以外はまったく知りません。
が、史実に則った歴史小説みたいです。とにかく地理も地名も人名もまったく分からないぼくが読んでも、引き込まれてしまう物語世界。
正直地名と人名がごっちゃになって、訳分からない部分もあるのですが、そこはノリでカバーしました。
短編小説であり、すぐに読めてしまう割には、壮大な歴史の流れと人の運命の妙を存分に楽しめます。創作に頼らず、きちんと史実を見据えた上で小説に出来るのは凄い。安心してみ読めます。
短い時間ではありますが、ぼくの心は確実に時空を超えました。
そして、題名にもなっている羅針盤が最初から最後まで、比喩として物語の中心に据えられてるのも上手い!
羅針盤――本作ににおいてこの言葉は、実際のコンパスではなく、人の心の、そして、“北”は、物語の主人公であるサファヴィー朝の建国者、イスマーイール1世の暗喩に用いられている。
イスマーイールの美しく高潔な容姿とその精神に、周囲の人間はまるで羅針盤が北を示すかのように跪いてきた。
しかし、オスマン軍との決戦において、オスマン軍の羅針盤は“北”を示さなかった。
その挫折の一戦とその後の彼の転落を描いた短編だが、戦記物かという先入観は数話読み進めるうちに払拭され、崇高で濃密な人間ドラマであることに気づく。
敗戦が濃厚となった場面で交わされる、親友タフマースブとのやり取り。
命を賭す戦場でのやりとりだからこそ描ける、登場人物達の研ぎ澄まされた人品。
そして、タフマースブとの離別後、敵将スレイマンの登場で更に紐解かれる親友の決意。
この辺りの件(くだり)からはもう、ラストまで目頭が熱くなりっ放しだった。
ラスト、イスマーイール自身を羅針盤に例えることで作品の主題に再びスポットを当てるタイトル回収もお見事。
詩のように美しい地の文と感動的な台詞の数々で紡がれる珠玉の歴史短編!
十六世紀初頭、現在のイランの王《シャー》であったイスマーイール1世。救世主を自称する彼は、邪悪なほど美しい王だった。父の死のためにわずか十歳で王となった彼は、無敗を誇っていた。オスマン朝最高の軍事的手腕を持つとも讃えられる一方で、その冷酷さを恐れられたスルタン・セリム1世とチャルディラーンで見えるまでは。
容貌のみならず心も並外れて高潔で美しい王イスマーイール。救世主に相応しい美を己に律したがために敗北した彼と、その腹心の部下であり友人である騎士タフマースブ。そしてタフマースブの妹であり、イスマーイールの妃であるタジルー。そして「敵」であるオスマンの王子スレイマン(後の大帝です!)……。それぞれに魅力的な人物の想いが、運命が糸となって織り成されるのは、静謐で美しい結末です。
羅針盤は北を指さない。全てはこの秀逸なタイトルが示しています。しかし、物語が終焉を迎えてさえ、一瞬でもいいから針が北を向いてくれていたら……と願ってしまう。イスマーイール1世の時代から約五百年が経ち、全ては遅すぎると分かっていてもなお。これぞまさに、優れた歴史小説のみが成せる技です。
万人を統べる王たるもの、常に美しく正しくあらねばならない。
否、美しく正しき者にこそ万人は従い、彼を王と讃えるだろう。
若き王たるイスマーイールはその美しさと正しさによって、
おのずと兵民に選ばれ、救世主と崇められて歩んできた。
であればこそ、敵国との戦に当たっても厳正たらんとする。
それが彼にとって生涯最初で最大の負け戦となるのだった。
高校世界史の資料集で一際エキゾチックな魅力を放っていた
中東およびイスラーム世界を舞台とする、繊細な歴史物語。
羅針盤は北を指すものだ。指すこと能わざるならば、何故。
羅針盤とは一体何の比喩なのか。彼は王か、はたまた罪人か。
勇壮な戦装束に身を包みながらも、彼はなんとも耽美で儚い。
平時ならば羅針盤は常に北を指し続けただろうか、とも思う。
サファヴィー朝の創始者イスマーイール一世がオスマン帝国のセリム一世に破れるところから始まるこの物語。
チャルディランの戦いと言えば中東の長篠の合戦としてご存知の方も多いのではありませんでしょうか?(いや、日本国内の戦国時代の話と超大国オスマン帝国の話を並列させるなと思われるかもしれませんが、騎馬戦法が火砲に負けた転換期を示すという点ではやはり類似性を感じざるをえないですよね……)
邪悪なほどの美少年シャー・イスマーイール――しかしこの作品でのイスマーイールはただ容貌が美しいだけではない。その心持。大砲などという卑怯なものには負けない、夜襲などという卑怯な手は使わない――だがその美しさが彼を追い詰めていく。
誇り。気品。志。そして友との絆。
尊い……。うっかりクソ語彙オタクになってしまう。このイスマーイール、サイコーすぎる……。
このイスマーイールが高潔でかっこよすぎて、彼がお父さんだったら息子の方のタフマースブはあんまり苦労しなくて済むのでは!?などと楽観視してしまいますが、それはそれ、これはこれですね!(笑) この優秀そうなスレイマン、大帝の若き日々よ……おいおいこいつに勝てる気がしないぞ……。
封印されたという続編が読んでみたいです。
13C末にアナトリア高原に勃興し勢力を伸ばしたオスマン帝国。その「冷酷者」とも称されるセリム帝が、サファヴィー朝のイスマーイール1世を破ったのが、本作の背景となるチャルディラーンの戦いである。
物語は敗北者であるイスマーイール1世の独白を中心に語られ、他にも親友でありまた忠実な臣下であるタフマースブ、タフマースブの妹でもある妻、そして敵方の聡明な王子スレイマン(のちのスレイマン大帝)などが登場する。
羅針盤は北を指さない。
謎めいたタイトルではあるが、3人の人物がそれぞれに語るこの言葉、「イスラーム=神への絶対的帰依」の本質を表したものであり、それでもなお神ならぬ身で北斗星になり磁石ともなってしまった「罪人」のありようや、その磁石に引かれてしまう人間の性(さが)が、透明感のある文章で哀しみを込め描かれる。
イスラーム世界を舞台とした、芳醇さと繊細さ溢れる、珍しくも美しい一篇である。ぜひご一読を。
司馬遼太郎曰く、「中央アジアまでは目線が届いてもアラブ、シリア以西には及ばない」。それくらい難しい中東の歴史に挑んだ作品です。
※
司馬遼太郎さんはモンゴル語を学んだ方なので、普通の日本人より視点は西寄りだったはずなのですが、それでも中東までは及ばないと仰ったわけです。真意は不明ですが、砂漠の宗教の理解の難しさが大きな要因であったように思います。
イスラム世界は日本人の肌感覚として理解できないところがあります。これはたぶん、一般に通底するんじゃないでしょうか。雲南から江南を経て日本に到る照葉樹林帯の文化の対極にある文化であることもありますが、そもそも接触が不足しています。
四書五経の世界観は日本での文化的蓄積がありますが、ムスリムの世界観は未だに馴染みが薄く、神道または仏教世界と真っ向から反するキリスト教世界の方がまだしも理解しやすいかも知れません。
とはいえ、キリスト教世界を理解しているのかと言われれば、それもまた多々問題ありなわけですが、これは四書五経の中国文化についても同様です。日本人には理解しきれない部分が必ずあります。我々は祭祀に生贄を捧げませんからね。ましてや道教の世界観になると見知らぬ世界です。
世界を認識するやり方からして違うのに、その世界観を理解できるはずは基本的にありません。理解したという幻はあり得ますが。『封神演義』を肌感覚で理解できる日本人は、どこかが何か危ないです。(明らかな偏見)
そんな中東の歴史に取材した本作は野心的な試みと評価されるべきと思いますが、「あとがき」まで読むと一般に知られない歴史を扱う上での創作性の意味も考えざるを得ません。知らない人にとって、小説化された史実と虚構の別はありません。書かれた文字はすべて等価ですからね。
これは、三國志以降という中国史でもマイナーな時代が好きで、その時代に取材した通俗小説の翻訳をしている身からすると切実な問題ですが、史実なんだか創作なんだか、文章だけでは読む人に区別は付きません。翻訳する身からしても然りです。
だから、『三國志演義』を深掘りしたムックや新書が成立するわけで、受け取る側の脳裏には史実でも創作でも文章から図像や映像、あるいは音声さえも再生されてしまうわけです。これは作品の出来がよいほど危険で、本当に信じ込んでしまいます。『三國志演義』だけを読んで関羽に討ち取られた華雄が創作だと見抜いた人はいないはずですよね。
そういう訳でマニアックな歴史に取材した小説は毒饅頭にもなり得るわけですが、本作は「あとがき」にてサクッと創作と史実の境界が明示されており、作者が意識的に史実と創作を制御していることが分かります。
「著者はテキストに責任を負う必要がない」派でありますが、創作の影響には意識的であるべきだと考えます。ゆえに、本作の処置は読者に境界を明示している点で極めて真摯であると考えます。創作の意図は作品から汲むべきですので解説はなしの方向で。
このように真摯で創作に意識的な方に馴染み薄い世界を小説として紹介頂けるのは大変にありがたいことで、是非継続して中東世界への興味を喚起する史実と虚構をご提供頂ければと、楽しみにしております。
しかし、これ、16世紀くらいが舞台なんですよねえ。チラチラ調べると史料不足で史実の面からも不明が多いそうで。時代的にもう少し史料が揃っていてもいいように思いますが、東アジアと中東ではそのあたりも大きく違うのですねえ。。。
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蛇足ですけど、レビューとして明らかに失敗ですよね。もっと読みたくなる感じに仕上げないとダメなんですけど、言わずもがなのことを書いてしまいました。
触発されるところが多かったということで、平に御容赦下さい。作品の出来はひとこと紹介に尽きますので、ご参照頂ければ幸いです。(なんだそれ)