オスマン帝国創成期、史実に虚構を織り交ぜて見知らぬ世界に誘う練達の筆致

司馬遼太郎曰く、「中央アジアまでは目線が届いてもアラブ、シリア以西には及ばない」。それくらい難しい中東の歴史に挑んだ作品です。



司馬遼太郎さんはモンゴル語を学んだ方なので、普通の日本人より視点は西寄りだったはずなのですが、それでも中東までは及ばないと仰ったわけです。真意は不明ですが、砂漠の宗教の理解の難しさが大きな要因であったように思います。

イスラム世界は日本人の肌感覚として理解できないところがあります。これはたぶん、一般に通底するんじゃないでしょうか。雲南から江南を経て日本に到る照葉樹林帯の文化の対極にある文化であることもありますが、そもそも接触が不足しています。

四書五経の世界観は日本での文化的蓄積がありますが、ムスリムの世界観は未だに馴染みが薄く、神道または仏教世界と真っ向から反するキリスト教世界の方がまだしも理解しやすいかも知れません。

とはいえ、キリスト教世界を理解しているのかと言われれば、それもまた多々問題ありなわけですが、これは四書五経の中国文化についても同様です。日本人には理解しきれない部分が必ずあります。我々は祭祀に生贄を捧げませんからね。ましてや道教の世界観になると見知らぬ世界です。

世界を認識するやり方からして違うのに、その世界観を理解できるはずは基本的にありません。理解したという幻はあり得ますが。『封神演義』を肌感覚で理解できる日本人は、どこかが何か危ないです。(明らかな偏見)

そんな中東の歴史に取材した本作は野心的な試みと評価されるべきと思いますが、「あとがき」まで読むと一般に知られない歴史を扱う上での創作性の意味も考えざるを得ません。知らない人にとって、小説化された史実と虚構の別はありません。書かれた文字はすべて等価ですからね。

これは、三國志以降という中国史でもマイナーな時代が好きで、その時代に取材した通俗小説の翻訳をしている身からすると切実な問題ですが、史実なんだか創作なんだか、文章だけでは読む人に区別は付きません。翻訳する身からしても然りです。

だから、『三國志演義』を深掘りしたムックや新書が成立するわけで、受け取る側の脳裏には史実でも創作でも文章から図像や映像、あるいは音声さえも再生されてしまうわけです。これは作品の出来がよいほど危険で、本当に信じ込んでしまいます。『三國志演義』だけを読んで関羽に討ち取られた華雄が創作だと見抜いた人はいないはずですよね。

そういう訳でマニアックな歴史に取材した小説は毒饅頭にもなり得るわけですが、本作は「あとがき」にてサクッと創作と史実の境界が明示されており、作者が意識的に史実と創作を制御していることが分かります。

「著者はテキストに責任を負う必要がない」派でありますが、創作の影響には意識的であるべきだと考えます。ゆえに、本作の処置は読者に境界を明示している点で極めて真摯であると考えます。創作の意図は作品から汲むべきですので解説はなしの方向で。

このように真摯で創作に意識的な方に馴染み薄い世界を小説として紹介頂けるのは大変にありがたいことで、是非継続して中東世界への興味を喚起する史実と虚構をご提供頂ければと、楽しみにしております。

しかし、これ、16世紀くらいが舞台なんですよねえ。チラチラ調べると史料不足で史実の面からも不明が多いそうで。時代的にもう少し史料が揃っていてもいいように思いますが、東アジアと中東ではそのあたりも大きく違うのですねえ。。。



蛇足ですけど、レビューとして明らかに失敗ですよね。もっと読みたくなる感じに仕上げないとダメなんですけど、言わずもがなのことを書いてしまいました。
触発されるところが多かったということで、平に御容赦下さい。作品の出来はひとこと紹介に尽きますので、ご参照頂ければ幸いです。(なんだそれ)

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