eq/al ①

 あの日、平和を象る約束は破られた。

 あの日、平和を模る約束は破られた。

 ぴかっ、と光って、どんっ、と鳴る。たったそれだけで、約束は灰になっていった。たったそれだけで、世界は地獄へ姿を変えていった。

 約束。

 核兵器を使わない、という約束。

 もし、あの日、約束が破られなかったら、この世界は白に覆われずに済んだかもしれない。この地の文明だって、自然に侵蝕されずに済んだかもしれない。

 そう思いながら、いま、ぼくはロンドンの地を歩いている。ビルの代わりに聳え立つ木々の間を潜り抜けながら、ロンドンの地に隠された、忌まわしき人類の文明を探している。

 この地に隠された忌まわしき人類の文明。

 それは、

 この地を滅ぼした忌まわしき人類の文明。

 つまり、核兵器。

 ぼくはそれを求めて、村の狩人たちと共にロンドンの地までやってきている。

 というのも、核兵器こそがぼくに残された最後の希望だったからだ。

 核兵器。

 それは、地獄をつくる悪魔の手。

 それは、平和をつくる魔法の手。

 核兵器に宿された平和をつくる魔法の力こそが、ぼくたちに残された最後の希望なのだ。

 その希望を見出したのは、一週間前の、老人との対話による。

 つまり、あの老人の懺悔の後のことだ。

「わたしは協力すると言ったが、結局、本当にきみはこの世界の秩序を壊す気なのか」

 老人はぼくへ問うた。ぼくは迷わず、

「ええ。プラハに眠る人類の想いを摘み取る秩序など、平和を名乗って良いわけがありませんから」

「しかし、前提が間違っているとはいえ、この世界に平和が築かれていることは事実なのだ。エンドヴォルヴの築き上げた絶対的な理性による世界が正しい答えであることに変わりはないのだ。それでも、きみはこの世界を壊すことを選ぶのか。その言葉が指す意味を、分かっているのか」

「ええ、分かっていますよ。この世界の秩序を壊すということが、どういう意味を指すのかを」

 この世界の秩序を壊す。

 それはつまり、エンドヴォルヴを滅ぼすということだ。

 なぜって、この秩序は人類を淘汰しようとするからだ。不完全な理性しか持たない人類を滅ぼそうとする。この秩序にとって、愚かで野蛮で傲慢な人類は排除するに値する脅威なのだ。

 その存在を放っておけば、人類は勝手に戦争を起こして世界を無茶苦茶にしてエンドヴォルヴの世界に危害を加える。

 かといって、不完全な理性の人類を制御しようとすれば、いつかは情動が暴発して争いになる。すべてが泡になる。

 取り除ける脅威は事前に排除しておくべき。

 そういう保全の精神を、この平和を築き上げる秩序は持っている。だから、脅威を常に孕ましている人類はその存在を許されない。

 そういうわけで、その秩序を絶対遵守するエンドヴォルヴを滅ぼさないことには、人類はこの世界に蘇ることを許されない。エンドヴォルヴが絶対的な理性を持つかぎり、人類はこの世界に蘇ることはできない。

 だったら、エンドヴォルヴはエンドヴォルヴであることを辞めるしかない。

 絶対的な理性を持つエンドヴォルヴは不完全な理性しか持たない人間に成り下がるしかない。

 情動抑制装置という生物の進化の可能性を、破棄しなければならない。

「わたしはそれを惜しいと思うがね、一科学者として。進化の可能性を見出していて、それをなかったことにするなど」

 老人はそう言って、悔しさを零した。それはそうだ。この進化がどれだけの大罪であったとしても、進化であることに変わりない。情動抑制装置という発明がこの世界に新たな一歩を歩ませることそれ自体は事実なのだ。

「けれど、不可能でしょう。情動抑制装置の存在を残したまま、持ったまま使わずに居続けるなんて。そんな、かつての核兵器みたいなことは」

 自分でそう喩えたけれど、核兵器は持っているだけの間なら世界を破壊せずに済む。持っているだけで人類を淘汰しようとする情動抑制装置とはわけが違うかった。

 平和を築こうとする秩序が人類を淘汰しようとする以上、人類の存在は許されない。けれど、その秩序を壊すことは即ち、この世界を元の世界に戻すということに等しい。結局、どちらかしか選ぶことはできないのだ。

「核兵器……それだ。それなら情動抑制装置を残せるかもしれない」

 唐突に、老人はそう言った。

「どういうことです……」

「核の抑止力だよ。エンドヴォルヴを核兵器で脅迫すればいいのだ。人類と共生しなければ核兵器によってこの世界は滅ぼされる、と脅迫すればいいのだ。そうすれば、秩序は世界の平和と人類の脅威によるジレンマに苛まれ、人類という脅威と隣り合わせの中で平和を模索するしかなくなる。それに、絶対的な理性があればジレンマを放り投げることもないはずだ」

 ぼくは唖然とした。

 それは盲点だった。

 かつてこの世界にあった約束。

 核兵器を使わない、という約束。

 核兵器は地獄をつくる悪魔の手。それはこの世界を簡単に滅茶苦茶にすることができてしまう。だから、核兵器は使ってはいけない。もし、あなたが核兵器を使おうものなら、他のみんなはあなたに向かって核兵器を使って滅ぼす。そういう状況を作り上げることで、核兵器は平和をつくる魔法の手に成り代わった。

 約束が破られる、あの日までは。

 けれど、今度はどうだ。

 絶対的な理性を持つエンドヴォルヴはどうだ。

 絶対的な理性によって、ジレンマを情動的に放り投げることができないエンドヴォルヴはどうだ。

 核兵器という脅威から逃れるために、人類との共生を選択せざるをえないのではないだろうか。

 そういうことを、老人は提案していた。

「それなら、エンドヴォルヴは人類と平和を築いていける……」

「うむ。詳しく検証しなければ分からないが、可能性としては大きいはずだ。わたしはそれを試す価値があると思う」

 エンドヴォルヴと人類が共に平和を目指す世界。

 それはぼくの抱いた理想そのものだ。

 あの日、ウィーンの夜に抱いた夢そのものだ。

 成功すれば、すべてが丸く収まる解決方法ではないか。

「是非、やりましょう」

 ぼくはその提案に賛同した。

 この世界を守る秩序。

 この世界を縛る秩序。

 すべてをひっくり返すボタンがそこにあるのなら、

 躊躇わず、ぼくは、それを押すだけだ。

「ただ、エンドヴォルヴを脅迫することはエンドヴォルヴの生きる自由を奪うということだが、それでもいいのか」

「結局はバランスですよ。お互いに、すべてを許すことはできないんですよ。これなら、自由を奪うだけで、命までは奪わずに済むんですから」

 そういうわけで、ぼくは核兵器を手に入れることに決めた。

 核の抑止力によるエンドヴォルヴと人類の共生を成し遂げるために。

 人類とエンドヴォルヴの間に、約束を結ぶ。

 今度はきっと、約束は破られない。

 なぜって、絶対的な理性は、約束を破ることができないから。

 今度はもう、魔法の手は悪魔の手にならないはずだ。

「ライカさん……ライカさん」

 村の狩人がぼくを呼んでいる。戦場の兵士もビックリするほどの迷彩っぷりなイギリス軍の地下施設の入口を見つけて、ぼくを呼んでいた。

 イギリス軍の、それも中核を担っていた軍事施設は、なんとイギリスで一番の市街地だったロンドンの地下にある。ロンドンの地下に建造された理由は、襲撃されにくいからだ。軍事施設が襲撃されにくいということは軍事力を奪われにくいということでもあってそして、軍の情報の秘匿性も向上する。そういう戦争を優位に進める利点を生み出すために、ロンドンの地下に建造された。

 どうしてロンドンの地下に軍事施設を建造すれば襲撃されにくいかっていうと、戦争にも倫理観や社会性といった秩序が存在するからだ。

 どれだけ戦争という行為が人間の情動が生み出す平和を壊す冒涜的行為であったとしても、その情動が人間の中に存在するすべての意志ではない。人間の情動が暴発して戦争に至ったとはいえ、その心の中には倫理観や社会性といった秩序を想う部分が残されているのだ。だから、基本的に、戦争は兵士じゃない市民が暮らす市街地は避けて行われる。もちろん、市街地を狙うことで手っ取り早く戦争を優位に進める作戦は存在するのだけれど、基本的にその方針は採られない。というのも、これも核の抑止力と同じような原理で、そうした秩序に反する非人道的な行為は周辺国の目によって抑制されているのだ。市民を戦争に巻き込む行為は、あってはならないことだ。戦争にも、それなりのルールとモラルが存在するのだ。

 そういうわけで、イギリスはそれを逆手に取って、市街地の地下に軍事施設を建造していた。市街地に軍事施設を建造することで、軍事力を維持し続けることができた。イギリスがヨーロッパを簡単に掌握したのは、単に人型自律戦闘機が強かったからじゃなくて、そういう側面も含んでいる。一番大きな要因は、あの老人曰く、世界政府の裏の根回しがあったこと、らしいけれど。

 ロンドンの地下は、巨大な街だった。

 工場に研究所、そういう軍事施設だけじゃなくて、地下で働き生活する人々の娯楽のための施設まで、ロンドンの地下には、もはや街と言っていいような空間が構築されていて、それらは稼働していたころのそのままの姿で残されていた。ロンドンの地下がこんな街になっていたことは、さすがのぼくも知らなかった。

 発光玉を等間隔で足場に散らして灯りを灯しながら、ぼくたちは地下街を進んでいく。別にぼくに関しては拡張視覚を調整すれば暗闇の中でも問題なく探索することはできるのだけれど、同行してくれている狩人たちはそうはいかないから、ジェット戦闘機に積載していた発光玉を贅沢に使った。

 村の狩人たちはまじまじと、不思議そうに地下街を見つめている。少年から中年まで、色んな年齢の狩人たちがいるけれど、ここにいる誰もが、第三次世界大戦を、永遠の冬を知らない。教訓として、その歴史を教えてもらっているのかどうかは知らないけれど、それでも、結局、情動抑制装置によって情動という存在を知らずに生きてきた彼らには、この地下街が何のために造られたのか分からないだろう。ぼくたちがこれから回収しようとしている核兵器という爆弾が、いったいなんのために造られ、どういう原理で平和を守り、どうして世界を滅ぼしたのか、まるで分からないだろう。だって、情動抑制装置があれば、情動が理性を超越することがなければ、本来、核兵器なんてものは必要ないのだから。

 そんな彼らがこの地下街をまじまじと見つめていたのは、いまの彼らには情動抑制装置が備えられていないからだ。あの後、老人は村の住人の情動抑制装置をすべて取り払った。それを惜しいことだ、と老人は言っていたけれど、同時に、発展しない未来に意味はないから仕方のないことだ、とも言っていた。現状、人間に情動抑制装置を付けることは、ただ平和なる世界を現状維持するための装置でしかない。戦争に対するトラウマ意識が消え去らないかぎり、発展することと戦争することは違うことであると認識、理解しないかぎり、発展したいという意志を獲得しないかぎり、その先に未来はない。だから、彼らはここで学ばなければならない。過去になにがあって、それがなぜ起きて、そしてどうすれば良かったのかを。そして、なにより、これからどうするのかを選択しなければならない。自らの意志で。

 不意に、ぼくはエンドヴォルヴの研究所を視界に捉えた。

 狩人たちに、一人で行動しないように促して、ぼくは一人、研究所へ足を運ぶことにした。核兵器が保管されている施設はここじゃないし、別にここに立ち寄る理由は特にないのだけれど、何となく、そういう気分だった。

 造りかけの腕。

 工具が散乱したままの机。

 当時のままなのであろう光景が、ここにも残っている。

 ここで、ぼくは生まれた。

 ここで、世界政府はすべての責任をエンドヴォルヴに投げ捨てた。

 それはそうとして、ここでぼくたちを製造していた人たちは、いったいどんな気持ちでぼくたちを造っていたのだろうか。きっと、希望を詰め込むようにぼくたちを組み立てていたのだろうな。まさか自分たちの命を摘み取る存在を造っているとは思いもしなかっただろう。そう思うと、世界政府の連中を一発ぶん殴りたくなった。

 あの老人以外の、世界政府の人間たちはすでに死んでいる。彼らは、自らの犯した罪をエンドヴォルヴに擦り付けてそのまま、いや、むしろ、自分たちは世界の救世主だと言わんばかりに、英雄を気取って生涯を全うした。そういうわけで、世界政府の連中をぶん殴ることはもう叶わない。強いて言えば、あの老人を殴ることはできるけれど。

 なにか感じることはあるだろうか、と思ってここに立ち寄ってみたけれど、いざ、自分の生まれた場所に立ってみても、それほど特別な感情は湧いてこなかった。世界政府への憎しみとエンドヴォルヴと人類への同情、そして、早く世界を救わねばならないなという使命感がこみあげるだけだった。

 その後、ぼくたちは無事に核兵器を回収した。核兵器はしっかりとたっぷりとそのままの姿で残されていた。ここにある分を爆発させるだけでも、簡単にヨーロッパは吹き飛んで地獄に姿を変えてしまうだろう。第三次世界大戦の際、ヨーロッパは他のアジアやアメリカといった地域に比べて核被害の少なかった地域だから、きっと、あのときよりも酷い地獄が訪れる。ぼろぼろになりながらも何とか建ったままでいたウィーンの国立歌劇場も、もれなく跡形もなく消し炭になるだろうし、この百年の間に着実に人類の文明を食い続けてきた大自然の大いなる姿だってあっけなく炎に食い尽くされてしまうだろう。それほど大きな力をこの核兵器は秘めているし、それほど大きな力を秘めているからこそ、ぼくたちの大きな希望でもある。

 地下街にあった戦車を一両拝借して、それに乗ってぼくたちはロンドンをあとにする。いつかの未来に、人類がここに訪れる可能性を考慮していたのか、燃料や食料といった物資がいくらか、保存されていた。さすがに食料は大事を取って破棄したけれど、戦車の燃料まで長期保存用に用意してあるのは助かった。

 久しぶりの葉巻を吸いながら、戦車を運転する。がたがた、と揺れながら、轍のない森をゆっくりと進んでいく。狩人たちは地下街の光景に疲労したのか、こんなに揺れる戦車の中でぐっすりと眠っていた。

 そんな中で、あのときと同じように少年が葉巻を咥えるぼくを見つめていた。

「葉巻、いる……」

 今度は、少年は頷いた。ぼくは嬉しくなって葉巻を差し出した。

 それが葉巻の味だ。

 それが未知を知るということだ。

 啓蒙するように、ぼくは葉巻の嗜み方を少年に丁寧に教えた。そういえば、ベルカはぼくに葉巻の吸い方をあまり教えてくれなかったな、と思い出した。そう思うと、ぼくも少年には雑に教える方が良かっただろうか。けれど、それで葉巻の魅力が伝わらなかったら嫌だし、どっちが最善なのか、分からないな。とにかく、いまは少年の好奇心に歓喜と感謝を捧げるべきだ。なぜなら、これは人類史の新たな一歩になるかもしれないからだ。平和を盾に未来を歩むことを止めてしまった人類の、未来への勇気の一歩かもしれないからだ。それに、この世界で葉巻を嗜んでいたのはぼくだけになってしまっていたし、そういう意味でも、ぼくは少年に感謝の言葉を告げた。

「ありがとう」


 村へ戻った後、ぼくはすぐにプラハへ飛ぶ支度をした。ぼくがプラハを出てから十日が経過していた。ここでゆっくりとしている暇はぼくにはない。エンドヴォルヴが人類を破棄してしまう前に、ぼくはそれを阻止しなければならない。

 核兵器でエンドヴォルヴを脅迫する。

 たったそれだけで、きっと、すべて上手くいく。人類は蘇り、この世界の平和も保たれたままで、発展を続けていく。もちろん、その先に人類同士で、人類とエンドヴォルヴの間で、衝突することはあるだろうけれど、それらは、きっと、乗り越えていける。絶対的な理性まであるのだから、きっと、もう二度と、この世界に永遠の冬は来ない。

 村に別れを告げて、ぼくは停めていたジェット戦闘機の元へ向かった。別れ際、ぼくは手持ちの葉巻のすべて――といっても、たったの数本だけだけれど――を少年に譲った。それだけじゃすぐになくなってしまうだろうけれど、ぼくがこの世界を救えば済む話だ。それに、ある意味でこれは自分に対しての願掛けでもあった。

 葉巻が吸いたければ、人類を救え。

 ジェット戦闘機の元まで辿り着いて、ぼくは、この十日間、しっかりとジェット戦闘機を獣から守ってくれていた警備ロボットの頭を撫でて、機体へ乗り込む。

 あの村はこれから、ぼくの知らない道を歩んでいく。いや、だれも知らない道を歩んでいく。もしかすると、戦争が起きて滅びる道を歩むかもしれない。発展して生活が豊かになっていくことの悦楽に溺れて、愚かさと野蛮さと傲慢さが溢れて崩壊するかもしれない。けれど、ぼくはそれでもいい気がした。もちろん、それはまったく、全然、良くないことなのだけれど、彼らが、発展することを恐れて、未来を選択することを禁じてきた彼らが、自らの意志で未来を選択して戦争を起こしたというのなら、それはそれで美しいような気がする。

 そんなことを思いながら、ぼくはプラハへ発つ。

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