Endv0lve ⑤

 エンドヴォルヴは、人類を淘汰しようとしている。

 エンドヴォルヴの脳に埋め込ませた情動抑制装置、それはエンドヴォルヴの情動が理性を超越しないように制御するとっても便利で優秀なシステム。これがあればエンドヴォルヴは目先の利益や感情に騙されて衝動的にならない。だから、常に平和を維持するための倫理観と社会性に沿った行動を選ぶことができる。そういうわけで、エンドヴォルヴが築く世界には戦争は起きないし、未来永劫廃れることはない。

 そんなエンドヴォルヴはあるとき気付いた。この絶対的な理性を獲得できていない人類には、平和を築き上げることは不可能なのではないかと。愚かで野蛮で傲慢な人類をこの世界に蘇らせた際、この世界は、エンドヴォルヴは、危険に晒されてしまうのではないのか、と。

 そうして辿り着いた人型自律戦闘機の結論が、人類の破棄だ。

 愚かで野蛮で傲慢な人類に平和は築けないのだから、人類を蘇らせる必要がどこにあるだろうか。

 そして、エンドヴォルヴは人類よりも優れているのだから、人類を蘇らせる必要がどこにあるだろうか。

 平和を築けない人類は滅ぼしてしまえ。

 そんなエンドヴォルヴの思考を、エンドヴォルヴの生みの親は最初から予測していたという。人類を滅ぼすかもしれないということを、認識していたという。

 それどころか、こんな大事なことが世界政府の利己的な感情によって発生しているという。

 人類の命の責任をエンドヴォルヴにすべて投げ捨てた。

 世界政府の利己的な感情が原因で、全人類は、いま、プラハの地下に閉じ込められている。

 エンドヴォルヴに殺されようとしている。

 室内の燈火は、静かに燃えている。老人の後ろめたさそうな顔をほんのりと照らしている。

「そうだ。世界政府は世界の規模を縮小することを、人類の命をその手で摘み取ることを最後まで躊躇った。しかし、そうするほかに道はなかった。だからエンドヴォルヴを造ることにした。人類の命運を審判してもらう代行者を造ることにした」

「つまり世界政府は自分たちがやった人類の虐殺の責任をエンドヴォルヴに押し付けたっていうのか」

「そうだ。我々はあくまでも、人類を窮地に立たせただけで、殺してはいない。というスタンスを取ることにしたのだ。人類を殺したのは我々の意思ではなくエンドヴォルヴの秩序だということにしたのだ。そうしなければ、人間の脳はこの罪の重さに耐えられなかった。エンドヴォルヴは人間と違い、絶対的な理性によって絶対の公平さを持って審判を下すことができるからな。そして事実、エンドヴォルヴは人類を淘汰することを選んだ」

「もしエンドヴォルヴが人類を蘇らせると言っていれば、どうするつもりだった。アメリカに住んでいた人々の犠牲は、第三次世界大戦で亡くなった人々の犠牲は、一体どう責任をとるつもりだった」

「それならそれで、だ。それだけの犠牲でこの世界が滅ばずに済み、平和の道を歩めるのなら、という判断だ」

 こんな考えの人たちが世界を管理する政府だったなんて、いまならエンドヴォルヴが人類を滅ぼそうとするのも賛同してしまうかもしれない。

「聞いて呆れる」

「それでも、この道は決して間違ってはいなかった。多くの犠牲を払いはしたが、無事に目的は達成された」

「エンドヴォルヴが代わりに人類を殺して肩の荷が下りたってわけ……悪いけれどぼくは――」

「そうではない」

 皮肉を交えながらぼくの意思を表示しようとしたそのとき、老人は強く否定の言葉を発した。そして、

「我々の目的は、人類を滅ぼすことそれ自体ではない。世界を白紙に戻すこと、すなわち、平和な世界を築き上げることだ。そしてそれは、この村によって達成された」

 そう告げた。

 この村が計画の終着点。

 老人は告げたことは、そういうこと。

 ぼくはついさっきまでに見てきた、この村のことを思い浮かべる。

 砕け散った瓦礫の山と剝き出しになった鉄筋で構成される庭

 風通しの良すぎる天井のない家

 さしづめ、紛争地域のような場所だった。

 それが、平和な世界の完成形だという。

「この村が人類を滅ぼした計画の終着点って、本気で言っているのか。エンドヴォルヴが造ったプラハの街並みの方が遥かに綺麗だぞ」

 ぼくはそう言った。実際、プラハの街並みは綺麗だ。二年前の片鱗はどこにもない。あの街が実は二年前はこの村くらい、いや、この村よりも荒廃した場所だったと言っても誰も信じやしないだろう。それくらい、いまのプラハは綺麗だ。

「この村の外観については明確な理由がある。その前に、この村の本質について説明させてほしい」

 またふざけた理由ではないだろうな、と思いながらも、ぼくは了承した。

「我々は平和が永久的に維持される世界を築くための研究をしていた。この世界から戦争を淘汰する方法を探していた。動物ですら行う争いの概念を消去する方法を探していた。その途中で、我々は理性という器官に注目した」

「それで」

「理性とは、情動を抑制する器官だ。そして、情動とは、人間の意思の方向性を指し示す概念のことだ。ここで間違えてはいけないのは、情動と理性は対を成す概念ではないということだ。理性とはあくまで、人間の情動を定められた倫理観や社会性といった秩序に沿って抑制する器官であって、情動に反発した倫理観や社会性それ自体ではない。人間が定めた平和を望む倫理観や社会性という秩序が戦争という情動に対を成しているだけで、理性それ自体に平和を築く意志はないということだ。また同時に、秩序に情動を抑制する能力がないということでもある。秩序という平和の概念に反応して理性が情動を抑制しているというわけだ。そこで、我々はこの理性に目を付けた。この理性という情動を抑制する器官を補強すれば戦争を葬り去ることができるのではないか、と考えた」

 秩序を守る働きを持つ理性。それを活用してこの世界に平和を築く。

 それはエンドヴォルヴが辿り着いた平和の作り方だ。実際、エンドヴォルヴは平和を守る秩序を設定して、それを絶対的な理性によって守り続けさせることで平和を構築している。

 けれど、それはエンドヴォルヴの話だ。絶対的な理性の話だ。

 それなのに、

 それと同じ原理の話をここでするということは、つまり、

「この村の人間に絶対的な理性を与えたというのか」

 ぼくの脳は、そう推測した。

「その通りだ。良く分かったな」

「それはエンドヴォルヴと同じだから」

「そうだとも。エンドヴォルヴと同じだ。我々はこの村の人間に情動抑制装置を備え付けた。その行為自体は、とても簡単なものだった。人間の脳は簡単に適応した。外部からの介入をいとも簡単に受け入れたよ。もっとも、全ての人間が成功したわけではないけれどね。それでも、十分過ぎる確率で成功したし、見事この村は平和を維持している。この村の住民は皆、情動抑制装置によって平和を守る秩序に管理されている。我々は平和を築き上げることに成功したのだ」

 なんということだろうか。

 人類はエンドヴォルヴになることで平和を築き上げることに成功したという。

「けれど、それじゃおかしいだろ。この村とプラハじゃ大違いだ。エンドヴォルヴと同じ状態になるというのなら、この街だってプラハのように再建しているはずだ」

「うむ。その通りだ。本来なら、人間もエンドヴォルヴのようにこの村を建て直しているだろう。しかし、人間とエンドヴォルヴには大きな違いがある。正確には、この村の人間とエンドヴォルヴには違いがある、だが。それで、この村とエンドヴォルヴの違いはなにかというと、それは秩序だ。そもそも、この平和を築き上げるシステムに必要なものは、秩序と理性の二つだ。秩序という平和への方向性と理性という秩序を守る器官が揃うことで初めて平和が構築される。この役割関係からも分かるように、大切になるのは平和への方向性それ自体である秩序だ。秩序が築き上げる平和を定義しているのだ。つまり、設定された秩序が違うのではあれば、構築される平和も違うということだ。そして、この村の人間が設定した秩序とエンドヴォルヴの設定した秩序が違うために状況に違いが発生している」

「どうしてそこに違いが生じる……平和を望む未来自体は同じではないのか」

「平和を望むという方向性は恐らく同じだろう。しかし、決定的に違う部分が存在する。それは記憶によるものだ。記憶という部分が人間とエンドヴォルヴとで違うのだ。この村の秩序を設定した人間たちには、エンドヴォルヴが持たない記憶を持っているのだ。戦争への恐怖という記憶をね。人類は戦争を恐れた。戦争が絶対に起きない秩序を構築するなら、一体どう設定すればいいのかを考えた。その結果、発展することが禁じられた。どうしてか、分かるかね」

 戦争と発展。その二つが表裏一体であることは歴史から簡単に紐解くことができる。

 戦争には経済効果が存在する。武器を製造する工場には人手が必要になるし、物資だって売れるようになる。そうやって戦争は仕事を増やして経済を動かした。そもそも、この一連の話はアメリカが日本に手を貸して戦争に関与したことで大儲けしたことがすべての始まりなのだ。そして、そういう面だけじゃなくて、もっと大きな目線での話。たとえば、大昔の人類はそもそも銃や爆弾を持っていなかった。最初は石や木だったし、それが刀になって銃になって、そういう文明的な発展も戦争は関与してきた。戦争によってこの世界の文明は発展してきたと言っても過言ではないのだ。

「それはおおむね分かります。けれど、それならエンドヴォルヴの設定した秩序と同じ秩序を設定すれば解決するのでは……」

「そうだ。秩序の設定を変更すればその問題は解決することができる。しかし、今度は別の問題が発生するのだ」

「どういった問題が」

「人間が抱えた戦争への恐怖。それが心的外傷――所謂トラウマと呼ばれるもの――となって人間の精神に植え付けられているのだ。このトラウマは情動と密接な関係にある。なぜなら、トラウマの構造は、トラウマの対象の事象に対して精神を過剰に反応させて人間をその事象から遠ざけるものだからだ。言い換えば、情動が理性を超越して人間をトラウマから守る防衛機能だ。具体的に砕いて言うのなら、人間が発展しようとすればトラウマが発展を拒むということだ」

 トラウマが発展を阻止している。

 トラウマという情動反応が発展することを防いでいる。

 ぼくはその説明で理解することができなかった。

 だって、発展する行為それ自体は秩序には反していないのではないだろうか。

「それは説明として不適切ではないでしょうか。絶対的な理性がトラウマの反応を阻止できるのだから、発展することは可能ではないでしょうか。それとも、絶対的な理性はトラウマに打ち克てないとでも言うのですか」

「残念ながら、そういう話ではない。もちろん、絶対的な理性はトラウマさえも抑制することができる。問題は、トラウマという情動反応それ自体にあるのだ。絶対的な理性は秩序を守るために、秩序に反する情動に反応して抑制する。それと同じように、トラウマという情動に反応して抑制する。人間の脳は、残念なことにこの二つを区別することができない。絶対的な理性が反応しているから、それはしてはいけないことだと認識するのだ。これが人類が発展できないメカニズムだ」

「つまり、人間がトラウマを持っている間は不可能であると」

「そうだ」

「しかし、ここの村の人々は既に戦争を経験していないのでは」

「うむ。既に戦争へ対する恐怖を直接的に植え付けられたものたちはいない。しかし、経験した彼らは伝承として、村の子供たちに代々その恐怖を語り継いで精神の奥に滲み込ませている。それは二度と戦争を起こしてはならないという意志によって行われている。この村の住民は、発展することよりもこの現状を維持することを選んだのだ。戦争を引き起こしたわたしに、それを止める身分はない。いや、違う。わたしはこの平和を守らねばならないのだ。なぜならそれが犠牲となった人類たちへの、わたしの犯した罪への贖罪だからだ」

 なんとも皮肉な話だ。この村は発展しないことを選択しているという。発展する未来の可能性よりも、平和を確実に維持できる今を優先しているという。

 そして、この老人は、それを守ることが自らの犯した罪への贖罪だという。

 確かに、この世界がどんな成り行きを持っていたとして、たくさんの人類の犠牲の上に成り立っているというのなら、それは守らなければならないことなのかもしれない。ぼくが人類を救出しようとするように。

 けれど、そもそも、その成り行きがおかしいではないか。平和を築き上げるためにたくさんの命を殺すというのは、おかしな話ではないか。

 最初から全員救うことはできなったのだろうか。

「最初から、最初から全ての人類に情動抑制装置を備え付ければ誰も殺さずに済んだのではないのか。それは不可能だったのか……」

「わたしだって、そうしてやりたかったのは事実だ。誰も殺さずに済むのなら、その未来を選ぶことが最善であるのは確かだ。しかし、結論から言おう、全人類に情動抑制装置を付けることは不可能だ。なぜなら、この地球には環境の違いが存在するからだ。環境の違い、それは気候や地形、生態系の違いだ。それらは人類の秩序を構築する上で重要な要素となる」

「それはどうして」

「分かりやすい例として、食事を例に挙げよう。といっても、食事という概念はエンドヴォルヴには理解し辛いかもしれないが。この村で現在設定されている食事に関係する秩序を、砂漠地帯で生きていると仮定した人間の集団に適応するとしよう。すると、恐らく、そこでは飢えが発生する。この村と砂漠地帯では調達できる食事の量がまるで違う。地球の各地でどれだけの環境の差があるのかは、昔に流行ったグローバル社会を見れば顕著だろう。あれは環境の差を最大限に活用しようとした計画だからな。とにかく、一つの秩序でこの地球全体を賄うことは人類には不可能なのだ。酸素があるだけで生きていけるエンドヴォルヴなら、そういうわけでもないのだがね」

「じゃあ、地域ごとに秩序を区切ることはできないのか。そういう差があるものだと、認識させることはできないのか」

「それは戦争に繋がってしまう。そうだな、きみは聖戦という言葉が分かるかね」

 そう言われて、なるほど、とぼくは納得した。

 聖戦。

 それは正義の戦い。正義という自らの秩序を懸けた戦い。お互いに、お互いが自らの秩序を守るために戦うその戦場には悪意も欲望も存在しない。そこに存在するのは、秩序を侵す者を葬るための正義だけ。そこにいる誰もが悪人じゃない。だって、自らの背負う秩序に背いているのは相手の方なのだから。

 秩序が違うということは、聖戦を引き起こす原因に繋がるのだ。たしかに、それは防がねばならない。そんなことで人が殺し合うなんて、間違っている。

「秩序が一つでないといけないことは、分かった。けれど、じゃあエンドヴォルヴはどうなんだ。エンドヴォルヴの秩序は、この村の秩序と違うじゃないか。エンドヴォルヴがこの村を滅ぼそうとする可能性はないとは言い切れないのではないだろうか」

 それがあってほしいとは思わないけれど、ありえない話ではない。

「うむ。エンドヴォルヴが万が一にこの村を滅ぼそうと決めたとき、この村は終焉を迎えることになるだろう。その問題については、解決することができなかった。しかし、わたしはそれを受け入れるつもりだ。この村の秩序はこの村の者が決めたもので、そしてわたしはエンドヴォルヴの開発者だ。この村がエンドヴォルヴに滅ぼされてエンドヴォルヴが地球で繁栄していくというのなら、わたしはそれは本望だ。一応、これでも科学者の端くれでね、自らの研究成果を否定したくはないのだよ」

 許しを乞うように、そして自らを誇るように、老人はそう言った。

 適者生存という言葉。

 世界は常にぼくらに選択を迫り、そして、正解を選び続けた者だけがこの世界に生存を許される。未来へ進むには、常に正解を選択しないといけない。なにかを切り捨てなければならない。

 人型自律戦闘機という人類より優れた生物が誕生したから、人類は淘汰される未来を迎える運命にある。

 かつて恐竜が絶滅したように、人類は絶滅する。

 だから、人類がエンドヴォルヴによって淘汰されることも自然なこと。

 老人の言葉は、そういうことだ。ストレルカの言うことと、何も変わらない。

 もうこの世界は、本当にそういう世界なのだろうか。

「それじゃあ、プラハの地下に眠る人類を救う方法はないってわけ」

「そうだ。彼らは平和なる未来への供物となるのだ」

「ぼくはそのためにここまで来たのだけれど」

「どういう意味だ」

 老人はぼくに問う。困惑している。

「ぼくはプラハの地下に眠る人類を救う方法を探してイギリスまでやってきた」

「なぜだ……絶対的な理性の性能に個人差はないはずだ。秩序が一つなら、それに従う思想も一つに収束するはずだ。きみは最初にエンドヴォルヴは人類を滅ぼそうとしていると言っていたではないか」

 それ自体は嘘ではない。ぼくとベルカを除いては、だけれど。

「ぼくはそうは思わない。もっとも、ぼくの絶対的な理性が機能しているかどうかについては、もう分からないけれど、ぼくの意志は人類の淘汰を否定している。それだけは事実だ」

 ぼくは自分の正当性を証明できない。ぼくがおかしいのか、みんながおかしいのか、それを証明する時間はなかった。けれど、きっと、ぼくのほうがおかしいのだろう。それはおおよそ、あの状況から鑑みるに把握できる。

「なるほど。では、それを踏まえてわたしは問おう。きみはどうして、人類を救いたい」

 老人はぼくに問う。

 ぼくがそに答えるのは、簡単だ。

 なぜなら、その答えはぼくの生きている理由それ自体なのだから。

 ぼくが人類を救いたい理由。

 いや、違う。

 ぼくが人類を救わなければならない理由。

「人類を救出する……それがぼくの使命であり、そして友への贖罪だからだ」

 ぼくははっきりと答えた。強く、自分にも、刻み付けるように。

「使命、贖罪……きみはわたしと同じなのだな」

 その言葉にぼくは憎悪を覚えた。世界中を混沌に染め上げ、人類を虐殺した挙句に罪をエンドヴォルヴに擦り付けた罪人と同じだと言われたことに、殺意を覚えた。けれど、すべてを否定することはできなった。

 だって、ぼくだって、

 生きるためだ、と言ってリチシカを殺しているのだから。

 使命のためだ、と言ってベルカを殺しているのだから。

 そしてその罪を、絶対的な理性に擦り付けているのだから。

「そんなことはどうでもいい。ぼくは人類を救う方法が知りたい」

「それはこの世界の秩序を壊す以外に他はない。しかし、それは決して許されることではない。この世界の秩序は、この世界の平和は、たくさんの犠牲を以て築かれたものだからだ」

 老人は、そう強く言い放った。

 この世界の秩序は、たくさんの犠牲の上に成り立っている。

 たくさんの犠牲。それは戦争で死んだ人々の命とプラハに眠る人々の命。

 そうした犠牲の上に成り立っていて、平和な世界を築き上げている。

 だから、秩序を壊すということは、戦争で死んだ人々の死を無駄にすることと平和な世界を壊すということを意味する。平和が約束されたこの世界を再び争いのある混沌で不安定な世界に塗り替えるということを意味する。

 けれど、そもそも、前提から間違っていないだろうか。

 その犠牲は、払わなければならないものだっただろうか。

 そんな犠牲の下に成り立っているこの楽園は、本当に楽園と呼べるだろうか。

「犠牲の下に成り立っている楽園なんて、秩序なんて、そんなものはクソったれだ。そんなものは、なくていい。だれかを犠牲にして成り立つ世界なんて、なくていい。そんな世界が正しいなんて間違ってる。そして、そんな世界を守ることがあなたの使命と贖罪なんて、間違ってる。そんなことで果たされる使命じゃない、赦される罪じゃない」

「きみはこの世界を壊して、どうしようと言うのだ。その先にあるのは、混沌だ。殺し合いに溢れた世界だ。そこに希望など、ありはしないのだ。もうどうしようもないのだ。この世界の秩序は、平和は、守り続けなければならないのだ」

 老人は声を荒げた。その叫びは嘆きのようにも思えた。

「この先の未来のことなど、ぼくには関係ない。なぜなら、この世界の未来は、誰かが決めるべきものではないからだ。そのために、ぼくはこの身に背負った使命を果たさなければならない。この身に託された、プラハに眠る人々の想いを果たさなければならない。プラハに眠る人々の未来なくして、この世界の未来など語るまでもなく無意味だ。未来は全ての命を以てして語らなければならない。この世界の未来を決めるのは全ての命であるべきだ。誰かが勝手に決めていいものじゃない、全人類の意志で決めるべきだ」

 意志が未来を決める世界。

 それは、きっと、ベルカが望んだ世界だ。平和を愛する秩序に守られた世界を憎んだベルカが望んだ世界だ。

 全てを知ったいまならぼくも思う。その世界を創るべきだと。

「きみはこの世界が滅んでもいいというのか」

「それが人類が決めたことなら。ぼくには関係のない話だ」

「それはきみがエンドヴォルヴだからか……」

「そうかもしれないけれど、きっと違う。だってぼくはエンドヴォルヴを名乗っていい身分じゃない。ぼくは理性的であるとは到底、自分でも言えない。ぼくを突き動かしているのは紛れもなく情動なのだから。そして、ぼくはこれでも平和な世界を創りたいと思っている。けれど、そこに人類がいないのなら、そんな世界はいらない。犠牲の下に成り立つ世界なんて、いらない」

 ぼくはそう告げた。この答えが、ぼくのすべてだ。

 老人は少しの間、沈黙した。自らの中で、自らの罪と、過去と対話しているのだろう。だって、この老人はこれまで、たくさんの罪を犯しながら、背負いながら、この世界に平和をもたらせてきたのだから。

 そして、老人は語り始めた。自らの答えを。

「わたしはずっと、この罪を犯し続けることが、背負い続けることこそが贖罪だとして生きてきた。この世界を平和に保ち続けることが、なによりの贖罪であると思って生きてきた。しかし、きみはそれを否定した。この罪に対して、やり直すことこそが贖罪であると、きみは言った。わたしはそれが嬉しかった。きみがわたしを否定したとき、わたしはどこか嬉しかった。わたしはずっと待っていたのかもしれない、わたしの罪を赦さない審判者が現れることを。わたしはいま一度、罪を背負い直そう。この世界を、正しい道理を以て平和へと導くことに尽力しよう。間に合うのなら、わたしは救える全ての希望を救わなければならない」

 全て、始まりが間違っていたのだ。

 この世界の平和の作り方それ自体が、間違っていたのだ。

 決して、平和が悪いわけじゃない。

 平和を願う秩序とそれを守るための絶対的な理性、それ自体は悪でもないし罪でもない。

 ただ、それを築き上げるための前提が間違っていたのだ。

 たくさんの罪を犯してまで築き上げるべきではないのだ。

 それは意志を以て成し遂げられるべきなのだ。

 ただ、それだけのことだ。

「きみにできるかぎりの協力をさせてほしい。わたしに贖罪をさせてほしい」

「その罪を赦すのはぼくじゃない、人類の未来だ」

 ぼくがそう言うと、老人は微かに笑った。

 そう、ぼくは審判者でも何でもない。ただの人類の救世主だ。

 ぼくは人類を救わなければならない。

 それは、生まれ背負った使命を果たすために、

 そして、生きて背負った罪を償うために。

 それが世界の平和を壊すことになるとしても。

 なぜなら、この平和は偽りなのだから。

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