裁生v@l 0分 座 f1t試験 ⑤

 プラハまでの道のりは長い。サラエボで目覚めてからすでに一週間が経過していた。特徴的なコートを羽織るストレルカが率いるエンドヴォルヴ分隊は三十ばかりの人数で隊列を形成して、冬が終わりを告げた地球の環境を調査しながら、プラハを目指す。

 地球は想像以上に自然を取り戻していた。人類が地上の支配権を放棄して百年、その間に地球はめいっぱいに緑を根付かせていた。それはある意味で、本来の地球とはこうあるべきなのだと主張しているようにも見えた。とにかく、地球に映る景色の全てが自然だった。ぼくたちの身体のような、人工の手が加えられていない世界。歩くための道が整備されていない山道、視界一面が地平線になる草原、そういう景色がこの地球に広がっていた。

 もちろん、地球の全てがそういう場所ってわけじゃない。自然純度百パーセントな地帯っていうのは、百年前に核兵器によって焦土になった場所に限っての話。第三次世界大戦で被害を被らずに済んだ街は、百年前に放棄されたまま、人類の文明を残していた。まあ、その文明の産物も時の流れによって風化、浸食して死にかけているわけだけれど。

 それはいま、ぼくたちが滞在しているウィーンだって例外じゃない。

 音楽の都、ウィーン。

 歴史に名を刻んだ音楽家の出生地だから、有名な歌劇場が建っているから、音楽によってこの街は栄えてきたから、そういう理由で、そう呼ばれている。いや、正確には、呼ばれていた、だろうか。

 いま、ここウィーンには音色はない。指で触れるだけで大きな音を立てて崩れてしまいそうな廃墟が並んで、人間の代わりに蔦や苔が黙って建物に住み着いている。二十三世紀のウィーンで演奏をするのは、風に揺れる植物くらいだ。この街に獣が住んでいる形跡は軽く見た限り見当たらない。

 ぼくたちはこの夜が明けて朝日が昇るまで、ここで滞在して休養することに決めた。別にエンドヴォルヴに睡眠は必要ないのだけれど、ぼくたちの分隊は日没後は活動を控えるようにしていた。

 ぼくたちは常に電力を生産しながら、同時に電力を消費している。そして思考だったり戦闘だったり、何か動作を行うと、さらに電力を消費する。そういうわけで、常に活動し続けているといつかは底をついてしまう。この危険が溢れる自然の中でいつでもどこでも休養が取れるとは限らないから、こまめに休養を取ることにしている。

 ぼくたちの分隊では、休養中は二人一組のペアの三組作って見張りをすることになっている。ローテーションでペアを組むのだけれど、今夜はぼくはストレルカとペアを組んで見張りをすることになった。以前、ベルカとペアを組んだとき、一晩中ベルカの武勇伝とアメリカンジョークを訊かされるはめになったから、ストレルカはまともであることを願いたいかぎりだ。そんなことを思いながら、見張りの時間は訪れた。

 夜空に星々が輝いている。ウィーンの街は緑に侵蝕されて随分と変わってしまったけれど、この空の輝きはなにひとつ変わらない。いや、どこかの星が生まれたり消えたりしているだろうから、本当は少しは変わっているだろうけれど、それはほんの些細な変化。なんたって、人類がこの地球に与えてきた影響の大きさは、この地球の姿を見ればすぐに分かってしまうのだから。

「ライカは星が好きなのかい」

 星空を眺めるぼくに、ストレルカはそう訊いてきた。

「好きってほどの興味があるわけじゃないよ。ただ、綺麗だなって」

「なるほどね。けれどきみは、そういうことが好きなんじゃないのかい。ぼくには、きみはよく地球の景色を目に焼きつけているように見える」

「へえ、それはそうかも、しれませんね」

 それはぼくのバルスへの贖罪……のつもりだ。バルスが見ることの叶わなかった景色を、ぼくはこの目に焼きつけることで贖罪しようとしている。死んでいった者の想いを背負って生きることは、残された者の、生きて未来を歩く者の使命ではないだろうか。

「地球は見違えるほど綺麗になった。いや、ぼくにそれを言う資格はないか」

 かつて、この空は見えなかった。第三次世界大戦で放たれたたくさんの核兵器によって生まれたキノコ雲が地球の空を覆いつくして、この世界から夜空を奪った。それはある意味で、エンドヴォルヴにも一因があると言える。もちろん、エンドヴォルヴが当事者ってわけじゃないけれど、戦争をしていた一員であることは確かだ。

「ストレルカは、どういう気持ちで戦争していたの」

 その気持ちはきっと、第二世代のエンドヴォルヴには分からない気持ちだ。エンドヴォルヴはいま、人類の救世主としてプラハを目指しているけれど、元々は人間を殺すために造られた戦争兵器なのだ。ぼくは知らない。彼らがいったいどんな気持ちで人を殺していたのかを。そこに感情はあったのだろうか。それとも、人を殺すことに、街を壊すことに、そもそも感情などなかったのだろうか。

「すべて、平和のためだよ。ぼくだけ、エンドヴォルヴだけじゃない。恐慌と飢饉によって混沌の渦に苛まれたすべての人間だって、この世界に平和を築くために戦争をしていた。戦争に勝利して、イギリスが世界を統治するようになれば、この世界から争いはなくなる。戦争は平和を掴むための手段でしかなく、そして平和を築くための犠牲だ」

 ストレルカは淡々と、当たり前であるかのように語った。

 平和のために戦争を行う。

 おかしな話だと思う。けれど、それは人類史においてはいたって普通のことだ。いつの時代だって、人間はこれまで、平和を謳って侵略と革命を繰り返してきた。悪を滅ぼすために戦う。平和を守るために戦う。戦争とは、それだけのことだ。

 けれど、ぼくはそれを悲しいことだと思う。

「そんなことで、平和は築けないだろう」

 争いの末の支配によって築かれる平和なんて、きっと、いつかの誰かの憎しみになって、壊れるに決まっている。

「そうだよ。平和を謳って殺し合いをするだけじゃ平和はいつになっても訪れやしない。そんなこと、エンドヴォルヴならすぐに分かるのにね。けれど、人類には分からないんだよ。いや、分かっていても、それは止められないんだ。そして、だからこそ人類はこうしていま、プラハの地下に眠っているんだ」

 エンドヴォルヴにはすぐに分かること。

 人間には分からないこと、いや、分かっていても止められないこと。

 人間とエンドヴォルヴには大きな違いがある。

 それは、絶対的な理性。より正確に言うなら、秩序を守りきる能力。

 人間には、限界が存在する。

 人間はどれだけ理性的に、平和を守るための秩序に従い続けようとしても、いつか、それは終わりを迎える。なぜって、人間は情動に抗えないから。人間には我慢の限界が存在するから。どれだけ硬い意志を持っていたとしても、人間の脳は情動に最終的には抗えないようにデザインされてしまっている。そういう仕様なのだ。

 そして、悲しいことに、情動の爆発は共鳴して連鎖する。たったひとつでも、社会の中で情動が暴発すればその社会は崩壊してしまう。かつて、ロシアが約束は破れることを証明してしまったがために世界中で核兵器が使われてしまったように、情動の暴発は連鎖してしまう。

 だから、人間には永遠の平和を築くことができない。

 この星空のような不変性は獲得できない。

 そのとき、ふと、ぼくは思った。

 人間に永遠の平和は築けない。

 けれど、情動抑制装置を備えているエンドヴォルヴなら、平和を第一にする秩序をこの世界に組み立てることでそれを守り続け、永遠に平和が続く世界を築き上げることができるのではないだろうか。

「ぼくたちなら、絶対的な理性を持つエンドヴォルヴなら、平和を築き上げることができるよ。だから、エンドヴォルヴが争いのない平和な世界を創っていけば……」

 この世界は平和を保てる

 エンドヴォルヴがこの世界を管理すれば、人間の情動が暴発しないように取り組めば、この世界から戦争を消すことができるのではないだろうか。永遠に続く平和を築き上げることができるのではないだろうか。人間を殺すために造られたエンドヴォルヴは人間を平和へ導くことができるのではないだろうか。

「うん。ぼくもそう思っているよ。この絶対的な理性があれば、この世界から争いを消すことだってできる。平和だけが続いていく世界を築くことができる。これからの未来に、争いは必要ない。そしてぼくは、そのために今日を生きている」

「ぼくたちなら、エンドヴォルヴならきっとできるよ」

 かつて、人間を殺すために造られたエンドヴォルヴ。そんな戦争兵器はいま、人類の救世主となるべくプラハを目指している。そして、人類の救世主となった後、エンドヴォルヴはこの世界の平和の使者となる。

 その夢を、叶えたいと思った。

 そのためにも、ぼくたちは生き続けなければならない。

「なあライカ、今宵はせっかくの星空、そしてウィーンだ。堪能しなきゃもったいないと思わないかい。少し街を散歩でも、どうかな」

 唐突に、ストレルカはぼくを誘った。

「見張りはいいの」

「この辺りに獣がいる気配もないし、それに見張りはぼくらだけじゃない。問題はないだろう」

「分隊を率いる長が随分と感情的なようで」

「では、街の奥に脅威がないか調査しに行く、ということでどうかな」

「ものは言いようってわけですか」

 まあ、エンドヴォルヴに備わっている絶対的な理性が許しているのだから、この行動に問題はないのだろうけれど。

 そうしてぼくたちは、月光を背中にウィーンの街の散策を始めた。


 国立歌劇場。きっとここがウィーンで一番有名な場所。ウィーンが音楽の都と呼ばれる理由の一つ。ここでは一流の奏者と演者だけが、五階まである半円形の客席に囲まれた舞台の上に立つことが許されている。一流なのは舞台に上がる人だけじゃなくて、この歌劇場の全ての座席だって一流だ。そのまま心地良く寝ることだってできてしまう。寝る人がいるかどうかは別の話として。

 まあ、それもこれもすべて百年前までの話で、いま、ぼくたちが訪れている国立歌劇場はといえば、半壊状態だ。上手側の客席は天井からすべて崩落してしまっていて、満天の星が舞台を覗いている。そんな国立歌劇場だけれど、それでもどこか、ぼくはこの空間に美しさを感じる。それはきっと、この歌劇場が長い歴史と伝統によって磨かれ続けてきたからなのだろう。

 月光が射し込みほのかに照らす舞台の上にストレルカは静かに立っている。破れたコートはかすかになびく風でリズムを取っているかのよう。そんなストレルカは静かに、ヴァイオリンを構えている。ぼくは客席に座って、そんなストレルカを眺めている。

 国立歌劇場に訪れる前、ぼくたちは周囲の建物を散策していた。建物は老朽化して崩れたりしているものもあったけれど、別に災害に襲われて壊されているわけじゃなかったから、そのまま人類の跡は残されていた。そういうわけで、ヴァイオリンだって残されていた。ストレルカはそれをひとつ、拝借してきたというわけ。ぼくはヴァイオリンの知識は詳しくないのだけれど、ストレルカが言うにはあのヴァイオリンは相当高価なものらしい。

 月光に照らされながら、音色はウィーンの街を踊り始める。

 五線譜の糸が街の崩れた瓦礫を紡ぎ始める。

 百年の時を越えて蘇った旋律は、埃被ったウィーンの街を震撼させて色を灯す。

 それはストレルカの奏でる魔法。

 ウィーンは今宵、蘇る。

 やがて演奏は終わって、ウィーンを包んだ魔法は解ける。

「上手なんだね、演奏」

 ぼくはストレルカを素直に敬った。エンドヴォルヴにヴァイオリンを演奏する機能なんてデフォルトじゃ備わっていない。そりゃあもちろん、少し勉強すれば弾けるようにはなるだろうけれど。

「ありがとう。けれど、ぼくの演奏はまだまだだよ」

「ぼくは十分上手だと思うけれど」

 少なくとも、ただ音程に忠実に演奏しただけのものには思えなかった。その音色には、ストレルカの想いが、色が宿されていた。

「ぼくの思い描く演奏にはまだまだ到達していない。この演奏はこれからも進化し発展し続けないといけないし、そうなると信じている。それは、永遠に、どこまでもだ。ぼくはヴァイオリンのそういうところが好きなんだ」

「なるほどね。ぼくも音楽は素敵だと思うよ」

「それは良かった。なんでも、きみの興味があることを始めればいいと思うよ」

「そうだね。何か見つかればやってみるよ」

 とは言ったものの、今のぼくに興味があるものは特にない。人類が蘇った未来、コンサートにでも見に行って、そのとき気に入ったものがあれば触ってみればいいだろう。焦らずとも、ぼくたちには長い未来があるのだ。

「そうだ、きみは戦争はコンサートである。という言葉を聞いたことはあるかな」

 唐突に、ストレルカはぼくに問いかけた。知らない、とぼくは答えた。

「とある有名な音楽家が戦争に巻き込まれて戦場をその目で見たときにそう言ったんだ。戦場で繰り広げられる銃声、爆撃音、悲鳴に断末魔……そういったものが交わって生まれる惨劇を、その音楽家は演奏と喩えた」

「それは随分と趣味の悪い物騒な音楽家なことで」

「ぼくもそう思うよ。戦争はコンサートなんて美しいものじゃない。戦場にあるのは醜さだけだ。なにひとつ、美しいものなんてそこにはない。この世界に戦争は必要ない。この世界で紡がれるべきは、平和の旋律だけでいい」

 月夜の下でストレルカは語る。それは、宣誓のように。

「ぼくも、そんな未来が来ることを願うよ」

 百年前に訪れた永遠の冬、それはウィーンの音色を雪と雲で包み込んで消してしまった。

 ぼくは願う。

 再び、ウィーンが音で溢れる日が来ることを。

 世界中に平和の旋律が響き渡ることを。

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