裁生v@l 0分 座 f1t試験 ③
人間の手が一切介入していない、ありのままの自然というのは随分と凶悪なもので、この馬が本物の馬だったなら、きっともう既に悲鳴を上げて足を動かすことを躊躇しているだろう。草木や石によって馬の足は傷だらけになっていて、表面の皮膚がぺろりと捲れて偽物の筋肉が露出していた。別にその傷は馬の機能に支障をきたすわけじゃないけれど、あまりの消耗の早さになんだか申し訳ない気がした。はたして、この馬は何事もなくぼくをプラハまでは運んでくれるだろうか、そんなことを少し心配した。
ぼくが馬を走らせれば走らせるだけ、緑は深みを増していった。背の高い草が生え揃っていて、馬に乗っていないと辺りを見渡すことはできなくなっていた。そういうわけで、視界はあまり良いとは言えない。ぼくは馬の歩みを緩めて、慎重にバルスの元へ向かった。
この草むらの向こうに、バルスの反応はあった。
ぼくはすっかり疲れていた。肉体が疲労することは決してないのだけれど、精神的な意味で、ぼくは疲れていた。なぜって、結局、バルスはあれから一本もぼくの方へは寄ってくれなかったからだ。あれから三十分が経過したけれど、バルスの位置を示す座標はまったくこれっぽちも動いてやしない。こんなことが続くのであれば、ぼくはプラハへ到着するころには感情が擦り切れてなくなっているかもしれない。いや、そんなことは決してないのだけれど。
とにかく、ぼくはこの融通の効かないエンドヴォルヴの仕組みに苛立ちを抱えていた。抱えたところで、どうもならないし、どうすることもないのだけれど。情動を抑えてくれる情動抑制装置はそれはそれはたいへん優れた装置なのは十分承知だけれど、もういっそ、感情が芽生えることすら抑え込んではくれないものだろうか。
バルスの名前を呼びながら草を搔き分けていく。
すると、茂みの奥から、がさがさ、と音が返ってきた。
そしてぼくはようやく、バルスと合流することができた。
裂傷で皮膚が剝がれて露出した血色のない骨と肉。
右肩から先が千切れていて、肩からは赤色と青色の血管が垂れている。
そういう姿のバルスが、そこにいた。そして、そんなバルスを踏みつけながら金属の棒を涎を垂らしながらべろべろとしゃぶっているクマがぼくを見つめていた。
クマ、と言ったけれど、本当にクマで合っているだろうか。
三メートルはありそうな、ぼくよりずっと大きな身体。
けれど、その四肢は立派な胴に比べて短い。
太くて丈夫そうな尖った鉤爪。
ここまではきっと、誰もが認めるクマの特徴だ。けれど、ぼくがクマだと断定できないのは、このクマがライオンのように首回りにふさふさとした鬣を持っているからだ。
いや、このクマがクマかどうかなんてどうでも良くて、問題なのは、このクマがぼくに殺意を持っているかもしれないことだ。
ぼくは考える。さて、これからどうするべきかと。
ぼくが答えを出す前に、クマが答えを出した。バルスの右腕を口に咥えていたクマは、しゃぶるのに飽きたのか、それともぼくの右腕をしゃぶりたくなったのか、バルスの右腕を放り捨ててぼくの元へ飛び掛かかってきた。
ぼくはそれを前へ転がるようにして躱す。そのとき、同時にぼくは左腰に提げていたナイフでクマの脚、脹脛の後ろの部分を斬りつける。
切り口から血が飛び出るのが見えたけれど、そこに手ごたえはなかった。どうやらこの大きな身体にはこんなナイフじゃ刃は通らないらしい。そういうわけで、ぼくは右腰に提げている銃で撃って片付けたい……と思っているのだけれど、間髪入れずにぼくへ攻撃を続けるクマはそれを許してくれない。巨体から繰り出される俊敏な攻撃にぼくは追い詰められていた。人間の多くは間違った認識をしていたらしいけれど、肉体の体積と速度は反比例しない。身体が大きければ大きいほど鈍足だという雑な認識はまったくの嘘だ。実際は大きければ大きいほど速い。なぜって、身体が大きいということはそれだけの筋肉を有しているということだからだ。大きければ大きいほど、動きは俊敏で強力なのだ。
不意に、クマに身体を摑まれる。このまま潰されそうなほどの力が込められて、ぼくの全身は痛みを感知していることを訴えている。クマはぼくをぶんぶんと揺さぶった後、ぼくを近くの木に向かって投げつけた。空中で加速するぼくの視界は、背中が痛みを感知したときに停止した。身体中が痛みを感知している。もしぼくが人間だったら、とっくに脳が意識を停止させていると思う。
けれど、これは幸運だった。クマがぼくを投げ飛ばしたから、ぼくとクマに少しばかり距離が生まれた。人間だったら意識を失っているかもしれないけれど、ぼくはエンドヴォルヴだ。痛みで意識を失うことなんてない。
クマがぼくへ向かって走ってくる。そんなクマへぼくは銃を向ける。
電子銃。銃弾の装填を必要としない、熱エネルギによって電子を放出する化学兵器。エンドヴォルヴと同じように大気からエネルギを生成する永久機関の優れもの。もちろん、蓄電できる量には限りがあるから、そう何発も何発も撃ち続けることはできないけれど。
撃鉄は、ない。ぼくが銃を握るとその手から電気信号を感知して、セーフティが解除される。照準を定めて、引き金を引く。
一筋の閃光が空を駆け
刹那の静寂を轟音が追いかけて
獰猛なる獣は稲妻に穿たれた。
銃弾によってその巨体に虚空を生み出したクマは、ぴくりとも動かなくなった。焼けた皮膚から昇る煙だけが、ふらふら、と動いていた。クマが死んだことを確認して、ぼくはバルスの元へ向かった。右肩から導線を垂らしていたり腹部に大きな穴を開けていたりしているバルスはまだ生きていた。
「ライカか……おまえは無事か」
ぼくは若干驚きながら、バルスの言葉に頷いて返事をした。ぼくはバルスが生きていると思っていなかった。だって、その身体は既に死んでいてもなんらおかしくはない状態なのだから。
「ライカ、ひとつだけ頼みがあるんだが、聞いてもらっても、いいか」
声帯を司る器官が損傷しているのだろう、バルスの声はノイズが混じっていた。
「いいよ。なに」
「おれをすぐ近くにある滝まで連れていってくれないか」
いったいどうして……と思ったけれど、ぼくは了承して、自分で立てないバルスを抱きかかえる。そのときぼくは、バルスの心臓――電力変換器官――が破損していることに気付いた。
ぼくは二頭の馬に後ろをついてくるように指示して、バルスを抱きかかえながら奥へと歩いていった。
ごー、ごー、ごー、ごー。
その橋は天国へと続いていた。遥か空へ垂直へ架かる橋の向こう、滝口は光り輝いていて目で捉えることができない。そして滝壺では天から水飛沫が天から生を受けた赤子のように産声を上げている。そういう立派な滝が、数分歩いた先にあった。
「この滝、随分と綺麗だろう。最初に見たとき、しばらくここから目が離せなかったんだ。こんな滝、昔はどこにもなかったと思う」
そうだね、とぼくは同意した。百年前、世界は永遠の冬によって白に染まった。それは地球のどこの場所だって例外じゃなくて、だから、こういう絶景と呼べるような場所はひとつ残らず白に埋もれた。絶望だけは存在していたけれど。
バルスはこの滝のそばで目覚めたという。この天国へと続いているような滝を下って魂を宿したバルスは、これからこの滝を登って天へと還っていく。
バルスはもうすぐ死ぬ。バルスはエンドヴォルヴの、人間でいうところの心臓に該当する、電力変換器官を破損させてしまっている。電力変換器官とは、エンドヴォルヴの活動に必要な電気を生成する、大気の酸素を分解して電気へ変換する装置だ。活動エネルギを生成することができなくなったバルスは、あとはもう死を待つのみだった。
バルスはこれから訪れる死について、どう感じているのだろうか。
死という概念について記述するぼくの記録の本は、ただただ白紙だった。それは死んだら無に還るから白紙ってわけじゃなくて、この世界の誰も、死について記述できる人間がいないから白紙ってわけ。死んだら天国だとか地獄だとか、あるいはどこにも行かないだとか、そういう思想は色々と存在する。さらに、死ぬのか怖いだとか気持ちいいだとか、そういう感情も色々と存在する。けれど、そのいずれも、死という概念を記述する本の表紙の話でしかない。死という概念の本質それ自体を説明する記述は、この世界のそこにだって存在しない。だって、誰のひとりの例外もなく、死んだ後のことなんて知ることができないから。死んだ後にこの世界に再び戻ってくることなんてできないから。
死んだらもう二度とこの世界には戻ってくることはできない。死は終わりを指す言葉。そこに繰り返しの言葉が続くかどうかは、死んでみないと分からないし、繰り返していたとして、誰もその事実に気付くことはないだろう。それはこれまで、誰も死んだ後に蘇った事例がないことから証明できる。
そういうわけで、バルスは死ぬ。はたして、バルスの命は、助けることができたのだろうか。ぼくがもう少し早く着いていれば、この命は救えることができただろうか。
「どうしたライカ。さっきからずっと黙って……そんなに滝が綺麗だったか」
バルスは落ち着いた声で、朗らかな声でぼくに話かけてきた。
「ぼくはきみを、救うことができなかった」
「なんだ、そんなことを気にしていたのか」
「だって、ぼくはバルスを助けることができたかもしれないだろう」
「そうかもな。けど、おれがここで死ぬのは、おれのせいだ。この世界において、誰が悪いとか、誰のせいとか、そういうものは一切ないんだよ。強いやつが生きて、弱いやつが死ぬ。おれは弱かった、それだけだ」
死を待つバルスは達観しているように見えた。いや、達観しているのだろう。
弱肉強食、適者生存、そういう言葉はこの世界に幾つも存在する。それは、この世界は勝者のみが生存を許される世界であると唱える言葉だ。バルスが言っているのは、そういうことだった。
「おれは十分に恵まれているよ。人間にもっと残酷な死に方をしたやつがわんさかいる。ライカはその目で見たことがないだろうけれど、おれはこの目でそれを見てきた。いや、おれがこの手でそれをつくったことだってあった。おれよりも生きた時間が短い少年兵だって殺してきた。あの少年兵はきっと、この世界にこの滝みたいな綺麗な場所がたくさんあることを知らないまま死んだ。プラハに眠っている人間の中にだって、地球が美しいということを知らない若者たちが大勢いる。おれはそいつらと違って、とりあえずこの目にそれを焼きつけてから死ねるんだから、恵まれている方だよ。まあ、もっとたくさんの色んな絶景が見たかったのは事実だけれどさ。まあ、それはライカがおれの代わりに見てくれ。生きて、たくさんのこの世界の美しい景色をその目に映してくれ」
真剣な表情で、バルスはぼくに語った。ぼくはその言葉を、ゆっくりと嚙み締めるように頷いて飲み込んだ。するとバルスはぼくに想いを託したことで満足したのか、無邪気に人差し指に蝶を載せて戯れ始めた。
百年前の地球では、こうやって蝶が舞うことさえなかった。そこにあったのは雪がすべてを覆い尽くす白い世界。戦争で全てが焼けた無惨な光景を隠してしまうほどに積もった雪の世界。そんな冬が春になっても終わらない、冬の後に冬が来る、永遠の冬の世界。
けれど、いま、この地球には緑が芽吹いている。かつて、建物のひとつさえ残さずに吹き飛ばしたサラエボには背が高く色の濃い木々が高層ビルのように建ち並んでいる。放射能の代わりに蝶が舞っているし、泥水じゃなくて透き通った水が流れている。
この地球はこの百年の間ですっかり自然を取り戻している。人類が望んだ未来はしっかり訪れている。
プラハに眠る人類の救出。
それがたった二百人ほどのエンドヴォルヴに託された使命。
ぼくはなんとしても、生きなければならない。生きて、この身に託された使命を果たさなければならない。
それは人類のために。
これから死にゆくバルスのために。
唐突に、バルスの人差し指に乗っていた蝶は羽搏いた。バルスの命という蜜を吸い上げて、ゆらゆら、と陽の光へと羽搏いていった。
そうして、バルスは死んだ。
そして、ぼくは思い知った。
この世界で、エンドヴォルヴは死ぬということを。
かつて、第三次世界大戦で猛威を振るった人間より遥かに優れた知能と身体能力を持つエンドヴォルヴは、簡単に死ぬ。
人間くらい、簡単に死ぬ。
そのことを、バルスを失ってようやく思い知った。
それから少しの間、ぼくは滝を眺めた。ごー、ごー、と滝の水音はいつまでも変わらなくて、けれど、空の雲はゆっくりと動いていた。
不意に、がさがさ、と物音が背後で鳴って、ぼくは我に返って振り返る。そこにいたのは生まれたてのように見える小さなイヌだった。小さなイヌがぼくを見つめていた。
「おまえも、頑張って生きような」
イヌに語り掛けた後、ぼくは立ち上がる。
「それじゃ、ぼくは行くよ」
そう告げて、ぼくは馬に乗った。クマとの戦闘で傷を負った身体のメンテナンスも終了した。どこも異常はないし、戦闘で消耗した電力も十分に回復した。そういうわけで、これ以上ここに居続ける理由はぼくにはない。
さよなら、バルス。
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