裁生v@l 0分 座 f1t試験 ⑥
百塔の街、プラハ。
プラハをそう呼ぶ理由はその目で確かめるのが一番手っ取り早い。この街のどこだっていいのだけれど、とにかく、プラハの少し高い場所まで足を運んでそこからプラハの街並みを一望すれば、プラハの百塔の街たる理由は分かる。この街の空はどこを見ても尖塔が美しく咲き誇っている。
赤い屋根と白い壁、そしてそれらを華やかに仕立てるために添えられた緑の木、それがとりわけプラハを彩る三原色。青いキャンバスにそんな鮮やかな色を塗っていくのだから、プラハはとってもカラフルで賑やか。事実、プラハの街は人々で賑わう世界有数の観光地だ。
そして、その色鮮やかなこの街はどれもこれもが古い歴史を持っている。迷路のように入り組んだ商店街も広大な宮殿も、この街にあるありとあらゆる建物がプラハの長い歴史を自らの姿で以て体現している。ここは百塔の街であると同時に、生きた博物館でもあるのだ。
そういうわけで、プラハにはたくさんの魅力があるのだけれど、非常に残念なことに、それらはすべて百年前のプラハの話だった。いま、ぼくの目に映っているプラハの街並みはというと、百塔の街でもなければ生きた博物館でもない。あえて言うのなら、廃墟の街、いや、残骸の街、瓦礫の街といったところだろうか。歴史を物語るありとあらゆる建物は軒並み崩落してその片鱗すら見せてくれないし、灰と埃が舞う空は曇天も相まって、灰色のインクをべったりと置いたような色塗りだ。
それが、音の消えたウィーンから丸三日かけて訪れたぼくたちの目に映るプラハの街並みだった。音のないウィーンを寂しいと感想を述べるなら、目の前のプラハは虚しい。ここには寂しさを感じさせてくれる余韻さえ残ってはいない。二十三世紀のプラハには、プラハと名乗るための全ての特徴を喪失していた。
けれど、そういう事情はぼくたちにとって、別にどうでもいい些細なことだった。そんなことより、この街のこの壊滅した光景は、より重大で深刻な問題をぼくたちに突き付けていた。なぜって、ここはプラハ、人類の眠る街なのだから。
プラハの地下にある巨大なシェルターには数億もの全人類が眠っている。シェルターは核をも防ぐ頑丈な構造になっているから、ちょっとの大地震に襲われてもどうってことはない。だから、きっと、この街の風景が大きな自然災害によるものだったとしても、シェルターそれ自体は無事だろう。人類はきっと、今でもこの地下でぐっすりと冷凍睡眠しているはずだ。
問題なのは人類では安否ではない。いや、もちろん、それも心配だけれど、なによりも問題なのは、ここがプラハであるということ。
プラハ、人類が眠る街。
つまり、エンドヴォルヴの最終到達地点。
いま、ぼくたちの視界に広がるプラハの姿に、エンドヴォルヴが存在している痕跡はまるで見当たらない。というのも、本来の計画では、プラハに到着した者は、まず、地下施設にあるたくさんの無人兵器を起動させてプラハの街の安全を確保しなければならない。十分に街の安全を確保できた後、復興機械によるプラハの街の復興が始める。そういう手筈になっている。とにかく、エンドヴォルヴがプラハに存在するのなら、なんらかの兵器や機械の姿が見えるはずなのである。けれど、その様子は、まったく、これっぽちも、ない。それはつまり、異常事態であることを証明していた。
たしかに、ぼくたちは予定より随分と早くプラハに到着した。ストレルカの提案に乗り、三十もの大人数で効率良く活動してここまで順調すぎる調子できた。ぼくがサラエボで目覚めてからまだ十日しか経過していない。けれど、ぼくたちよりもずっとプラハに近い場所で目覚めたエンドヴォルヴはたくさんいるはずだし、なにより、プラハで目覚めたエンドヴォルヴだっていたはずだ、それなのに、いったいどうして、プラハには誰もいないのだ。
ぼくたちは砕けた歴史の街に、慎重に足を踏み入れる。そっと、抱える不安が崩れてしまわないように。崩れた建物の破片があちこちに転がっていて、足場が非常に悪い。転ばないように、一歩ずつ、馬は足を運んでいく。ほっこりとした土じゃない分、山よりもタチが悪い。
かつて、パサージュとして賑わっていた旧市街地を通る。崩れきって形を完全に失った建物、まだ形を保っている建物、その状態の差は様々。けれど、パサージュなのに誰も歓迎してくれない、静まり返った場所であることは一貫していた。とはいえ、この瓦礫の山から突然、獣が飛び出してきても困るのだけれど。
旧市街地の有名な天文時計、オルロイ。それは、幾度の補修を繰り返しながらも、実に八百年もの間、プラハの心臓としてこの街の生涯を刻み続けている。そんなオルロイはいま、ぼくの足元に転がっている。時計が埋め込まれていた建物の壁はすっぽりおおきなクレータを形成しているし、針や円盤、石像といった天文時計の部品は全部、ぱっきん、と地面に落ちて砕け散っていた。
ぼくたちの目指すプラハ城があるフラッチャニ区は旧市街地からヴルタヴァ川を越えた向こうにある。ヴルタヴァ川は川幅が五百メートル以上ある大きな川で、旧市街地とフラッチャニ区はたくさんの橋で繋がれている。中でも、いまからぼくたちが渡るこのカレル橋は特に有名な橋で、この橋の上ではかつて、人々が賑わって商売や演奏が盛んに行われていた。旧市街地の建物は軒並み崩れていたけれど、カレル橋は立派に姿を残してくれていた。
先に橋の上を馬だけ走らせて、橋の安全を確認する。下のヴルタヴァ川は百年前とは比べものにならないくらい川の流れは激しくなっていて、きっと、落ちれば自由に泳げずに流されてしまうだろう。
橋の安全を確認し終えたところで、ぼくたちはカレル橋をゆっくり渡り始める。静まり返ったプラハの旧市街地はなんだか哀しさを感じさせたけれど、黒く濁ったヴルタヴァ川の煩い水流の音もそれはそれで不気味だった。
「おれたち、意外とアタリだったのかもな」
ぼくと共に隊列の後方を歩くベルカがそう零した。
「なにが」
「運の話だよ。プラハに配置されていたら死んでただろ、これ」
「死んでたって……」
どこかで生きている可能性だって一応あるだろう。なにかのトラブルで機械を起動できていないだけとか。正直、ないと思うけれど。
「死んでるよ。たぶん。いったいなにがあったのかは知らないが。まあ、おれたちは運が良かったって話だ」
「運ねえ……」
「ああ、世の中の大体のことは運だ。ひとりでどうこうできる範囲なんてせいぜい目の前の敵を殺すことくらいだ。世界を変えることも、救うことも、結局は世界の運命ってやつなのさ。誰かひとりの意志でどうこうできるわけじゃない」
「そういうもん……」
「ああ。だから、せめて運良く生きられますようにっておれはこの神に祈っている」
「神、ねえ」
ベルカは神の存在を信じている。けれど、基本的に、エンドヴォルヴは無宗教だ。なぜって、神の存在を必要としていないからだ。神の存在なんて、自分の気持ちを自己正当化するための言い訳にしかすぎない。理性的なぼくたちに、そんなものは必要ない。
「あ……」
ベルカが、隣で声を漏らせた。
「なに」
「……なんだあれ」
ベルカが指差す空を見る。拡張視覚で曇天を覗く。
曇天の中で、漆黒がぼくを見つめていた。
数メートルはありそうな巨大なカラスのような鳥……が、ぼくたちへ向かって飛んでいた。
「空から来るぞ」
ベルカはみんなに知らせるように叫んで、ぼくたちは急いで馬を走らせる。カラスはぼくたちが気付いたことを認識したのか、勢いを増して接近してくる。そして、巨大なカラスの勢いは緩まることなくそのままカレル橋に激突した。
足場が砕けて、ぼくは宙を舞う。咄嗟にワイヤを橋の崩れていない部分へ投げるけれど、引っ掛けた部分が重さに耐え切れずに砕ける。
そうしてぼくは、半分ほどの仲間が橋を渡り切るのを見送りながら、黒い世界へ落ちていった。
激流がぼくの身体を包み込んで、飲み込む。ぼくは身体を拘束されて自由を失い、視界は闇に覆われる。黒い世界の中で、この意識だけが、ぼくだった。
不意に、背中が痛みを感知する。きっと流木か何かがぶつかったのだろう。いまのところ、身体に異常はない、けれど、川に飲まれているということは、いずれそういう危険を伴うことをぼくに予感させた。この背中の痛みは、ぼくが恐怖に飲み込まれるのに十分すぎるきっかけだった。
このままぼくはどこまで流されるのだろうか。解放されるまで、ぼくは無事のままでいるだろうか。そういうことを考え始める。考え始めて、ぼくの中に、死、という言葉が入り込んできた。
死。
それは誰も知らない真っ白な世界。あの滝の向こうの眩い世界。
この黒い世界の最果てには真っ白な死の世界に続いているのだろうか。
ぼくはふと「三途の川」という言葉を思い出す。ぼくが生きるこの世界と死んだ後の世界との境目にそれはあるらしい。あいにくと言うべきか、ぼくは三途の川がいったいどんなものなのか、詳しく知らないけれど、この世界と死の世界を繋ぐ世界であるのならば、このヴルタヴァ川はぼくにとっての三途の川ではないだろうか。
流されるままに黒い世界の中を浮遊しながら、ぼくの頭の中で色々なことが浮かんだり沈んだりを繰り返している。
身体が自由に動かない。
ぼくはこのまま、死ぬのだろうか
ここで死ぬのなら、ぼくの生涯とは、いったいなんだったのだろうか
そこになんの意味があったのだろうか。
いや、そもそも、意味とはなんだろうか
この世界で生きる意味とは、いったいなんなのだろうか
この世界で生きるとは、どういうことだろうか
そういう答えの見つからない哲学的なことばかりが頭の中で泡のようにぷかぷかと浮かんでは沈む。
ぼくは自問自答する。深い深い意識の底の内なる声に耳を傾ける。
ぼくはこれまで、なにをしてきただろうか。サラエボで目覚めて、バルスを目の前で失って、仲間とプラハまでやってきて、ただそれだけ、それだけだ。ぼくはまだこの世界でなにもしていない。この世界になにも残せていない。
ぼくがこの世界ですべきこと、それは人類の救出。
エンドヴォルヴは人類の救世主として生まれてきた。そして、ぼくはいま、バルスの命をも背負って生きている。
ぼくの生涯はまだ、何も残せていない。
だから、ぼくはまだ死ぬわけにはいかない。
人類を救出し、戦争のない平和な世界を築きあげるそのときまで、ぼくは決して死んではならない。だって、ぼくはこれまでに死んだ仲間の命と、ぼくに未来を託して眠りついた人類の命を背負っているのだから。
唐突に、川の勢いが弱まって身体が自由を取り戻す。どうやら川の流れが弱い地点まで流されたらしい。
水面まで浮上して、ぼくの世界は色を取り戻した。岸まで泳いで、ぼくは死を回避した。
安堵の息を吐きながら、自分の座標を確認する。カレル橋から随分と流されてしまったけれど、幸運なことに川の流れる方向は悪くなかった。カレル橋からプラハ城へ目指すのもここからプラハ城を目指すのも大した差異はない。ただ、問題なのは、ぼくが馬を失っていることだ。
馬の有無はぼくの生死に関わってくる重要な問題だ。さっきのカラスのように、この先、獣と戦っていかなくてはならないのなら、馬は必須になってくる。いくらこの足が疲労しないからといって、馬のように速く走れるわけじゃないし、それに、ぼくひとりで戦える獣の数にも限界がある。群れに遭遇しようものならひとたまりもなく死に直行するだろう。さらに、運の悪いことに、フラッチャニ区は旧市街地と違って深い緑がかのサラエボのごとく生い茂っている。いや、本当に運が悪いよ。そうだな、ベルカ風で言うのなら、
「あれだ……クソったれだ」
「ああほんとうにクソったれだ。ふざけんなよ……マジで」
不意に、ぼくの独り言に対して背後から声が返ってきた。ベルカが岸から浮上してきた。
「ベルカも川に落ちていたのか」
「ああ。やっぱり運は悪いね、おれたち」
運、ねえ。まあ、孤独じゃないだけマシだとぼくは思うけれど。
「そういや、リチシカはどこだ」
ベルカはぼくへ問うた。ぼくは座標で周囲の反応を確認する。
「ぼくたちと違って落ちてないみたい。橋を渡りきっているようだけれど……みんな座標がバラバラだな」
カレル橋を無事に渡った仲間たちの位置を示す座標は見事なほどに散らばっていた。数人で固まっているところもあれば、孤独してるところもある。リチシカは後者だった。
不意に、ぼくの脳裏に電気が走る。
あらゆる情報と機能を最優先して、ぼくの脳はその光景をぼくへ見せつけた。
裂傷で皮膚が剝がれて露出した血色のない骨と肉。
右肩から先が千切れていて、肩からは赤色と青色の血管が垂れている。
獰猛なるクマに殺されたバルスの死体。
ああ、ひとりでいるとそういう危険に苛まれるのか。ぼくはそのとき、理解した。そして、ぼくは二つのことを思った。
リチシカが危ないかもしれない。
ぼくはひとりじゃなくてよかった。
「リチシカの元へ向かおう」
隣にいるベルカが唐突に、ぼくに提案した。丁度、ぼくもそのことについて考えていたところだ。
フラッチャニ区は深い緑に覆われている。プラハ城が健在しているのかも分からないほどに、緑は街一帯を包み込むように茂っていた。旧市街地には生き物の姿はほとんど見られなかったけれど、あの中も同じだとは断言できない。いや、さっきのカラスを考えると、否定する方が難しいかもしれない。さらに言うと、フラッチャニ区にいる仲間たちがバラバラになっているということは、恐らく中でなにかが起きているのだろう。集団行動より単独行動が優先される状況なんて頭数を増やして生存確率を高めるため以外に考えられない。そういうわけで、フラッチャニ区の中の状況は非常に悪いということなのだろう。リチシカが死の危険に晒されている可能性も十分に考えられる。
けれど。
けれど、という言葉がぼくの口から零れた。だって、
「いや、それはできない。馬もなしにこのままフラッチャニ区に入るのは危険すぎる。みんなの座標がバラバラになっているということは、きっと中でなにかが起きてるんだ。ぼくたちは地下施設に辿り着かなきゃいけない。人類を蘇らせるそのときまで、決して全滅してはいけないんだ。だから、ぼくたちの命までここで投げ捨てるわけにはいかない」
「おいおい、じゃあリチシカは諦めるってことかよ」
「ぼくも助けたいよ。けれど、このまま保険もなしに突っ込むのは間違ってる。ここから一番近い仲間と合流して、それからリチシカの元へ向かおう」
「それじゃ間に合わないかもしれないだろ。リチシカの身になにかあってからじゃ遅いんだよ」
「それでぼくたちまで死んだら元も子もないだろう。一番大切なことはなんだ。ぼくたちがするべきことはなんだ。それくらいベルカだって分かってるだろ。自分の頭が、一番分かっているだろ」
自分で言いながら、悲しくなった。
そして、ぼくはようやく理解した。
これが、ベルカの言う地獄なのだなと。
絶対的な理性の代償なのだなと。
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