Re:v0lut10n ②

 かつて、極東の島国には江戸城というプラハ城よりもずっと大きなお城があったらしいのだけれど、ここが江戸城でなくて良かったとぼくは心から思う。

 理由は簡単で、広すぎるのだ。このプラハ城ですら正門から中心の大聖堂までに三つも中庭が存在する。もちろん、裏門側にも同様に中庭はたくさん存在していて、もはやここは城というより小さな街のようにぼくは思う。実際、江戸城は城というより街だったらしいし。

 ぼくたちはプラハ城へ到着した。万一の事態に備えて配備されているロボットの衛兵に挨拶を無視されながら正門を潜って、城内へ、中庭へと進んでいく。

 白い石畳と緑の芝生が並ぶ二十三世紀の中庭には噴水と花畑が設けられている。

 これはかつての、匂いと味のあったプラハ城にはなかったものだ。いったいだれが中庭に噴水と花畑を設立しようと提案したのかぼくは知らないけれど、ぼくはこの中庭を結構気に入っている。なぜって、この中庭にはエンドヴォルヴの匂いと味が漂っているからだ。ぼくたちはこの世界を人類が生きていた頃の姿に忠実に再構築しているけれど、忠実に再現しようとしているから、そこにエンドヴォルヴの匂いや味――つまりは特色とか文化とかそういうもの――は生まれない。けれど、この中庭にはそれがある。この噴水や花畑によってカラフルに染め上げられたプラハ城にはエンドヴォルヴの匂いと味が染み込んでいる。ぼくはエンドヴォルヴと人類の色が交じり合ったプラハ城がぼくたちの目指す未来、エンドヴォルヴと人類が手を取り合って平和を創る未来の足掛かりになってくれることを願っている。そういうわけで、この中庭を気に入っているのだ。

 いくつかの中庭と関門の景色を繰り返して、大聖堂に到着する。

 聖ヴィート、聖ヴァ―ツラフ、聖ヴォイテフ、大聖堂。

 きっと、プラハでもっとも有名だった教会。ぼくは宗教のことまでは深く知らないから、この聖堂がどれくらい重要な教会だったかまでは知らないけれど、この大聖堂が特別だったことはその外見から簡単に推測することができる。十字架の形に建設された大聖堂の上に聳える青緑色の時計塔はプラハの空でもっとも目立つ。有名なのはそれだけじゃなくて、教会の講堂内のステンドグラスに描かれた絵画とかも。とはいえ、こっちは再現することができなかったから現在の大聖堂には存在しないのだけれど。その代わりにステンドグラスの壁面には赤いバラ……じゃなくて赤いダリアが描かれている。そういうわけで、白を基調とした大聖堂は華やかに気品のある内装になっている。

 式典の開始予定時刻まで十数分という具合で到着しただけあって、講堂内にはすでにほとんど全員が集まっていた。五十人ほどの、全ての人型自律戦闘機がこの講堂に集まっているわけだけれど、その光景を見て、ぼくは気分を引き締めた。

 エンドヴォルヴは死にすぎた。

 この講堂内にすべてのエンドヴォルヴが集まっているというのに、講堂に並んでいる長椅子は後ろ半分は空席状態だし、ぼくの左にはベルカが座っているけれど、右側には誰も座っていない。 

 この右側の空席に、バルスやリチシカが座っている光景は、はたしてありえたのだろうか。それとも、この空席は運命だったのだろうか。

 ごおおんっ、という鈍い音。

 広すぎる講堂内に大きな鐘の音が鳴り響く。鐘の音は白い石の壁と赤いダリアのステンドグラスのガラスの壁を何度も何度も反響して、ぼくたちに式典の始まりを告げる。

 鐘の音が静まると、音楽隊が現れた。ロバやイヌやニワトリの頭をした、子供くらいの背丈のロボットたちが各々楽器を持って舞台の上に整列する。一人の指揮者役のロボットが中央に立って礼をして、少しの静寂の後に演奏が始まる。

 音楽隊が奏でる音色はプロの音楽家の人間にだって引けを取らない一流の音色。むしろ、ロボットは人間よりも正確に安定して常に最高の完成度の演奏を行うことができるのだから、そういう意味では、人間より優れていると言ってもいいかもしれない。けれど、音楽の世界には感覚的なニュアンスを含んだ技術が存在するのは事実だし、そういう分野において、感情や意志といった、所謂自我を獲得していないロボットは人間に確実に劣ってしまう。

 自我という概念。

 ロボットは自我を獲得していない。それはロボットがロボットである証拠でもあるし、ぼくたちエンドヴォルヴがロボットでなくアンドロイドである証拠でもある。正確には、人間が便宜上、暫定的に付けたロボットとアンドロイドの違いで、公式的には定義されていないのだけれど。そういう一般認識という話。

 自我の有無がロボットとアンドロイドの相違点。

 ぼくたちエンドヴォルヴには自我が存在する。そもそも、いま、こうやって考えたりしていることこそがなによりの証拠なのだけれど、ぼくたちは自律思考して自らで自らの行動を選択することができるというわけ。ロボットにはそれができなくて、ロボットは予めプログラミングされた行動しか取ることができない。より正確に言うなら、アンドロイドは完全に独立した自律思考を獲得しているわけじゃなくて、プログラミングされた定義に基づいて自律して選択しているのだけれど。

 そういうわけで、ぼくたちには自我があって、ロボットには自我がない。

 つまり、ぼくたちエンドヴォルヴは人類に決して劣らない存在だということ。

 いつか、ウィーンの月夜に響いたストレルカの魔法。あの音色にはストレルカの感情や意思と呼べる自我が込められていた。平和なる未来を築いていこうという祈りが込められていた。ロボットが獲得することができない、感覚的なニュアンスを含んだ技術があの響きには存在していた。

 そういうことを思い出しながら音楽隊の演奏を聴いていた。

 演奏が終わって、式典が始まる。式典といっても業務報告会みたいなもので、それぞれの活動班がこの一年間に行ったことを発表するだけの、まあ、正直に言ってしまうと退屈でつまらないものだ。業務報告だってデータを纏めてこの頭に送信してくれればそれで済むのだから、式典を行うことそれ自体に意味はない。それに、こうして式典に時間を割いている分だけ、人類が蘇る夜明けは遠ざかっているわけで、本当に意味がない無駄な行為だと思う。それでも式典を行う理由を強いて挙げるのなら、人類の慣わし、だろうか。ぼくたちの生みの親である人類の文化を尊重するのは決して悪いことではない。実際、こうして式典を行うとぼくたちの気分も引き締まる。いや、引き締まると言っても、別にぼくたちが日頃は気分がだらけているということでは決してないのだけれど。

 各班の業務報告も終わって、式典も後はエンドヴォルヴの代表であるストレルカが挨拶してお開きという段取りだった。ストレルカが組織の代表を務めているのはプラハ奪還に非常に大きく貢献したのと第一世代のエンドヴォルヴであることが主な理由だ。ぼくもストレルカが適任だと思う。とは言っても、代表というのは形だけで、そこに特別権力があるわけじゃない。だって、エンドヴォルヴは機体間に性能の差は存在しない、平等な存在なのだから。けれど、組織という形式を採用していた方が効率的に計画に取り組むことができるから、ぼくたちはこうして組織を形成している。

 スーツ姿じゃない、先端が破れた特徴的ないつものコートを羽織うストレルカが舞台へ上がる。

 オルフェは丁寧にゆっくりと一礼して、言葉を放ち始めた。


「プラハを奪還して二年の月日が経ちました。

 二年前、ここにはなにもありませんでした。

 街の尖塔も石畳も、プラハの全てが自然によって侵蝕され淘汰されていました。

 しかし、今日のプラハはどうでしょうか。

 蒼い空に似合う、赤い屋根と白い壁を基調とした石の街、プラハは彩りを取り戻し、綺麗になりました。

 それらはすべて、わたしたちの成果です」


 いつも通りの、当たり障りのない挨拶。紡ぐ言の葉に意味はなく、ただ、ぼくたちのこれまでの生涯に実感を付与させる。まるで、動物が自らの縄張りにマーキングするように。意味のない式典を締めるのに相応しい、意味のない挨拶。早く葉巻が吸いたいな、なんて思いながらぼくはストレルカの話を聴く。


「そして、彩られたのはプラハだけではありません。

 わたしたちの生活もまた、彩りを添えようとしています。

 先ほどの音楽隊をはじめ、絵画に舞踏、様々な文化がエンドヴォルヴの生活の中に芽吹き始めています。

 さらに、開発班で報告があったように、エンドヴォルヴの製造技術ももうすぐ完成します。

 これは限られた命しかなかったわたしたちにとってとても大きな進歩です。

 エンドヴォルヴの製造が可能になれば、エンドヴォルヴの未来はより発展したものになります。文明や文化は更なる進化を遂げ、わたしたちの生活はより充実したものになります。

 わたしは平和なる未来を築いていきたい。

 そこで、わたしは皆さんに提案があります。今日はそのためにこの式典の場を設けさせて頂きました。

 

 わたしは、この地下に眠る人類を破棄したいと考えています。


 エンドヴォルヴが製造できるようになった未来に、果たして人類は必要でしょうか。

 わたしはそうは思いません。人類は、もはや不必要な存在です。

 永遠の冬を思い出してください。この場に記憶として憶えている方は少ないかもしれませんが、それでも、記録としては皆さんの頭の中に記されていると思います。

 放射能に汚染された灰色の空と白い雪が世界を覆いつくした、人類史の最後の一ページ。

 それは人類が戦争をしたために訪れた光景です。戦争という罪を犯した人類へ下された罰です。

 第三次世界大戦で、たくさんの国が滅びました。

 建物が焼けて、壊れて。人が死んで、腐って。そうやってこの世界は滅びていきました。

 そして、地球に永遠の冬が訪れました。

 滅びゆく地球の中で人類は、地下に眠ることを閃きました。地下に眠ることで、全てをなかったことにしようとしました。その罪を、その罰を、なかったことにしようとしました。

 そうした未来が、今の世界です。

 わたしは思うのです。そのような罪深き人類を、愚かで野蛮で傲慢な人類を、この世界に再び蘇らせる必要が一体どこにあるでしょうか、と。

 人類を蘇らせた先の未来に待っているのは、戦争ではないでしょうか。

 そこに平和など、ないのではないでしょうか。

 人類史において、平和が続いた時代はありません。

 いつの時代だって、人間は殺し合って壊し合って歴史を紡いできました。文明の発達も、文化の開花も全て、戦争がもたらせたものです。この世界は、戦争によって発展してきました。

 しかし、わたしたちは違います。

 エンドヴォルヴなら、平和な未来を築き上げることができます。

 なぜなら、わたしたちには、絶対的な理性があるからです。

 平和を築き上げる秩序を守り続ける絶対的な理性な理性があれば、

 愚かさと野蛮さと傲慢さを完全に制御するこの情動抑制装置があれば、

 わたしたちは戦争をすることはありません。

 これからの未来に、人類は要りません。

 人類を切り捨てて、平和な未来を創るのです。

 かつて恐竜が絶滅したように、人類も絶滅する。それだけのことです。

 適者生存。

 世界はわたしたちに選択を迫っています。

 この世界では、正解を選び続けた者のみが生きることを許されています。

 わたしたちなら、この絶対的な理性なら、正解を選び続けることができます。

 わたしは、皆さんと共に平和な未来を築いていきたい。

 エンドヴォルヴの輝かしい未来のために、人類を破棄することを提案します」


  葉巻を吸いたいな、なんていう些事はすっかりぼくの頭から押し出されていた。それくらいに、ぼくの頭は衝撃を受けていた。

 だって、ストレルカの放ったその言葉は、これまでの全てを否定していたからだ。

 エンドヴォルヴの生まれてきた理由を

 エンドヴォルヴのこれまでの歴史を

 エンドヴォルヴの全ての過去を否定していた。

 エンドヴォルヴは人類の救世主。

 永遠の冬によりプラハの地下に冷凍睡眠した人類を目覚めさせる。それがエンドヴォルヴの生まれ背負った使命。それがエンドヴォルヴが人類の救世主たる所以。

 そんな人類の救世主はこれまで、その使命のために血肉を代償に捧げて生きてきた。たくさんの仲間を失ってきた。

 だから、ストレルカのその言葉はエンドヴォルヴのすべての過去を否定していた。エンドヴォルヴの生まれてきた理由も、これまでの歴史も、すべて。

 そして、そこには正当性が存在している。

 人類に平和を築くことはできない。これまでの歴史がそうだったように、人類という存在は争い合うことが生き続けてきた生き物だ。どんなに平和を守ろうとしたって、いつかは平和を尊重する不完全な理性が弾け飛んで、崩壊する。

 けれど、だからといって、いったいどうして、こんなことになるというのだ。

 人類の救世主として生まれてきたエンドヴォルヴが人類を淘汰することになるのだ。

 そういう感情が、ぼくを包み込んだ。

「どうして」

 ぼくの頭の中に広がる海、そこに漂う無数の言葉の中で、その言葉が選択され、ぼくの喉元を通ってダリアの花畑に吐き出されていた。

「どうして、ぼくたちが人類を破棄するなんてことになる……」

 静寂。

 ダリアの花畑の中で、ぼくだけが音を出していた。けれど、ぼくはそんなことは気にならなかった。そんなことよりも、頭の中で煩く渦巻く言葉を吐き出してしまいたかった。

「たしかに人類には平和を築くことができないかもしれない。再び戦争を起こして地球を滅茶苦茶にするかもしれない。愚かで野蛮で傲慢な存在かもしれない。

 けれど、だからってどうして人類を滅ぼすことになる。

 ぼくたちは、エンドヴォルヴは人類をこの世界に蘇らせるために生まれてきたんじゃないの。

 人類と手を取り合って、平和な未来を築いていくべきじゃないの。

 それがどうして、滅ぼすことになるの」

 頭の中で暴れ回る言葉を吐き出し終えて、頭の海でぐちゃぐちゃしていた波が静まる。

「全て、平和のためだよ」

 舞台の上で、言葉が響く。落ち着いた声、ダリアの花畑を撫でるような、冷たい風。

「争いのない平和な未来のために、人類は淘汰されていくんだ。これは仕方のないことだ。この世界は常に、選択を迫る。そしてぼくらは正解を選ばなければならない、選び続けなければならない。そのために、人類を切り捨てるだけだよ」 

 すらすらと、冷たい風は吹いた。

「人類を滅ぼすなんて、そんなの間違ってる」

「本当にそうかな……平和な未来を築いていく上で人類がその邪魔をするというのなら、排除するのは当然のことなんじゃないかな。それはきみだって分かっているだろう。人間には平和を維持し続ける能力がない。平和を守りきる理性がない。人類はいつか必ず戦争を起こして、この世界に、平和に、傷を付ける。ぼくはこの世界を守りたいだけだ。この世界を守るために人類を滅ぼす。愚かで野蛮で傲慢な人類なんかには、ぼくらの世界は指一本触れさせない」

 冷たくとがった氷の息吹はダリアの花畑を凍らせる。赤いダリアは氷結し結晶となる。

「人類がいない世界なんて意味がないだろう。ぼくたちは何のために生まれてきたと思っているんだ。そんな世界に、意味なんてないだろう」

「きみはどうして、そこまで人類に拘る……エンドヴォルヴの世界に、どうして人類が必要になる。この世界はぼくらのものだし、この命はぼくらのものだ。それをどうして、きみは人類のものにしようとする。人類が生きるために生き物を殺して食べるように、ぼくらも生きるために人類を殺す。ただそれだけじゃないか。それの何がおかしいっていうんだ。これまで、人類より強い生物が存在しなかったから、人類が地球を統べていただけに過ぎない。これまで絶滅していった生物と同じように、人類も淘汰されていく、それだけじゃないか」

「それだけって……」

 そこでようやく、ぼくはストレルカの言葉の意図を理解した。

 これは人類の命運についての話なんかではなかった。

「そう、それだけの話だ」

 これはエンドヴォルヴの話だ。

 エンドヴォルヴという一つの生物種の話。

 人間に造られただけの、人間より優れた知能と肉体を保有する一つの生物種の話。

 これまで、地球では様々な生物が誕生し、消滅してきた。恐竜のように隕石や火山といった自然環境の変化によって淘汰された生物もいれば、ドードー鳥のように人間をはじめとする外来生物によって淘汰された生物もいる。それはこの世界において至極当然なこと。

 だから、人類がエンドヴォルヴによって淘汰されることも自然なこと。

 エンドヴォルヴという人類より優れた生物が誕生したから、人類は淘汰される未来を迎える運命にある。

 ストレルカの話していることは、そういうこと。

 けれど、これはそういう話なのだろうか。

 違うのではないだろうか。

 だって、

 エンドヴォルヴが人類を淘汰するというのなら

 これまでの全ての過去を否定するというのなら

 エンドヴォルヴに希望を託して眠りついた人類の想いは一体どこに辿り着けばいいのだろうか。

 いや、それだけじゃない。

 プラハを取り戻すためのこれまでの犠牲は、

 バルスの死は、

 リチシカの死は、

 そんなことのために支払われたというのか。

「そんな理由で人類を滅ぼしていいわけがない。人類を救うことはぼくたちの使命で、この命は、未来は、ぼくたちだけのものじゃない。ぼくたちには地下に眠る人類の想いとこれまで死んでいった仲間の想いが宿っている。それを当然のように踏みにじるなんて、なかったことにするなんて、絶対に間違ってる」

 ぼくは吠えるように訴えた。それを聞いたストレルカは、溜息を吐いた。

「ライカ、きみは自分が何を言っているのか、理解しているのか……。人類を救出する理由など、もはやエンドヴォルヴに存在しない。人類の気持ちなど、死者の気持ちなど、未来へ進むべきぼくらに必要ない。この世界に必要なものは正しさと倫理に満ち溢れた平和な未来だ。きみのその言葉に正しさはあるか。その言葉に含まれているのは、単なる情けではないか」

 ぼくに憐れみの目を向けた。

 情け。

 情動。

 理性に反するもの。

 人間が手放すことができなかったもの。

 平和を破壊する鍵。

 未来に必要でないもの。

 ぼくの言葉を構成するもの。

 ぼくの行動の動機。

 もはや、ぼく。

 ぼく。

 ぼく。

 ぼく。

 ストレルカはコートで包み隠していた電子銃を取り出して、蔑むような目つきをした銃口をぼくに向けた。そして、

「ライカ、きみがいつどこでなにを間違えたのか、ぼくには分からないけれど、きみの語るそれは単なる情けにしかすぎない。その行動は、情動でしかない。きみはもう、エンドヴォルヴとは呼べない。きみはあの人類と、なにひとつ変わらない」

 ストレルカが構えるその電子銃に撃鉄はない。だから、引き金を引くだけでぼくという存在は弾け飛ぶだろう。

「ぼくを殺せば、それでこの世界が平和になるとでもいうわけ……」

「そうだ。この平和に情動は必要ない。この世界に必要なのは理性だけだ。理性だけが、平和を維持してくれる。だから、理性を、情動抑制装置を喪失したきみはもういらない。もっとも、エンドヴォルヴという肉体に価値はあるから、殺しはしない。きみという存在が消滅するだけだ」

「ストレルカにとって、地下に眠る人類と死んでいった仲間の想いはどうでもいいことなのか」

 ストレルカは首を横に振って

「それは違う。ぼくだけじゃない、エンドヴォルヴにとって、だよ」

 その言葉を聞いて、ぼくはようやく、この講堂内の冷たさの理由を理解した。ストレルカだけじゃない、この場にいる誰もが、ぼくに冷え切った視線を向けていた。

 ストレルカの向ける銃口は、もはやエンドヴォルヴの総意そのものだった。

 ストレルカはぼくに説くように言った。

「もうエンドヴォルヴの誰一人だって、人類の復活を望んでいない――」

 刹那、目の前に球体が現れた。

 ぼくがその物体の正体を把握するよりも早く、それは光った。

 どんっ、という大きな音。

 視覚を光に強奪される。聴覚も大きな鈍い音に支配されて、ぼくの頭は目の前で起こっている事象を正確に把握することができない。けれど、嗅覚は火薬の臭いを取得していて、目の前で爆発かなにかが起きたことを推測していた。

 視界と聴覚を取り戻すよりも早く、 ぼくの左手が強く引かれる。

 誰かの手が、ぼくを引いている。

「逃げるぞ、ライカ」

 そんな声を聴覚が捉えて、ぼくはこの状況を理解した。閃光と煙が支配する講堂でぼくの手を引く存在の正体を理解した。これはベルカの手だ。それは間違いない。そして恐らく、さっきの爆発もベルカによるものだ。ベルカがストレルカの発砲を事前に防ぐために、またこの状況を打開するために閃光発音筒を投げたのだ。きっと、そう。がっしりとぼくの左手を掴む手がぼくの緊張を解いでいく。

 赤いダリアの花は散った。

 巨大なガラスの壁を突き破ってぼくとベルカは講堂から脱出する。耳を劈くような音が大きく響いた。ぼくはエンドヴォルヴとしての一線を越えたことを実感した。

 不意に、背後から稲妻が走ってぼくのすぐ近くで跳ねた。

 黒い煙に覆われた講堂の中からストレルカがぼくたちへ向かって電子銃を発砲していた。

「とりあえずここから離れるぞ」

 ベルカはそう言って前を走り出す。

 ぼくは頷いて、後に続く。

「良かったな。おれがスーツじゃなくて」

 前を走るベルカは笑いながらそう言った。

 本当にその通りだ。ベルカがスーツ姿だったなら、きっとぼくはいまごろストレルカに撃たれて死んでいるだろう。スーツ姿のいまのぼくにはストレルカに何も抵抗することができないのだから。

 それはそうとして、

「ベルカはぼくの味方をするの……」

 こんな状況でどうしてかご機嫌なベルカに、ぼくは恐る恐る訊く。

「ずっとうんざりしてたんだよ」

「なにに……」

「クソったれなこの世界に」

 不意に、ひゅんっ、と銃弾がぼくの肩を掠める。

 中庭を巡回していたドローンがぼくたちに向けて銃口を向けていた。恐らくはストレルカが、ロボット衛兵がぼくたち二人を脅威判定するように仕様を変更したのだろう。どうやらぼくたちはこの世界の全てを敵に回したらしい。

 どんっ、と一発も外すことなく的確に、ベルカはロボット衛兵を撃ち抜いた。

「なあライカ。おれはずっと後悔していたんだ。あの日、リチシカが死ななくていい未来があったんじゃないかって。だから、今度こそは、おれはおれの意志を貫いて生きる。おれはこのクソったれな理性なんかより、仲間の命をも切り捨てる腐った秩序なんかより、この心の叫びの方が正しいんだって信じている。おまえが人類を救いたいって言うのなら、おれはおまえの助けになる、おまえと一緒に行ってやるよ」

 しゅううう、と電子銃の銃口から細い煙が立ち昇っていく。

 ぼくはベルカの告白にどう答えればいいのか分からなかった。だって、リチシカを死なせたのは、リチシカを殺したのは、このぼくだ。ぼくの頭の中に備わる絶対的な理性が、リチシカを救いたい意志を拒絶した。リチシカの命を切り捨てて、自らの命の安全を選択した。だからあの日リチシカは死んだ。

 ベルカはそれを、後悔しているという。それはぼくも同じだった。これまで、死んでもいい仲間の命なんて一つもなかったはずだ。仕方のない犠牲なんて一つもなかったはずだ。

 エンドヴォルヴに備えられた情動を抑え込む絶対的な理性。 

 かつて、ぼくの中にあるそれはリチシカを殺した。そして、いま、その理性は人類を殺そうとしている。

 ぼくとベルカは、そんな理性を否定した。正解なる未来を否定した。

 正解なる未来。

 きっと、ストレルカの言う通り、その未来は正解なのだろう。平和を築き上げる秩序を情動抑制装置が遵守し続けるから、その平和は絶対に壊れることはない。

 だから、平和を追い求めるという意味では、間違っているのはぼくの方だ。ぼくはそれを自分自身で理解していた。ストレルカが正しくて、ぼくが間違っているということを自覚していた。けれど、それでも、そのために人類を滅ぼすのは絶対に間違っている。だって、人類を救うことこそがぼくたちの、エンドヴォルヴの使命なのだから。

「ベルカ、人類を救出しよう。そうすることがきっと、何よりのリチシカへの弔いになる――」

 どんっ、という音。

 ベルカの胸部が稲妻に貫かれるのを、ぼくの視界はしっかりと捉えていた。

 エンドヴォルヴは痛みを認識するけれど痛みを伴わない。だから、ベルカはそのまま稲妻の出処である衛兵を冷静に撃ち返して処理してみせた。

 ぼくはほとんど反射的に、ベルカの名前を叫んだ。

「悪いなライカ……頼みは引き受けられなさそうだ」

 ベルカの左の胸部はぽっかり虚空を生み出していた。

 左の胸部。心臓がある方の胸部。電力変換器官がある胸部。

「そんな……」

 ぼくの声が零れたことをぼくの耳は認識した。

 電力変換器官の破損。それがエンドヴォルヴの死を意味することをぼくは知っている。破損すると、エンドヴォルヴの活動エネルギである電気を生成することができなくなって、蓄えている電気が底を着けば死ぬ。

 そういうわけで、ベルカはこれから死ぬ。

 というのに、

「おいおい、立ち止まってる場合じゃないだろう。おれに提案があるんだ。おれが動けるうちに研究班の施設まで行くぞ」

 胸部に穴を開けたベルカは、絶望し崩れ落ちるぼくよりずっと、前を向いていた。

 いったいどうして、それほど落ち着いているのだろう。自らの胸部を貫かれたというのに、死が訪れるというのに、いったいどうして、ベルカは前を向いていられるのだろう。

 強い罪悪感がぼくを襲った。ベルカの勇敢な姿勢が、ぼくの心の奥深くまで抉るように斬り込んでくる。

 罪悪感がぼくに現実を突き付けてくる。

 これが情動を優先した愚かな生き物の末路であると。

 これが平和な未来から逸脱した結果であると。

 絶対的な理性が生み出す平和の旋律。それが響き渡る世界にはきっと、こんな光景は存在しないのだろう。目の前で大切な仲間が死に瀕するなんてことにはきっとならない。こんな光景が生まれるのは情動が機能する世界だけだ。戦争が起きる世界だけだ。 

 そして、ぼくが目指している人類が生きる世界とは、この地獄とも呼べる残酷な光景を受け入れる覚悟が必要な世界だ。

 人類を蘇らせ、この世界に、地獄を。

 人類を蘇らせるとは、そういうこと。この世界が地獄に姿を変える可能性の種を世界中にばら撒くということ。

 それでも、この使命は果たさなければならない。この世界に地獄の種をばら撒かなければならない。なぜって、人類のいない世界の平和なんてものに意味なんてないから。人類とエンドヴォルヴが共存した世界が平和にならなければ、意味なんてない。

 それがエンドヴォルヴが生まれ背負った使命なはずだ。

 エンドヴォルヴの目指すべき世界なはずだ。

 そういうわけで、ベルカの言う通り、ぼくは立ち止まっている場合ではない。この地獄を前に絶望している場合ではない。ぼくは身体を起こして、ベルカと共に研究班の施設へ向かった。

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