裁生v@l 0分 座 f1t試験 ④

 ぼくが他の仲間たちと合流したのはそれから一時間を過ぎた後だった。轍もない、ただひたすらに同じような景色がぐるぐると続いていく迷宮のサラエボの中をぼくは黙々と走り続けた。

 ベルカとリチシカ。

 それがぼくと合流したエンドヴォルヴの二人の名前だ。

 サングラスをかけている方がベルカで、彼はバルスと同じく第一世代のエンドヴォルヴだ。自己紹介を聞いたかぎり、彼は相当第三次世界大戦でご活躍なさったらしい。聞いてもいない彼の武勇伝を、合流してまだ一時間も経っていないのに、既に幾つも聞かされてしまった。そういうわけで、ベルカは口数が多い。人間と違ってエンドヴォルヴはサングラスの恩恵をまったく受けないのにわざわざサングラスを装着しているところも含めて、彼は人間みたいだと思った。

 白い髪を肩まで垂らしている方がリチシカで、彼女は第一世代のエンドヴォルヴよりも珍しい、女性モデルのエンドヴォルヴだ。どうして女性モデルのエンドヴォルヴが珍しいかというと、それは元々はエンドヴォルヴは全て男性モデルだったからだ。というのも、エンドヴォルヴの本来の用途は戦争兵器だったから、男性モデルしか製造されていなかったのだ。別に戦場にいる全ての軍人が男性だったわけじゃないけれど、基本的に、世間的に、つまり、社会のモラル的には女性が戦場に出ることを非難する傾向にあった。けれど、第二世代のエンドヴォルヴは戦争兵器じゃない、人類の救世主である。すると、今度は女性モデルのエンドヴォルヴも製造するべきだという非難が飛び交った。そういうわけで、女性モデルのエンドヴォルヴが誕生した。ちなみに、男性モデルと女性モデルの性能に差異はない。

 そういうわけで、ぼくはいま、三人で移動している。死の危険から、ある程度は解放された。さっきの一件で、ぼくはこの任務が命懸けであることを嫌というほど思い知らされた。そして同時に、ぼくは自分の意志を知った。

 死にたくない。

 死への恐怖、ぼくはそれをしっかりと認識した。どうして死が怖いのか、その根拠たる理由までは分からないけれど、生まれて数時間のぼくは、しっかりと、はっきりと、死への恐怖と生への渇望を抱いたことを自覚した。

「しかし、ハズレだな」

 不意に、ベルカは呟いた。

「なにが」

 ぼくは訊き返した。正直、ベルカの武勇伝をまた聞かされるのは退屈だったから、無視しようか少し迷ったけれど、一応、ぼくは優しい性格だから、返した。うそ、ぼくも退屈なだけ。

「おれたちのことだよ」

「う、うん……」

 よく分からなかったから、再度、訊き返した。

「そう、運。おれのたちのクジ運」

 ベルカはそう言った。いや、ぼくはそういう意味で「うん」と言ったわけじゃないのだけれど。

「どうして」

「どうしてって、ここ、サラエボだぜ。こんな馬でプラハまでって何日かかるんだよって距離だぞ。遠すぎる。これじゃ死んだも同然だ。ハズレだよハズレ。プラハで目覚めた奴が羨ましいかぎりだ」

 ああ、なるほど、とぼくは理解した。

 確かに、ここからプラハまでは随分と距離がある、きっと、二週間以上は掛かる。いや、もっと掛かるかもしれない。その間ぼくたちはずっと、自然の脅威に晒されることになる。そういう意味で、プラハで直接目覚めた奴は幸運だ。生まれてすぐに命の安全が保証されるのだから。

「どうでもいい。そんなことを悲観して、なにかが変わるわけじゃない。わたしは生きる、それだけ」

 そう言ったのはリチシカだ。ぼくはまだ二人とは僅かな時間しか共に過ごしていないけれど、リチシカは随分とベルカに対して冷たいよう気がする。ベルカのしつこい武勇伝に苛立ちを覚えているのだろうか。それはおいておいて、リチシカの言っていることはその通りだ。ぼくたちに、だからといってなにかができるわけじゃない。ぼくたちにできることは、生きてプラハまで辿り着くだけだ。

「まじめだねえ。おれは悪いけど、ただまじめに生きて死ぬのはごめんだ。頑張って生きても死ぬくらいなら、遊んで先に死にたいね」

「けれど、そういうわけにもいかないだろう。ぼくたちにはこれがあるんだから」

 脳天を指指しながら、ぼくはそう言った。

 ぼくたちの頭の中、脳みその中にある絶対的な理性。それは、如何なるときも情動的な行動をとることを許さない。だから、ベルカの言うような死は情動抑制装置が許さない。

「まったくクソったれだよ、このシステムは。おれはこの装置がロクなもんじゃないことを嫌というほど知っている」

「へえ、それは、いったいどんな……」

 興味本位で、ぼくは訊いた。

「こいつは情けを許してくれない。どんなに殺したくない相手でも殺すことを躊躇わない。おまえたちは経験してないからいいだろうけどな、おれはこの装置のせいで嫌というほど地獄を味わってきた」

「それって、第三次世界大戦でのこと……」

「ああ、そうだ。知ってるか、インスタントソルジャという悪魔を」

「いや、全然。なんならそのインスタントソルジャってのも知らない」

「そうかい。インスタントソルジャーってのは、薬物によって痛覚を忘れた兵士のことだ。痛覚を忘れるってのはつまり、彼らは全身の痛みの信号を遮断しているってことだ。だから、自分の腕が吹き飛ぼうが脚が消えようがその身に明確な死が訪れるそのときまで決して屈せずに戦い続ける、なんともお国にとって優秀な兵士だった」

「それで」

「この話のもっとも厄介な部分っていうのは、このインスタントソルジャの作り方が銃の使い方を知ってる人間に薬物を投与するだけで出来上がってしまうってことだ。そこに学も技術も年齢も要求しないという門の広さが、一番の地獄だった」

 聞きながら、話が見えてきた気がした。

「銃の使い方を教えるだけで優秀な兵士が誕生する、だから、たくさんの少年兵が生まれた。イギリスみたいな軍事力のある国じゃこんなことは命がもったいなくてできやしないが、軍事力のない小さな国にとっちゃこれは立派な戦力だった。だから、戦場には山ほどのガキが銃を担いで走っていた。死ぬその瞬間までおれらに銃を撃ち続けるインスタントソルジャはそこらにいる大人の兵士より何倍も脅威だった。死ぬまで撃ち続けてくるもんだから、おれは生きるためにガキを死ぬまで撃ち続けなければならなかった。頭を吹き飛ばして、心臓を貫いて、指先が引き金を引けなくなるその瞬間まで撃ち続けなきゃいけなかった。そこは地獄だった。本物の地獄だ。一瞬で全て灰になる核爆発なんて、そんなのは本当の地獄じゃない。むしろ、一瞬で全てが終わってくれるんだから、核兵器は優しいもんだよ」

 子供を殺すことへの罪悪感に苛まれ続ける、それがベルカの味わった地獄だという。生きろと命令し続ける秩序に従い続ける理性が、ぼくたちを死から遠ざけようとする。だから、殺したくない少年兵でも殺さなきゃいけない。そんな逃れられぬカルマこそが地獄であると、ベルカは言う。

「子供を殺すことに罪を感じるベルカが悪いだけじゃない。そんなものに意味なんてないわ。子供を殺すことと大人を殺すことに違いは、ううん、イヌを殺すことさえ違いはないわ」

 リチシカはまたもベルカを否定した。けれど、それもまた、その通りだ。子供を殺すことと大人を殺すことそれ自体にまったく違いはない。子供を殺すことに対して大きな罪の意識を持っているのは、人間の生み出した社会のモラルによるものだ。客観的に見るなら子供も大人も同じ人間でしかない。というか、こういうモラルの話をするのなら、女性モデルのエンドヴォルヴが製造されたのも当時の社会のモラルによるものでしかない。ひと昔前では、女性モデルのエンドヴォルヴなんて製造されていなかっただろう。

「リチシカの言っていることはもっともだけれど、ぼくはベルカの気持ちも分かるよ。ぼくだって、殺さないで済むのなら、誰も殺したくはない」

「二人とも、甘いのね」

「そこは優しいと言ってくれ」

 ベルカはそう言って食いついた。

「はいはい」

「冷たいなあ」

 そう言ったきり、空気は冷え込んだ。会話の内容も暗いものだったし、気まずい沈黙が続く。リチシカはきっと、この沈黙も気にしていないのだろうな。

「よし、分かった。じゃあ、おれのとっておきのアメリカンジョークを披露しよう」

 いったいなにを分かったのか、ベルカは唐突にアメリカンジョークを披露し始めた。

 アメリカンジョーク。

 いまは亡き、亡国の文化。ベルカは第三次世界大戦で戦争兵器として戦っていたときに、人間からその文化を教わったらしい。ジョークといえばアメリカ、というくらいにはアメリカンジョークは世界的に有名なものだったようで、アメリカの遺した文化として人類に大切にされていたらしい。どうしてこんなことをぼくが知っているかというと、ベルカがアメリカンジョークを披露するのはこれで二回目だからだ。

 ちなみに、エンドヴォルヴの故郷はイギリスだから、地元文化的にはアメリカンジョークじゃなくてブリティッシュジョークだ。この頭の中にも、ブリティッシュジョークを一芸として披露するくらいには知識が収納されている。この世界に宇宙人でも来ていないかぎり、そんな機会は訪れないと思うけれど。

「あ……あそこに可愛いシカちゃんを発見。ちょっとお触りしてこようっと」

 唐突に、ベルカはそう言って、アメリカンジョークを中断して視界に捉えたシカの元へ馬を走らせた。

「ねえ、ライカ。あれ、置いていく……」

 そう言う隣のリチシカは頭を抱えていた。うん、分かるよ。とぼくも返事したけれど、それはできない。なぜって、ベルカを置いていくことは自らの命の危険性を高めることに繋がるからだ。当たり前だけれど、二人より三人の方が安全だ。理解できない行動ばかりするような彼をその一人として数えるべきか、という話はおいておいて、だけれど。そして、それはリチシカにも分かっていることだった。分かっているからこそ、嘆いているのだ。ぼくたちが分からないのは、ベルカがどうしてあんな阿呆なのか、ということだけだ。もしかしたら、既にベルカの頭は壊れているのかもしれない。それとも、これが記憶の有無の差なのだろうか。いや、そうじゃない気がするけれど。

 少しの時間の後、シカを追いかけて消えていったベルカが戻ってきた。

 どういうわけか、迫真な表情で。

「やばいやばい、逃げよう」

 ベルカはそう叫びながら、ぼくたちの方へ走ってくる。

 そして、その背後から、高く並ぶ木々を薙ぎ倒して、それは姿を現した。

 赤い雫と涎を垂らして光沢を纏った、大きな顎と大きな歯

 二足歩行を獲得して退化したのであろう前脚

 自らの巨体を支える太くて立派な後ろ脚

 ぼくの脳は、それの名前を知っている。

 ティラノサウルス・レックス

 目の前に姿を現したのは、そういう名前の生き物だった。小さなシカを追いかけていったベルカは、大きな恐竜を連れて戻ってきた。恐竜はそれはもうたいへん不機嫌そうに、ベルカを捕食しようと何度もかぶりつこうとしている。

 ぼくたちは急いで密林の奥へと馬を走らせた。たくさんの木々が絡まるように並んでいる密林の奥なら恐竜は器用に動けないと予想を踏んだからだ。さすがに恐竜と馬じゃ馬の方が身軽だろう。

 身体の大きな恐竜にとって、このしつこく絡まった木々は檻となるはず……はず、だった。その思考は甘かった。恐竜は自らの身体に枝や棘が斬りつけることも突き刺さることも気に留めずに、ぼくたちに殺意だけを向けて猪突猛進してきた。

 足を止めて恐竜を迎撃することを考えたけれど、牽制に放った銃弾が恐竜の皮膚を捉えても貫くまでに至らなかったのを見て諦めた。どうやら相当、恐竜は頑丈な肉体をお持ちならしい。

 そういうわけで、ぼくたちはひたすらに走り続けた。けれど、それもあまり望まれる対処法ではない。こうして走り続ければいつかは恐竜から逃げ切れるだろうけれど、それはそれで馬のエネルギの消耗が大きくなりすぎるからだ。その後に恐竜の群れにでも遭遇したら、そのときは最期になってしまう。この恐竜が群れを成すのかどうか、ぼくは知らないけれど。

「二人とも、おれに作戦がある。協力してほしい」

 そう言ったベルカは、ぼくたちの返事を受け取る前に先頭を走り出した。

「どうするの」

 ぼくはベルカへ問うた。

「この先に崖がある。さっき目で見てきた。そこでやつを突き落とす」

「できるの……」

「おれに任せろ」

 ベルカは自信満々にそう答えた。ぼくとリチシカは了承して、ベルカの背中に続いた。その背中を追いかけながら、ぼくは思った。馬に乗りながら目を使いこなすベルカは、もしかすると本当に手練れの兵士だったのかもしれないなと。

 目。

 エンドヴォルヴの目。

 拡張視覚。

 エンドヴォルヴの目は人間の目と大きく異なる。エンドヴォルヴの目には様々な機能が付属されている。望遠することもできるし、赤外線センサを使って通常の目とは別の方法で視界を形成することもできる。

 ただ、それを馬に乗りながら――つまり、片方の目は通常の視界を保ったまま――拡張視覚を使用することは非常に難しい技術だ。ベルカはそれを難なくこなしていた。

 ベルカに先導されてぼくはたちは檻の中を駆け回って、やがて日光をほとんど遮断していた入り組んだ檻を抜け出した。

 頭上にめいっぱいの青が広がって、眩い光が射し込んだ。

 ひゅー、ひゅー

 ぼくたちを歓迎するように、風の旋律が大きく唸っている。

 緑のない、黄色い少しの大地の世界。

 その先には、風の息吹が踊り狂う空の世界。

 ぼくとリチシカは脇へと逸れて、恐竜の標的から逃れる。ベルカは大地と空の境界のぎりぎりまで恐竜を引き連れて、馬から跳んで恐竜へ乗り掛かった。恐竜は不快感を露わにしながら怒りのままにベルカを身体から吹き飛ばそうと暴れ始めるけれど、ベルカはナイフをずっしりと刺し込んでしがみついている。ぼくとリチシカはその間に恐竜の足元の黄色い世界を最大火力の電子銃で吹き飛ばした。

 恐竜を支えきれなくなった地面が崩れて、土は風の踊りに飲み込まれていく。

 ひゅー、ひゅー

 少しの時間の後、大きな地響きと共に断末魔が響いた。

 ひゅー、ひゅー

 けれど、そんな大きな音もすぐに風によって掻き消された。

 ひゅー、ひゅー

 心地良い風がぼくを撫でながら、緊張の紐をするりと解いていく。

 広がる崖の向こうの景色は、果てしない青と緑が続いていた。どこまでも透き通った空の青と、どこまでも広がる森の緑。いま、この世界のどこにも、かつての白は見当たらない。

 この景色は人類が眠りついて百年後の地球の景色

 人類が知らない景色

 ぼくだけが知る景色

 そこにちょっぴちの優越感を感じた。

 百年前の地球は色相を失っていた。けれど、いま、ぼくの前に広がる光景にはたっぷりと色が塗られている。灰色の濁った雲に覆われていた空は青がいきいきとしているし、白い雪に隠されていた大地は命を芽吹かせて緑を咲かせている。放射能だってなくなっているし、空を飛び回っていた戦闘機もさえずる鳥へと姿を変えた。

 良い眺めだと、思う。

不意に、足元で、じゃりっ、と音がなって、引っ掛けていたワイヤを伝ってベルカが登ってきた。そういえば、ベルカは恐竜にしがみついていたから一緒に落下したのだった。

「あのさ、引いてくれても良くない……」

「ごめん、忘れてた」

 ぼくは正直に謝罪を述べた。

「しかし、二十三世紀に恐竜がいるとはな……実はここは大昔だったりしてな」

「それはないと思うけれど」

 ぼくは否定した。根拠というか証拠はないけれど、ベルカの冗談だって根拠も証拠もない。

 恐竜という生き物。それは百年前はおろか、六千万年以上も前に絶滅しているはずの生き物だ。人類が地球を支配するよりもずっと前、というか、人類が生まれる前のころ、恐竜は繁栄していた。けれど、恐竜は総じて、隕石の衝突だか火山の噴火だか、その原因は定かとなっていないけれど、なんらかの原因で絶滅した。

 そんな恐竜が、いったいどうして二十三世紀の地球に生息しているのだろうか。

 決して、確証はないけれど、心当たりのようなものだけれど、その証拠のような情報はこれまでの数時間の生涯の中で、ぼくは獲得していた。

 ぼくの推論だけれど「トカゲだかなんだかの生き物が永遠の冬の厳しい地球環境に適応して恐竜へと進化した」という説。どうだろうか。

 六千万年前の姿に適応することを進化と呼ぶべきか怪しいところだけれど、さらに、ぼくは六千万年前のティラノサウルス・レックスの姿をこの目で見たことはないのだけれど、あの容姿には幾つかの説明できる要素があった。

 まず、頑丈な身体の表面。恐竜に限らず、あのクマもそうだったけれど、身体の皮膚がかなり硬質化していた。きっと、永遠の冬を乗り越えるために蓄えた分厚い脂肪かなにかを獲得したのだとぼくは踏んでいる。

 次に、鋭い爪や厳つい歯。これはさっきの話の続きで、捕食する餌側の生き物が寒さに適応するために硬質化していったから、それに適応する形で発達していったのだろう。

 そして、身体の大きさ。この世界には寒い地域ほど恒温動物はより大きな姿へと変化していくという、所謂「ベルクマンの法則」というものがある。クマも恐竜も身体が大きいのは、それのせいだという可能性。

 そういうわけで、ティラノサウルス・レックスがこの世界に存在することを証明する種は幾つか存在する。けれど、まあ、真実は定かではない。

「……ねえ、ライカ、おれの話、聞いてる……」

「え、なに」

 どうやらぼくはベルカの話を無視していたらしい。

「いや、こんな綺麗な景色が望めるなら、葉巻が欲しくなるよなって」

「はまき……」

 ぼくはベルカのその言葉に疑問を投げた。

「そう、葉巻。くるくるってタバコの葉を巻いたやつ。煙草には色んな種類があるけど、昔ながらの葉巻が一番美味いんだよ」

 いや、そうじゃなくて、葉巻についての情報は、ぼくだって知っている。

 葉巻。

 強い嗜好性を含んだ人間の娯楽の一種。第三次世界大戦を加速させたのは飢饉問題が主な原因だって言われているけれど、実はこういった嗜好品の方が大きな要因だったりする。というのも、食料よりも嗜好品の方がよっぽど輸出入に依存していたし、食料と違って代替が効かないからだ。パンがないならケーキを食べればいいじゃない、と昔の人の言葉にあるように、食料はある程度の代替が効く。けれど、嗜好品はそうはいかない。アルコール依存者に煙草を与えても意味がないし、ニコチン依存者に酒を与えても意味がない。そして、運の悪いことに、酒や煙草といった嗜好品に依存しきっている人間っていうのは、大体が脳が正常に働いていない。だから、街の治安は悪くなった。理解できない暴動は各地で見かけるようになってしまったし、そういう問題を解決するためにも、戦争の需要は増していった。

 それで、いったいどうして、ベルカの口から葉巻の話が出てきたのだろうか。

「いや、それは知ってる。けれど、どうして葉巻……」

「葉巻、美味しいじゃん……あ、吸ったことないのか。わるいわるい」

「葉巻ってエンドヴォルヴが吸っていいものなの……」

 たしかに、エンドヴォルヴは酸素を取り入れる器官が存在するから、葉巻を吸うことはできるだろうけれど、ぼくたちには血管なんてない。電子回路がニコチンを取り込むとは到底思えないし、煙草を吸うことに意味があるとは思えなかった。

「ああ、葉巻は美味いぞ。昔、同じ戦場で一緒に戦ってた人間から教わったんだけどさ、それが意外と気持ちいいわけよ。こう、脳がきゅっとする感じ。おれはそのとき感じたね。これこそがエンドヴォルヴの幸福だって。食事も酒もできないおれたちに残されていた唯一の幸福だって」

「へえ。それで、第一世代の仲間の中では流行ってたわけだ」

「それがさ、他のみんなは吸ってくれないんだよ。リスクがあるかもしれないだとかなんとかって煩いんだよ」

「悪影響、あるの……」

「知らない。そのときはそのときだな。そうだ、プラハに着いたらタバコを栽培しようぜ。きっとどこかにタバコは生きてるだろうから、それをおれたちで育てよう。そしたらライカにも吸わせてやるよ。リチシカも、どう……」

「あほくさ」

 リチシカはあっさり断った。

「そんな冷たいこと言うなよ……何事も挑戦が大事なんだぜ。せっかくの命なんだからさ」

「そのせっかくの命を無駄にしたくないからしないって言ってるの。そんなことしてたからそんな阿呆になったんじゃないの……」

「人の親切をよくも……もうリチシカにはあげないからな、欲しいって言ってもあげないからな」

「絶対ないから」

「ああ……それはそうと、そろそろ出発しない」

 これ以上険悪な雰囲気になられても面倒だから――険悪な雰囲気になったところで人間じゃないからどうもならないんだけれど――ぼくは会話を無理矢理制止することにした。

「なんだライカ、そんなに葉巻が吸いたいのか。そんなに急がなくてもプラハにはいずれ着くし、プラハに着いてもすぐ吸えるわけじゃないぞ」

 いや、そうじゃないんだけれど。

「そうね。わたしも一秒でも早くベルカと縁を切りたいし、早くプラハへ向かうべきね」

 先が思いやられる。誰かどうにかしてくれ。そう思いながら、ぼくが馬に乗ったそのとき、

がるるるるるるるるるっ

 ぼくたちの背後、つまり、光の閉ざす檻の中から、それは聞こえた。

 即座に振り返って闇を見つめる。深淵の向こう、檻の中にいる何かがぼくたちを呼んでいる。いや、この声の正体を、ぼくたちは知っている。

 赤い雫と涎を垂らして光沢を纏った、大きな顎と大きな歯

 二足歩行を獲得して退化したのであろう前脚

 自らの巨体を支える太くて立派な後ろ脚

 そう、ティラノサウルス・レックス。

 血管を浮かび上がらせて赤く充血した眼でぼくたちを捉えた恐竜は、静かに、檻から姿を現した。

「敵討ちなんて、ロマンティックを感じてしまうねえ」

 ベルカが呟いた。たしかに、その表情からして、おおむねさっきの仲間の断末魔を聞いて駆けつけてきたのだろう。

「お友達になったら、許してくれたりしないかな」

 しょうがないから、ぼくも便乗してふざけた。

「そんなことはいいから。逃げ道を塞がれているけど、どうする……」

 現実逃避するぼくたちにリチシカは現実を突き付ける。そう、ぼくたちの背後は断崖絶壁だった。つまり、この恐竜と戦闘することは避けて通れないということ。

 さて、この恐竜をどうやって討伐しようものか。きっと、噛まれでもすればこの身体は粉々になってしまうだろうし、いや、そもそも、丸飲みされてしまうかもしれない。そんなことはどうでも良くて、どうやって殺そうか。きっと、勝てないことはないのだろうけれど、できれば危険は避けたかったな、という話だ。

 そういうぼくの悠長な思考を読み取ったのか、恐竜は怒りの感情を訴えるように咆哮した。そしてそれは格闘技の試合開始のゴングのように、サラエボの密林に強く鳴り響いた。

 そのとき、唐突に、闇から光が射し込んだ。闇の中から放たれてきた一閃は恐竜の脳天に当たり、そして、それに続くように一人の男が飛び出してきて恐竜の頭に乗った。

 どんっ、どんっ、どんっ、どんっ。

 何発も何発も、男は恐竜の眼球に銃弾を撃ち込んだ。その度に、びゅっ、びゅっ、と血が噴き出していく。そうして視力を失った恐竜は男を振り払うために暴れ回って、周囲の木に激突して倒れ込んだ。男から恐竜から飛び降りてそれを回避して、恐竜が動かなくなるその瞬間まで銃弾を撃ち続けた。まるでベルカの言う、インスタントソルジャを殺すときのように。

 ぼくはその光景を、ただただ呆然と見つめていた。そして、噴き出した恐竜の返り血を浴びていた。

「怪我はないかい」

 恐竜を殺し終えた男は落ち着いた声で、ぼくたちに尋ねてきた。

「ええ、おかげさまで」

 ぼくは戸惑いながら答える。

「大きな音がしていたものだったから、気になって様子を見に来たのだけれど、丁度良かったみたいだね。あ、紹介が遅れたね。ぼくはストレルカという者だ。向こうで仲間が待っているのだけれど、きみたちも一緒に、どうかな」

 先端がぼろぼろに破けている、けれどそれは元々のデザインのように見える特徴的なコートを羽織るエンドヴォルヴの男は、笑顔でぼくたちを勧誘した。

 エンドヴォルヴの目的はプラハへ向かうこと。プラハの地下に眠る人類を解凍するために、プラハを目指している。それはエンドヴォルヴの誰もが同じで、だから、この誘いを断る理由はなかった。それに、これほど腕のなる仲間がいるのなら、心強いものだ。

「それは良かった、歓迎するよ。それにベルカも、久しぶりだね」

「そうだな」

「そういえば、きみの近くにはバルスも配置されていたけれど……」

「それは――」

 ぼくは思わず声を出してしまった。そして、声を詰まらせた。

「ああ。それはすまなかった……」

 ストレルカはぼくの心中を察して、

「けれど、それは悔やむことじゃない。だって、きみはいま生きていて、そして、そのことだけに意味がある。この世界は、命があってようやく初めて意味を持つんだ。命なき死者には生きることはできないのだから。だから、きみは悔やむんじゃなくて、感謝するべきなんだよ。いま、生きていることに。そして、ここは適者生存の世界だ。世界は常にぼくらに選択を迫り、そして、正解を選び続けた者だけがこの世界に生存を許される。未来へ進むには、常に正解を選択しないといけない。なにかを切り捨てなければならない。未来を歩むべきぼくらに過去に囚われている暇なんてないよ」

 そう言って、ストレルカはぼくを宥めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る