第17話
四度目の太陽が昇った朝。ダールは香を持ち、裏戸をゆっくりと恐る恐る開いた。
とたん、ダールは拍子抜けする。足元には何もいなかった。首を伸ばし、戸外をきょろきょろと確かめたが、思い違いではなかった。ホッとため息をつく。やっと、いつも通りの朝が来たのだ。ただ用心に彼は香を敷居に山と盛る。昨日は寸でのところであの魔物は消え去ってくれたが、もしかすると、朝だけではなく、どの時間帯にも出没するような気がしていた。あの魔物が、捕らえた獲物をどうするか、想像もつかない。ただ身震いするばかりだ。朝日のまぶしいうちは、どの精霊たちもしばらくなりを潜めているものだ。それで、なおさら気味悪く思えるのだ。あの太陽の戒浄の光芒を浴びても、なお力衰えぬババエルの脅威。もしも、あれが日没にやって来たら……
ダールは魔除けの呪文を念入りに戸口に吹き付ける。すでに内部には清浄の呪文を唱え終わっていた。あの目に見える汚らしい糞の山を、一つ一つ呪文や香で消し去っていったのだ。骨の折れる仕事だった。異臭を放つそれは、ばんと破裂して消滅した。彼はふと呪い返しのことを考えたが、頭を振ってそれを否定する。人を呪わば穴二つというではないか。魔力で対抗し、自分が勝利したとして、もしも国王が病に倒れたりすれば、シャマンは災害や厄災を逃れる山羊として、結局は殺されるか追放される運命にあるのだ。そういうことならば、あの男が諦めてくれるまで、空しく攻防戦を張るしかあるまい。いつか、力尽きてくれるだろう。そう願うばかりだ。
モアズールは永い眠りから覚めたように、もぞもぞと動きながら、ぼんやりと目を開けた。片腕を伸ばし、何かを探るが、すでに何もなかった。嘆息する。沼の濁った水のような、腐臭をたたえた怒りとも憂いとも悲しみともつかない感情が、岸辺の自分にひたひたと打ち寄せてくる。侵食されていく自分の心。ただ無感動に眺めている。背後には底の見えないお暗い深遠を見せる断崖絶壁。胸の辺りから息をする度に、どろどろに腐った肺臓や心臓が吐き出される。息苦しい。吐き気もする。
なぜ……あんな女を抱いてしまったのか……手に入れたいものとは程遠いものを。いや、あの女を自分の位置まで引きずり落とすには、代用ではいけないのだ。しかし、もうあそこへ行く勇気も気力もない。あの赤い女が呪わしい。憎くて、たまらない。
腐った臓物が、ぴくぴくとうごめく。腹の中で意志を持つように、動いている。感情がふつふつと煮えたぎる度に、臓器は敏感に反応する。押し上げ、体内から逃げ出そうと駆け回る。モアズールは吐き気を覚え、よろりと起き上がり、鏡台の上のたらいに屈み込み、喉の奥からどろりと流れ出るものを吐き出した。何を食べたのか、忌まわしくどす黒い内容物。水面でぶつぶつと泡を立て、水下へ落ちていく。彼は一瞥し、眉をしかめる。枕元の飲料水で口をゆすぐと、それから目をそらし、ベッドにまた横になる。それっきり、背を向けて。
たらいの中のどす黒いへどは、どろりと意志を持つ生き物のようにうごめいている。水面が乱れ、ぴしゃぴしゃとたらいから水が溢れる。へどは縁にはい上がり、そのままべたりと床下に落ちた。不定型の生物じみた前後のない体をぶよぶよとゆらしながら、窓へ向かって進み続け、その透き間をくぐり、やがて外へ出ていってしまった。
モアズールは、ただ気分が悪そうにうなっただけであった。
黒いゼリー状の物体は、モアズールから離れていくうちに次第に形を取り始めた。手のひらに乗るほどの大きさから、徐々に猫ほどになり、奥へ突き抜ける廊下をだいぶ進んだときには、黒い羊ほどになっていた。神殿へ近づけば近づくほど、その体は醜悪に歪み、二本足で立ち上がり、あのババエルの姿へと変貌していく。
その進行はゆっくりとしていた。やっと裏庭に達したときには、午後は充分に過ぎており、太陽は斜めにかしぎ始めていた。人々は次第に裏庭へ通ずる道を避け、ますますババエルは大胆に歩き始める。だれもババエルには気付かない。光りさえも吸い込む、影よりも黒いババエルは、うまく人目を避けることを覚えていた。
しかし、ババエルは神殿の正面から中へ入ることを躊躇する。紅色のひらひらをまとった水鳥の精霊が、翼を広げて、神殿の真正面に立ち、その邪悪なよそ者を威嚇している。
大きな山羊の角を持つ半獣の醜魔は、ぐるりと神殿の裏に回った。
太陽が裏口を燦々と照らし、影になる所は一つもなかった。黒く、すでに人ほどの大きさに成長したババエルは、まるで黒点のように不気味に風景から浮き上がって見える。ぽっかりと空中に、虚ろな黒い口が開いたかのようなババエルは、戸口から中へ入ろうと立っていた。
物が落ちる音がし、何かの逃げ去る足音がした。村への小径の上に編み籠が転がっていた。中には、小魚と野菜
が少々。ババエルは怠惰そうにそれを見やり、小径の向こうをまろびながら駆け去っていく人影を眺めた。魔物は汚
物のような笑みを顔に浮かべる。
戸口に手を掛けようとしたとき、ババエルは事の異常に気付く。何ということか、あの忌ま忌ましいシャマンは、魔除
けの香をいやというほどふりまいている。正面に回ろうかと、考えあぐねる。しかし、あの強烈な精霊が、ババエルを阻むために立ちはだかっている。今は朝ではない。次第に精霊の力の増す夜がやってくる。夜になれば、あれはババエルよりも最強になる。
ババエルは、逃げ場のないように自らの汚物を裏口の回りにふりまき始める。罠を仕掛けるために、念入りに仕掛け網を編み込む。結界はできあがり、ババエルは戸口から隠れて見えない結界の端に潜み、大声で呼ばわった。
「シャマン……!」
その声は、明らかにモアズールのもの。
「シャマン……! ちとたずねたいことがある!!」
結界の中で行われることは、あの精霊であろうと、簡単に知ることはできないはずである。
戸口に人の駆け寄る音。しかし、戸は閉じられたまま、開かれない。
「王様でございますか? 何用でございますか」
「わたしは考えてみたのだ……あれは間違いだったのではないかと……妻は……かわいそうに……わたしは神霊に拝して、この詫びを入れるべきだと思ったのだ……取り替えしはつかないだろうが……」
「……誠でございますか……?」
ダールは小賢しいことに、用心している。ババエルは憎々しげに、鈍く黒光りする目玉を巡らす。
「本来ならば……シャマン、お前にも顔向けできぬはずだ……わたしは王としてあるまじき態度を示してしまった……すまぬ……不快な思いをさせた」
戸口がわずかに開いた。
「王様?」
「顔向けできぬのだ……すまぬ……」
ダールは、大きく戸口を開ける。そして、一歩踏み出した。
まるで、飢えた野獣が、疾風の勢いでダール目がけて襲い掛かって来た。ダールは、自分をかばって両手を上げた。一声も発することができないまま、黒い山羊の化け物に押し倒され、汚物にくるめられ、彼の姿は瞬く間に見えなくなっ
てしまった。時々、水に溺れる子供のようにもがきながら、身体の一部が異臭を放つ汚物から飛び出す。藁をもつかもうかと空中をさまようが、ババエルの体は容赦なく彼の体を押さえ込む。一度だけ、ダールの瞳が、その透き間から現れた。陽の落ちかける夕なずむ空の朱色を見つめる薄氷の瞳。屈辱と苦痛で歪み、また沈んで消えた。
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