第4話
モアズールは別室で午後いっぱい口伝を受け、二人はその日初めての軽い食事をした。そのときには、すでにモアズールは先程の感情を忘れていた。父親に恭しく、次の行事をたずねた。
「モアズール……精神を氷のように冷たくしておくのだ。これからお前が見聞きすることは、すべて尋常のものではないのだ。年追うごとにその誘惑は衰えるだろうが……」
「誘惑とは何のことでございますか? なぜ精神を凍らせておかなければならないのでございますか?」
老父はシッと口先をとがらせ、息子の質問を締め出した。
「父の言うとおりにしておいたらよいのだ」
食事を終え、外に夕暮れの霧が張り出し始めたころ、二重に閉ざされた神殿への扉を、二人だけで開いた。壁の向こうから、生き物のように霞が漂ってくる。
老父が明かりをもち、行く手を照らしながら先導する。モアズールは閉ざされた視界を見渡し、昨夜見た池や水鳥を見つけようとしたが、無駄であった。濃霧は真綿のように二人をくるんでいる。老いた父は、何十年も通った道を間違いもせず、進んでいく。段を上り、水鳥の扉を引き開くと、中は真っ暗な闇に閉ざされていた。いや、足元に蛍に似た小さな灯火が点々と連なっている。二人を導き、それは奥のほうへと続く。老父は手元の明かりを消した。フッと二人の姿は闇に沈んだが、モアズールは冷静に灯火の照らし出す幾つもの父親の影を追った。 足元はなだらかな階段になり、無言に二人は進むのみ。しかし、それもつかの間。辺りはいつの間にか、広間へと移っていた。
神殿の地下に、見上げるほどの天井をもつ巨大なホールがあるとは思っても見なかったモアズールは、自分の出て来た狭い通路を振り返り、改めて広間の天蓋を眺めた。陶器のタイルが青く染められ、夜の空のように頭上に拡がっている。
薄暗い広間に、見えない煙が渦巻いている。嗅いだこともない匂いが充満している。悪くない匂いだったが、モアズールは落ち着かず、きょろきょろと四方を見巡らした。
円場の中央に香炉を携えた老人と、紅衣の若い茶髪の男が座している。モアズールはぶしつけに見つめ、昨夜の男だと思い当たる。
老父に言われるまま、モアズールはシャマンと対面する場所に座り込んだ。先程からだれも一言も発せず、広間はシンと静まり返っている。それもしばしの間。まるでミツバチの羽音じみたうなり声に、モアズールは息が止まるほど驚き、若いシャマンの口許を凝視する。すぐにそれが呪文であることに気付いた。
ダールはゆっくりと風にかしぐ樹木となって、体を左右にゆらす。呪文と香を、身体に巻き付け、上体を回す。頭の
頂から、つま先まで、それを張り巡らすまではやめることはできない。魂が沸き立つ熱湯のうえに立ち、神経という細い管を通り抜け、肉体から押し出される。背骨が尾てい骨から引き抜かれていく。痛みともつかず、体をしびれさせる。全身が一本の棒となった。精神は突き抜けていく矢となり、眉間から中空へ投げ出される。組紐の綾が形を現し始め花房のようにダールの全身を包み込む。ふいに精神の苦痛はなくなり、肢体は緩み、生暖かい泥土と化した。その深奥から、自分に語りかけてくるものがある。雲間から差し込む電光の一閃を、眉間から延びる螺旋の一端に鮮やかに感応した。
ダールはゆらりと立ち上がっていた。手にはしっかと香をもっている。呪文は止んでいた。彼は次の瞬間、直感した。
目前のモアズールの驚嘆の表情を見て取った。そして、何より自分が自分の体の中にいることを強く感じとっていた。
頭の中に光り眩い記号が散在している。その一つ一つが、ダールの全く知らない言葉であった。それなのに、それが何であるのか、理解している。
ダールは自分が今どのような姿をしているのか、知ることができないのを残念に思った。それも次第に分かってくるだろう。儀式を早々に済ませてしまわねばなるまい。
「何を願う……」
自分の声ではない、澄み切った高い女の声が、口から漏れた。
遠く向かい側に拝す老人が、それに答える。
「若い息子に王位を譲位しましたゆえ、その治世の繁栄がいかなるものかと」
間もおかず、ダールは言う。しかし、どのような言葉になるか、口にしてみるまでは分からない。
「……滅びるであろう……封土は閉ざされ、水鳥はこの地を去るであろう……」
ダールの前にひざまずく二人の顔が、見る間に青ざめる。今にも驚愕の声を上げそうに歪む。
しかし、ダールは何の感慨も抱かず、ただ心の中に漂う記号を味わっていたに過ぎない。彼は、次に吐き出す言葉さえも空気同様に吸い込んでいた。交合しあう水鳥の精霊の魂の中に漂うすべてが、手に取るように分かるのだ。
「何が……そうさせてしまうのでございましょうか……」
両手を床につけたまま、未練がましく老いた男はたずねる。
「時が来ればおのずと知れてくる。己の分別を守護しておくのだ」
モアズールは琥珀の瞳を見開いて、目前の母以外に初めて見た女を、吸い尽くすように凝視する。
彼女は超然と立ち、炎の色の氷の瞳で、自分と父を見下ろしている。香の紫煙がさえない若者を包んだかと思うと、次の瞬間、そこには目の覚めるような赤い髪の女がたたずんでいた。星の墜落した夜の蒼紺を背に、熟れた水鳥の彼女が、すらりと柳のしなやかさをもって立っている。
丸みを帯びた額、骨めいた白い肌、流れる赤い髪が迸る鮮血に見えた。紅に染まる酷薄な唇から漏れる葦笛に似た高い声は、蛇のように冷たかった。感情のこもらない恐怖の神託は、モアズールの背骨を凍えさせた。しかし、脳裏に焼き付いた氷の女は、残酷なほどに美しい。彼女の焔吹く長い髪が、一瞬モアズールの喉を締め付けたように感じた。気絶寸前のめまいが、何度も彼を襲う。
精霊の精神の中で揺らめくダールは、潮時を感じ取り、呪文を喉から絞り出す。再び煙幕が張り、女を包み、晴れ渡るころには元の若いシャマンがたたずんでいた。彼は全身の脱力を感じ、座り込む。そして、ふと正面の若い国王を見やった。
大きく心臓が鳴った。
王の鋭い眼光が、自分をにらんでいるように見えたからだ。しかし、それはすぐに気のせいだろうと思えた。先の信託のこともある。国王は衝撃を覚えておられるのだ、と彼は考えた。すでにモアズールも目をそらし、熱線のような視線はもうダールに向けて来ない。内心なんとなくほっとし、彼らの去ったのを確かめると、師の背中にいたわるように手を置いた。
「いかがなされましたか」
老師はうつむいたまま、「ようやった……わしもこれで安心して、お前に跡を譲れる」
「お師匠さま……今日の神託は……」
「ダール……」
老シャマンは重たげに頭を上げ、くぼんだ眼窩に光る瞳で、じっとダールを見つめる。
「水鳥の申されることに間違いはない……あとは国王様に任せるべきであろう」
ダールは心配げに小首をかしげた。
「……それならば、ダール……お前がもしも気付いているのならば、国王様には用心することだ……」
ダールはうなずく。どちらにしろ、あのような神託をしたからには、無事ではすまないような気がした。彼は立ち上がり、小さくうずくまる老シャマンを見つめる。
老シャマンは手を弱々しく振り、ダールを追い払うような仕草をする。
ダールは切なくなり、ひざまずくと、老師を見つめる。深くかすむ白濁した瞳が彼を見返している。長く垂れ下がる眉毛に潜む目の中で、朝露を含むシダのような悲しみをたたえている。
代替わりしたシャマンは無用のものなのだ。召喚のできるシャマンも二人といらない。片方が必然的に滅びなければならない。シャマンの力を悪用されぬために、彼は封じられなければならない。
ダールは唇をかみしめ、両こぶしを強く床に擦り付けて拝すと、さっと立ち上がり、地下神殿を走るように出て行った。
薄暗い階段を上りながら、ダールはため息をつく。こうやって儀式を終えた後、いつもと同じ階段を上って出て行く自分がここにいる。それなのに、老いた生気が縮々としぼんでいくのを、背後の闇が槍となって彼の背中を突き刺して知らせてくるのだ。
ダールはハッとして振り返り、無限の闇の底を見つめる。
師の霊魂が、自分の背後にひたひたとへばり付いてくる。すでに師とは違う性質となってしまったものが。すぐに戻り、師の身体を封印せねばならなかった。念入りに、老シャマンの霊力が悪用され、邪力を発揮せぬように。
ダールの額から、生暖かい汗が滴る。湿った生革のような滑りの悪い自分の指を揉み合わせながら、目に見えない霊異を感じ取っていた。彼はゆっくりと焦らして片足を降ろし、また一段と下り始める。口許に絶え間なく呪文を浮かべ、それら一つ一つが床面に落ちていく霊験ある種子として撒いていく。呪文が足元の灯火に似て、ゆらゆらと行く手を照らしているように思える。
老シャマンの枯れ果てた肉体から解放され、喜々とする熱風となった力が、暗澹たる底でぐるぐると乱舞している。
ダールは額のあや紐に指を当てる。しびれるような感触が指先に走る。彼は力強く段に足を踏み締め、下っていった。
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