第3話
ダールは裏木戸を押し開き、水甕により、ヒシャクを口元に運んだ。水滴が波紋を作り、彼の像が二重三重に揺れる。
もしも、モアズールがあの場にいなければ。
月の光は、ダールの遠くを見つめる横顔に、暗い影を落とした。彼は思い切って、明かり取りの窓から外を覗き見る。
モアズールが言ったとおり、神秘の魔力の夜であった。生気を抜かれた静物が、死人のように風景中に直立している。青白く、乳白色の光を帯び、堅く凝り固まっている。
ダールは湿った指を額にのばし、組み紐に触れる。組み紐が熱く火照っていると感じた。紐の存在を強く額に感じていた。
もしも、モアズールがあの場にいなければ、ダールは額のあや紐を通して、精霊と彼岸の通信をしていたことだろう。
組み紐が月光の輪になり、ダールの額に冷たい火炎の舌を巻つけている。あや織りの紐が銀錦の蛇のようにうねり、螺旋が彼の頭上にうごめいている。
そんな夢想が、瞳の裏で拡がっていく。明滅する光が、渦を巻き、地上の星のように輝いている。すべては瞳が、暗闇の空洞の中で生まれ出た映像を、彼の脳髄に投射したものだった。
白いプラズマが、日輪のように目前に出現したかと思うと、一瞬のうちに消え、彼はヒシャクの底の水鏡に映った月の魂を見つめていた。
あまりに短い感応は突如訪れ、雪の結晶のように傍らに落ちると、すぐに消えてしまった。ダールの瞳は元のとおり、尋常の物だけを捕らえている。空間のはざまに輝く月光の精も、水面にささやく水の精さえも、すでに見ることすらかなわない。疲れ果てた魂の代わりに、編んだ髪がだらりと胸にずり落ちた。
ヒシャクを覗き込み、知らず前かがみになっていたのだ。ダールは体を起こし、ヒシャクを水甕の上に戻す。土間の中は単調に暗く沈み、物がぼんやりと深い紺色に浮き上がって見える。廊下への戸の奥には、ぽかりと闇の世界が開け放たれていて、彼をいざなっている。彼は深遠に目を向ける。その奥に、安眠が用意されている。
ダールは、ふと窓の外を振り返る。そして、戸口へと明日のために歩き出していた。
ゆうべ遅く床に就いたにもかかわらず、王子の目覚めはかなり心地よいものであった。綿のシーツが、離れがたいほどに素肌に密着している。侍従の開け放った窓から、まぶしい光がほとばしり、モアズールは目をしばたかせた。目の裏側がチリチリとして痛い。
駿馬のように筋肉の張り詰めたたくましい片腕で上半身を支え、起き上がる。まだ覚めやらぬ頭をもたげ、部屋の中をちょろちょろと動き回る侍従を見つめる。侍従たちは入れかわり立ちかわり、湯浴みの準備をしている。純白のシーツが幾枚も用意され、湯気の立ちのぼる湯が、たらいに注ぎ込まれていく。卵色の上衣と帽子をかぶった侍従が三人、すっと直立して、モアズールに会釈し、
「王子様、湯浴みの準備が整いました」
侍従たちは、せっせとモアズールの体を取り囲み、湿らせた布で拭っていく。
今日はモアズールが生まれて初めての特別な日である。侍従たちは、特に念入りにモアズールの体中の手入れをしていく。その調子で、あと数刻は続きそうだった。モアズールは肩をすくめ、何も考えないことにした。
王になり、妻を迎え、国事に仕える。朝食もとらず、礼服で重装備され、清めの儀を行わなければならない。国王という、今までとは全く違うものになるのだ。古い魂は清められねばなるまい。
昼近くなり、やっと白湯をもらい、空腹を静めると、モアズールは休む間もなく、父王の元へ出向いた。
自分の背後の、重たい獣のマントを支える、四人の侍従のぞろぞろと付いて来る音を聞く。それは身につけた重い礼服と同じく、心の芯をぐっと力強く感じさせる音だった。手応えのある満足感であった。鈍重な自信が、どっかと精神の中心に鎮座するのが感じられた。彼の猛々しい金茶の瞳が、炯々と燃えている。傲慢な笑みが、ゆっくりと口元に漏れている。それさえも、今の彼の姿からは頼もしく見えた。
虹色に光彩を放つ貝の飾り止めが、ずらりとその胸に縫い付けられている。沈んだ黄色い衣装が、光沢を放ち、金属的に見える。
王の間の玉座に、父王はすでに立って待っていた。
モアズールが王位を示す濃黄色の衣を身につけているのに対し、父王は下位の者の着る、くすんだ茶の服を身にまとっていた。それを見て、モアズールは何とも言えぬ快感を感じる。ひざまずいた父親の口から、仰々しい言上が述べられ、モアズールはしずしずと老王の前に立つ。
王冠が、赤いビロードのクッションの上に置かれ、父王がそれをもっている。モアズールは父親の命ずるままにひざまずき、頭をたれる。ずっしりと王冠がはめられるのを、モアズールは確信する。
「お顔をお上げくだされ。王モアズールよ……」
老いた父の顔を、モアズールは見つめる。父親の口から感嘆する声が漏れ、彼は頬を触れ合わせ息子に親愛の気持ちを示した。
王座から退いた老父は、小さくしなびているように見えた。モアズールは目をしばたかせたが、それは錯覚ではなかった。大きく偉大だった父親は、一夜のうちにしぼんで見えた。枯れ果てている。そして、その代わりに今度は自分自身が巨大になったように感じた。周囲の者、すべてが小人に見える。すべてが、手のひらの中にあるのだ。彼は勢いよく立ち上がり、背後を振り返る。いつの間にか臣下の者で王の間は埋め尽くされていた。二百個以上の瞳が、一斉に彼に集中していた。
モアズールは一段高いところにいた。そして、もう一段と足をかけ、さらに台を上り、玉座に立った。自分を見上げる顔を、ぐるりとなめるように見渡す。味わい、一人一人の顔を観察する。得も言われぬ力を感じていた。傍らの父親に目をやる。父は父であったが、小さな人たちの一人であった。昨日までの脅威は、不思議なほどに消滅していた。老父がモアズールを見つめ、何かを促している。モアズールはそれに気付き、自分のなすべきことを思い出した。彼は大きく両手を振り上げ、臣下全員に対する声明を発した。今や、目前の人間全員が、床に額を擦り付け、彼に礼を尽くしている。昨日までの支配者であった父親までも虫のようにはいつくばっているのが、目の端に映った。
モアズールは心の中で、知らず大声で笑っていた。
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