第2話

 赤い顔料で染め上げられた石の水鳥たちが、水鳥の飛び交うレリーフを彫りつけた柱をもつ神殿のぐるりを巡っている。神殿は王宮の中にあり、そこに入れるのは、王と王位に就くとされる王子だけだ。

 神殿に住むのは、シャマンと弟子の二人のみ。

 神殿のぐるりを取り囲む人口池に、大きなハスの葉が浮き、まるで宝珠のようなハスの蕾が顔を出している。

 神殿の女性的な優美さは、女性の姿のない王宮に華やかな彩りを添えている。時間のはざまに釘つけにされ、老いてもおらず、若くもない、深遠の水間に漂うニンフのように、たたずんでいる。

 生きた深紅の水鳥が、喉をくるくるとくゆらし鳴きさざめき、石の水鳥の間をゆるやかに交差していく。ただそれだけ

で、そこは神の住まう神殿として相応しかった。

 神殿の階段に、長い茶の髪を二つに編んで胸に垂らした若い男が立っている。紅色の薄い長衣をさばきながら、片手に藻を盛った金盃をもち、ゆっくりと段を降りて来る。

 複雑に組み込んだあや紐を、額にかかるようにきつく結わえつけている。この飾り紐が、この男をシャマンであると示していた。この男のためだけに組み込まれた模様の紐が、彼の神格を表し、シャマンとしての誇りを集約させている。

 男は素足で磨かれた敷石を踏み、池にたゆたう水鳥に向かって拝す。ひざまずくと、片手にもった金盃を逆さにし、藻をすべて池の底に落とす。水鳥たちは気のない風で、ゆっくりと男のそばによっていき、その目的の物に向かって首を突っ込んだ。

 シャマンは静かに見守った。小箱の中のクルミを転がすような水鳥の声に耳を傾けつつ、男は再び立ち上がり、神殿の中へ戻った。

 黄みがかった長い茶の髪が、男の柔和で美しい細面に反映している。ただ、印象的にうつろう、薄い水色の瞳を除いて。禁欲を強いた痩躯を紅衣に包み隠し、強固な精神が彼の眉間にしわを作る。

 暗い神殿の内部に入り、柱にかけていた灯皿を取り、そぞろに歩く。厚く強固な壁にも見える、鳥のレリーフのある神殿の扉は、閉じられる事なく、開け放たれたままである。おぼろに日光の差し込む表の間の、さらに奥へ行く。外界とは交流を断たれたシャマンは、民草よりも簡素な生活を余儀なくされていた。自室でもあり、師のシャマンと寝食を共にする部屋に戻る。長衣を脱ぎ、きれいに畳むと、棚の上の他の式服と重ねて置く。長衣の下には、地味なありふれた仕事着を身につけていた。こうしてみると、確かに彼をシャマンと特殊化しているのは、その額の組み紐だけであった。

 彼は、今度は師の食事を用意するために、裏口にある土間に行った。カマドの火の消えていないのを確かめ、水甕から水をナベに移し、それをカマドにかけた。民草の誰かが届けた川魚をさばき、スープを作る。

 小さなのぞき窓から、沼から飛び立つ白や茶色の水鳥の姿が見える。かすかな感動を覚えながら、彼は煮汁を棒でかきまぜた。貴重な岩塩の塊が、棒の先にごつごつと当たり、それを木さじで掬い上げ、大事そうに小さなザルの中に収めた。

 ちょうどよい塩気が、煮汁の魚臭さを少しだけごまかしている。

 このような生活を日常としている彼のどこを探っても、シャマン的神秘さは見当たらない。当然のことだ。今の彼にシャマンの力はどこにもないのだから。

 時を同じくして自らの老いに気付いた老シャマンは、老王と同じ心持ちでいた。自分の力は萎え、すでに自分の時代は終わったと。

 老いさらばえた体ではシャマンの秘儀は望めない。

 痩せて、手足の筋肉は落ち、頬骨が浮き上がり、腹や骨盤ばかりがまるで蛙のように醜く横に張り、若く美しかった肉体は残酷に剥ぎ取られていた。

 水鳥のシャマンには若さと美しさが必要だった、その秘儀ゆえに。

 霊界や天界へ、か細い神経をあらゆる霊的シンボルと共鳴させても、すでに魂は去来する神霊と交合することはなくなっていた。力の萎えてしまったシャマンは、もはやシャマンではない。神との交信が少しでも途絶えれば、神や精霊は鳥なのだから、自分たちのことを忘れ去り、いずこかへ飛去してしまう。

 そして、地位もなく、財産もなく、ただシャマンという称号だけが誇りの彼にとって、若き引継ぎ手に全てを譲り渡すことは限りなく当たり前の行為であった。

 師であるシャマンは、物音にうっすらとまぶたを開き、かしこまって戸口にうずくまる若い弟子を見留めた。

 小さな四角い部屋に、香をたきしめるための小壷が幾つも並び、事に応じた香が魂を遊離しやすくするために焚かれた。その中央に二つの座があり、魂が離れやすい夜になると、師は弟子にその方法を教えた。種々の香は老師の体に古く染み付き、薫りはその血液にさえも染み渡っているかのよう。

 「お食事でございます」

 師は震える指で、香煙にけぶる壷の蓋を閉ざした。

「ダール……お前、もし明日わしが代わりをしておくれと言うたら、諾と言うてくれるか」

 ダールはうつむいたまま、「え?」と問い返した。

「国王様が、王子モアズール様に王位を譲ると、今日申されたそうな」

 ダールは黙したまま、ごつごつと痛い床石にこぶしを押し付け、師の言葉に耳を澄ませていた。

「グチは言わぬけれど、わしにもう精霊は感応してはくれぬ。力の衰えたシャマンは去るべきなのだ……お前にすべてを教えた。お前一人に、わしのすべての術を注ぎ込んだ。精霊は若いお前にたやすく答えてくれるだろう……」

「はい」

 ダールは強くうなずいた。額の組み紐が、強く自分のこめかみに食い込んでくるような錯覚を覚える。うずく眉間に自分を感じながら、彼は床石よりももっと深奥の暗がりを見つめていた。

 ダールは、自分の神格、霊格を形作っているあや紐と自分とが、一体になることを心底願っている。それは、シャマンとしての完全化を発現させるものであった。飾り紐の模様が、自分と精霊との関係を表した記号なのだ。そして、そ

れがダール自身の魂の形だった。単なる組み紐を取り扱うように、自分の精神をも操ることが、シャマンとしての本望なのだ。

 ダールは、自分の人生の変異を強く感じている。その変化が自分をも大きく変えるだろうことを、誇らしく思う。モアズールの漠然とした喜びとは、あふれる水量から質まで違っている。モアズールがどんなにヘマな野郎であろうと、踏襲制である王位を必ず手にすることになるのだ。しかし、ダールは違う。彼の素質は奇跡にも近い働きかけをしながら、泥臭い農夫の息子だった幼児を、一種の権威ある立場まで導いて来たのだ。そして、何よりもシャマンにヘマなど許されない。精霊とうまく交合できなければ、シャマンなど単なる徘徊する狂人に過ぎないのだ。

 ダールはその心のうちの誇りを誰にも漏らしたことなどなかった。彼にとってどんなに頓馬な男が王になろうと、所詮シャマンは王に隷従した存在なのだから。

 半ば溶けてしまう形で、月が濃紺の空に浮かんでいる。白月は、妖美な影を発する光矢を地面にたたきつけながら、まるで海上に浮かび上がる虚無の城のような宮殿に、柔らかな薄光を注いでいる。普通の人間ならば、知ることなどないかも知れない陰影の境界を、現世に露にしている。月の光で紡ぎ出される伝説の中の、現の風景が、知り尽くした昼間の顔と重なり合い、妙な浮揚感を感じさせる。

 裏庭から、花々の垣根を越え、いつもならばかいま見ることを避けてきた神殿を、遠目から盗み見るように、無邪気なモアズールは木陰に隠れた。深く暗い踊る紅色の鳥が、時に呪縛され、空間に静止している。白昼に咲き誇るハスの花は、月光に恥じらい、顔を包み隠して、葉陰に恐る恐る身を潜ませている。モアズールの無邪気さは、陰険な因習に罰を食らうことを恐れない、年端も行かない少年そのものであった。

 忍び寄る子犬のように、邪心なくハスの池の縁に近寄り、その陰影によって、より神秘的に彼の目前にたたずむ神殿を見上げた。彼の若い魂は、好奇心にうずいていた。明日という日に対する期待感が、彼の心を焦燥とさせているのだ。

 息をひそめて、まるで初夜の妻に手をかける一瞬のように、心臓を高鳴らせ、モアズールは神殿の段違いに右手を着いた。ほとんどひざまずき、彼はうずくまり、感嘆のため息を漏らす。しかし、彼の好奇心はそこにとどまり、現実的な限界のあることを彼に忠告していた。

 その注意も、神殿の裏から徐々に近づいて来る足音にかき乱された。モアズールは夢から覚めた面持ちで、そのほうを探るように見つめた。

 足音の主は、神殿の入り口にうずくまる人影に気が付くと、はたと立ち止まり、粗末な衣服の裾を不安げに握り締めた。薄い空色の瞳が、池の月の照り返しに冴え冴えと澄んでいる。人形のようにこわばった顔が、瞬だが死人みたいに青ざめた。ダールは宮殿の方を横目で見、そしてモアズールの方を見直す。不器用に唇がかすかに動く。それから、静かに月光の陰に隠れた。

「いかがなされたのでございますか……? 王子様」

 モアズールはダールの出現に驚いたまま、ただ呆然としていた。が、気を取り直し、暗がりに引っ込んでしまったダールを透かし見ようと、目を見開く。

「まるで……夜の神秘の魔術のようだな……ここは」

 モアズールの心に、芯まで凍りついた青い瞳だけが残っている。闇の中に、その二つの双玉が浮かび、王子を見つめている。

 ふくろうのように王子はダールを見つめる。

「明日、父上とここに来る……わたしには初めてのことだ……シャマン殿は……もうお休みか?」

 モアズールの声が、からからと空しく宙を回転している。彼はおしゃべりのためにここにいるわけでは勿論なかったが、心に浮かぶままを口にした。物陰に潜むダールは、王子の問いになかなか答えない。

「お前は……シャマン殿の召使なのか?」

「いえ」

 強く否定する声。

 ダールは、月下に照らされる王子モアズールを見つめつつ、答える。彼は外界との接触を断たれ、なおかつその身分を他人に悟られてはならなかった。向こうが知っていたとしても、自分からシャマンであることを表明してはならなかった。そして、シャマンは王以外の人間にその姿を見せてはならない。

 ダールは、早く王子がこの退屈な会話に飽きて去ってくれることを願った。彼はちょっとしたことを試してみようと、夜中であるにもかかわらず、神殿の外に出てみたのだ。夜に精霊がさまよい出てくるのであれば、自分がそれを捕らえてみようと思ったのだ。

 モアズールは彼のことを知っている。しかし、夜が明ければ、すぐにでも王になるのだという考えが、ダールのほうの都合までは気遣わせなかった。彼は迷惑がられるだけの無邪気さを発揮して、質問を浴びせ続けた。

 気のない返事、それどころかどことなく投げやりにも聞こえる答えが続き、モアズールはやっと親切にも、この問答の潮時に気付いた。

「最後にだが、お前は何をするつもりでここにいたのだ?」

 ダールは見られる心配のないことをいいことに、キュッと眉間にしわを寄せた。いまいましい王子だが、王子は王子だ。質問には答えてやらねばならなかった。

「私の仕事のためにございます」

 モアズールは喉の奥でうなると、納得できないが、という顔をして、腰掛けていた段から立ち上がり、池の水鳥の彫像に目を向けた。

「こいつらを躍らすつもりでいたのか?」

 ダールは冷めた笑いを漏らす。しかし、それはほんの一瞬のことであった。すぐに心を引き締め、彼は口を閉じた。

あまりにも見当違いな王子のつぶやきは、ダールの優越した心をくすぐったのだ。道化者のような王子のつぶやきが。小石が転がる程度の短い笑いだったが、モアズールの心には不快に残ってしまった。

 ダールは、荒々しく顔を歪める王子の表情をはっきりと目にした。それで先の笑いをごまかして、こっそりとささやいた。

「石像が踊ることは決してございません。踊るのは夜の精霊であり、この私でございます」

 モアズールの耳に、その声は届いていた。届いたころには、ダールはさっさと自分の寝床に戻った後であった。

 モアズールはそのことを知らず、しばらく黙したまま、じっと暗闇を見つめていたが、やがて人気の消えたことを悟り、彼もまた宮殿の自室へ戻っていった。

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