紅鳥のシャーマン

藍上央理

第1話

 霧の深い湿原に、若い男の声がこだまする。

「捕れたのは何だ? ウサギか? いたちか?」

「王子、大型のネズミです」

 勢いのよい笑い声が帰って来、霧を晴らすかのように王子は現れた。赤みがかった黒髪が、しっとりと露に濡れ、王子の肩にかかっている。

「では、今宵の食膳を飾るのはそれか?」

 王子は長い髪を払い、腰に結わえつけた紐を取った。

「血まみれのその首ごととりすました伯父御殿らの前に飾ろうか?」

「そんなことをすれば、貴族どもの失笑をかいまする」

 同い年の小姓が笑いながら答えた。

 深い霧で何も見えないが、王子たちは物音に耳をすます。

「おら、あっちで音がしたぞ!」

 王子が弾んだ声で小姓の肩をたたいた。

 「いえ、あれは水鳥の飛び立つ音。獣のものではございません」

「賭けるか?」

 王子ははじける息遣いで霧の向こうを見渡した。

「もう湖沼には何もおりませぬ」

 年よりじみた嗜みに王子は悪戯な笑みを浮かべて云った。

「ではもっと気の利いたことをするか」

「たとえばどんな?」

「大奥に忍び入り、娘の顔でも覗き見るか?」

 いつの間にやら、王子を囲む取り巻きたちの人数は増え、五、六人が笑いさざめきながら、片手に弓矢を携えて、王子を囃した。

「近いうちに重臣の娘が宮入りするという。小さいころにちらりと見たぞ」

「どんな娘だ」

 王子は興味を隠せずにたずねた。

「とんでもない醜女でございましたよ、パンも饐えるような」

「デタラメを言うな! そうやってからかうのが楽しいか?」

「とんでもございません、王子モアズール。王子の隣に立つのは美しい娘のみ。小鹿のように小鳥のように愛くるしくたおやかで、人形のように言うことに忠実な」と、他の取り巻きが言った。

「そうだ、わたしの隣に立つ娘は、美しく、しとやかで、夫の言うことに忠実な娘だけだ。もう、二十六。すこし遅すぎる婚儀だ」

「いえいえ、王子の父王様も,選び抜かれた素晴らしい娘を傍らに二十八で婚礼を挙げました。それとも王子には、あの玉座までの階段があまりにも遠く感じまするのか?」

 モアズールはそんなことをいう若い貴族の肩を弓でたたいた。

「おお、痛い。それとも……」

 王子モアズールの声は笑いに押し殺されている。

「それ以上言えば、この鋭い弓矢がお前の喉を貫くぞ」

「滅相もない、ご無体な」

 霧の中へと王子たちの笑い声が消えて行く。

 静かな霧の間から、水鳥たちの羽ばたきの音が響き、シンと静まった。

 霧と沼沢の国。淡い陽光だけが辺りを照らしている。城は平たく堅固に濁った岩の地肌を露に濡らしている。人の住む気配すら感じられないが、息を殺して何百という民が命の灯の消える一瞬まで気配を殺している。

 沼沢の国は近隣の国王たちでさえ忘れかけくちかけていた。ただ、水鳥の神の国という風に口伝えられているのみ。

 湿気て重苦しい空気に沈んだ王の間の段差の最下位に王子モアズールはひざまずいていた。階段の最上段にはしなびた老人がモアズールを見つめている。

 モアズールはその鋭い鷲の面を伏せ、上段の老王の前にかしこまった。王子が成人を迎えた日はとうの昔に過ぎ去り、なおも王位にしがみつく老人に畏怖の瞳を向けた。若き頃の専横な父王の印象をぬぐいきれないモアズールはやや父に対して恐れを抱いていた。

 しかし、今目の前に王座に埋まっている老王は枯れ果てた骸骨のようだった。

 沼沢の国の湿った霧が、かつての美しくたくましい王の力を蝕んでしまっていた。老王は枯れ枝の腕を不自由に動かし、遅く生まれた第一子の肩に手を乗せた。

「王子、いくつになった」ねめるような目つきの老翁の問いかけに、王子は用心深くしばし黙していた。

 王子の赤みがかった金属的な感じのするたっぷりとした黒髪。太く伸び上がった眉。猛禽の黄みがかった茶の瞳は、鋭く輝いている。

 老いた父王は無言にうなずき、息子の引き締まった口からあご先を見つめ、応えを待った。

「二十六でございます。父上」

 父王は、足元にひざまずく息子を見つめ、自らの若き頃を回想していた。王子は成熟し、自分は老いた。王位に就くとき、初めて女を知り妻として娶り、子を成すときなのだ。この国の禁忌や迷信を我が子のように手なずけるためには年月が必要だった。

「分別がおまえを賢くしただろう。お前には、生涯を連れ添う妻が必要だ。すでに相応の貴族の娘を見合わせてやることにしてあるが、どう思うか……?」

 モアズールの瞳の光彩が小さく収縮し、人知に満ちた獣の目で、父親を見つめる。息子の沈黙を承諾と受け取り、父王は目元だけで薄く笑い、「それならば、よい。明日、わしはお前に継授すべきことある。お前にそれを受ける気はあるか?」

 赤く照る黒髪が、ばさりと床に流れる。モアズールは両こぶしを地につけ、深く拝すと、すっくと立ち上がり、居住まいを正した。目で父王に挨拶すると、一歩退いた。

「では明日」

「モアズール、明日お前を神殿に連れて行こう。王だけが知る秘儀をお前に受け渡そう」

 モアズールは今度は軽く会釈し、そのまま玉座の壇上から下り、わきに立った。

 父王が立ち上がろうとひじ掛けに手を当てると、すかさず背後に控えていた侍従が、老王の背と体を支え、共に王の間から出て行った。

 王の間の粗い地肌を露にした岩は湿気て、どんよりと重く室内に覆いかぶさってくる。粗悪に組み敷かれた岩の柱が、高い天井を不思議なほど安全に支え、幾つも並んでいる。

 厳粛にシンと静まり返った雰囲気が、よどんだ空気をますます重厚な大気にしていた。

 沈黙は幸いである。自粛し、静かな居住まいが清らかな場を作るのである。

 秘め事も、密会も、全てが悪しきことと繋がっている。家族の会話すらもとがめられる。命令するものだけが、その口を開いた。

 どんな城内の片隅からもひそやかな笑い声すら聞こえない。ひっそりと死んでいるような空間がモアズールの世界だった。

 女性とは隔離されて育てられる風習にもなんの疑問も持たない。その胸にあるのは遠い日に掻き抱いた母の胸だけである。しかし、それも重たい湿気と共に忘れ去られていく。 

 若い娘を目にすることは決してありえないけれども、もしも何も知らない無垢な青年が強烈な女性の姿を目にしたとしたら。

 しかし、決してそのようなことはありえない。決して。

 もしも、そのようなことがあれば,男も,そしてこれからその男に嫁ぐ女をも不幸にしてしまうだろう。 

 男女は清らかな愛情に従順。それ以外は呪われるべき汚穢。決して口にしてはならない。言葉が形を作り、それが災いをなすと誰もが信じているからだ。

 善良で正真な民草は、女も男も関係なく、この災いを思い浮かべただけで、顔が蒼白になる。その名さえもおぞましすぎて、口にもされなかった。

 若い王子は無邪気だった。災いの悪魔に翻弄されたこともなく、重くのしかかる暗い天井を見上げ、とうに死んでしまった母親の面影を粗い岩肌に投影した。岩肌の細かい小さな凹凸の作り上げた影が、彼の瞳の中に無表情な女性的な顔を映しあげる。心の底で彼は永遠に失ってしまった母親の面影を探っていた。

 モアズールは思春期の少年のように心を少しだけ弾ませ、そして知ることのない女の妄想を中断させた。

 彼は、先程の父親の言葉の真意を理解していた。父は自分に王位を譲渡なさるおつもりなのだ。そうでなければ、婚姻の話や口伝の話などしないはずである。彼は、誇らしげに指の関節で鼻をこする。しかし、ごまかすように咳払いをすると、だれもいなくなった王の間を出て行った。

 淡い霞の中にいびつに灌木が茂り、苔蒸した地面が、水の豊かすぎる沼沢地帯を覆っている。小さな林が散在し、足の長い紅色の水鳥が、優雅に群れをなして飛翔する。

 四つ足の獣よりも、水鳥の多いこの土地では、それに関する迷信が多い。

 例えば、フクロウは死者の声で生者を呼ぶ。夫に先立たれた女が鳥になった。カラスが群れているときは、そこに新しい魂がある。

 蒼天の虚空へ飛び去る鳥を沼沢地の人々は、神もしくは神の使いと崇めた。

 古き湖沼の風土の王たちは吉凶を予言する、特に紅鳥の精霊の力に頼り、その力を国の盛衰を占うために用いた。

そしてその精霊を祭る人間をシャマンと呼び、国に災いが生じたときの為に城の奥深くに閉じ込めたのだった。

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