第5話
モアズールは、しばらく神殿の前の夜霧の中に立っていたかったが、次の儀式が彼を待っているために、老父に伴われて王宮に戻っていった。
モアズールの眼球が太陽に焼かれ、夕日そのものの女の姿を焼き付けている。今も、青白い月光の暗い物陰に、その女が息をひそめて、彼を見つめているように感じる。忘れ難く亡霊が意識の中を浮遊している。しかし、凝視すると、陽炎となって空中に霧散してしまうのだ。
その幻影も、松明の煌々と照らす大広間に入り、壇上を上るにつれ、かすんで消えていった。モアズールの座るべき席の隣に、彼の妻となるべき女が、白い何重ものベールに頭から覆い隠されて、彼を待ち受けている。白い光沢を放つゆったりとした上衣に身を包んでいる。慎み深くうつむき、白い百合のようにかしこまっている。
モアズールは重たい長衣を体に巻き付けると、妻となる女の横に座り込んだ。ちらりと彼女を盗み見る。白いベールの向こう側は、堅く閉ざされ、透かし見ることもかなわない。
その白い布地に、繊細な赤い花びらめいた色彩が、少しづつ落ちて来る。瞳の中に流れる血液の脈流が、投射されているのか。彼は変化していく結果に恐れを感じ、目をそらす。意識を婚儀の祝辞へと向ける。脳裏に縛り付けられた、あの光景を曖昧にぼかしてしまうために、杯に満たされる酒を注がれるままに幾度も飲み干した。真横の脅威をごまかすために。
突如、彼は老父から耳元でささやかれ、はっと我に返る。
「妃と寝所にお行きくだされ」
モアズールは自分の役割に気付いた。数人の侍従につき添われ、彼は立ち上がった。花嫁の手を取ることを思い出し、彼女に手を差し伸べる。
すっと差し出された指は、見たこともないほど白く、爪は赤く彩られている。つる草のような刺青が、初々しい手の甲にほんのりと赤く浮き出ている。
モアズールは一瞬ためらった。自分の手よりも一回り小さな、幼い手を、どう取り扱ったらよいものか、分からなくなったからだ。それで、彼は迷ったあげく、手のひらを上にして彼女の手を取った。
軽く体重がかかり、彼女はたおやかな花のように立ち上がる。彼女の指はこわばり、モアズールの指にほんの少し触れる程度にしか、手を乗せていなかった。
二人の長衣を侍従がもち、連れ立って上座の裏の通路を抜け、新王の新居へと向かう。
新妻の歩みは、やたらと遅かった。モアズールはいつもの半歩づつしか進めず、じっと新妻の小さな体を見つめていた。彼女の背丈は、まるで老人と同じに低いのだ。白い包みの中には、一体何が入っているのか。彼は物珍しげに、しげしげと頭ばかりが大きな白い人形を眺める。
このままでは夜が明けてしまうのではなかろうか。
思い切ってモアズールは、新妻の身体を抱きとめ、抱え上げた。ベールの奥から、玉を転がすような短い悲鳴が漏れる。
愛らしい鳴き声だった。
白い布束ばかりが折り重なっているみたいに、腕の中の花嫁は軽すぎた。手折れそうに華奢で、優しいばかりに柔らかく、モアズールの腕から伝わる彼女の緊張が、甘い蜜となって感じられる。支えた背中を通して、彼女の激しい心音まで聞こえてくる。それは、モアズールが首筋で感じている脈動と同じものだった。
一日かけて獲物を追ったときと同様に、得も言われぬ感動に心臓がキュッと収縮する。ぼんやりとしていた感動が、苦労して射止めた獲物を手にした瞬間の感動と同質のものであると、次第にはっきりと確信できた。
この贈り物を早く見たいがために、モアズールは足早に廊下を擦り抜けていく。二人の長衣をもつ侍従のことなどかまいもせず、寝所へと急いだ。
重たい扉を押し開き、暗い部屋に火が灯されるのも待たず、身動きひとつしない置物を、大切にベッドのうえに置く。いつの間にか、侍従たちは外に出てしまい、扉は閉められ、ようやく二人きりとなる。モアズールは花嫁の横に腰掛け、静かにその名を問う。
小さな鈴のような声が、「シアンでございます」とささやいた。
今まで聞いたことがない、か細く力弱い声であった。震える声は、まるで小鳥のさえずりのよう。耳に痛く、吹きすさぶ東風に似た冷たい響きなど、微塵も感じられない。小さなかわいらしい、おののく気弱な愛玩物の強ばった体のどこにも、周囲を威圧する超然とした迫力はなかった。
モアズールは花嫁の頭を隠す幾重ものベールを、そっと指先でつまみ、一枚一枚果実の皮をむきあげて、まくしあげていく。老父に教えられた通りの手順を踏まえていく。彼の頬は上気に、赤く染まっている。この薄いベールの下に、彼の本当に望んでいるものが潜んでいるような気がした。
最後の一枚を剥ぎ取った後、軽い失望がモアズールの胸にどんよりと落ちてくるのを感じた。
赤茶けた栗毛が、品よくまとめあげられ、なめし革に似た滑らかな光沢を放っている。
モアズールは急いで花嫁の顔を自分のほうに向ける。微笑みで堅くなった顔が、彼の落胆の表情を目にしたとたん、無表情になった。花嫁は夫となる人の表情の意味に戸惑い、子鹿のような瞳で彼を見つめる。彼の黄色い眼光に射すくめられ、彼女は身動きもできない。モアズールは彼女の顔を放り、ぞんざいに突き放し、うろうろと部屋の中を歩き始める。彼には分からなかった。先程
まで、胸をときめかせて喜びを味わっていたのに、なぜこんにも腹立たしい思いが自分の胸の中を覆うのか。充足感は、あっと言う間に落ち窪み、彼を不安の中にたたき落とした。つかんだと感じていた確信が、見事に裏切られたのを悟る。何をつかんだのか、何に裏切られたのか、彼には全く分からなかったが。
ベッドのうえの花嫁が、しくしくと泣き始める。モアズールは彼女に気を止め、
「なぜ、泣くのだ?」
シアンは咳き上げながら、答えた。
「国王様は、わたくしがお気に召されなかったのでございますね……それでわたくしは泣いているのでございます」
モアズールはシアンが哀れな生き物に思え、憐憫すべきものと、寄っていき、言った。
「泣くのは、もうやめてしまえ。わたしが気に入ろう気に入るまいと、お前はすでにわたしの妻なのだから、悲しむことはあるまい」
シアンは唇を噛み締めると、「はい」とうなずいた。
妻は愛すべきもの。それならば愛そう。モアズールは傍らに腰掛け、シアンの顔を見つめる。
ほっそりとした鼻梁が、かすかに燃える灯火に影を生み、滑らかに隆起している。柔和な瞳が控えめにふせられ、紅をさした唇が美しく曲線を描いて、彼女の表情を作り上げている。
真夜中、物音もなく、辺りはひっそりとしている。息する音さえうるさく感じられる。モアズールはシアンの頬に手を当て、親指で唇をなぞる。真紅がうっすらとなぞられるまま、乱されていく。そのまま顔を寄せ、花嫁に接吻した。
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