第16話

 あれから二度目の太陽が昇った早朝、ダールが下男から魚や野菜を受け取るために裏口に出てみると、すぐ足元に一体の黒い悪魔像が無造作に落ちていた。彼はいやらしげに眉をしかめ、祓いの呪文を唱える。朝日に、どす黒く、その像をはっきりと見て取れた。黒い男根が尻に回り、尾となってその付け根と結び付いている。

 なぜ、そんな忌まわしいものがこんなところにあるのか、ダールには知り得なかったが、だれかが自分に呪いをかけようとしていることだけは、手に取るように分かった。像からは、悪意ある、意志のはっきりとした憎悪が滲み立って

いる。ゆらゆらと黒い染みが、自分のほうへ寄ってくるのだ。彼はあわてて足を振り、その染みを蹴散らす。しかし、効果はなく、彼は急いで香を取りに引き返し、やがて戻ってくると、退魔の呪文を唱えつつ、それに香を振りかけた。

 激しく破裂する音がして、足元の悪魔像は跡形もなく消える。

 ダールは一安心すると、表に出る。他にあれと同じものは見当たらず、醜悪な気配はどこからも発せられていない。

「ババエルよ、疾く去れ。烏がやって来て、お前をつつくぞ」

 安心したダールは、気安く魔物の名を口にする。祓われた魔は、今頃どこかで烏のくちばしについばまれていることだろう。その日一日は何事もなく、終えた。

 しかし、次の朝、同じところに不吉の像は再び転がっていた。ダールは息を飲み、はっしと鴨居をつかみ、前へ進も

うとする体を引き留めた。指はあや紐をまさぐり、記憶の中から適当なかけらを拾い集め、宙に並べ立てていく。まさかと思い直そうとしたが、黒い影は生き物じみて、はたはたと像から何かを探ろうとうごめいているのだ。彼の目元が、汚物を目にしたように歪み、とっさに戸を閉め、香を取りに急いだ。呪いは有効に効き目を表している。強い念をもつ男なのだ。甘く見過ぎていたのか。シャマン以外に、具象化された魔物を作りだし、それを力の源流であるシャマンの元に送ろうなど。

 昨日祓ったのは使い魔ではなく、意志そのものの具現体だったのだろうか。跳ね返すことのできぬ強力な呪いが、悪夢となってダールに取り憑いたことを悟らずにはおられなかった。彼は後ろを振り向きつつ、全身に破魔の香をまく。手に火をくべた香炉を持ち、小蛇のような煙が細く長い舌を吐き出すのを、必死に退魔の呪文をつぶやきながら見ていた。今や、像そのものが神殿の中に入り込み、汚物に似た黒い汁を垂れ流しながら、はいずりまわっている。

 香の紫煙のベールがダールを取り巻き、その存在をごまかしている。ババエルは、ダールの存在に気付くことができず、獣の足を不自由に引きずったり、跳ね回ったりしながら、ダールの周囲を手探りに歩き回る。時々、沼から沸き上がる気泡のようなゴボリというげっぷを吐きながら、へどそっくりの焦げ茶色の塊を辺りに吐き散らしている。ダールは足元を徘徊する疫病じみた悪霊に気付かれまいと、一心不乱に退魔の呪文を唱え続けた。

 ねっとりと肌に粘りつく汗が、背中に伝わって尾てい骨へと滴り落ちる。恐怖心なのか焦燥なのか、ダールをかき立てるものが、こづくように、あるいは鐘を打つように背筋に迫ってくる。ただでさえ青白い顔が、ロウと同じに血気のない色へと褪せていく。

 ババエルは小さな体を横柄にゆらしながら、唾をあちこちに吐きかけている。小悪魔はやがて円の中心へと迫るように、ダールの位置をつかみ始めているようだった。彼のほうへ臭い唾を吐きかけ、何か探り当てたと、その不細工な面を横に延ばして、ニヤリと笑う。へどで取り囲むつもりなのか、ダールの足目がけて唾を吐きつけていく。ぐるりと、彼の足首にかせをはめようというつもりなのか。ダールはあわてて香を、足にかけられた糞そのものの唾に振りかけるが、唾自体にそのありがたい魔力はすでに無意味であった。もうすぐ足かせははめ終わる。施行者の邪念の強さに、すでに観念しかけている。彼は、半ば諦めて叫ぼうとした。

 ハッとして、モアズールは目覚めた。気味の悪い夢を見た。思い出すことさえ厭わしい。夢の中の自分が大切に抱いていた感情が、少しだけまだ残っているようだ。

 目覚めが悪い。朝日はまだ昇ったばかり。眩い光矢を放ち、部屋の隅々まで貫き通している。

 二度ばかり同じ夢を見た。一度目はすぐに終わり、今朝は非常に長かった。何かを捕まえる途中だった感じだった。一体なんだったろう。霧の中をうろつくように、手探りに捜し当てたみたいだった。しかし、もうよい。たかが夢ではないか。モアズールはベッドから降り、身支度を侍従に任せる。これ以上気にして、何になるというのだ。

 シアンが乱心したことを、だれかが老父に告げたと見えて、午後に呼び出された。老父は、日当たりの悪い離れにこもっている。薄暗い部屋は、連日の霧のために湿気ている。かび臭いとも言えるその部屋は、それをごまかすように花の香りのする香が焚かれていた。

 ひざまずいたモアズールは、そうしてもなお小さく縮まって見える父親の姿を見つめる。

「父上においては、御機嫌麗しゅう……」

 黙礼して、向き直る。老父はますます老い朽ちていくようであった。

「モアズール……そなたの妃であるシアンの健康が、どうも優れないと聞くが、どうなのだ?」

 モアズールはちらりと目をそらし、

「さぁ……わたしには……?」

 と答える。しかし、老父が疑わしげに目を細めるのを、目ざとく気付いた。モアズールは、思案げに眉を寄せる。その目に映るのは妻と同様に、ただ飾り付けるためだけに置かれた置物であった。気に入らねば、叩き壊すのみ。

「わたしを呼び出しましたのは、それだけのことをお聞きするためだったのでしょうか」

「そうだ」

 「ならば、わたしはこれから大事の用向きがありますので、これにて失礼致しまする」

 王子だったころ、モアズールにとって、父親とはただただ威圧的な存在であった。役目を終えた老いた獅子に、もうその畏怖は微塵も感じ取れない。彼はごみを払い捨てたつもりで、父への尊敬を見失った。


 モアズールは夕方まで政務をこなし、ただ一人で夕餉を済ませ、暗い我が部屋へ入ったのはだいぶ遅くなってから

のことだった。手にはロウソクを持ち、侍従はすでに下がらせ、部屋の辺りにはだれもいない。

 モアズールは、次ぎ間の入り口近くの低いテーブルにロウソクを置き、服を緩める。そして、部屋の明かり取りにロウソクの火を移した。服を脱ぎ散らかしながら、寝室へと入り、彼はいつもの習慣で、裸のままベッドのほうを向いた。

 不自然に布団が盛り上がっている。

 モアズールは眉をしかめる。だれかいるのか。

「だれだ?」

 シアンかも知れないと、モアズールは一瞬思う。しかし、次の瞬間、自分の目を疑った。

 掛け布はのそりと動き、その透き間から真っ赤な髪が覗いたのだ。

 モアズールは言葉もなく、慌ただしく駆け寄ると、掛け布を乱暴にめくりあげた。

 そばかすの浮いた童顔の小娘が、裸体を丸めて王の顔を見つめていた。

 愕然とするモアズールを見て、ますます体をちぢこませ、目をそらすと、

「王妃様が……王妃様が……」

 と、娘は必死になってつぶやいた。

 モアズールの額にカッと血が昇り、後宮のほうへ頭を巡らす。しかし、思い直して、ベッドのうえの成人したばかりに見える娘に目を向けた。

 女の裸体を見るのは、これで二人目であった。シアンはどちらかというとふくよかであったが、目前の娘は栄養の足りない山羊に見えた。名を聞こうと思ったがやめた。どうせ聞いても、覚えていることはあるまい。ましてや……こんな娘は二度とごめんだ。娘を差し向けたシアンの思惑は図りかねる。しかし、ありがたくいただこうではないか。

 娘は寒いのか、手足を震わせている。色は白い。体中に金色のそばかすが浮いている。赤い髪が、まるで道化者のふさのように娘の肩にかかっている。未熟で固い、まだ青い果実のような女。モアズールは、娘の体に触れる。まるで、死ぬ寸前のウサギのように、娘の体は硬直し、痙攣する。

「怖いのか?」

 モアズールはあざ笑い、つぶやく。娘は声も出ないのか、黙ったままである。横向きに丸まった娘の肩を押し、無理にこじ開けて仰向けにする。短い、絹を裂くような悲鳴。形のはっきりとしない、しこりのある乳房。固く閉ざされたままのひざの間に、モアズールは自分の逞しいひざをこじ入れる。娘は両手で顔を覆い、今自分の置かれている現実から、少しでも遠ざかろうと懸命になっていた。

 娘の身体は抵抗もなく無造作に押し広げられる。

 シアンの思惑は分からないが、彼女が何を見たか、モアズールには推し量れた。

 これから多分彼女がここに連れて来るだろう娘たちは、それなりの地位を持つ貴族の娘たちだ。処女を通さねばならない。男が童貞を守り通すように。モアズールは身体の下で魚のようにぐったりとしている娘の行く末を哀れむ。シアンが黙っているのならば、彼が始末せねばなるまい。どう言いくるめられて来たかは知らないが、とても明るい未来が彼女を待っているとは到底言いがたい。しかし、彼にはそのお膳立てを拒むだけの意志がなかった。どんな女であろうと、たとえ赤毛に染めたシアンであったとしても、今自分の体の下であえぐ女は、一瞬だけでもあの女なのだ。それが、彼を心地よくさせた。後から来る絶望の反動も顧みず。

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