第15話
奥へと廊下を突き抜け、妻の後宮の前は通ったがやり過ごし、神殿へ続く裏庭に出た。
月明かりに黒光りする葉が、てらてらと汚らしく輝いている。それとも黒耀石の薄様の造りものの草木なのか。それらの垣根を抜けると、あの白い神殿が、紺色に染められ、輝きを放つようにおぼろにたたずんでいる。
柱の周り、扉の前、池の中を、幻の水鳥が舞う。紅色の細いしなやかな体が乱舞する。
モアズールには、その神秘が目に映らない。ただ静止する単なる石の作りものに過ぎない。彼はその間を通り過ぎ、扉を押し開き中へ入った。さらに奥へ進み、裏のほうへ入っていく。生活臭の漂う、人の住み家が神秘の裏に隠され
ていた。目の前の扉から順に彼は暴いていく。土間、寝室、そして最後に。
ダールは扉の開く音に、ハッと顔を上げ、叫ぶ。
「王様っ!!」
虚ろな目をしたモアズールが思い詰めた顔をして、そこに立っている。
ダールは香を手のひらに乗せ、他の精霊と交信している最中だった。夢は散り、現実が冷水のように、背中を流れ落ちていく。
「お前に話がある」
モアズールはのろのろと口を開く。もったいぶるように、口の中でもごもごと言葉を発し、語尾を濁す。
「はい?」
モアズールは部屋の内部をぶしつけにジロジロ見渡し、眉をしかめ、「ここではだめだ」と言い放つ。
「ここでは無理なお話しなのでございますか?」
モアズールの困った顔を見て、ダールは「外へ出ましょう」と、即座に答える。一体、何があったのだろうか。あのモアズールが弱々しい感情をあらわにして、自分のところに訪れたこと自体、彼には信じられなかった。彼は立ち上がり、モアズールの側に寄る。
「さぁ……いかがなされたのでございますか?」
モアズールは、ぼんやりとダールの顔を見入っていたが、ハッと我に返り、「いや……」と答え、戸口に背を向け、外へ出ていく。ダールはその後に従い、暗い神殿を出た。
驚くほど辺りは明るく、ダールの目には騒々しいとさえ思われた。金粉の眩い月光が降り積もる。キラキラとスパンコールに似た光が、辺りを皓々と照らしている。水鳥の精がその間をにこやかに踊り跳ねている。くるくると。紅い石の水鳥たちが歓喜に羽根を広げ、一瞬宙に浮き、ゆるやかになめらかに水面の上を滑っていく。
ダールは、この光景に目を見張り、モアズールを無視した。
「シャマン……」
ふいにモアズールの腕がダールの腰に回り、力強く抱き締めた。ダールは驚愕し、モアズールを見上げた。その尋常でない表情にゾッとし、力を込めて彼の腕をもぎ取ろうとした。しかし、日頃の鍛練の違いから、ダールはモアズールよりもひ弱かった。
「いや……水鳥の精霊……」
ダールは総毛立つ。モアズールの心は、この言葉からすべてくみ取れた。
「ばかなっ……」
ダールは吐き捨てるように怒鳴る。振りほどこうと腕にますます力を込め、頬は上気し、しかし、自由にはなれない。岩のように硬く、自分を羽交い締めにするモアズールの腕の筋肉が憎たらしかった。
「離してくださいっ……王様……モアズール様っ!!」
ダールはこんなことを叫ばねばならない自分が情けなかった。モアズールは混乱した目で、不思議そうに、
「なぜ……お前のような、美しくもない男が、あの女の夫なのだ……!?」
モアズールの口の中で繰り返され吐き出される、「なぜだ」という問いかけが、まるで忌まわしい呪文のように聞こえる。ダールは青ざめる。とうとうモアズールは狂ったのだ、と。
「なぜ……あの女がお前の顔に現れる……!? なぜだ……なぜなんだ?」
「王……」
ダールの口の中はからからに乾き、逃げ切れない獲物のように目を見張り、息だけが荒い。つばがねっとりと糸を引き、舌と上あごが引っ付いてしまう。
「シャマン……わたしはどうしても聞きたいのだ……あの女の口から」
両腕が、腰に絡まるかせとなって、きりきりと締め付けてくる。悪夢のようだ。モアズールの唇は、すでにダールの鼻先にある。彼の言葉と共にその生臭い呼気が、ダールの鼻孔をくすぐる。冷や汗がにじむ。両腕の力が萎え始めている。密着させたモアズールの腹筋が、ダールの腹部で激しく起伏し、胸の早い鼓動までも伝わってくる。彼の体には熱がこもっていて、生暖かく、気色悪かった。
「私に……どうしろと……?」
思わず声が震える。
「あの女になれ……この腕の中で」
「そっそんな……」
ダールは叫ぶ。そんなことをすれば、どういうことになるか、考えずとも分かる。
「断るのか?」しかし、答えを待たず、「では、お前でもよいのだ……わたしには……もうどうでもよい……」
ダールの顔面に嫌悪感が溢れる。モアズールはとんでもないことに、自暴自棄になっているのだ。諭しようがない。
「承知致しました……」
ダールは観念して、うなる。水鳥の女が赤い蝶のように近寄ってきて、諌めるように首を振る。その体が揺らめいている。一時もじっとしておれない様子であった。ダールは水鳥に向かって、困惑した表情を見せ、心中を告げる。口には出さずとも、彼女には伝わり、彼女はダールの手を取り、重なるように入り込んだ。
腕の中に水鳥の女が小さくなっていた。ダールは紅衣を着けていなかったが、彼女は紅い長衣を着ている。その冷たい瞳が、モアズールを見上げている。彼女はダールよりも背が低かったのだ。
赤い瞳がめらめらと火焔を吹いている。
「精霊よ……」
モアズールは言葉を失い、腕の中の女を見つめる。絡み付ける腕から、女の滑らかにくびれた細腰、張り詰めた乳房、華奢な腕、切望し、夢想して来た全てが伝わって来る。
「待ち侘びていた……」
耿々と怒りに燃える、女の瞳の色にモアズールは気付かず、続ける。
「どうしても……忘れることができなかったのだ……」
そして、彼は愚かにも、恐る恐る女の唇に唇を這わせた。
「痴れ者が……!!」
突然の怒号に、モアズールは手を離す。女は、まるで飛ぶように退く。その顔が夜の太陽となって熱を発していた。
「この痴れ者めが!! 愚鈍な人間め! 己のしたことに気付かぬか! 己の愚かな所業の大きさを……! おのれは第二の禁忌まで犯したのだぞ!」
モアズールは目を白黒させ、戸惑い突っ立っていた。
「思い知らぬかっ!」
紅炎が舞い、圧倒し、モアズールは吹き飛ばされ、地に伏した。痛みが彼を現実に引き戻し、その所為の深さを思い知らせた。さっと顔が青ざめる。
そのとき、背後から女のから笑う声が響く。からからと、吹き抜ける木枯らしめいた虚しい響きを持っている。
モアズールは振り向く。垣根の間を浮かれ狂ったシアンが走り抜けていった。
運命は惨く、シアンにモアズールの後をつけさせたのだ。侍従の腕を振り払い、ただひたすらに恋い慕い、それゆえに疑心にまみれた妻に薄情な夫を追わせ、なけなしの正気にただれた救いだけを餞に寄越したのだ。
モアズールは向き直り、今度は水鳥の女を見る。黒い骸の一点の血の染み。彼をあざ笑っているのか? 硬直したまま、目元は引き攣り、背後のシアンをまた見返す。彼女は、ひらひらと精霊となって輪舞する。乾いた笑いが、音楽を生み出し、喉から転がり出ている。
モアズールは大きく口を開き叫ぼうとしたが、声が出なかった。絶望した叫びが、彼の脳天を突き抜けていく。
ダールは、モアズールを見つめた。大きく口を開いたまま、空しく夜空を見上げ、へたりこんでいる。次第に頭を大きく振り始め、何かを否定するようにあがいている。
水鳥の女が哀しげにモアズールの前に立ち、その頭に触れる。彼は気付かない。水鳥の女はこんなにも優しい。
ダールは思い切るように、彼らに背を向け、声なき叫びを聞きながら、神殿の中へ戻っていった。
狂えなかったことが、呪わしかった。
モアズールは、片腕にシアンを抱き寄せ、彼女を後宮へ送り届ける。彼女は思い詰めた目付きで宙を見つめたまま、口を開こうともしない。彼は思う。もしも、この女が正気に戻れば……
シアンは手のひらを上へ伸ばし、何かをつかもうと跳ね上がる。彼女の手がひらひらと舞い、蝶のように頭上をぐるぐると巡る。モアズールは両手でそれを押さえ、彼女の手首が赤くなり、あざになるほど強く押さえ込まねばならなかった。
正気に戻らねば……
秘密をすべて知ってしまったこの女が、他の者に理解できる言葉で、自分が最後に見た事柄について……
モアズールは、このまま手を離さず、人知れず彼女を連れたまま、彼女を葬り去ることもできた。しかし、しなかった。シアンは背を丸め、つかまれた手に頬を寄せ、眠るように目をつむっている。
いつでも思うとおりにできる。モアズールは、そう考えた。今すぐ、始末をつけなくとも……
妻は侍女たちに付き添われ、扉の向こうへと連れていかれた。扉は現実を遮断しようと、重々しく閉まる。ぷっつりと気配は立たれ、モアズールだけの世界が辺りに蔓延っていることに気付く。彼は暗い瞳を背後に向ける。深く何者かを恨む鈍い光が反射する眼光をたたえて。
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