第14話
すでにシアンは、モアズールが奥まで呼びに行かなければ、自ら表に出て来なくなってしまった。
しんと静まり返り、ガランとした部屋の中は、モアズールにとってつらいものであった。彼女だけでも、そこにいてくれれば、それ以上にありがたいことはない。やる瀬ない滞る怒りを腕から噴出させ、怒鳴りながら壁を殴りつけていく。暴力をふるうと、少しだけすっきりとするが、力尽きてきて心は軟弱に縮んでいく。
こんな心寂しく寒いときに、シアンがいれば何とか慰められる。好きではないが、愛してもいないが、代用にはなった。
「シアン……シアンを呼べ!」
モアズールは苦し紛れに叫ぶ。だれかにすがりつきたい。なぜなのか分からない。だが、自分が深く傷ついていることは分かった。こんな年にもなって、彼は地団駄を踏む子供みたいにヒステリックになっている。自分のこの感情にどう接すればよいのか、彼には分からない。本能につき動かされ、獣のようにうろうろとうろつくしか能がなかった。
侍従が奥の宮殿へ入る扉の前に立ち、係の侍女に王の言葉を伝える。シアンはすぐに知らせを受けたが、足に力が入らず、いすに腰掛けたままでいた。なんとなく行きたくなかった。彼にぶたれるのは勿論恐かったが、彼といることのほうがもっと恐ろしかった。見も知らぬ、信頼できない他人の男の前に、無防備に立たされているような心地がした。重たいため息をつく。
愛されなくとも夫婦になれるとは、シアンは学ばなかった。夫婦になれば、愛されると思っていたのだ。顔も見ずに結ばれたとしても、深く信頼しあい、互いに打ち解け合うことができるようになると思っていた。
なぜこんなことになってしまったのか。モアズールはなぜ打ち解けてくれないのか。なぜ感情に任せて怒鳴り散らし、暴力をふるうのか。シアンは彼のことを気に入っていた。何しろ国の頂点であり、貴い存在であると教えられた先王の息子なのだ。立派な方なのだ。
自分の人生も、目的も、願いも、すべてがモアズールに愛されるということから始まっているのだ。それを疑ったことすらなく、しかし、今は危うい。
どうにしろ、腰は上げねばなるまい。シアンは立ち、侍女にドレスを持ってこさせ、髪を編ませる。ふと赤い服をと思ったが、何かしら嫌悪感を抱き、ウグイス色のドレスを着た。布地いっぱいに白銀のハスの模様が刺繍してある。
なぜ、こんなにも気が重たいのだろう。シアンはドレスのハスに見入り、ため息をつく。心に鎖がつながれ、奴隷のように不自由している。モアズールに「愛している」と甘くささやかれたとしても、もう決して自分は心を弾ませることができない。なぜなのか。自分もまた、彼という愛すべき連れ合いを、愛せなくなってしまったのか。悪魔のうろのように薄暗く、どんなにそら恐ろしい所にも、ただ一点の幽火くらいは灯されているのではないか。
シアンは、廊下を必要以上にゆっくりと歩む。丁寧に歩幅も狭く、一歩一歩踏み締めて前に進む。歩き方にも気をつけて、なるべく急がずに時間をかけて、モアズールの部屋へ向かった。
部屋は薄暗く、月のおぼろな光が、ゆらゆらと窓の外で瞬いている。
黒い影のように、ベッドのうえにモアズールは腰掛け、丸くなっている。淀んだ闇の中で、ものは形作られ、彩られ、敵意に満ちている。責め立てられる子供のようにベッドのうえで丸くなる夫を、シアンは静かに見つめていた。心の奥に、鈍く重たい痛みという澱が落ちて来る。ゆっくりと、どんよりと。心が締め付けられ悲しくなって、彼女は胸をひしと押さえる。しかし、黙って、彼を見つめていた。
モアズールはしばらくそのままでいた。死んだように動かない。両腕で空虚な胸をを抱え込み、足はベッドから降ろし、横になっている。
月の光に瞳は冴えてくる。あらゆるもののシルエットが、はっきりと空間に浮き出て来る。シアンにはモアズールの様子がはっきりと分かり始めた。
金にくすぶる琥珀の瞳が、ぼんやりとシアンを見つめ返していた。
シアンは何げなく受け止めた後、はっとして身を堅くする。
モアズールの瞳が潤み、充血している。目の回りが赤くなっている。脱魂したように、じっと顔を横にしたまま、シアンを見つめている。しかし、ふいに思い出したように、
「シアン……お前は……わたしの妻になったことを後悔しているのか?」
とつぶやいた。
言葉に心の臓を刺し貫かれ、みぞおちに鈍痛が差し込む。シアンは混乱し、沈黙を守る。
モアズールは目をそらし、顔を掛け布の中に埋め、
「わたしは……後悔しているのだ……」
シアンの両耳に、いきなりねじり臥せられたような鋭い激痛が走ったように感じた。ふいに喉にものが詰まったように息苦しくなり、ただ立ちすくんでいた。目の前がゆらりとぶれたように見えた。遮断された別の部屋の中に自分はいた。急速に遠ざかっていく。絶望的に、すべてが矮小に鈍く自分を取り囲んでいく。
「わたしは……」
モアズールは顔を起こし、とどめをさすつもりなのか、言い続ける。
モアズールの言葉をかき消し、シアンの口から奇声がほとばしる。濁った、声がかすれひび割れた絶叫。痙攣する体を激しく揺すると、すべてを拒絶して、そのまま床に倒れた。木枯らしのような苦痛が、歯の間から高くこぼれていく。
モアズールの声を、次の言葉を、真意を、そして自分の心を耳に入れまいと。
城中に響いた声に侍従が飛んで来て、「何事がございましたか!?」と、おろおろとシアンを取り囲み、モアズールにたずねたが、彼は虚ろな目で悲痛に叫ぶ妻を見やり、うなだれて肩を落とした。
シアンは力の抜けた人形のように、ただ泣き叫ぶだけ。侍従が二人かがりで抱え上げ、後宮へ連れ帰っていった。遠くからの犬の遠吠えに似た、濁りくぐもった叫び声が聞こえて来る。それは次第に小さくなり、消えた。モアズールは聞こえなくなっても、しばらく耳を澄ませ、その音の片鱗を探したが、ぷっつりと途絶え、また宮殿内は静まり返る。耳の奥では、妻はいまだに叫び続けている。あの絶望した獣そっくりの声。忘れることなどできない。
モアズールは萎えた手足を伸ばし、視線を窓の外に向ける。霧は薄れ、夜空が見える。紺色の、黒の染め粉がぼってりと空に落ち、染み付いて取れない。灰白に漂う雲霧が、染め残した絞りの部分のようにぼやけ、かすれている。風にゆっくりと移動するが、一枚の織布のようにそのものは変わらない。
月はこの位置からは見えない。ただ銀色の糸が地上に漂い、揺れながら降りてきている。糸は木の梢に引っ掛かり、宮殿の外塀の端に引っ付き、きらきらときらめいている。それだけが、幻のように窓から見えている。
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