第13話
不意に平手を食らった顔をして、モアズールは呆然とし、その真意を悟ると、彼はこぶしを堅く握り締める。
「そなたたちの生き様を、そなたたちの生命の何十倍もの長さでわしは見た来た。そなたのような者は数多い…… そなたが始まりでもなく、終わりでもない……しかしのぉ……王モアズール……恥を知っておろう……? 禁忌を犯すという意味を知っておろう? ここまでじゃ……そなたはここから引き返すがよい」
高慢な女は、氷の冷たい炎に燃える瞳で自分を見下していた。しかし、同時に精霊の言葉の意味を理解していた。耳たぶまで紅潮とする。それは、自分が愚かにも二重の禁忌を犯していることに気付いたからだ。恥ずかしさと怒りとが、彼の脳の中を右往左往している。しかし、それを今、表に追い出すことはできない。彼にはそのことを口に出すことすら忌まわしく思えた。何も言わず、じっと耐えて、赤毛の女を睨みつける。
女は哀れみに目元を歪める。かぶりをわずかに振り、香の煙の中に再び隠れて消えた。
次の瞬間には深刻な顔をしたダールがたたずみ、モアズールを精霊の女と同じ表情のまま、見つめていた。
モアズールの目元が薄く引き攣る。
「お前まで……っ! お前まで、わたしをそんな目で見るのか!」
精霊と交合し、その思考すら手のひらの玉同様に眺めることのできるダールには、モアズールが罠にはまった哀れな鹿のようにその目に映った。手足に罠が絡み付き、もがき苦しみ、周囲を罵倒している。
「王様……別に私は……」
ダールは肩をすくめる。精霊の感情が、まだ自分の中に残っているせいもあったから。女は哀れみ深く、優しさに満ちている。ダールは女の容貌を知らない。幻めいて現れる紅鳥の顔は、ぼんやりと霞んでいた。その雰囲気と性質から柔和な顔付きだと思っていた。
「高慢で傲然とした目付きで、わたしをなぶるつもりなのか、我が神は?」
ダールは不快に思う。王は何を言っているのか? 女精霊には、なぶるつもりなど毛頭ないのだ。このまま誤解させておくのはしゃくに障る。
「精霊は、俗性のない神性をもった純粋な精神体なのでございます。わたしたちの心の中の聖域を反映するのです。あなたには傲慢な姿に見えようと、その内的な力は清浄な精神であり、わたしたちの想像する所には及ばぬほどの、純化された精神なのでございます」
あえて、精霊の善悪については語らなかった。俗的なものはなくとも、人間的な感情はちらほらと出現する。しかし、そんなことを王に説明しても、無意味に思えた。
モアズールは立ち上がり、歯を剥き出して、怒鳴り散らす。
「では、お前には分かっているというのか!? 精霊と同じように、わたしの心の内を知っているというのか! 知っていてなおもそう言うのか!」
ダールは内心うんざりする。別に女精霊が何を考えていたかまでは、一々覚えていない。言葉は覚えているが。彼女の言うとおり、モアズールには今のうちにわきまえてしまう必要があると思えた。怒鳴り散らすなど、王らしからぬ態度だ。ダールはもう一度肩をすくめ、
「王様、私には何のことやら、さっぱりと? 我が妻の考えることは、これ程も分からぬのでございます」
指先の間隔で、その知識の量を示す。
今や、モアズールは猛る獣のようにうなっていた。怒りで我を忘れそうになっているモアズールを見て、ダールはヒヤリとする。
「我が妻……!? 我が妻だと! あの女はお前の妻なのか!?」
こやつはまたしても知らぬのか……女精霊がシャマンの妻であることは、先王でさえも知っていたことなのに。ダールは口をへの字に曲げ、モアズールを呆れたように見やる。しかし、すぐに表情を正す。これ以上、王を刺激してもよ
くない。何をするか分からない。神殿内で暴れてもらっては困る。ダールはどうすればよいか、ふと考え、とっさに地にはいつくばり、慇懃に礼をなす。
「申し訳ございませんでした。王様には、お早めにご奏上致すべきでございました。私の不行き届きにて、お心を患らわせましたことを、心より深くおわび申し上げる所存にございます」
モアズールは不意を突かれ、拍子抜けしてダールを見下ろす。顔をしかめると、舌を鳴らす。
「お前が頭を下げたからといって何になるのだ。わたしが知らなかっただけなのだ……わたしは……問い返しただけだ」
モアズールは強情にそう言い放つ。そして、言い忘れていたように、「頭を上げろ」と付け足した。
ダールは大儀そうに頭を上げ、居住まいを正す。モアズールの背から不安定に揺れる精神の、凝血した赤い鬼火が燃え立っている。水鳥の女が、その大きな翼で彼の体からくすぶる熱い舌を扇いで散らそうとしているのを見た。彼女の意思が針のように、チリチリとダールの脳に刺さって来る。彼は目元を歪め、「王様、神霊があなた様にご忠告なさることがあるそうでございます」
「何だ」
しかし、何と言ってよいものやら、ダールは戸惑った。それでも、言ってしまわねばなるまい。
「お前は三度までも禁忌を犯すことになる。しかし、一度目を食い止めれば、一つの禁忌を犯すことはなく、二度目もしかり。三度目に至るはこれも必定。もしも破れば、今度こそお前には滅びしか残されてはおるまい」
大きな波となってモアズールの行き場のない精神が揺れる。水鳥の女が圧倒され、壁のほうへ蹌踉けた。モアズール本人はそのことに気付かず、厳しく目元を歪め、「あい、わかった……」とうなった。
モアズールは、神秘的な熱気の冷めていくドームの中に立ち、遠い幻影を見た気がした。何もかもが自分から閉ざされており、隔離されているのは自分のほうだったのだと悟る。今のところ彼の胸の中には、怒りだけが詰まっている。去らねばならない時が来たと感じ取り、彼はドームに背を向ける。ふと名残惜しげに振り向いた。
背後にはポツンと紅衣の平凡な男が立っているだけ。そこに自分の望んでいるものは、何もなかった。
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