第12話

 モアズールは、すでに妻に道化の真似をさせるのをやめた。いくら彼女を本物に似せようとしても、全くのまがい物であることは変わらないからだ。彼は本物を欲しているのだ。それが手に入らないものだとしても。

 楽しみは損なわれ、モアズールにとって笑いを得るものはなくなってしまった。自分と同じように傷つき、のたうちまわるものを見ていると、自然に心が安定してくるのだ。いや、別の興奮によって、ごまかされているだけなのかも知れない。

 モアズールは次第に一人で狩りに出掛けることが多くなった。ふいに従者も付けずにいなくなってしまうのだ。初めのうちは騒ぎになったが、そう遠くもないところにいるのが常であったので、皆なれてしまった。

 ある日、霧の深い朝、モアズールは城から抜け出し、沼地へ行った。霧は深過ぎて、犬も連れていない彼にとって最悪とも言えた。すでに狩りだけが楽しみではなくなっていた彼には、そんなことはたいした問題ではなかったが。

 足元がわずかに見えるのみで、モアズールは気晴らしでもするかのように、ぶらぶらと幽鬼のようにさまよっていた。うっかりすれば、底深い沼のなかに足を踏みいれてしまうかも知れなかったが、彼はそれもよいかも知れぬというふうな気分になっていた。

 何かが足に引っ掛かり、彼はどっと顔から沼の縁に倒れ込んだ。いくらかもがき、身を起こすと、その無礼な塊に罵倒を浴びせた。紅い大きな塊であった。蛇のようにだらりと長い首が不自然に曲がりくねり、地に伏している。茶色く干からびた泥が、鮮やかな紅色の羽根にこびりつき、ごわごわと逆立っている。石のように硬い。枝に似た長い足が、いびつに曲がり、こわばっている。体のすみずみに、何かがかじりついた跡が残っていた。羽毛が辺りに散乱し、綿ぼこりの花に見える。

 紅い水鳥は、モアズールの心の聖域のなかに踏み込んできた。彼は、焦がれる女の別の姿を見たと思った。哀れな醜い死体として。超然とした傲慢な女が、力なく頼りなく地に伏す。彼はそこまで夢想すると、かすかに笑う。赤毛の女は病気にでもなったのか、自分の足元に萎えてうずくまっている。

 モアズールは弓に矢をつがえる。キリキリと引き絞り、初めて娯楽を楽しむかのように、紅色の水鳥の体に矢をつき立てた。鈍い手ごたえがあり、矢は申し分なく深くつき立つ。血はすでに体のなかで乾いてしまったのか。しかし、彼にとってそんなことはどうでもいいのだ。カラカラと、気の抜けたような笑い声を上げる。

 モアズールができるのはそこまで。足で踏みにじることはできない。瞳の裏の姿を足元の哀れな死骸に投射する。どんなに辱めようと、それはいつまでも尊厳な存在であった。それ以上手も出せず、彼は惚けたようにじっと立ちすくんでいた。無理矢理引きはがし、その存在から自分を離すと、彼はまた楽しみを失ってしまった無気力な沈んだ表情で城へ戻った。

 八度目の満月が来るころには、沼の菰の茂みの水鳥は、乾いた泥臭い腐臭を漂わせ、ボソボソに腐った。毎日、モアズールはひとり城から抜け出し、その様子を観察してきた。何分間か、じっと見下ろし、そして去って行く。水鳥は死に冒され、日に日に醜悪になっていくが、神殿の底に潜む水鳥の女はいつまでも美しく傲然としている。

 モアズールにはその落差が不思議に思える。片方には触れることもできるが、その姿は崩れつつある。片方は夢幻の影のような存在であり、永遠に美しい。

 訳が分からなくなってきている。ぐるぐると、走馬灯のように死骸と女の姿が入れ替わり、ふと勘違いしているという気になってくるのだ。赤毛の女を目前にしてみるとこちらのほうが現実に思え、また死骸を目の当たりにするとそれも真実のことと思える。どちらにも手を下せず、中立に立ち、呆然と眺めているしかない。

 しかし、ある日の朝、菰の茂みをより分けると、水鳥は跡形もなくなっていた。イタチかキツネか、野獣が食わえて持って行ってしまったのか。腐って皮ばかりになっていたはずだが、いまさらその肉を食らう獣がいるとは思ってもみらず、モアズールは驚愕し、辺りをより分けて探してみたが、結局は納得せざるを得なかった。

 もしかすると、最初からあれはなかったのかも知れぬ。あれは幻だったのではないか。

不思議とその考えを拒絶できなかった。それがごく自然のことに考えられた。そう思い込んでしまうと、あの女に触れることはごくたやすいことなのではないか。そう結論を得ると、少し心が軽くなった。

 夕暮れ時に、モアズールは半ばそわそわと神殿へ向かった。一刻も早くそこに赴き、あの女に会いたかった。

 神殿は金朱色に染まり、紅色の鳥のようにひっそりとそびえていた。今日ばかりはモアズールもその光景を趣深く思えた。いつもはいまいましく感じられた石の水鳥の群れさえも、優雅に舞う精霊にも思える。久しぶりに心が寛大になったようだった。 

 儀式の夜なのだ。レリーフの門が大きく開き、夕闇の迫りつつある庭園に、ぽかりと虚ろな口を開けている。小さな灯火が列をなし、細い糸めき連なって、奥へ奥へと延びている。

 モアズールは喜々として、先へ進む。この糸の行き着く先に、我が望む女の住まいがあるのだ。いや、隠れ家か。果たして、密会の場ともいうのか。彼は久しぶりに楽しんでいる。精霊の女であること自体、すでに忘れ去っているようであった。

 地下へ降り立ち、蒼紺の天の下に紅い衣の男が、からくり人形のように立っているのを見た。

 シャマンは深々と拝し、題目を唱える。いつものごあいさつで、そらでも言える。

 ダールはふと気付く。モアズールは笑みを浮かべてる。いぶかしげに彼は眉をしかめた。やたらと機嫌のよさそうな国王に、警戒心が沸き立つ。

「では、よろしゅうございましょうか」

 モアズールは定められた座に腰を下ろし、じっとダールを見つめる。香の煙りに包まれ、幻の女がやがて現れる。

 女の冷ややかな視線が、モアズールに注がれる。彼は女精霊に政の意向を問う。彼女は静かにそれに答え、早々に儀式は終えた。

「神よ……しばし、お待ちくだされ」

「なんじゃ……?」

 モアズールは言葉に詰まりながら、興奮して弾む語気を押さえつつ、胸の内を吐露する。

「そちらへもう少し寄ってもかまいませぬか」

 精霊は目を細める。

「のぉ……王モアズール……そろそろ分相応、分別をつける年相ではないのか……? そなたが語らずとも、わしは知っておる。今のうちにわきまえてしまえ」

 不意に平手を食らった顔をして、モアズールは呆然とし、その真意を悟ると、彼はこぶしを堅く握り締める。

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