第8話
部屋の扉を開いたとき、彼は心ならず、短く叫んだ。思いもよらぬ出来事に対して。一瞬、つかむ間もないほど素早く、期待が胸をそっけなく擦り抜けていった。
赤毛の女がそこにいた。
いや、いたような気がしただけ。見る間に顔に落胆の色がへばり付く。
赤毛だと思ったのは、赤いレース編みのベールで髪を包んでいたせいであった。見事な栗色の髪が、赤い色彩の下で波打っている。振り返り、その輝く顔をモアズールに向けたのは、彼の妻であるシアンであった。彼女は目ざとく彼の顔色を見て取る。瞳が不安げに陰る。
しかし、モアズールの顔はすぐに明るくなった。思いのほか、赤い色がシアンの肌の色に似合っていたからだ。彼女はほっそりとしていたが、何より色が白かった。赤い色が顔に反射して、頬がバラ色に映えている。彼女を美しいと思い、彼は近づいてささやいた。
「赤がよく似合う。とても……」
シアンはにっこりと微笑む。
「だが……」
モアズールは思い直して、ふとつぶやく。少し腑に落ちず、立ち止まってまじまじとシアンを眺める。
何かが違うぞ。
頭の奥のほうで、チカチカと何かが警告のように光ったが、モアズールにはそれを言葉に直すことができなかった。言葉に直せないものは、思い違いに等しい。彼にとっては。
すぐにモアズールは新妻の元に歩み寄り、ためらいもなく、抱き締める。腕の中にすっぽりと収まる妻のか細さに、彼は満足する。
狩衣には血糊が幾らかこびりついていた。しかし、そんなこともかまわず、モアズールは胸の中の愛らしい生き物をかわいがるために、ベッドに倒れ込んだ。
翌日になって、モアズールはやっと自分が何かを探しているのだということに気付いた。目の端をかすめさるイメージに惑わされ、いく度振り向いたことか。始め、何かに恐れているのか、と思った。しかし、何度も赤い服の妻の姿を見るたびに、納得のいかない、だが少しは慰められる期待感を、なんとなく悟ってからは、何かに恐れているのではないと分かった。
赤い色に神経質になっている。ハッとして振り向くときの不安感は、何ともいえない不快なものであった。何度も振り向いてしまう自分に、モアズールは別のことを考えた。
多分、これは悪しき霊の仕業なのだと。
確かに自分は以前よりもいらついている。落ち着きがなく、不安を感じている。安らぎは一瞬で、持続性がない。悪霊が自分を煩わしているのだ。モアズールはあのシャマンを思い出し、ひとり部屋の中でいすに座り込んでいたが、とっさに立ち上がる。シャマンの神託により、自分の災いの源を突き止め、散らしてもらおう。多分、以前のあの不吉な神託は、このことを指していたのだ。国そのものである王が、悪しき霊に翻弄されてしまうことを暗示していたのだ。
時は午後も中頃、陽はようやく傾きかけている。しかし、まだ、表はきらめくように明るい。モアズールは意を決し、まだ満月まで四日あるが、シャマンに助言をもらおうと、足早に神殿に向かった。
途中、侍従に行き先を聞かれた。そのとき、モアズールはなぜか一瞬ためらい、「奥の妻に会いに行く……」と答えてしまった。
「お伝え致すことはございますか?」
「いや……急に出向いて、驚かしてやるのだ。余計な真似はせんでもよい」
侍従は、拝すと去って行った。モアズールは不思議な気持ちで立っていた。心に後ろめたさが漂っている。それは侍従にたずねられたときには、すでに生まれでていた。後ろめたさが嘘をつかせたのだ。言い訳までさせて。
モアズールには理解しかねた。眉をしかめたが、思考が止まり、彼はそのことをまたもや放棄してしまった。
それでもモアズールは神殿に向かっている。すでに、そのことは強迫的に彼に迫っていた。
悪しき霊がいるから、わたしは神殿に行くのだ。
その考えがモアズールの脳の周りを取り囲んでいる。何かを思い出すことを恐れている。とっくの昔に蓋をしてしまった何かを。
モアズールは、差し出し踏み締める一歩一歩に、その思いを封じ込めた。妻の赤いドレスにその思いを潜ませた。彼女の顔の裏側に見えるものに、その感情を混ぜ合わせた。
神殿は王宮の奥まった所にある。
昼間なら、時々人の通りすがるような回廊があるのだが、日暮れ近くなると、ぱたりとだれも近寄らなくなる。神殿をさまよう夜の精霊に見つけられることを恐れ、神霊の夜の魔力を畏怖して。
モアズールはその脅威をある程度克服している。なぜなら、彼が夜の魔力を操るシャマンよりも高い神格をもつとする神官であるからだ。果たして、その通りかはだれも知らぬことだが、今までがそうであったので、彼は一点の疑いももたない。
颯爽と、モアズールは神殿へ向かう。水鳥の紅い石の彫刻が、掘り池の中で戯れている。いつまでも枯れる事なく、薄い桃色のハスの花が、ぽつんぽつんと孤独にほころんでいる。何種類かの小さな水鳥が群れをなして、池の端や、小島に集まっている。シャマンの姿は見当たらなかった。
神殿は素知らぬ顔で、日常を育んでいるかのように見えた。何の才能もない、凡庸な人間のふりをして、静かにたたずんでいる。シャマンは裏口で夕餉の用意をしているのか。それともすぐにやって来る夜の顔のために、精神に化粧を施しているのか。表の茫洋とした神殿の顔からは予想もつかない。モアズールはためらいつつ、段に足をかけた。一歩、二歩と上っていく。 水鳥のレリーフの、重たい観音開きの扉を開き、真暗い神殿の内部をじっと見透かす。外気が光と共に触れ合い、内部の何かを押し出した。それは意志をもつ熱気のように、モアズールをぐるぐると取り巻くと、一瞬にして蒸発した。
物音ひとつしない神殿の内部。だれかが生活している気配もない。あの夜、瞳に燃えた灯火は跡形もなく、作為的に作られた神秘のかけらもない。凡庸な中身が、簡単にさらけ出されていた。
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