第9話
「シャマン」
モアズールは奥に呼びかける。ただ沈黙だけが、その呼びかけに答えた。もう一度呼ぶ。そして、もう一度。
カツーンと反響音があり、暗い物陰にいつの間にか人が立っていた。顔や上半身は影に隠れ、紅い映える衣の裾が、柱の陰から覗いている。
「何用でございますか、王様」
冷めた声が柱に跳ね返り、どこからか、もう一度虚ろな声でたずねられる。
「悪しきものがわたしの回りでうろついている。助言を受けたい」
生きた死者じみた抑揚のない声が、「こちらへ」と答える。紅衣のシャマンは滑るように音もなく、物陰から出てくると、祭壇へ寄り、石でできたそれを力任せにずらした。
いまや、ダールの足元には虚ろな穴が開き、ロウソクを取り出した彼は、いつの間にか火を灯して、ゆっくりと階段を降りていく。モアズールは内心会得しながら、ダールの後をついていった。
青いホールは薄暗く、どちらかというと不気味であった。以前の神秘的な雰囲気は死んでいる。
ダールはロウソクをもったまま、滑るように中心に立ち、くるりと振り向く。あの冴え冴えとした薄青の瞳が、モアズールを見つめていた。ダールの足元には、すでにいつでも使えるよう、香が幾つも置いてある。近づこうとするモアズールを手で制し、座るように指示する。モアズールは操られ従順に座り込むと、上目使いにじっとダールを見やる。ダールは足元の香を一つだけ選び、火種を移した。チロリと白い舌が天井へ伸び立つ。長く立ちのぼり、弧を描いて、宙へと消えていく。
ダールが呪文を唱え始めた。香の紫色の煙が、ゆらりと意思をもってくねり、彼の体を包んだ。そして、すっかり霞の晴れるころには、そこに赤毛の女が超然として立っていた。思わずモアズールは声を上げそうになる。寸でのところで口を押さえ、そして、すべてを理解した。今までの不満、不安の源の在り処を悟る。納得し、そして間もなく落胆した。いや、長いと思われる一瞬の間に、彼は呆然としていた。その感情には絶望が潜んでいる。彼は口にやった手を外すこともできず、今度はそれを絶望のうめきを防ぐために用いざるを得なかった。 赤毛の女が傲然とした面持ちで、モアズールを見下ろす。その目には何の遺憾も込められてはいない。冷ややかな炎を灯しているだけだ。 モアズールは言葉もなく、彼女を見つめていた。心は渇望と畏怖でわなないている。差し伸べるように、床についた手をじりじりと前へ延ばしていく。ぶるぶると身体が震えている。耳たぶが熱に焼け、火照っている。彼は、神ではなく、一人の悩ましい女を見る目付きで、水鳥の精霊をねめた。
時は容赦なく過ぎていく。女は無感情な声で言う。
「何用でわしをここへ呼んだ……モアズールよ」
モアズールはここで改めて、自分の最初の目的を思い出した。しかし、答えはすでに目の前にあり、彼にはもはや問うべき質問がないように思えた。
「水鳥の精霊よ……わたしは悩まされているのでございます。わたしには付きまとう影があるのでございます」
ふいに赤毛の女が人間ぽく、小首をかしげ、じっとモアズールを見つめる。しかし、すぐに機械的に元に戻り、哀れむように眉をしかめて言った。
「忘れるのだ。哀れな王よ。その一切を闇に葬れ」
モアズールは息を飲み、眉を寄せ、精霊を見つめる。冷笑に口許を歪め、
「あい、承知いたしまする」
と深々と拝す。
彼は納得する。納得するより、他にないのだ。
再び顔を起こすと、そこには赤い瞳とは対照的な青い瞳があった。
「王様、お腰をお上げくださいませ。ご託宣はお役に立ちましたでしょうか」
モアズールは、じっとダールの顔を見つめる。
これがなぜああなるのか、不思議でならなかった。美しい男だからか? なぜ、あんなにも妖艶な女の顔になるのか……目元も口許も取り立てて似ているというわけではない。ただ印象的なのは、氷のように冷え切った瞳だけ。
男に関する一切が滑稽な欺瞞に思え、モアズールは眉をしかめる。
「充分に……」
しかし、彼の心中はその反対であり、しきりに目前のシャマンの顔から、あの女の顔のかけらをひとつでも見つけようと懸命になっていた。無駄な努力とは分かっていたが、やらずにはおられなかった。彼は失望に眉をしかめ、やり場のない怒りを込めて、ダールをにらみつける。
ダールの方は怪訝そうに眉を寄せたが、気に止めまいと目をそらした。
「また、ご助言の必要なときがございましたら、ご不自由ではございましょうが、いつでもお越しくださいませ。私は随時ここにおりまするので」
モアズールは、もはや自分の気を引くものを、何ひとつ持ち合わせていないシャマンに、あっさりと背を向け、神殿を去った。
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