第10話

 モアズールは自分でも滑稽で愚かだとは思ったが、何より無難だと、シアンに向かい、「シアン、赤毛に染めてみてはどうか」と頼んでみた。もちろん、同衾しているときに。

柔らかな布地に埋もれて、シアンはその長いまつげを透かせて、上目使いにモアズールを見つめる。天上にも昇り詰めそうな焦点の合わない目をして、甘ったるい声を軽やかに転がしながら、「なぜ?」と問うた。

 モアズールは慎重に、ゆっくりと、性急にならぬように、シアンの長く波打つ栗色の美しい髪の一房を取り、口元に当て、「聖なる色だ……王妃にふさわしい……何よりわたしの好きな色だ」と、丁寧にキスをしながら、彼女を見つめる。彼の胸にすがり抱きつく彼女は、悩むふりをして、焦らすように何度も、「どうしようかしら……」とかわいらしくうなってみせた。結局、この従順な新妻が何と答えるか、彼には分かっていた。しかし、「お願いだから……」と哀願する声で、彼女の髪を愛撫しながらつぶやく。気持ち良さそうに、妻は軽くため息をつく。胸の中の愛らしい生き物は、彼のことを心から愛して、満足しているようだった。

「よろしいですわ……あなたの喜ぶことなら、何でも……」

 我が子に甘い母親に似た仕草で、シアンはうなずく。モアズールの「うれしいよ」という言葉を、心から信じて。

 無邪気な、子猫そっくりの妻を手玉に取り、モアズールは満足げに笑顔を作る。これから先、何十年と続くだろう沈黙される欲望、裏切りの最初の成功に、得意げな顔をしてみせる。口にさえ出さねば、だれにも気付かれずにすむ。

 翌日の夕方、朝から見かけなかった妻が、見事な赤毛となって、モアズールの部屋に訪れた。

 モアズールの胸は初めてときめいて、妻を大事そうに抱き締める。

「あ……あまり強く髪をこすらないで……とてもいい染め粉ですけれど、あなたのお手が真っ赤になってしまわれる

わ」

 モアズールは、ハッとして手を離す。幸い手に色は移らなかった。心が少しすくみ、縮んだような感じがしただけだ。

 シアンは色香を含んだ笑みを浮かべて、モアズールを見上げる。思わず、彼はそれを真顔で受け止めてしまった。しかし、一瞬躊躇しただけで、すぐに改めて彼女を抱き締め、耳元でささやく。

「完璧だ……ただ迂闊に接吻できぬのが残念だが……」

 シアンはくすぐったそうに笑い、モアズールの胸を小さな両手で打った。

 モアズールはシアンを抱き締めたまま、冷ややかな顔を彼女の背後で忍ばせながら、「下衆な赤だ……」と心中に吐き捨てる。しかし、それでも赤い色を瞳に焼き付けてさえ入れば、あの傲慢な女は目の前にいた。見下ろし、悠然とたたずむ。水辺の紅色の水鳥のように、優雅に、あでやかに。決して、その女には手を伸ばしても近づくことはできない。今、この腕の中の小さな生き物と違い。

 幻を見る、茫然とした目付きで、妻を抱き締める。あの姿が瞳に刻印されていたとしても、この手に触れている女の身体が、遠く隔たったあの身体とは全く違うものであることは明白であった。それとも同じものなのか。あの女にも卵に似た白く丸い膨らみがあるのか。うぶ毛立つ滑らかなうなじがあるのか。深くくぼんだ鎖骨があるのか。絡み付く蛇のような四肢があるのか……何もないように思え、しかし、確実にあの紅衣の下には、すべてが完璧に備わっているように思える。ただ、この手に触れられぬだけで。

 知りたかった。切望している。胸が高鳴るほどに、モアズールの目を、ただ一つのことで満足させようと渇望していた。絞り出すようなため息をつき、代わりに妻を強く抱き締める。鼻先を赤く、道化のように染めながら、染め粉の匂いが紛々たる髪に顔を埋める。

「愛している……」

「愛しておりますわ……」

 シアンは小さく答える。まだ妻は気付かない。夫の言葉が、自分に向けられたものでないことを。

 王座についてから、二度目の六日周期の満月の晩、神託を受けることが国王の義務であった。

 あの姿は、まだ目に新しい。モアズールは怖じけづきそうになるが、楽しみでもあった。

 何歩か行けば彼女と目向かうことができる、短い距離が、心底煩わしく思える。

 赤毛の女に会うまでの五日間は、妻が何も知らず、無邪気にその役を演じてくれていた。

 滑稽な慰め。赤い服、赤い髪に覆われた、萎縮した哀れな女は、日に日に道化じみていく。モアズールは、限界線ぎりぎりまで我慢している。しまいには腹立たしく感じ始めたが、妻に対してなのか、自分に対してなのか、彼には見当もつかない。妻の赤い服をやめさせ、青や緑に変えさせたけれども、どうしようもない失望だけが、彼に残されるだけ。赤だろうが青だろうが、何の慰めにもなりはしないのだ。

 シアンは短気になった夫に、どう対応してよいやら分からず、彼の言いなりになって、染め粉を洗い流して元の栗毛に戻したり、また染め直したりした。それでも、自分に集中力を無くした夫を責めはしなかった。いや、邪険になり出した夫の構い方が、全く分からなかっただけだ。しかも、彼女は忘れかけていた初夜の夫の落胆の顔を哀れにも思い出し、不安に駆られ始めていた。

 モアズールは、どうにもならぬ焦燥とする胸中の思いの処理に、ほとほと手を焼いた。馬鹿馬鹿しく思うが、手探りにその思いから逃れる方法を見つけたく、妻の言いなりをいいことに着せ替え人形のように扱った。

 水鳥の女は幻なのだ。手には入らない。じりじりと尻からあぶられるような思いがする。魂が少しづつ削られて、いつかはくぼんでしまう。夜は冴え冴えとして眠れず、火照ってくる情感に耐え切れず、代わりに妻を抱くけれど、えぐれるような失望が心を支配するだけだった。突き放そうとすればするほど、忘れようとすればするほど、そのことが絡み付く蔦となって心も肉体もがんじがらめにしていく。

 夜中、モアズールは、頭や内臓の中を長く薄気味悪いものが、蠕動しながら心臓の辺りを中心に蠢いていると感じ、大きく身もだえ、うなり声を上げた。

「いかがなれたのでございますか?」

 隣に眠るシアンが驚いて目を覚まし、モアズールを見つめた。

「何でもない……何でもない……気に致すな……」

 我知らず、涙が込み上げてくる。気が狂ってしまったのか。モアズールは煩悶しながら考える。小虫がざわざわと、背中と胃の腑に巣くっている。

 悪霊に取り憑かれたのか。妻をどうしても愛せず、なぜ、あのような幻の女、男の化身する女にこんなにも悩まされるのか。憎々しい思いが、舌のうえにのしかかってくる。ざらりとしたまずい感触。

 忘れてしまえ……今度こそ……明日こそは妻を愛し、こんな苦い思いに身を焦がさずにおれるようになるのだ。

 しかし、涙は止まらない。低く、獣のようにうなり続けるだけ。   

 夜が明け、白々と朝日がカーテンの透き間から差し込む。モアズールは飢えた獣のように起き上がった。

 何も変えることはできなかった。

 心が空虚に蝕まれているというのに、膿みと同じ匂いの渇望でびっちりと満たされている。胸焼けがし、臓物がむかつく。体の中に鈍重な何かが、ぎっしりと詰まっている。

 喉をつくものに、モアズールは急いで水たらいに駆け寄り、したたか吐き出した。昨夜、口にしたものが原形を留めず、だらりと水面に浮かぶ。目の前に鈍い光を放つ銅鏡が置いてあった。彼にはそれを覗き込む勇気がなかった。腰の辺りを申し訳程度に隠している布の端で、彼は口を拭う。

 なぜ、自分がこんな思いをしなければならないのか。

 腹立たしさと困惑に、モアズールは身震いする。かせにつながれた獣のように。

 自分は今どのような顔をしているのか、多分醜く歪んでいる。醜悪な、自分にふさわしくない、ただれ切ったものに支配されているのだから。

 妻は目覚め、鏡台の前に立つ夫の姿に気付く。逆光に夫の顔は暗く沈み、その表情と顔色は伺えない。

「あなた……? モアズール……?」

 モアズールは悪夢から覚め、ハッとしてシアンの方を振り向いた。

 シアンは何やら尋常でないのに気付き、ベッドから降り、モアズールに近寄る。彼の顔をもっとよく見るために、彼女は彼を朝日の下に導くように立たせた。

 驚きの声が漏れる。哀れむ瞳でシアンは夫を見つめ、その顔に触れる。

 土色の肌。一夜にして落ち窪み、ぎらぎらと光る双眼。かさついた唇。病に冒されたような。

「昨夜から……いえ……ここのところ、王様は何かご様子がよろしくおありではございませんでしたわ……何か思い煩われることがございましたら、わたくしに打ち明けてくださいませ。王様の微力にでもなることができましたら……」

 モアズールは苦々しげに顔を歪め、彼女の言葉が全く無意味に思えた。

「いや、何でもない。お前には一切関係のないことだ。すぐによくなる……気に致すな」

「でも……」

 シアンは不安げに眉を寄せる。納得できないふうにモアズールから離れ、侍従を呼ぶ。あれこれ指示すると、また夫の元に寄り、

「さ……もう一度、お眠りあそばせ。今、薬師をお呼び致しましたわ」

 モアズールは思わずカッとなり、「勝手なことをするなと申したではないか……!! 病などではないわっ! お前は妃のくせに、わたしの申すことがきけぬのか!」

 怒鳴りつけると、なぜか胸の曇りが晴れた。一晩寝付けなかったせいか、興奮にこめかみが鈍く痛みだした。調子づき、モアズールは水たらいを払う。銅鏡を窓に向けて放り、布団をはぎとり、壁に投げ付けた。

「むしゃくしゃとするだけだ! 気晴らしでもすれば、こんなことはもう二度とするまいよ」

 確かに何となく、心の内は晴れ出した。駆けつけた薬師を追い出し、妻に詰め寄る。

「わたしのことはわたしがよく分かっておる。お前が差し出がましく動き回ることなど、何ひとつないのだ。シアン……お前はわたしの言うとおりにしておればよい」

 シアンの頬は真っ赤に染まり、戸惑いはもはや怒りに変わっていた。夫を気遣い、その世話をすると、幼いうちから叩き込まれた習慣の信念が、彼女の舌をつき動かした。

「なぜ差し出がましいのでございましょう! あなたのお心の支えになれるように気遣うのは、妻の努めでございましょう? それなのに、なぜ、退けたりなさいますの? わたくしはあなたのことが心配でならないだけですわ!」

 モアズールは、初めて妻の強情を目の当たりにし、一瞬躊躇したが、すぐさま腕を振り上げ、シアンの頬を打った。彼女はうずくまり、生まれて初めての暴力を前にして屈服してしまう。モアズールの手が彼女の頬を弾いたとたん、彼女の妻としての信念はいとも簡単に破裂した。

 嗚咽する妻を見下ろし、モアズールは不快感に舌打ちする。ぶつつもりはなかったのだ。しかし、足元の愛憐すべき小さな生き物は、矮小した獣に変化していた。憐憫さえも胸に沸き起こらず、ただ煩わしいだけであった。

 妻は侍従につき添われ、部屋から出て行った。

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