第18話
モアズールは朝から気分が優れないまま、政務を行っていた。もうすぐ陽が沈む。一日の仕事も終わりである。ずっと吐き気が込み上げ、胸一杯に藁でも飲み込んだのか、心が重たく、悶悶としている。苛立ち、何かを絞め殺したい衝動に何度駆られたことか。目の前にいる人間すべてを切り伏せてしまいたい。辱めてしまいたい。そんな妄想に知らぬ間に取り付かれ、何度もハッとして我に返る。まるで、白昼夢を見ているように、忘我してしまう。心はあらぬ所をさまよい、なぜかいつもいつもいつも、あの神殿のほうへと思いは移ろっていく。想像は膨らんでいく。しかし、幻の産物であっても、やはりあの女は自分を拒絶し、「あっちへいけ」と怒鳴りつけてくる。女の無情さは心に染みて、ひりひりと痛い。それもこれもシャマンのせいなのだ。あの男を奈落へ突き落とせたら……うっとりとモアズールは夢想に励む。
正面に拝し、政情について口述している家臣たちには聞いている素振りを見せても、実際には全く彼らに注意を注いではいなかった。
モアズールは、空想の中でダールを呼ぶ。一番の辱めを、恥辱を奴に味わせてやるのだ。自分の眼球が汚濁し、ギラギラと欲望に照り返っているような気がした。なんとリアルな幻影か。哀れな小羊は甘言に騙され、モアズールの罠にかかった。彼は歓喜して、ダールに飛び掛かる。あの男の愕然とした顔。あの夜の自分と同様に、叫びたくとも声が出ない。自分の肉体が、沼の水となって自由自在にダールを覆っていく。気取ったあの男、人を小馬鹿にした目のあの男の体に、醜くねじれた男根を無数につき立てていくのだ。立ち直れない屈辱をもたらし、男としての誇りをもぎ取ってしまえ。想像の中の男が溺れ行く子供のように口だけをぱくぱくとさせて、モアズールの体の中に落ち窪んでいく。
「王様」
ハッとして我に返る。
「何だ?」
家臣がいつになく深刻な顔をして、ひざまずき、その後ろにみすぼらしい男を従えている。
「何だ、申してみよ」
家臣は、ちらりと背後の男を見やり、「この男の申すには、あの……」と口ごもり、言いにくそうに口元を歪める。
「神殿の食事係でございまして……夕方にこの男がいつも通り、食べ物などを神殿へ持っていくと……」
家臣は祓いの呪文を唱え、
「見たそうなのでございます。あの……ババエル……」
「ギャッ」とも「ゲッ」ともつかぬ叫び声が上がり、呪文を唱えるために、一瞬辺りはざわめいた。
モアズールは、心臓に冷や水を掛けられたように感じた。唾を飲み込み、「何だと……?」とつぶやいた。
「あの……中へ今にも入ろうとしていたと……」
モアズールの口元が、ピクピクと痙攣する。それを止めようと、口元を手で押さえる。体温が下がっていく。血の気が引いていく。舌がもつれて、うまく回らない。
「あ、あ……そ、それで……?」
「いえ……それだけなのでございます」
「ハッ……」
モアズールは短く笑う。しかし、だれも気付かなかった。笑い出したい衝動をこらえ、ゆっくりと彼は確信を覚えつつ、言った。
「ならば……分かり切ったことではないか……おまえたちは今すぐにシャマンを捕縛しに行くのだ」
一同は躊躇する。互いに顔を見合わせ、行動に移しがたいのか、ひざまずいたままでいる。
「行け!」
モアズールは叫んだ。腕を出口へと延ばし、命令した。
警護の者たちが飛び上がり、慌てて一斉に出て行く。つられて一同も立ち上がるが、退出していったのは国王の補佐たちだけであった。気まずそうに、一同はまたひざまずき、王の次の意向を求めるつもりなのか、じっとモアズールを見上げる。
「……これで終わりだ……」
モアズールはつぶやき、立ち上がる。皆は深く拝し、彼の出ていくのを待った。
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