第22話

 夜が、水鳥の女に力を与えている。太陽はすでに没し、月が昇り、昼間の威光を滅ぼしている。

 辺りに霧は深まり、幽鬼のような木立が並んでいる。月の雫が、木々の梢を濡らし、まるで金剛石めききらめかせている。月光がすべてを玻璃に変化させ、深く淀んだ闇の中へ沈み込ませる。死がそのまま彫り刻まれ、辺りの現象は硬い石となって息絶えている。あらゆるものが作りものじみて動きをなくし、微光を帯びた精霊だけが昼間の束縛から抜け出し、煙霧に霞んだ空の足元を飛び回っている。

 天上から無数のリボンが垂れ、ひらひらと風になびき、地上とつながっている。銀色の蜘蛛が糸を張り、星の戯言を摘むんでいる。すべてが虚無で、幻めいた霞。手につかめない、現実。

 紅衣の女は沼にたたずんでいる。背後には強固な壁がそびえ、月が吸い込まれそうに沼の水面に浮かんでいる。黒々としたぬめりを見せる沼の水が、腹立たしげにゲップをする。

 ダールは精霊の力を借りて、老師の体を沼から引き上げた。骸は醜く膨れ上がり、邪悪にはちきれていた。封じ込められた黒い影が、呪いを込めて嵐そのもの、その小さな骸の中で暴れ回っている。岸辺に死体を寄せ、精霊が香の代わりに月光で印を結んでいく。結界は作られ、その中でダールは喉の奥でうなった。

「契約を求める。お前には報酬を与えよう。死の力をお前に与える」

 蝿の羽音が、遺骸の中から響いた。邪悪な無数の波動。ダールはゼリー状の骸の胸の封印を、枝の先で潰して解き放った。

 何万もの、漆黒よりもなお黒い蝿の群れが、その骸から飛び出した。しかし、結界の中に封じ込められ、罵りながら

うなり始める。羽虫の蠕動が気違いじみて、「契約を受ける。契約は絶対だ」と繰り返している。

「行け!」


 ダールは、絶大な壁の向こうを指さして、封印を切った。

 黒い染みは、疫神じみ、飢えた獣になり、犠牲を求めて城へ向かって消えて行った。

 水鳥の女はダールから離れ、壁のうえに座っている。悲しげに眉を寄せて。

 ダールは彼女を見上げた。天から降る銀の垂れ幕につかまって、彼女はそのままどこかへ行ってしまいそうだった。彼女の感情をそのまま受け止めて、彼は弱々しく微笑んだ。

 呪いは行使された。その結果、何が起こるのか知り尽くしている。以前思い止どまり、そして、今は覚悟のうえだった。

 いつの間にか、しっかりと両足で立っていた。引き千切られた組紐の代わりに、農夫のくれた胸元の開いた粗末な衣服を身に着けて。彼には茫洋と希望のない未来が見えていた。彼女の自分に伝えてくる未来のビジョンが、水面に浮かぶ自分の姿と同じに、ありありと。彼は目の前に続く道を眺め、依然彼のそばから離れない精霊に微笑みかけた。

 慰めを求めて、モアズールは未熟な娘の胸に顔を埋めた。しこりのある乳房が、弾力のある丘のようにたわんでいる。初めてこの手でまさぐった青い果実が、たわわに実り始めていた。赤毛の娘は、あやすように彼の髪を弄んた。彼は娘の胸を、無骨な手のひらで押しつぶし、戯れた。

「だめ……」

 今日に限って娘が、彼の手を止めた。

「とても、痛いから……」

「なぜだ……?」

 以前ならそのようなことは言わなかった。モアズールは怪訝そうに目を細めて、娘の顔を見つめた。そばかすの浮かんだ小娘は、大きな鳶色の瞳を戸惑うように細めて、媚びるようにささやいた。

「モアズール様……わたくしは黙っております。決して……他言致しません。この子を産ませてくださいませ」

 モアズールは目を見開いた。さきほどから耳鳴りがする。

「なに?」

 ためらいながら、娘は微笑んだ。

「モアズール様の御子が、この中に」と、彼の手を自分の腹にあてがった。

 モアズールはじっと娘の腹を見た。蛙の腹そっくりの白い腹部。そして、娘の顔を見た。

「だめだ」

 彼は飛びのいた。ベッドの端にずりより、娘に言った。娘の言葉におびえて退いた。

「だめだ……産むな……堕ろせ」

 モアズールは頭を振りながら、よたよたと壁際まで後ずさった。

「でも……」

 娘は悲痛な表情で訴えた。

「でも……お妃様はよろしいと……」

 その言葉にモアズールの顔が歪んだ。真横の鏡台を力まかせに殴りつけた。ものすごい音を立てて、鏡が落ちた。

「妃が許したら、わたしの言うことはきけんのか!?」

 娘の顔が懍慄として引き攣った。シーツをつかみ、責め立てられた子供のように小さくなった。

「……申し訳ございません! 申し訳ございません!」

「わたしではなく……妃の言うことならきくのか!? ここに来たときのように、わたしの好みも聞かず、売女のように、股を広げて?」

 モアズールはベッドに上がり、娘ににじり寄った。

 先程から、耳障りな音がする。無数の蝿が腐肉に群がり、争い、舐め尽くす羽音。何に群がっているのか。彼は意識してその音から心を反らした。

 心臓が弾み興奮してくる。炎が燃え移り、腕があぶられ、熱に浮かされている。力が怒りとなり、取り憑いて、衝動に変わった。

 娘の赤い髪をむんずとつかみ、

「赤毛だと……?」

 歯軋りしてうなった。娘が糸のような悲鳴を漏らした。彼はそのか

細く、水鳥の喉に似た首に手をかけた。指先に力を込めていく。娘が瞳を涙で濡らし、許しを請うて口を開けた。彼の腕を両手でつかみ、助けてという形に唇を動かしていた。しかし、喉元を痙攣させ、次第に瞼を閉じていき、彼の腕に鋭く爪を立てて息絶えた。

 モアズールは、娘の抵抗がなくなっても、なお馬乗りになって首を絞め続けていたが、ハッと我に返り、手を離した。

 驚愕して彼女を見、自分の血のにじんだ腕を見た。

 彼女の頬を軽くたたき、その名をささやいたが、娘は目を開かなかった。その白い首に、くっきりと赤く指の跡が浮かんでいた。

 モアズールは困惑して、両手に顔を埋めた。自分は何をしたのだ。混乱している。訳が分からない。一体どうして……? 殺すつもりなどなかった。ただ……ほんの少し脅すつもりだっただけだ。

 モアズールは不安げな子供のようにシーツにくるまり、娘を見やった。苦悶に眉を歪めた娘を見て、老父の死に顔が脳裏をよぎる。とっさに口に手を当てた。目頭が熱い。どうして、こんなことに? 

 そのとき扉が遠慮げにたたかれた。

 モアズールは仰天し、扉を見つめた。とっさに娘の体のうえにシーツを被せ、「何だ?」と怒鳴り返した。

「あの……物音が」

 疑うことを知らないこの侍従はモアズールのところにシアンが来ているものと信じ続けている。

「大事ない……あっちへ行ってくれ」

 そして、自分の下に横たわる娘を見、モアズールは嗚咽を上げた。確かに、気に入らなかった。しかし、殺すほどではなかった。ただ、自分の子を産んでもらいたくなかったのだ。もしも、赤毛の子供が生まれでもしたら……? 自分はどうなってしまうのだ。悪夢そのものだと思ったのだ。

 このまま、ここに置いておく訳には行かない。モアズールは考えあぐねた。死体を隠す場所などない。人目につかない場所に捨てるしかないのだ。

 モアズールは女に服を着せ、ベールを被せ、シーツを羽織らせた。自分も薄着を身につけ、娘を抱き抱えて扉を開けた。

 侍従が心配そうに寄って来て、シーツに包まれた"王妃"を覗き込み、たずねた。

「シアンが気分が悪いそうなのだ……後宮まで連れて行く。ここに残っておれ」

 モアズールは娘の体を抱え上げ、後宮の前を通り過ぎ、警戒しながら、神殿へ続く裏庭へ出た。神殿の裏には、沼がある。そこに、これを捨てるのだ。

 彼はただ地面だけに目をやり、急いで神殿の前を擦り抜けて行った。神殿を見たくなかった。

 暗い壁に接した神殿の裏に回る。実際にここに来たのは、これで二度目だった。あのときから、自分の運命は急変したのだ。壁に壊れそうな木の門が取り付けてある。モアズールはそこをくぐり、外に出た。

 霧が辺りを包んでいる。不吉に影が歪んでいる。霧の狭間から見える月が、悪夢の目玉のようにモアズールを見下

ろしていた。

 沼の岸辺ににじり寄っていった。強い刺激臭が鼻腔に突き刺さり涙がにじむ。モアズールは眉をしかめて、むせた。

足元の水面に、人間らしき醜い塊が浮かんでいる。彼は驚いて叫んだ。しかし、崩れた骸に気を取られている暇はない。娘を降ろすと、その服の中に手当たりしだいに石を詰め込んだ。そして、石で重たくなった娘の身体を沼へ放り込んだ。

 水面は、杳然とどす黒く、たゆたんでいる。銀色の波紋が、幾輪も沼の縁に押し寄せては消えていく。沼の吐くため息が水泡となって、幾つか浮かんだが、やがて静まった。

 モアズールは底の知れない沼の水面を、魅入られたように見つめていた。しかし、悪夢はまだ覚めた訳ではなかった。めくるめく夢のオーロラが邪悪に染まって、一皮だけ剥けたに過ぎないのだ。

 モアズールの胃の中に、娘に詰め込んだ石が累々と詰まっている。ずっしりと重苦しく、しかも決して吐き出せない。めまいに似た苦痛が迫ってくる。腐った強い酒のように、罪が自分を悪酔いさせていく。救われない頭を抱えて、彼は城へ戻っていった。

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