第20話
一体、どれほどの時間が経ったのか。モアズールが近寄って何か言ったが、何と喋ったのか。意識は永遠に螺旋形をたどって落下していく鳥の羽根となって、取り留めもなく明滅している。モアズールが無声の道化俳優を演じ、かたかたと動き回っている。彼の手が伸びて来て、ダールの額の組み紐をぶっつりと引き千切った。
ダールはかすかにうめく。奪われてはならないものを、奪われてしまった。しかし、手足は重りにでもくくりつけられて
いるのか、微動だにしない。金縛りにかかったように、床に寝転がっているだけだった。
朦朧としたダールを、数人の男たちが抱え上げ、地下の水牢から運び出す。
外界は、すでに黒々とした幕が掛けられ、夜霧がはびこっていた。
「星が見えるぞ」
だれかが言った。
「明日は晴れるかもしれん……」
背中が熱い。あの焼き鏝が、今度は背中に押し当てられ、ずるずると尻の辺りまで押し下げられている。
許してくれ……私が……何をしたというんだ……?
それなのに、指の先、足のつま先が、ちりちりとうずき、冷たく何も感じない。かかとが痛い。野獣が群れて、争い、自分の背中をよだれを垂らしながら我先にと、むさぼり食っている。
何という激痛。それともこれは一体、痛いという感覚なのか。熱い。太陽が八つあった太古に、今も自分が生きているよう。射て、くりぬいてしまえ。射落とすのだ。鳥よ、飛べ。飛翔し、ついばむのだ。ああ……焼け死ぬ。
ダールは目を開けようとする。まぶたに目ヤニが松ヤニのように粘って開こうとしない。薄皮が縫い付けられてでもいるのか、ぱたりと綴じられている。無理に開けようとすると、針が何本も刺し込むように痛む。涙が、汗となってとめどなく流れる。
辺りはまだ暗い。周囲はかすんでよく見えない。鼻が詰まっているのか、息がしにくい。大きく口で息を吸い込む。喉にいがらっぽく砂が舞い込み、ダールは激しく咳き込む。とたんに胸や頭に、体中に、激痛が、長い杭が刺し込まれたかと疑ってしまう痛みが、稲妻となって走り抜ける。
「おあ……あ……あ……!」
ダールは叫ぶ。喉が引き裂ける。顔を横に向ける。
「ぎゃああ!」
耳が裂けた。いや、裂けたかと思った。筋肉を引き千切るような音が、引き攣る痛みに伴ってした。
自分はどこかへ運ばれている。世界がやたらと高く、目の前にそびえる。引きずられていく。
痛覚で、ダールの体が作り上げられる。焼き鏝の背中。無数の針の刺さる手足。腹部に食い込む鋭い杭。王水を流し込まれた喉。生皮をはがされた頭。ヤスリで削られた頬。
「あああ……!」
かすれた喉から、悲鳴が漏れる。
私は一体どうなってしまうんだ!?
馬の高らかな蹄の音。どこまでも、いつまでも、鳴り響く。いつか、ダールの頭がい骨を蹴り割ってしまうまでか。肉のかけらになるまで走り続けるのか。そういうことなのか。
涙で目がはっきりと見開かれる。
まだ明けやらぬ、しののめの雲。黒い梢が滝の流れとなり、素早く足元のほうへと移り変わっていく。何も、何も見えない。あのにぎやかな、はでやかな夜の風景は、今やそこにはない。ダールは水鳥の女を呼ぶ。言葉にはならない。悲痛な叫びが、空へと伸び上がっていく。
だれもやって来ない。彼の回りでは、痛みが群れをなして歓迎の宴を催している。隠れ鬼の鬼を決めるときのように取り囲み、にやにやにやけて迫り来る。「お前が鬼だ、食われろ、次に」
ダールは絶叫する。
馬はやがて止まった。
しかし、ダールの痛みはとどまるところを知らない。むしろ、あのまま走り続けていてくれた方がましだった。次から次へと生まれくる痛みが、新しく生まれる痛みを鈍くしていてくれたから。
体を縮ませて、痛みから身を守る動作さえ、新たな苦痛を生むに過ぎない。ただの死体、土のうえにずた袋のように転がっているだけ。
黒頭巾の男が、頭上に立ちそびえる。汚らわしい死骸をあしらうように、ダールの体を足で蹴る。そして、肩から腕に堅く結わえつけられていた縄を外す。嘲笑も何の感情も、その男はダールに加えず、また馬に乗り、今までの道程を引き返して行った。
二重にぶれる夜明前の光の穴が、ちかちかと空に瞬いている。ただ、素直に明滅し、いつものリボンめいた戯言の羅列を地上に振り撒くことはなかった。天から落ちて来る何千本もの白いリボン。今は、もう見えない。
半眼で、ぼんやりと空を見つめる。眼球だけは無事だ。目玉だけが、別の生き物となって、ダールの中に存在している。ぐるりと瞳を巡らす。ずっと昔、シャマンではなかったころ、暗闇にざわめく木々が恐ろしかった。黒く茂る森の木陰を気味悪く思った。まさに、今がそうだ。ひたすら、光景は灰色に沈み、巨大な化け物じみて、ダールを上から見下ろしている。
夜が、こんなに畏怖する存在だったなんて……自分は忘れていた。
ダールの乾いた瞳に、泉のような涙が沸き出る。涙が傷に染みる。しかし、とめようがない。
誇りと自信が、自分から逃げ出した。「お前が鬼だ、食われろ、次に」転び惑う自分に、もはや彼らを捕まえることは不可能だ。幻のようにするりと腕の中から擦り抜け、かすみに変わって消え去ってしまった。
「おおっ……」
壊れた人形のように、ダールは身じろぎもせずにうなる。理不尽は、ステップを踏みながら迫まり来る。心はぐるぐるに縛り付けられ、彼の虜にされてしまった。
「おお……」
堰を切ったようにダールは吠える。冷たく引き千切られた恋人の代わりに、さらに残酷な悪女が彼に微笑みかける。
彼には防ぎようがない。なぜなら、冷たい恋人は殺されて、今は土の下。掘り返そうとする土のうえに、その女が座っ
ている。誇りも自信も取り戻せない。呪わしい絶望が、誇りの代わりに彼の相手を務める。
「おおお……」
絶望という禿げ鷹が自分の腐肉をついばんでいる。彼の心臓をどこへ持ち去ろうとしているのか。はい上がることのできない奈落の底にか?
「おお……私は……」
禿げ鷹が驚いて、深遠に舞い去った。心臓は取り落とされ、転がった。それを拾う者がいる。
「決……して……許さ……ん……ぞ……!」
ダールの似姿の、彼ではない者。憎悪に瞳が燃えている。
ようやく、曉光がチロチロと林の梢に火を灯す。景色は暖かさをもって、彩られ始めた。死から生へ輪転するように、世界が産声を上げる。朝日がゆっくりとオーロラのように、凍てついた景色を溶かしていく。徐々にその光がダールをも覆い尽くしていく。彼は身じろぎもしない。肌にバラ色の光が注がれるが、彼の顔色が蒼白なのを、ますます際立たせただけだった。サーモンピンクの光線が瞳に差し込むが、行き着く前にバリバリと音を立て砕け散った。顔よりも、なお青白く冴え渡る薄氷の瞳が、すべてを凍らせてしまう眼光を放っている。夜の切迫した蒼い暗闇が、激しく柔らかい朝の濃い桃色にせめぎよせられ、片より、包み込まれ、しかし、その色の女を求め、切望している彼の闇く冷たい心にまでは届かなかった。
遠く、山羊のけたたましく鳴く声がする。ガランガランと、おそらく首につけられた鐘が、重たく鳴り響いている。近づいて来る。ダールは、まるで屠られた死体のように横たわっている。身体はしんしんと冷えていたが、素肌に当たる太陽の熱が、じりじりとむず痒い。
山羊を追う声がする。地面から、細かく砂利を踏みにじる蹄の音。一瞬のうちに、ダールはやかましく鳴き叫び、容赦なく粘っこい唇を寄せてくる好奇心たちに取り囲まれた。山羊はその堅い額をこてにして、彼の体を所かまわず圧しまくる。
「うああ……」
彼は疲れ切ったうめき声を漏らす。すぐそばで山羊飼いの少年の声がする。興味深げに近寄って来たかと思うと、まるで鬼か蛇でも見たような声を上げ、「しーっ、しーっ」と山羊を蹴散らし、ダールから足早に離れて行った。それどころか、石がまばらに飛んで来て、彼の身体にちかちかと跳ね返る。少年は、道の真ん中に疫病者じみて横たわる彼をよそへやるために、必死で石つぶてを繰り出しているのだ。
ダールは非難の声も出せず、糸が切れたように動かない体を、岩よりも重たく感じた。苦痛は、すでに彼の朦朧とした世界を徘徊している。まるで住み家のない異界の隠者そのもの、カンテラを持って暗闇の中をさまよい歩く。肉から根毛が生じ、地面に張り付く。ただ、ひたすらに睡魔が襲って来る。フッと気を失い、ハッと目が覚める。朝が何度やって来たのか、夜が何度去って行ったのか。山羊飼いの少年が来たきり、あれから一度も人が通りがからない。
もしかすると、自分はもう死んでしまっているのかもしれない。じゅくじゅくと糜爛した肉体が原形をとどめず、ここに転がっていることさえ、自分は気付かずにいるだけなのかもしれない。烏がやって来て、魂呼びの声を上げる。さぁ、ついばんで、むしり取り、私の魂を天へ飛ばしておくれ……それなのに……いつまでも視界は低く、背に張り付く地面の冷たさが、五臓六腑を凍えさせていく。
一滴の雨も降らず、唇がまるで干物のように乾いていく。口の中の舌が、異物となって次第に膨張していく。いつしか、ダールは乾きと飢えを感じ始めていた。何でもいい。口に入れば何でも食べる。乾き切った口の中で、肥大した舌が、痛みを伴う唯一の食べ物だと思えてきた。一噛みするだけで、飢えは満たされるのではないか。
つと、何かが寄って来る。長い影がダールの顔にかかる。ひょこひょこと上下する。紅い羽毛がけばだっているのが視界に入る。まるで、爛熟の果実の色の紅鳥が、片足をゆっくりと上げ下ろし、彼の回りをぐるりと巡る。そして、ひょいと彼の胸のうえに乗り、くちばしを彼の口元に寄せ、ぐいぐいと歯の間へ押し入れた。力なく、彼はそのくちばしを受け入れる。
びしゃりと、腐った臭いのするものが、口の中に広がった。生臭い魚の異臭が、くらくらと鼻につく。しかし、ダールの喉は、意志とは反対にその液体を飲み下す。じんわりと胃に広がっていく飢えが、次の食べ物を欲しがり始めた。すでに臭いも味も関係ない。流し込まれるまま、嚥下する。彼の口の回りには、茶色いのか灰色なのか、ねっとりとした糊状のものがこびりつき、乾き始めていた。込み上げてくる吐き気を、深く息を吸い込んで押さえる。水鳥はゆっくりと彼から離れると、風をバサリとかき切って、空へ飛び立った。
それから、何度も間を置いて水鳥はやって来ては、雛に消化した食べ物をやるように、ダールに自分の嘔吐物を与え続けた。しばらくすると、彼は頭を起こせるようになり、傷口は酷く膿む前に死ぬほどかゆくなった。彼はどちらかと言うと、痛みよりもかゆみのほうに我慢ができず、一睡もできぬまま目をらんらんとさせていたこともあった。
腕が上がるようになると、ダールは体の向きを変えた。背中が石みたく固まって、曲げようとすると骨が折れたような激痛が走る。かかとや腰骨の辺りの皮膚がずるりとむけ、じくじくと痛む。それでもどうにかして、彼は石や岩の砂利道からはずれ、わきに広がる林と草地に寝転びたかった。長い時間をかけて身体を引きずり、ようやく右手が柔らかな草地をつかんだ。安心し、どっと疲れが押し寄せ、彼は気を失うように眠りに落ちた。
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