8月31日「夏休み」
ぱたぱたぱた。陽一郎はうつらうつらしつつ、足音を聞く。
この足音は志乃だ。陽大はほとんど足音がしない。美樹はせわしない。晃は優しい。亜香理なら足音が軽い。
陽一郎はタオルケットを被り直す。んー、と唸りつつ。
バイト生活は相変わらず続いている。結局、陽一郎はこういう不器用なやり方しかできない。援助をたくさんの人から受けている。それを実感する。自分は一人じゃない。それを思い知らされた。一人で無闇に無計画に走っても、何も結果は生まない。そんな事は分かっていたが、そうするしかできなかった。
自己満足か。タオルケットに体をくるみながら思う。
夏休み、あっと言う間だったなぁ、と思う。
眠い……このままずっと眠っていたい。でも、もう少ししたらまた熱くなる。蝉は相変わらず騒がしいが、賑やかさはじょじょに消えている。この声は命だ。命が消えていく、という事。楠の爺さんがそんな事を言っていたのを思い出す。
だから、陽一郎君?
ニコニコと笑って楠は言った。向日葵庭園に水を与えながら。隣で、志乃が手伝いをしながら。華にかき氷を勧められながら。
「精一杯、叫ぶだけなんですよ。私もそうしてきましたから」
陽一郎はコクリと頷く。
「叫ぶ事と怒鳴る事は違うわよ」
華は釘を刺した。志乃は可笑しそうに笑う。
「嫁さんの言う通り。叫ぶと怒鳴るは違う。活きると生きるも違う。走ると奔るも違う」
「ええ」
かき氷が頭に冷たく響く。陽一郎はこめかみを抑えた。志乃がクスクス笑う。そっと志乃が、陽一郎の元に歩きよって、その額を撫でる。小声で、ゆっくり食べればいいのに、と笑いながら。
「だからまぁ、何が言いたいのかと言うと、ですね」
蝉の声が止まった。一瞬。それは気のせいだったんだろうか。
「陽さんの分まで、幸せになって欲しいと言う事なんですよ」
にっこりと笑って楠は言う。華は何も言わない。陽一郎はコクリと頷いた。かき氷を食べる。幸せになって、とたくさんの人に言われる。だが、楠のこの言葉は何より重いと思った。志乃の父だって、照も、熊五郎にも、そして北村にも吉崎にも優理にも言われた。幸せになれ、と。でも、その幸せそのものが分からない。なにが幸せなのか。ただ志乃と居ると嬉しい。安心する。ほっとする。この温度を逃がしたくない。離したくないと切実にそう思う。
それが幸せなのよ。華は笑った。陽一郎はぽかんと口を開けた。父も母も同じ事を言うかも知れない。でも、欲張りすぎは駄目よ、華は笑う。陽一郎はもう一度頷いた。欲張りすぎなのかもしれない。今の自分には。こんなにもたくさんの人に支えられて。
自分は幸せだ。間違いなく。夢うつつに思う。
夏休みも今日で終わり。
あっけなかったなぁ、と。
早かったなぁ、と。
それでいて、大変だったなぁ、と。色々な事がおきた。色々な人がいた。泣いたり怒ったり笑ったり。たくさんの言葉を交わした。日記にでもつけておけば良かった。陽一郎は笑う。きっと亜香里ならつけているのかもしれない。強く目を閉じて、深呼吸をする。
蝉の声。
蝉の声。
志乃の声。
「陽ちゃん、そろそろ起きて?」
大きな目が陽一郎を覗き込んでいた。いつの間に。うたた寝していてまるで気付かなかった。
陽一郎は背伸びをする──ふりをして志乃を抱き寄せた。
一瞬、困惑した表情。すぐにそのまま身を任せる。
汗がうっすらと滲む。まだ夏は終わってない。でも、夏は終わりかけている。陽一郎の頬と志乃の頬が重なって、イヤじゃない暖かさを感じて、陽一郎は目を閉じる。肌の温もり。汗がじわりと噴いてくるのもお構いなしに。終わりかけた夏を貪り食うように。
四十三日目
「待ってよー、陽ちゃん」
小さな体でぱたぱたと追いかけてくる。ぎしぎしと床が軋む。陽一郎と誠は溜息をついた。
「陽一郎」
誠は渋い顔で抗議をする。どうして探検に女の子を連れてくるるんだよー。そうその顔は言ってる。仕方ないじゃないか、と陽一郎も顔で反論する。付いてくるなと言ってもついてくるんだから。こればかりは陽一郎にはどうしようも無い。内緒でこっそりと準備していたはずなのだが、 陽一郎の不穏な動きを察知するのは志乃の得意技の一つだ。
かくして小学校五年生の夏休み最大の男と男の冒険は、男と男と自称お姉ちゃん(泣き虫)の冒険と相成る。
誠は溜息をつく。
「置いていかないでよー」
涙声で志乃は陽一郎に訴える。こうなれば仕方ない。誠は足を止めた。こういう展開になるのは分かっていた気はした。
志乃ならきっとそういう行動にでるだろうなぁ、とも思っていた。まぁ、仕方ない。いくらお姉さんぶっても、陽一郎が女の子は関係ないと言っても、この二人は切れないのだ。結局の所は。それを分からないのはこの二人だけだ、という説もある。
生暖かい風が髪を揺らす。気味の悪い、湿度を含んだ暑さがこの空間をより、おぞましいものに演出していた。鬱蒼と茂った林が防壁となって、光はうっすらとしか入らない。
ぎしぎし。歪む。息をする度に音がするようなそんな錯覚すら有る。
旧協同病院。星屑乃河原から三キロ程離れた場所にある。街の重度立ち入り禁止区域。前々から興味はあった。巨大病院施設だ。昭和初期級では最大級の。戦争修了とともに閉鎖された。理由は知らない。だが──志乃は息を飲む。
病室と思われる部屋のベットには、白骨死体が、今も入院中であるかのように寝ている。
陽一郎も誠も言葉にできなかった。
無音。此処には陽一郎達のたてる足音と息遣いしかない。その他のものは、昭和20年に置いてきた。
此処はそういう場所だ。
志乃の父、朝倉が小さく笑って言ったのを思い出す。
有り得ない、有り得ない。陽一郎は首を振る。志乃がぎゅっと、陽一郎の手を掴んだ。もう片方の手が陽一郎を掴む。誠だ。志乃は悲鳴を上げない。 上げられないのか? いや違う。泣き虫な志乃だけど、志乃は志乃なりに立つ事で、死者に敬意を示している。
僕らの行為は、此処にいる時点で冒涜だ。
陽一郎は頭を垂れた。
誠も志乃もそれに倣う。畏怖か? 恐怖か?
死、というものを初めて実感した夏の日は、風が乾いていて、喉をヒリヒリさせた。
自転車二台が旧協同病院へと向かう。
陽一郎の背中に志乃はしがみつき。もう一台の誠は微苦笑を浮かべつつ。
「意外に近いんだな」
陽一郎が漏らす。
「うん」
志乃は頷く。
「確かに」
誠は呟くように言った。林の獣道も昔は荒れていて自転車で走るのは無理だ、と途中で自転車を置いたのを思い出す。
道は悪い。だが、運転できない程じゃない。
むしろ、あの時は「怖い」という感情が占有していたのかもしれない。タブーを犯しに行くという感覚が。今もそれは変わらない。タブーを犯しに行くのだ。禁じられた領域を荒らしに行く。
今回は志乃も反対しなかった。
三人で一緒に──。
誠との約束を果たす場所は此処しかないような気がする。
あの時、世界は広かった。
青空が無限に続いて、この林の奥には光の届かない世界があって。片道切符かもしれない向こう側への扉があるようなそんな想像と夢想を繰り返して。
かさかさ。草を掻き分けて、鼠が飛び出した。
志乃が小さく陽一郎の腕を掴む。
やはり、と言うか──この場所は緊張を強い要る。踏み入れてはいけない場所。そう何かが警告している。
古びた病院の入り口が、とても狭く感じる。
あの時は、まるで大口を開けた大蛇のようですらあったのに。今は風化した木材と、割れた窓ガラスがあるだけ。まるで張りぼてだ。映画のセットみたい。
「陽ちゃん」
「うん?」
「ガラスで怪我しないようにね」
「はいはい」
と苦笑しながら、陽一郎は自転車から降りる。志乃もすぐに続く。ぴったりと離れまいとして。ガラスを踏み締める音が、しゃりしゃりと言う。離れれまいと離れまいと──
誠は遅れて後に続く。二人は随分と素直になった。それを実感する。陽一郎も志乃もお互いの感情を否定しなくなった。二人は二人である事を拒否していたから。お互いがお互いを必要としていた事を拒否していたから。
でも今は躊躇わずに肯定している。
離れないように、離れないように。二人自身がそれを確かめ合うように。そして思い出す。たしかあの時、あの部屋を見た後に志乃が──
「いなくなった?」
そんな馬鹿な? 陽一郎も誠も焦った。冷や汗が流れる。陽が落ちてきていた。薄暗さに闇が添加されていく。床がきしきしと言っている。神経を逆なでするように。
「志乃!」
陽一郎はありったけの声で叫んだ。こんな所に来なきゃ良かった! 今さらになってそんな事を思う。半狂乱に声を上げる。
「志乃! 志乃!!」
答えは無い。どうして? どうして? なんで志乃なんだ? 糞っっっ!
壁を叩く。腐っていたのか、めりっとイヤな音がして、拳がめり込んだ。
「落ち着けって」
誠は息を吐く。誠自身が全然気持ちが落ち着いてなんかいなのだが。唇を噛む。落ち着け、落ち着け、そう何度も言い聞かせ見る。だが、全然落ち着かない。動悸がより速度を増す。狂ってしまいそうなほど。
星屑の河原では、死者が舞い戻る。
だが、その時期以外は、取り残された人が泣く。
泣く泣く無く。何も無く──取り残されて、冬の夜。飢えた鬼と成り果て、暴風を呼ぶ。
お伽噺! お伽噺! お伽噺! お伽噺!
それは何でもないお伽噺。お伽噺! 星屑の河原の伝承。星流し。魂帰り。だが、それ以外の時期が閉鎖されている理由。生き流し。生きたまま魂は迷う。そして二度と、陽の目を見ることは無い。神主はそう子どもに説明していたのを思い出す。柔和に静かな笑みを浮かべて。子供騙しだ、そんなのは! 今は志乃を、志乃を探すんだ。
パチン。誠は自分の頬を平手打ちする。陽一郎は目を丸くした。
「こういう時こそ冷静に、ならないとね……」
小さく笑う。陽一郎は頷いた。それで二人は冷静になれた。乾いた風が相変わらず、二人の肌を撫でる。
志乃は何処だ?
何処ではぐれた?
「あの病室までは一緒だったのを覚えてる」
「うん」
「病室を出て、俺はわざと早足で歩いて──」
「………」
誠の手前、気恥ずかしいというのがあった。女の子と肩を並べて歩く。多感な時期だ。女の子と遊ぶのは格好悪い、そう思う時期がある。誠としては何を今更、という感じがするが。
「廊下の角を曲がって、しばらく歩いて、床がぎしぎし鳴って、どこか腐っていたのかべりっという音がして、自分の足下が腐っていたのか床を突き抜けて──」
べりっと、という音がして。音がして?
陽一郎と誠は顔を見合わせる。足元の床板が腐っていただけであんな音がするか?
陽一郎は全速力で、その場所に引き返す。
大きな穴がぽっかりと口を開けていた。下から冷たい風が流れる。
「志乃!!」
恐怖は無い。そのまま飛び込んだ。
陽一郎と志乃と誠はゆっくりと廃屋の中を歩く。
「こんなに狭かったんだね」
と志乃は苦笑する。広大な迷宮のように見えたのに、今じゃ一周するに五分もかからない。病室の中には放置された亡骸は一体もない。あの冒険の後、陽一郎達が大人達に報告して、呆れとお咎めと苦笑の後に、合同葬儀が行われたからだ。
今、三人は志乃が落ちた穴の中を歩いている。誠が懐中電灯を照らして。
「防空壕だったんだな」
誠は呟く。トンネルの中には瓶や俵が整然と並べられていた。
「あの時の志乃の泣き顔が忘れられないな」
「むー。だって怖かったんだもん」
「俺は陽一郎の心配した顔が忘れられないよ」
と誠は笑った。穴の中に落ちて、恐怖と不安で泣きじゃくった志乃と、その志乃を見つけたい一心で半狂乱になった陽一郎と。再会はあっという間だったのに、まるで何十年も離れていたかのように、二人は強く手を握り締めていた。
この時から二人は分かっていたはずなのにね。誠は微苦笑を浮かべる。
お互いがお互いを求めていた。それを誰もが分かっていた。この二人は不器用にも気付かなかった。
いや、陽一郎。お前は気付いていたんだよ。
それなのに気付かないふりをしてた。
見栄か? 虚栄か?
きっと志乃という女の子がいなくても大丈夫、という事を証明したかったんだろ?
甘えなんか無い、長兄だって言い切りたかったんだ。弟や妹に。そんな事を言い切っても、誰も喜びなんかしないのにな?
(ねぇ美樹?)
行き止まり。壁があるだけ。カビ臭い。誠はライトを照らした。
「確か、この当たりに扉があったよな?」
「うん」
陽一郎は壁を探る。
ぎしっと音がして、光が入り込み、陽一郎の体が前のめりになる。反射的に手を引こうとした志乃も陽一郎の体重を支えられず、そのまま──落ちた。
誠は呆然とする。記憶では、ただ森へ続く道があったはずなのに。
今は切り立った崖がそこにあった。
「痛いっ」
三メートル程度の高さだが、草や土がクッションになってくれたらしい。陽一郎と志乃は顔を見合わせた。満面の笑顔を浮かべる。
見上げると、ブルドーザーやシャベルカーが放置されている。切り立った崖は明らかに人工的に削り取られたものだ。
「陽一郎っっ!」
誠が上から叫ぶ。陽一郎がひらひらと手を上げると、誠は安堵して姿を消した。迂回して降りてくる気らしい。まぁ、この高さを
わざわざ飛び降りたいと思うヤツはそうそういない。
「なんで手を離さなかったんだよ?」
と陽一郎は志乃に言う。志乃はきょとんとした顔をした。おかげで、頬に三カ所、切り傷がある。
「離したら陽ちゃん落ちるもん」
真面目な表情の志乃の反論に陽一郎は小さく笑みを浮かべた。
「結局、落ちたけどな」
「陽ちゃん一人で落ちるよりはマシ!」
「そーか?」
「うん」
そして顔を見合わせてまた笑う。夏休み最後の日に俺たちは何をしてるんだ、と思いながら。
「このさいだもの、誠君も引っ張っちゃえば良かった」
と志乃はどさくさにとんでも無い事を言い放つ。
「いや、そりゃやめとけ。美樹が怒る」
「あ、うん。そうよね」
「うん、誠の事になると美樹は怖いからなぁ」
「本当。陽ちゃんにしてはよく──」
言葉が止まる。熟考三秒。志乃は陽一郎の顔を見た。
「どうしたの?」
「陽ちゃん、知ってたの!!!!?」
最早、奇声にすら近い。陽一郎の方が目を点にさせた。
「は?」
「え? 知らない?」
「誠と美樹だろ?」
コクリコクリと志乃は頷く。
「まぁ、そりゃ最初は心配したさ」
何でもないかのように言う。
「気付いたのいつ?」
「決定打は夏祭りかなぁ」
「決定打?」
「あの二人、昔から仲良かったからなぁ。恋愛関係と結びけるのも速急かなとは思ってた」
空気がひんやりとしてきた。もうすぐ、夕暮れだ。
「陽ちゃんが?」
「なんだよ、それ」
「だって、鈍感な陽ちゃんが!」
「鈍感は余計だよ」
と渋い顔で言う。
「だって私の事だって、全然見向きしてくれなかったもの!」
「見てたよ」
「むー。嘘つきっ! ほとんど眼中になかったくせに」
「見てた」
「街中で会っても無視したもんっ」
ゴールデンウイーク中の事を言ってるらしい。陽一郎は苦笑し頬を掻く。
「あれは……切り出す勇気がなかったの」
「その前だって、その前だって、ずっと私との距離を置いてた!」
「置かないと普通に話せないんだもの、仕方ないだろ」
「話せない?」
「心臓がドキドキしたんだよ、志乃と一緒にいると」
陽一郎は遠くを見る。切り立った崖を見る。平坦な丘は全て、切り取られ削岩された。分譲予定地と、看板にはある。想い出すら削り取られたような、そんな感覚。確か、あの時、抜け出して全力で走った丘はとてもなだらかだった。今、その地面の感触や緑の深さも森の薫りも今とは違うような気がする。こうやって少しずつ、忘れていくのかも知れない。もうすでに、忘れかけている事がある。
いや、変わらないものがある。
赤い夕陽が、黄昏の影の長さが、陽一郎を見る志乃の目は何も変わらない。
トンボが飛んで、陽一郎の肩に止まった。もう、そんな季節になるのか。
影と影が揺れる。
ゆらゆらと。ゆらとゆらと。
ゆらゆらゆらゆら。
そして動く。
迷い無く。躊躇い無く。遠慮無く。
トンボが驚いて逃げた。それに二人は気付かない。
影と影は重なる。
オレンジ色の空を眺めながら、二人は肩を並べながら。
「誠君、まだかなぁ?」
「まだ、かかるだろうなぁ」
「うん」
「志乃?」
「なに?」
「……ありがとう」
「え?」
「多分、俺一人だったら、ここまで来るのは無理だった」
「陽ちゃん……?」
「なんだろーなぁ。こうやって、一人で立つことも無理だった」
「そんな事ないよ」
「あるよ」
「そんな事ない。みんなが居たからだよ。私一人じゃ陽ちゃんを支えきれなかったもの」
「うん……」
「また照さんや、志保ちゃんに会いに行かなきゃね」
「北村や吉崎も声かけないとな」
「日向さんは今、何処かな?」
「ニューヨークに戻るって言ってたよなぁ」
「でも、その後、南米に飛ぶって言ってたよ?」
「そうだったなぁ」
「陽ちゃんも行きたいんでしょ」
「は?」
「日向さんを見てる陽ちゃん、そんな目をしてた。自分もそんな風に写真が撮りたいって」
「わかんないよ」
「大会に出す写真はどうなったの? 現像したの?」
「うん。組写真なんだ、今回は。タイトルはね『夏休み』にした」
「夏休みかぁ。終わっちゃうね」
「終わるな」
「陽ちゃん?」
「うん?」
「来年の夏休みも一緒にいようね?」
「夏休みが終わっても変わらないって」
「変わらない?」
「うん、変わらない」
「陽ちゃんのお父さんとお母さんは何て思うかなぁ?」
「喜んでると思うよ」
「そう思う?」
「うん、そう思う」
「だといいなぁ」
影は重なり合いながら、少しずつ斜陽に溶け込んでいく。
息を切らしながら走ってくる足音。二人は振り返る。陽が沈む。その瞬間を三人は、息を殺して見つめていた。
たくさんの人がいて、たくさんの人とすれ違って、帰らない人もいた。晃のあの時の叫び声も、自分のあの時の絶望も、兄弟を守らないといけないという義務感も、大切な人の為に怒った吉崎の真摯さも、志乃と距離を置かないといけなかった、今までの切なさも、優理が言う女の子はみんな、幸せになる義務があるという言葉も。桃が少しずつ幸せになていく横顔も。誠のお節介も。みんながみんな、陽一郎を一人にしてくれなかった。
有り難いと思う。
オレンジ色の光が尽きて──
青白い月が浮かび──
星屑の絨毯が輝きだし──
闇の帳が閉じて──
生暖かさと肌寒さが混在した違和感を感じながら──
さよなら夏休み。
ハロー平凡な毎日。でも、いつもと同じじゃない毎日。
志乃の手を引いて、陽一郎は歩き出す。
一歩遅れて、誠が続く。
また来年。
さよなら夏休み。
ハロー平凡な毎日。でも、同じじゃない毎日。何色か分からない明日へ。きっとがむしゃらに走って躓いている明後日へ。それでも走ってる不器用な僕たちへ。ハロー。グッバイ、夏休み。たくさんの記憶を抱き締めて、一歩一歩。ハロー、きっと何も変わらない、でも何か変わってる僕たちへ。はろー、ハロー? また来年の夏休みへ。僕らの咲かせた花束を精一杯抱き締めて、精一杯笑って──
花は水を上げすぎても、足りなさすぎても枯れるんだよね?
だから。
精一杯、毎日をできる限り抱き締めて。花に水を上げるように、誰かを慈しんで、優しく寄り添って支え合って、時々、倒れそうになったら抱き合って。躓きそうだったら、しっかりと手を引いて。立ち止まって息を吐いたら、また歩いて。しがらみなら解いて。藻掻いてでもいいから前へ。回り道してもいいから、君の隣へ。
さよなら、夏休み──そしてまた来年へ。
陽一郎は誰にでもなく、振り返ることなく手を振った。
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