8月25日「光の道」
三十七日目
地獄はこんな場所なのか、と陽一郎は思った。呆然と立ちつくす。夏目の里は美しいという印象が常にあった。色々な騒動が次から次へと息をつく暇も無く沸き上がってきたが。
それでも美しい場所だった。空気は清涼で、光化学スモッグなんか無く、人工物より自然物の方が多い。命の息吹を感じ、アスファルトの隙間を縫って緑があるのではなくて、緑があって人間がある。ある意味では楽園すら連想していた。
──だが今は、完全なる焦土だった。
土砂が木という木をなぎ倒し、一瞬にして命を奪った。木々の激痛が耳に飛び込んできそうだ。土に埋まった狐の足が見える。
「陽一郎、しっかりしろ」
と誠は陽一郎の肩を掴む。だが陽一郎は上の空で、消防隊や警察、レスキューの救援活動を見ていた。行方不明者四人。夏目晃、吉崎高志、葛城優理、そして夏目の里の十人である楠木志保。晃が会いたがっていた妖精の女の子かもしれない。
「ここにいてもどうしようも無いだろ」
「……」
また救えないのか。陽一郎は呟く。志乃の声も、美樹の光も、亜香理の声も今の陽一郎の耳には届かない。時が過ぎれば過ぎるほど、感じるのは絶望だ。そして誠が言うように、陽一郎には何もできない。何も晃達にしてあげることができない──唇を噛む。
「夏目」
と北村は重い口を開けた。陽一郎の目は虚ろだ。誠はそれが痛い。志乃にいたっては言葉もかけられない。こいつは自分を責めている。自分を責めないと、納得できない。でも、自虐的になったからと言って問題は何一つ変わらない。陽一郎? 今は信じるしかないだろ。誠は声には出せないが、必死に叫ぶ。お前がそんな顔をしていたら、残された妹達はどうするんだよ?
「バッドエンドばかり考えるのはよくないよ?」
北村は小さく笑った。希望を捨ててはいない。この男は諦めていない。無言で陽一郎達と行動をともにしていたが、思い描いていたのは絶望じゃない。
「生存率50%、って朝倉さん言ってたね。どっちにしろ50%なら、良い方の50%を思い描くべきだよ」
と北村は陽一郎の胸をコンコンと叩いた。
「吉崎は往生際悪いから、ね」
その物言いに陽一郎は小さく、笑った。
「それは晃も、かな」
「優理もいるし、あの二人がいれば、ちょっとした事じゃどーにもならないよ」
この災害を北村はちょっとした事と言う。北村の隣にいた桃と、陽一郎の隣にいた志乃は思わず吹き出した。何となく、なんでだろ? と志乃は思う。陽一郎の周りにはどんな状況であれ、絶望は集まらない。陽一郎が悲観すればするほど、周囲が陽一郎を一人にはさせない。志乃もその一人だし、どんな状況下でも陽一郎を中心に打破できる気がする。
「兄さん、ちょっと」
と陽大が駆けてきた。手には地図のようなものを持っている。それをみんなが見えるように広げた。この周囲一帯の地図だ。
「兄さん、大丈夫?」
冷静に聞けるか? と問う。陽一郎はコクリと頷いた。陽大はにっ、と笑った。陽一郎に、というよりはみんなに、だ。見ると、弥生がもう一枚、紙を手にしていた。それも地図らしい。陽大の笑みは、それこそ希望を捨てていない笑みだ。勝機がある、という事らしい。
「ちょっと、この地図を見て。現在地がここ」
と細長い道を指す。土砂に埋もれて、道の形跡は無い。天禄山とあるが、その山の形跡すらこの場所には無い。むしろ荒野という表現が的確だ。それを考えると、生存率はやはり限りなく低いように思える。
「晃や吉崎さん達が離れたのが、もう少し先」
と赤ペンで印をつける。おおまかだが、多分、そんなもんだろう。
「辻」
陽大に言われて弥生は頷く。それは半透明の地図だった。どこの場所なのかまったく分からない。迷路のように道が入り組んで、いくつも分岐している。それを弥生は地図の上から重ねた。
「これはね、天禄山の地下洞窟」
「は?」
陽一郎は陽大を見る。ただ呆然と諦めを抱いていた時に、この弟は行動を移していた。頭を殴られたような衝撃が走る。拳を握る。唇を噛む。自虐的になっても何もならないと知りながら。
(俺はここで何をしてる?)
「兄さん、あのね」
と陽大は小さく笑んだ。
「もしも兄さんが僕のような行動をしてたら、亜香理は兄さんにすがれないじゃないか」
「は?」
と志乃の反対側で、陽一郎にしがみつく亜香理を見やる。不安だけど、それを隠して平静を保とうとして立ち続けている。
「美樹にしたって、そうだよ。志乃ちゃんにしたってそうさ。北村さんにしたって、ね。誠さんにしても、ね」
「いや、すがっていたのは俺で──」
「ねぇ、兄さん、完璧な人間なんかいないんだ。だから、みんなで支え合うんだよ? だから僕も頑張るんだ。兄さんの力になりたいし、晃達を助けたいから」
「だけど──」
「兄さんは勘違いしてる。長男だから一人で背負い込む必要なんか無いんだよ。僕らがいるじゃないか。何のためにみんなで夏目に乗り込んできたのさ」
「………」
「そうだよ、陽大君の言うとおりだと思う」
と志乃は強く頷く。
「私達、ここにいるもん」
「陽一郎」
誠は小さく頷いた。北村も頷く。人間なんか完璧じゃない。ヒーローでも無い。だけど、こうやってみんなで支え合えば、こんなにも強く立てる。だから亜香理は諦めずに、強く強く立っている。
「で、兄さんに相談なんだ」
「え?」
「レスキュー隊の捜索はもう間もなく終了する」
「ちょっと待て、晃達はまだ──」
「そんな志保は!」
と声を上げたのは、大館一郎。例のやんちゃ坊主だ。あの後、そのまま陽一郎達と行動をともにしていた。ただ、表情は硬い。陽一郎達を信用したというよりは、こっちを信用するしかなかった、というのが的確かもしれない。一郎が言うには「大人達は何も動こうとしない」のだそうだ。
「意味深だな」
誠は思う。確かに山は崩れ、危険な状態だ。だが自分の地域で、被害があったというのに誰も彼も、夏目の人間以外は被災地に足を踏み入れようとしない。まるで自分は無関係、そう言いた気ですらある。
「見殺しにする気なんだ」
一郎は唇を噛む。陽一郎は、そんな一郎の髪を優しく撫でて、引き寄せた。
「兄ちゃん?」
「──俺たちは諦めない」
陽一郎の力強い言葉に一郎もしがみつく。志乃はそんな陽一郎を見上げる。陽大が嬉しそうに笑っているのが見えた。そう、だからなんだ。陽一郎だから、誰もがみんな諦めない。どんな状況でも、断念しなくちゃいけない状況でも、打開策があるような気がしてくる。だから陽大は、兄を信頼して行動できる。でも、陽大にみんなに指示して、動かす力は無い。そうでなかったら、夏目の里まで街ぐるみでやってくるはずが無い。陽一郎がいるから──志乃も陽一郎の傍にいたい、と思う。
「で、陽大君、地図の説明を」
と北村は促した。陽大はにっと笑って頷いた。満場一致で、洞窟に進入する事が可決されたわけだ。
「まず地図を見て下さい。複雑な構図で入り組んでいますが、この大きな通路がありますよね?」
と真ん中の太いラインを指さす。一同、コクリと頷く。
「ここがちょうど、山の下です」
と指で、その太いラインから分岐している細いラインを指さす。そのラインには山が崩れた逆方向への通路となっていた。
「もしも、晃達が無事だとしたら、この方向に彼らは行くと思うんですよ」
「そうだな」
誠も頷く。その入り口まで、夏目邸を東に10キロ。結構な距離だ。陽一郎は地図を睨む。そして陽大を見た。一瞬の目の迷い。陽大は陽一郎が考えている事を一瞬で悟る。それは無しだよ、兄さん?
「──ダメっ!」
志乃が強く言い放つ。え? と陽一郎は志乃の方を見た。
「今、陽ちゃん、私たちの事を置いていこう、って考えてた」
志乃ちゃん、ご明察。陽大はクスクス笑んで自分の発言は控える事にした。こういう時、誰の言葉よりも一番、効果があるのは志乃の真摯な気持ちだ。一人だと無茶はするし抱え込む陽一郎を上手くセーブしてくれている志乃の存在。陽大は心から志乃がいてくれて良かった、と思う。自分の事よりも、誰か他の人の事をまず考えるのは陽一郎の悪い癖だ。兄の一番好きな場所で、陽大には全く無い場所ではあるが、それでも今、それを許容しようとは、ここにいる誰もが思わない。
「陽兄、こういう時だけ保護者顔しない」
嬉しそうに美樹は笑う。元々、夏目で一番活動的な女の子だ。ここで燻っているというのは、性に合わないらしい。
「こういう時ってなんだ、俺はお前らの保護者で──」
「私は陽ちゃんの保護者です」
と志乃はあっさりと言ってのける。陽一郎は反論の声すら出ない、というよりも志乃に睨まれて、出すこともできないと言った方が正しい。置いていこうと少しでも考えた陽一郎を、本気で志乃は怒っているのだ。
「それにさ夏目」
と北村は微苦笑をたたえて切り出した。
「こういう捜索はチームプレイの方がいいよ。ただでさえ、分岐が多い。ここで君が遭難して吉崎達が戻ってきたら、俺は晃君に何て言えばいい?」
「………」
「一人だとさ、自分を殻に閉じこめてしまう。冷静に分析が出来ない。でも、ここにいるみんななら、きっと悪い事は起きないって思うんだ。それに──」
北村は楽しげに嬉しそうに囁く。
「大人達には言わないつもりなんだろ?」
陽一郎はくしゃくしゃと髪を掻きむしる。亜香理と一郎を見る。この二人にも不安そうな表情はどこにも無い。むしろ強い意志をその目に宿らせて、行こうとする意欲が溢れんばかりだ。
「兄ちゃん、置いていくなんて言うなよ」
「晃を助けるの!」
ため息を小さくつく。降参するより仕方無い。それに自分が思った事は無謀だという自覚もある。もっとも子どもだけで行くという行動の方が遙かに無謀なのだが。
「安全面は大丈夫です」
と辻弥生はにっこりと笑って言う。
「え?」
「委員長──陽大君と一緒に、このルートを今日調査してきましたが、まったく影響でていません」
陽一郎は呆れた。そして次に出てくるのは、こみ上げてくる笑みだ。どいつもこいつも、と言うべきか。ここにいる人達は陽一郎を放っておいてはくれない。後は陽一郎が決断をするだけだ。それだけでいい。みんなが信頼に信頼を重ねて、陽一郎の決断を待ってくれている。
「陽ちゃん」
「兄さん」
「陽兄」
「陽一郎」
「夏目」
みんなの声が入り交じる。おいおい、と苦笑した。お前らは俺を何だと思ってるんだ?俺はそんなに偉くないぞ? そうは思うが、あえて否定はしない事にした。否定しても彼らには意味が無い。全幅の信頼を寄せているのだから。陽一郎が決断した事に迷いは無いし、みんながみんな、陽一郎のその答えを待ち望んでいる。
何も迷う必要なんか無い。
「準備したら、みんなで行く」
コクリと誰もが頷く。それが合図だった。
天緑山はその昔、金山だった。夏目の里が、人里離れていながらそこそこの規模を持つに至った理由がそこにある。「金」がもたらす経済効果は夏目の里に巨万の富をもたらすはずだったが、ここの住人達は権力者達にも、その金の存在を露見させず、ひたに隠し通してきた。質素倹約にして鉄壁守秘 。彼らは天緑山になにがあるのかを語らない。語りたがらない。貯蓄しそれを子孫へと託す。それが彼らが先祖から受け継いできた正統な伝承であり、伝統だった。
「ふーん」
と吉崎は突起していた金の欠片を石で叩き割る。興味なさ気にそれを投げ捨てる。晃はそれを苦笑しつつ、吉崎の後を追う。その後を晃に手を引かれて志保が。そして吉崎の背中には、優理がしがみついている。
「もったいなーい」
「アホか」
「だってさ高志、これ持って帰ったら億万長者だよ」
「金で腹が満たせるか」
「でもお金持ちだよ?」
「いらねーよ」
「なんで?」
と優理に言いかけて、吉崎は何かを言いかける。すぐに口を閉じた。晃と志保は顔を見合わす。遭難して二日目だと言うのに、まったくと言って恐怖も緊張も無い。何となる。はったりとしか、詭弁としか言いようがない台詞だが、吉崎がそういうと何とかなる気がする。それに、と晃は思う。陽一郎達が何もしないわけが無い。行動をすれば、絶対に活路へと繋がる。
「晃」
と吉崎は優理の質問には答えず、晃へと声をかける。
「金は自分で稼げ。変な夢と欲は望むな」
とさらに金の卵になる石を投げ捨てる。晃もそれに習う。志保は呆れて、そして微苦笑を浮かべていた。志保も晃達と同じで、金がただの石ころに今は思える。近づくな、近づくな、と大人達は言う。神様が眠っているから、と。本当は神様なんかいないのも知っていた。でも、この山に近づくのは怖かった。この山の話題が出ると大人達の目はまるで、物の怪にとりつかれたかのように、ギラギラさせる。近づくな、有無を言わせない声。チカヅクナ。
そこまで必死で守りたかったものは、こんなものかと思うと、なんとも滑稽だ。志保はなんだか、がっかりとした。もっと違う何か、それこそ神様が眠っていると志保は空想していた。
吉崎は松明の光を頼りに、壁を触る。最初の地点に戻れば、木の果実もイノシシや鹿の死骸がある。まだ今なら、食料に困ることは無い。冷静に地図をつける事に専念していた。方角はよく分からないが、風のある場所まで辿り着くために、やみくもに歩いていても仕方無い。命綱を失わない為の方策だ。地味だが、危険な橋はここでは渡れない。
「高志にしては慎重じゃない?」
背中で優理が吉崎の頭を撫でる。吉崎は憮然として、金塊の欠片を投げた。
「人が冷静じゃ無いように言うな」
「だってみんな高志がそんなキャラだと思ってないし」
ごもっとも。晃も志保もコクコク頷く。
「あのなぁ、俺だって一応は!」
「だから安心してるんじゃないの。頭に血が上ると高志はダメだねぇ」
クスクスと優理は笑う。言ってろ、と小声で呟いて、吉崎はさらに壁を叩く。その壁がぱらぱらと音をたてて、一部が崩れた。
「脆いな」
「これって?」
「晃、別にお前を擁護するわけじゃないけどな、山が崩れたのは一慨に夏目のせいじゃねーぞ?」
「え?」
晃と志保が動じに声を上げる。
「人工的に掘られて弱くなってたんだ。それに地盤そのものが、めちゃくちゃ弱い」
さらに、と吉崎は付け加える。
「最近も、頻回に削岩されてる。いたんだよ、この前までここに人が」
と落ちていた煙草やビールの缶を取る。
「入り口が近いってこと?」
「かもな」
と吉崎は壁に手を置いた。その瞬間、押した岩が壁の中に吸い込まれる。
「あ?」
「あ……」
「どうした優理?」
かちかちかち。
何かが、噛み合う。
じりじりと、何かが軋んで動く。吉崎は本能的に晃と志保の体を押す。
「走れっっっっっっっっ!」
吉崎も駆ける。その刹那、地面がゆっくりと二つに割れた。吉崎は二人の襟元を引っ張って走る。走る。走る。穴が飲み込む前に、安全地帯に何とか辿り着く。
「なんだ、ここは!」
絶叫。今更言っても仕方無い。そして言ってる場合でも無い。
「吉崎さん!」
「あ?」
一端、呼吸が止まる。
「うぉぉぉぉぉぉっっっっっっっっっっっ」
最早声にならない。指先で走るように指示する。晃達は声にするまでもなく従った。巨大な岩が穴の中から弾き出される。およそ、吉崎五百人分、そう冷静に優理は観察する。
「どうせ描写観察すんなら、天井まで目一杯っていっとけっっっ!」
岩は加速する。ちょうど、通路が岩の線路のような役割を担うらしい。下り道になり、速度はますます速くなる。
「高志、私も走る!」
「この状態で降ろせるか、寝言は寝てから言え!」
ぐいっと晃は志保と吉崎の服を引く。目一杯の力をこめて、押しつけた。
「晃、お前バカ、何こんな時に──」
晃は聞かない。走っていた反動をそのままぶつける。岩の窪みに四人はぎこちなくおさまり、岩は四人を無視して通過していく。砂埃が舞い、松明の火が──消えていた。
「助かった、か」
と吉崎は息をつく。優理は飛ばされてなお、吉崎の背中に掴まっていた。
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃない……よ」
吐き捨てるように晃は言う。唇を噛んで。
「何言ってるんだ、こうやってみんな助かったし」
と吉崎は志保の肩も叩こうとして、
「イヤッ」
と小さな悲鳴が上がる。小さな感触だったが、明らかに触ったのは肩じゃない-------
「高志、暗闇にまぎれて何してんの!」
「違う、不可抗力で、だいたい胸の感触なんか全然なかったぞ!」
「どうせ、私は胸小さいです!」
「高志、最低! このロリコン! 欲求不満ならそう言えばいいじゃない!」
「ちげぇ! すごく誤解だ!」
「あの……」
「なにが誤解よ、この大変な時にね、あんたは自覚ってものが全く無いんだから」
「自覚もクソも事故だ!」
「って変態は捕まった時言い訳すんのよ!」
「自分の彼氏を勝手に変態にすんなよ!」
「あの、だから……」
「だからこそ、嘆かわしい! 今のうちに再教育してやるって言ってるの!」
「は? やるってのか、ならかかってこい。すぐにマットの下に沈めてやるっ」
ここは洞窟の中です。
晃はふっと息を吸い込む。
「ひ……人の話を聞いてくださいっっっっっっっ!」
晃の激昂に一瞬、空気がぴたりと止まる。
「は」
「……い」
そんな吉崎と優理の二人を見て、志保はクスクスと笑みを浮かべていた。ただし、吉崎に距離を置いて、晃の腕に掴まるように。暗闇だからどういう姿になっているか分からない、というのはある。何より志保にとっては晃が唯一、心を平静にする事ができる相手なのだ。素直に甘えてもいいのかもと思えるようになった。会って、話して、そんなに時間は経っていない。こんな出会い方を望んではいなかったが、それでも晃の体温を感じていると、安心する。本当は泣きたいくらいの状況なのに、なぜか勇気がもてる。
晃がいると元気になれる。そして諦めるのは最後でいいと思える。だから志保は立つ。歩く。一生懸命、考える。冷静に努めて、知っている知識を絞り出す。それが晃の役に立つのなら、そう思っている自分に驚く。
「松明が消えちゃいました。下手に壁を触って歩くとさっきみたくなる可能性があります」
「だな」
吉崎は何でもないように頷く。
「天緑山は神の社として、立ち入り禁止とされてきました。多分、侵入者や裏切り者への対処としてこういう仕掛けを作ったんだと思います」
と志保は言う。晃の体温を感じる。それだけで強くなる。
「と言う事はこういう仕掛けが腐るほどあるわけか。むしろ腐ってろ、って感じだな」
「でも、あの仕掛け作動させたのは高志のせいよね」
苦笑して優理は言う。まったくもって事実なので、反論の余地は無い。
「えっと」
と志保が切り出す。
「天緑山には光の道って伝承があるんですけど」
「光の道?」
吉崎に言われて、ビクンと志保はする。先程の接触のせいと言うよりは、志保は第三者と話すことが苦手なのだ。慣れれば、それなりに話す事ができる。学校の友達、里の友達もみんなそうだ。だから、あの日──夏目の向日葵庭園で晃と出会ったとき、何の躊躇もなく話しかける事ができた自分がとても不思議だ。多分、晃が「花を好き」と言ってくれたからかもしれない。咲き続ける花を奪う権利は誰にも無い、と言ってくれたからかもしれない。この子は……名もない花にさえ優しさを捧げられるそんな人なんだ、と思う。
花を踏みつぶさない人。きっと晃は花が咲いていたら、道があっても避けて通る。名も知らなかったら踏みつぶしているクラスメートや大人達とは違う。晃は志保が言った言葉の一つ一つを笑わず、真剣に聞いてくれたから。
だから、晃にならどんなつまらない事でも言える。それが思いこみだとしても、依存しすぎだとしても、志保には晃という存在がいるだけで、こんなに強くなれる──
「どういう言い伝え?」
と晃に言われて、志保の手に力がはいった。それを感じ取って晃は不思議そうな顔を、優理は小さな微笑をたたえる。晃は緊張感がないと怒りたかったのかもしれない。でも、これでいいのだ。変な緊迫感は、かえって冷静さをなくす。他の子の胸を触ったのは許し難いが、吉崎の良さはどんな状況でも変わらないという事だ。笑っても、怒っても、嘆いても、呆れても、吉崎はいつも吉崎なのだ。だから他の面々が冷静になれる。彼という起爆剤があって、何かが始まり出す。絶望という言葉を粉砕して前に進み出す。
優理は思う。晃は良い子だ。長兄のリーダーシップと次兄の冷静さ、長女の行動力、次女の包容さ、全てを兼ね備えている。それでいて、誰よりも人の気持ちを考える。だから自己主張が今まで少なかった。目立つ子ではなかったのかもしれない。でも、と思う。行動を共にすればするほど実感する。この子は強い、諦めない。何があっても諦めを口にはしない。
吉崎と似ていて、それでいて吉崎以上に大人で、ある意味では亜香理よりも純真というあやふやなバラスの中で立っている。良い子だ、本当に。夏目君はいい弟をもった、と思う。
「あ、あのね、えっと」
おどおどしながら話す。クスリと優理は笑む。本人すら気付かない恋心。夏目家の男の子ははてしなく他者からの好意に鈍感だ。本人すら気付いていないのだから、晃は当然気付いているわけもない。だが、それでいいと思う。答えは成長しないと分からない。応えるのはそれからでもいい。何より今は打開策を見つける事が優先だ。
「本当にただの伝説だと思うんだ。ただ、禁止区域に踏み込んだ人達はみんな帰ってこなかったの」
「神隠し、って事か?」
「うん、そう言ってました 」
吉崎の問いにコクンと頷く。それほどまでに、仕掛けられた罠は多様にして難解と言う訳か。難儀だ。きっとあの穴の下は、骨で埋められているのに違いない。人が落ちてこないのを察知して、二重にあの岩が出てくるという寸法だろう。その労力を、土地の開拓に使えば、もう少しこの土地も開けたのかもしれない。欲と言うのは末恐ろしい。
「ただ、言い伝えがあって」
「本題だな」
「あ、すいません。まどろっこしくて!」
と志保は俯いてしまう。
「高志」
と優理は小さく制する。吉崎も別に問いつめているつもりはないので、ん、と言葉を濁らせた。
「大丈夫」
にこっと笑って晃は言う。暗闇で何も見えないのに、晃の笑顔だけはしっかりと見えた気がした。
「禁封を破って歩むなら──」
気を取り直して、伝承を思い出しながら、一字一字、確認しつつ言う。晃がしっかりと志保の手を握ってくれるから。志保は平静に思い出すことが出来た。
禁封を破って進むなら、光の道を進むが良し
光淡く強き灯火、吹き消すが道
道外す事なかれ そのか細い道歩む者
人が人として持つべき仁と徳と儀をもって鍵と為せ
その器量無し者、道退くが良し
「道……退くが……良し」
ふっと息を吐く。こんなのただのお伽噺だ。これで今の現状を打破できるわけが無い。訳が──
「光?」
と晃は立ち上がる。その手を離そうとしなかった志保は、おかげで一緒に立ち上がってしまう。それでもなお、その手は離そうとしなかった。だが、晃はそれにお構いなしで、暗闇の向こう側を見ている。――否、そこにあるのは暗闇じゃない。淡くて、ほんやりとした、今にも消えてしまうそうな光だ。
「光苔?」
と優理は呟く。光苔はヒカリゴケ科で学名をSchistostega pennataと言う。が、光苔で無いのは確かだ。光苔は照射された光に反応して輝き、光苔そのものが反射するわけでは無い。だが、何かしらの発光物質であるのは確かだ。本当に淡く今にも消えそうな二つの線が、細い道を彩っている。それは時に蛇行し、曲線を描き、直進するという無規則な方向を示している。
吉崎は唾を飲み込んだ。これじゃ、松明をつけていたら分かるわけが無い。しかも、この不規則性、普通に歩いていたら、罠に一直線、今まで遭遇したトラップが一つだけ、というのが奇跡に近い。冷や汗がさすがに、たらたらと流れた。
「もしかして蛍苔?」
志保が言う。そういえばと優理は思い出す。そんな事を楠壮次郎が言っていた気がする。楠老夫妻には妙な安心感があった。二人とも、色々な意味で気さくな性格だから、と言うのもあったのかもしれない。
蛍苔──希少価値な、ほとんど見た者がいない、暗闇の中で自然発光する苔。栄養を分解する上で、光を発光するのではないか、という空説にしか過ぎない説しかない。検証もクソも無いのは、この蛍苔を知っているのは、楠壮次郎が知るうちでは夏目太陽──つまり陽一郎の祖父だけだから、だ。
もしかしたら夏目太陽は、天緑山の財宝の事は知っていたのかもしれない。
そしてここの住人の大半は、その希少価値の苔の存在を知っている事になる。
「面白れぇじゃねーか、優理」
と吉崎はニッと笑う。はいはい、と優理は肩をすくめた。まぁ、ここまで来たら行く所まで行くしかないんだから、と苦笑する。それは志保も同じだ。
晃は指を舐める。この道の有る方向に風を感じる。道はまだ断たれていない。
前進──するしかない。行けるところまで。
夏目照は自分の私室で、コーヒーを飲みながら報告を待った。その前では楠が無表情に報告書に目を通している。無論、照が待ってるのは公の職務報告ではなくて、レスキュー隊による救出報告の吉報だ。が、それも聞ける確率はかなり低い。本日をもって、捜索は中止となる。見殺しと言ってもいいが、崩落の危険性を理由に行政圧力で方針は決定した。本当の理由は、県会議員玉置潤一朗による独断と見ている。玉置は、この里出身の有力者だ。
理由は一つ、天緑山の地下財宝。金の山だ。
「くだらないな」
「天緑山ですか」
と楠は応じる。崩れた山、それを夏目という企業の暴利と玉置議員は叫んでいるが、それは理由の一部でしかない。夏目に非が無いとは言わない。だが、それ以上の秘密があの山にはあった。
夏目太陽があの山を地域に返還してから、騒ぎは大きくなった。夏目はもともと、ここの領主の家系だったから、地域組織そのものが根幹から揺らいだ。
父としては利益の還元だったのかもしれない。しかし、鎌倉より続く遠祖達の貯蓄に目がくらむのも分かる。だが、だからと言って、それに付き合うほど企業は暇でも無い――と傍観を決め込んでいたが、それがどうやら今になって、破裂してきたらしい。
まぁ「金」はどうでもいい。それより陽達が残した息子――晃の消息が気がかりだ。
電話が鳴る。照はすぐさま受話器を取った。
『玉置議員が面会を希望されておりますが?』
意外な受付からの言葉に一瞬、絶句する。
「……分かった、通せ」
楠は顔を上げる。来客なら辞去する、という顔だ。
「ここにいろ、玉置が来る」
「?」
疑問符──と言うよりは、硬直。その思惑を図りきれない。
「俺もよくわからん」
と肩をすくめるのと、ドアが開くのは同時だった。壮年の白髪交じりなスーツの男が、勢いよく突進してくる。まさに猪突という表現が正しい。目をギラギラさせて、血管を浮き上がらせている。相変わらず心理パターンがわかりやすい。
「どういうつもりだ?」
「ん?」
「夏目、貴様と言う男は」
とスーツの襟元を掴もうとして、照はあっさりとかわした。
「何がだ?」
「お前は、自分の甥っ子達を、洞窟に送ったのだろう?」
ほぅ、と思う。情報が早い。もしかして何かの反応があるかと、煽ってみたが予想以上に食いついてきた。
「さぁ、な」
と惚ける。怒りがその目に宿っている。怒り、と言うよりは殺意か。玉置議員に運動神経を持ち合わせていたら、その両手で首を絞められているところだ。
「何を考えている!」
「子ども達の安否だ」
「正気か?」
「は?」
「お前は……犠牲を少なくするために下した私の配慮を、とことん泥を塗るのだな」
「何を言って?」
「あそこには、犯罪者とその息子を幽閉していたんだ!」
「なに?」
照は硬直する。何だそれは? だが玉置議員は視線をそらした。自分が余計な情報を露見させた事を悟ったらしい。
「どういう意味だ」
照はぬっと前に出る。解答の拒否は許さない、そんな顔だ。
「……お前ら夏目は……我々を軽視しているからこういう事態がおこるのだ!」
「それは関係ないだろ。はぐらかすな。どういう事だ?」
「…………」
「言え」
ぐっと楠木議員のネクタイを引っ張る。容赦なく締めた。
「んっ──」
「お前の娘も、あそこに閉じこめられたんだろ? 見殺しにするほど価値のある秘密なのか?」
「お、お前らに何が分かる! 秘密を抱えて生きてきた我々の気持ちが!」
「いちいち吠えるな。俺はどういう事だと言っているんだ」
「──犯罪者と言うのは嘘だ。正確には犯罪者という烙印を無理矢理押された親子を、天緑山の地下洞窟に閉じこめた」
「な?」
楠は声を上げる。いつそんな事が起きたのか、まるで知らない。夏目から地下洞窟の所有権が離れての十年、何がおきた? 目眩だ。くらむほどに、目が潰れてしまいそうなほどに。
玉置議員の体が、ぶるぶると震えている。両眼が深い暗闇をうつしている。あるのは恐怖、そして脅え。照は強引に玉置議員をソファーに座らせた。
「何があったのか話してもらおう、議員。イヤとは言わせない」
照も、どっとソファーに座り込む。
「悪意があったわけじゃない! だが管理しきれなかったんだ!!」
悲痛の叫び。空しい、あまりに空しすぎる独白に、照と楠は耳を傾けて──そして愕然とした。返す言葉も無い。
それはゆっくりと進み歩く。
光の道を発見したらしい。
意外や意外と驚く。何も知らない雑魚かと思ったが、行動決定のそれを見る限り、どうやら美味しく餌にはありつけないらしい。
目を開く。
匂いだ。この他にも餌が紛れ込む。
石を掘りに来た男達は誰も彼も「不味い」
だが、彼らの血肉の若さ。失いかけた食欲が沸く。
目を開く。くねくねとした淡い光の道。これ以上に強い光を見たのはいつの日の事だったのか、もう記憶にも無い。
どろんとした黒い目で。ほとんど視力の無い目で、餌を見やる。
気付かれないように、距離を置く。だが目を閉じても、彼らのいる位置は把握できる。むしろ掌握という言葉の方が正しい。聴覚情報だけで、彼は欠伸をする感覚で行動を起こす。
「美味い」だろう。閉じこめられて命を絶たれる最後の瞬間を味わうことは。脅えた顔を見たい。同じ事だ。自分にした事を彼らに返却する。相応の礼をもって為す。
目には目を。歯には歯を。だが、その目の視力は無いに等しく、歯は変形した。皮膚は剥がれ落ち、手足に爪は無い。痛覚も無い。思考すら減退し、本能のまま動く。
それはゆっくりとゆっくりと踏み出す。減退した思考で、全員を食する方法を考える。自分という存在は顧みず。ただ突き動かされていく感情の残骸を頼りに。
それは力無い足取りで、足を踏み進める。ニタリと笑う。
十年ぶりに──歓喜の表情がその顔を飾った。
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