8月12日「帰ってきた人」


二十四日目






 過剰反応なのかもしれない。陽大は自分の感情を冷静に分析していたが、言葉を押さえられなかった。長兄の陽一郎はすかさず止めたが、度重なる親戚達との応酬に、夏目家で一番冷静なはずの陽大の目も口調も、毒を帯びている。


 目の前で正座をして、位牌に目をむける親戚らしい女性に目をむける。らしい──と言うのは、陽大も陽一郎も、勿論、美樹も晃も亜香理も、この女性についての記憶が一切無い。夏目日向と彼女は名乗った。焼香させてくれ、と言う。私は貴方達のお父さんの姉だと、小さく微笑して。


 演技か。陽大は警戒を強めた。兄弟達は息をのんで、陽大と彼女との応酬を見つめる。──手出しできない、と言った方が表現としては正確かもしれない。陽大は毒のある言葉を叩き付け、彼女はその毒が無効力であるように肩をすかし、じっと両親の写真を見つめている。


「焼香して何の得があるんですか?」


「得?」


 敵意剥き出しの言葉に、彼女は意味が分からないという顔で応じる。


「焼香って何だか分かってます? 死者を哀悼し、追悼する儀礼ですよ。お金欲しさのカモフラージュじゃないです。うちの父と母をこれ以上、冒涜しないでください」


「陽大!」


 何度目だろう、陽一郎が止めに入るのは。普段ならあっさりと陽大は、陽一郎の意見を了解するが、今回ばかりは長兄の命令も陽大の耳には届いていなかった。親戚達が夏目家に顔を出す理由は、両親への慰霊じゃない。ただ残された保険金の額と、夏目兄弟の今後の生活すべき場所だ。どの家でも、兄弟を引き受けようとは思っていない。たらい回しにして、兄弟がバラバラになるのは目に見えている。だから陽一郎は誰にも頼らず、保険金にも手をつけず、自分達だけで生活していく事を決めた。書類上の保護者はいる。が、その保護者は通夜も葬式にも顔を出していない。あくまで書類上の保護者なのだ。陽大も美樹も晃も亜香理も、保護者は長兄の陽一郎と朝倉志乃以外には有り得ないし、それ以外の人達を頼ろうなんて微塵にも思っていない。だからこそ、次から次へとやってくる親戚という、薄い血のつながりの他人とのやりとりに飽きてしまう。


 彼らはいつも同じ事しか言わない。


 ──子ども達だけで、生活できるはずがないだろう。


 残念ながら、陽大は子どもじゃない。そう思っている。兄の陽一郎も同じだと思うが、下に弟と妹がいる以上、三人の兄なのだ。兄である以上は、子どもみたいな甘えは許されない。陽一郎と一緒に、夏目家の生活を守り通す義務がある。まだ子どもだから、という言い訳で泣きつくほど素直にもなれない。自分達の生活は自分達で守り通すしかない。でも、彼らは夏目家の生活を崩壊させようとしている。兄弟がバラバラになるという事はつまりそういう事だ。


「確かに、焼香して得になる事なんて何一つないわよね」


 彼女は小さく微笑を浮かべる。


「できれば、焼香なんかしたくなかった」


「え?」


 言葉につまった。今の一言がとても重たく感じる。


「陽は幸せ者だね」


 と彼女は夏目家の父の名を呼ぶ。写真と向き合う。じっと見据えて、その無邪気な笑みに小さく苦笑を漏らす。カメラを持って笑っている写真だ。数ある写真の中で陽一郎がきっと選んだのだと思う。無邪気で、時々子どものような表情を見せる、その人柄が滲み出ている。


「茜さんも、幸せだったんだろうね」


 仏前の夏目家の母は、夫が撮った写真だった。満面の笑みと、少し照れた表情で空を仰いでいる。白黒にプリントされたはずなのに、その空が瑞々しいほどの青を連想させる。その目が夫にむかってはにかんでいるのが分かる。彼女はそんな二人を優しく、見つめていた。


「あの」


 と言ったのは志乃だった。正座して、彼女に向き合う。彼女は、夏目の兄弟達を見回す。陽大だけが、そっぽをむいた。志乃は小さく笑う。


「本当にお姉さんなんですか、おじさんの」


「志乃ちゃんね、おぼえてるわよ」


「え?」


「陽一郎と陽大までは私も知ってるの」


 長男と次男は顔を見合わせた。そう言っても、二人には夏目日向なる人物に記憶は無い。


「記憶があったら困るわよ」


 とクスクスと笑った


「得に陽大はね、生まれてすぐだもの」


 柔らかく笑む。


 蝉の声だけが、囁くように鳴く。じっと、陽一郎は目の前の日向を見た。ということは陽一郎が二歳の時に、彼女と出会っている事になるらしい。夏目の家と朝倉の家は親同士の仲がいい。その当時から陽一郎と志乃は一緒にいた、と志乃の父は笑って、教えてくれたのは昨日の事だ。気付いたら一緒にずっといたという感覚だから、そういう話を聞くとなんだか照れくさくなる。


 陽大は狐に包まれたように、日向を見た。腰まで長い漆黒の髪、白い肌は年齢を感じさせない。何より、しっかりと意志の宿った目は、父のその一瞥とよく似ている。だからこそ、陽大は反発してしまうのかもしれない。


「陽は幸せ者だね」


 と志乃の出されたお茶を飲みながら、呟く。


 でも。小声で、小さく、つぶれそうなほど、か細く、痛みを伴う言葉を、吐き出すように呟く。


「陽、馬鹿だよ」


 俯く。早い、早すぎた。これから──これからじゃない──陽、茜さん──語りかけても声は返ってこない。瞼の裏で、二人も幸せそうな笑顔が蘇る。冷淡で現実主義を自負する日向が、あの二人の前では破顔して、笑顔にさせられた事を思い出す。


「陽は幸せでしょ?」


 と自分の弟に対してこんな台詞を呟くのも、照れるモノがある。が、当事者は幸せ一杯を何度も何度も噛みしめるように、次男の陽大を抱きしめる妻の顔を見てはニヤニヤを隠さない。遊びに来ていた朝倉夫妻は微苦笑で、かわりに応じていた。


 遊びにきた口実である志乃と陽一郎はすでに、遊び疲れてお昼寝時間に突入して、比較的静かな一時となりつつあった。この時も、蝉は同じように鳴いていたと思う。同じように。その分だけ、蝉は息絶え、そして生まれて、また息絶え、そんなサイクルを繰り返して。


「幸せだね」


 と言うや、カメラを取り出し、妻と次男の写真を撮る。ぱしゃぱしゃ、と。これで何回目なのか、日向は数えることをやめた。この調子で写真をとっていけば、十年以内に夏目個人図書館を建設できるに違いない。だいたい、そのしまらない自分の弟の顔を、拳一つで矯正してやりたいとも思う。


「あんたね、カメラってのは一枚一枚、大事に写真を撮るものだよ。フィルムを無駄にする写真は好きじゃない、私の性格は知っているんでしょ?」


「無駄じゃないよ」


 にっこりと笑って言う。


「俺の大好きな場面、一つ一つだから」


 真顔で言うな、そんな事を。日向は呆れるが、呆れるだけ無駄だということを朝倉夫妻の表情で悟る。陽と茜は学生時代からこんな感じで、そのまま結婚に至っている。結婚していつか落ち着くかと思っていたが、相変わらず二人はマイペースに、些細で微少かもしれない幸せを噛みしめていた。


「姉さん」


「なによ?」


「目で見た幸せの全てをカメラに収めたいと思うのは、やっぱりワガママなのかな?」


「はぁ?」


 目を点にして、そして笑った。弟らしいと思う。プロとしてアメリカで活躍している日向には、戯れ言のようにしか聞こえない。しかし、そんな戯れ言を本気で愛しているのが、弟なのだ。そんな弟を本気で好きになってくれたのが、茜なのだ。その弟と茜から、陽一郎と陽大という二人の子どもが生まれた。これらはまぎれもなく、変えようのない事実。だから、それは陽にとってのかけがえのない事実で、その事実を写真に収めようとする行為を否定する気は無い。ただ、やっぱり馬鹿だ、とは思うけど。


 弟は、そんな姉の考えなどお見通しなのか、そしてそれでも構わないのか、変わらない笑顔をたたえている。茜は、弟よりも幸せそうな表情を浮かべていた。


「勝手にやってなさいよ」


 と苦笑して、日向は肩をすくめた。弟は満足そうに笑った。


「うん、そうする」


 とまた写真を撮る。フィルムの無駄か、幸せの証か。はたしてどっちか?


 ねぇ、どっちだった?


 陽はやっぱり幸せだったの?


 目で見たモノ全て、カメラに収められた?


 ねぇ、どっちだった?


 


 









「帰って下さい」


 陽大の怒りにこめられた顔に、日向は我に返る。が、その言葉は自分にむけられたものじゃなかった。ずけずけと上がり込んで、仏壇の位牌には目をくれないサラリーマン風の男が二人。陽大の言葉は無視して、陽一郎に向き合う。立ったまま、見下ろして。


「陽一郎、無理はよせ」


「………」


「子どもだけじゃ、無理だ。この家は引き払え」


「………」


「兄弟がバラバラになるのは仕方無いだろう? 俺達にも家庭がある。生憎、そこまでの経済力はどの家にも無い。会う気になればいつでも会えるじゃないか」


「ご厚意には感謝します。でも、俺はこれ以上、家族が離ればなれになるのは嫌なんです」


「分かるよ、その気持ちは」


「分かってません」


 陽一郎は冷静に言葉を選んでいたが、その一言だけは痛烈な憤怒をこめていた。言葉の裏には全て、両親にかけてあった保険金を預かってやるという欲剥き出しのニタニタとした笑みを見てとれる。そうでなければ、こうもマメに夏目家に足を運ぶはずがない。それまで一回だって、顔を見せた事もなかった親戚達が。通夜も葬式も顔を出さなかった大人達が、金額の事を聞いて、途端に反応しているのだ。陽一郎でなくても痛烈になるというものだ。おとなしくしていた美樹も、我慢の限界だった。そのマシンガントークで、大人達の口を叩き潰そうとする刹那だった。


 日向がすっと立ち上がり、お茶を男二人の頭にゆっくりと注いだ。男達は唖然として、日向の顔を見る。


「五月蠅い」


 日向は冷たく言い捨てる。その目は怒りが濃縮されている。思わず男達は怯んだ。


「日向、帰ってきていたのか?」


「呼び捨てされるいわれはないわよ」


「お前、こんな事して──」


「五月蠅い」


 と日向は男の一人のネクタイをぐっ、と引っ張る。男はネクタイで首を絞められ、口をパクパクさせた。かまわず、日向はその力を強める。


「日向、おいっ」


「これは私の弟に対する侮辱よ」


「な?」


「なくなった人間の前で、非常識な台詞を随分、吐いてくれるじゃない?」


「違う! これは彼らの事を想ってだな──」


「夏目の恥さらし。会社の経営に手がまわらなくなって、おじいさまにも見放されて、それですがるのは保険金のみ? 笑わせないでよ」


「口がすぎるぞ、日向!」


「あんたこそ黙りなさい。相棒の首を完全に絞めるわよ」


「お前……」


「保険金だけじゃないでしょ? おじいさまは陽と私に財産を託すと遺言を残されていたもの。陽の子ども達を抱え込んでおけば、財産も手にはいるものね」


「…………」


 視線をそらす。日向は、力をこめていたネクタイを離した。男はよろけ、倒れる。むせこみながら、息を吸った。酸欠状態の一歩手前になる所だったようだ。陽一郎達は唖然と、そんなやりとりを見ている事しかできなかった。


「帰りなさい」


 有無を言わさない冷たさがある。


「同じ空気を吸いたくもないわ」


「日向、お前も陽も俺たちをいつもコケにして──」


「コケにされたと思ってたの? さほど鈍感じゃないようね」


 敵意を向ける視線も、日向の冷然とした一瞥の前では意味も無い。舌打ちをして、男二人は背をむけて、出て行った。一人はまだ脳内への酸素が足りないのか、足をフラフラさせながら。


 陽一郎は唖然と、日向を見つめた。


「おじいさまって?」


 陽一郎は生まれてこのかた、祖父も祖母も知らない。まして遺産って何? 


 親戚に対する嫌悪と、生活の確保だけが頭にあったが、夏目の血筋について考えた事は一度もなかった。


「陽一郎、ごめん」


 と日向は小さく笑った。


「え?」


「私、泣いてもいい?」


 緊張の糸は切れた。目の奥から、とめどなく涙が流れてくる。志乃は優しく、日向の手を握る。晃と亜香理も志乃にならって、優しく手を握った。陽一郎は陽大と顔を見合わせた。お互い、首を振る。どういう事か全然分からない。


 美樹も下の弟と妹にならい、日向の手を握る。


 陽一郎と陽大も同じく──


「ごめんね、陽一郎、陽大、美樹、晃、亜香理――私が君たちを守ってあげれなくて、今まで何もできなくて、本当にごめんね」


 涙はとめどなく流れ、日向の言葉はやがて嗚咽になる。あんなに大好きだった弟の死を受け入れる事ができない。そして受け入れて、前に進もうとしている陽の子ども達が、とても眩しい。


 遅かった。遅すぎた。受け入れたくなかった。だから帰って来たくなかった。


 でも本当なんだね?


 これって悪い冗談じゃないんだね?


 私はこの事実を受け入れなくちゃいけないんだね。


 帰ってきた。受け入れるために。事実を実感する為に。陽の子ども達を守るために。それだけのために。


 陽、ごめん。泣いていいのは私じゃなくてこの子達なのに――。


 でも、もう少しだけ泣かせて。     


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