8月30日「夏休みの宿題」
四十二日目
陽大は本と睨み合い、吐息を漏らす。やれやれ、というか何と言うか。図書室の本の数は公立図書館とほぼ同等に及ぶ。校長が本好きというだけで、ここ数年、蔵書を増やし続けてきたが、いかせん、それを管理するちゃんとした司書教諭は未だに現れない。かくして、生徒が手作りで、本を管理するという実態がゆえ、本棚から溢れてなお積み上げられた、本の山。もとい、雪崩という表現の方が的確な現状だ。
教師が放置状態とい状況で、果敢に取り組んだのは、夏目陽一郎が最初だった。それを次兄が引き継ぐというのも変な感じがする。
図書は魔物だと思う。一冊一冊は意味を成さない。ただの本でしかない。それを分類し体系的に配列していくことで、幾重もの情報の迷宮に変貌を遂げる。それを管理し、そしてすぐに、あるいはいくらかの労力で検索できる為には、図書館司書の能力が買われる。
陽大は図書委員になってすぐ、パソコンでの管理を提案した。幸い、学校には使っていないパソコンが多数ある。それを表計算ソフトで、テンプレートを作り、みんながそれを見れば貸し出し状況が分かるようにしておく。とりあえずは一台のパソコンでいい。パソコン一代で全て把握できる。此処に行き着くまでに一ヶ月。
その当時はほとんど会話もなかった辻弥生だが、彼女が支持してくれた事も大きい。
今やこのやり方が当たり前になっている。司書教諭としとては自分が除け者のようで面白くないだろうが、自分が司書資格有りながら何もしてこなかっったのだ。陽大としては何を望まないし、何も言って欲しくは無い。ただ、陽大のやり方を見て、自分もそれに習おうとしてくれた事は有り難い。
さて、だ。次の大問題がこの本の山である。書庫にはさらに眠っている本がある。
夏休みが終わったら、第一図書室と第二図書室に分ける、という事にまではこぎ着けた。
使っていない、武芸資料館なる柔道着やら剣道の防具やらの倉庫を撤去させ、そこに本を移すのである。教師達はブーイングだったが、陽大の説得力を上回る言葉は出なかった。
過去のトロフィーやら賞状やら洗濯もしていない道着(過去の優勝者が着ていた栄誉あるモノだ、という反論もあったが、それを一瞥にして却下)写真やらを図書室とほぼ同じ広さの場所に置くのは無駄である。そういう過去の栄光は職員室に飾っておけばいい。陽大は冷静にそう言い捨てた。
実際、長兄からの努力で、図書室の利用者数は増加している。今年は陽大が委員長な事もあり、陽大の頭脳目当ての生徒も多いが、結局、陽大が与えるのはヒントだけなので、生徒はそれを元に情報を手繰り、自分で答えを導き出すわけだ。
ある意味で(切羽詰まって、追いつめられているのもあるが)図書館利用者とのレファレンスが構築されている。レファレンスは読書相談的な意味合いがある。だが、それは答えでは無い。答えは検索する利用者が自ら決めるべきなので、陽大は相談を受けても、こういう資料とこういう資料がある、と言うだけだ。もしくは、陽大自身の口からこういう方法とこういう方法があると、非常に曖昧なアドバイスで。
本来の図書館システムに近いものを陽大の代になって、構築できた気がするが、やはり陽一郎の努力によるものが大きい。本の管理、整理。アナログ的なカード分類であったが、全ての蔵書を管理しきっていたのだ。陽一郎の人柄と、参謀とも言える長谷川誠の存在は大きいだろう。
「………」
感慨にふけっている場合じゃない。受付デスクは弥生に任せている。その間に、陽大はこの本を整理し、移動する本を分別しておかないといけない。基本的に一般的に使うモノを第一図書室──つまりこの場所に、専門的で検索を有するものは第二図書室に分けようと思っている。
それも全てパソコンで管理するため、パソコンとパソコンを繋ぐローカルネットワークも構築する。この学校で初めてだ。技術家庭科の教師がパソコンに詳しかったので、陽大節で強引に巻き込んだ。頭の固い連中に対しては、伏線は張っておいた。
さらにパソコン業者にネットワークを組んでもらうまでに話を動いている。図書室から始まり、学校全体がオンラインになる日も近いだろう。
で、だ。この本を整理しなくいといけないのだ。いっその事、この本でドミノ倒しでもしてやろうか、と思う。それを片付けるのも自分なのだが。
せっせと片付けに入る。昨日で大分片付いたが、今日明日を含めて後、二日。この二日で全てを片付けないといけない。自分たちが旅行中、他の図書委員が受け付けを頑張ってくれたので、その分の仕事はしなくてはいけないと思う。
「委員長?」
ひょこっと、弥生が首を出す。
「うん?」
「あのね、私、巻田先生に呼ばれたの」
「巻田?」
進路指導の巻田と聞いて、陽大の眉間に皺が寄る。いけ好かないヤツだ、と表情にありありと書かれているのを見て、弥生は苦笑する。実際、いけ好かないのだからどうしようも無い。
中学校教師は、いかに良い高校に進学させてあげる、というのが一つのノルマになっているのは確かだと思う。それは分かるし、教師にも同情はしよう。だが、どの学校に行くのも、選ぶのも、受験するのも生徒一人一人の問題だ。陽大に私立の有名進学校に行けと、家計状況も考えずに無神経に言う巻田は、嫌悪より拒絶してしまう。
成績が良いからって調子に乗るな。そう巻田は必ず、陽大に毒づく。体育教師なせいもあるだろうが、旧時代の個性だ。面白みも糞も無い。だいたい体育教師が進路指導というのもピントがずれている気はするが。まぁ、と陽大は思う。仕方ない、僕らはしがない受験生だ。
それを聞いて、弥生は笑った。
「ん? 何かおかしいことを言った?」
「みんながブーイングだよ。委員長の頭でしがない、だなんて」
んー、そう言われても困る。陽大は前から賢明に主張しているが、たいして努力をしたわけでも無い。ただ、器用なんだろう。学校の勉強ができたからと言って、見識があるなんて胸が張っても言えない。それは兄・陽一郎の行動力を見ていれば分かる。兄にはかなわない、そう思ってしまう。
結局の所、テストの成績では家族は守れない。ただそれだけの事だ。無論、自分の将来の事がかかっているから、進路の事をどうでもいいなんて思っていない。夏目本家の一件で自分のしたい事が朧気に見えてきたような気はする。なんだか、夏目照の手の上で踊らされているような気もするし、良いように手繰り寄せられている気もするが。
魅力に感じているのは事実だ。
「じゃ、委員長、受付お願い」
「はいはい」
と微笑で送り出す。弥生は背中を向けて手を軽く振る。今までの弥生には無いフットワークの軽さ――無駄に力が入っていないのを感じる。何がどうなったのかはよく分からないが、好ましい事だと思う。陽大は明るい弥生が好きだ。
そこが夏目家男児の夏目たる所以なのかもしれない。女性陣にはあまりに鈍感だと、怒り心頭だとしても、だ。
陽大が受け付けに座るや否や、宿題に困った漂流民達が、一斉に駆け寄ってくる。
「夏目、ここ教えてくれよー」
「辻の説明はいまいち難しいんだよ」
「答えは自分で考えろ、って言うんだぜ」
「私、陽大君に教えて欲しいー」
と、てんやわんや。陽大は軽く咳払いをして、コンピューターの端末を片手片目で操りながら、もう一方の片手片目では、生徒諸君に苦笑を交えて一つ一つアドバイスをしていく。そして、きっと弥生が戻ってきたら、みんな同じ事を弥生に言うのだ。陽大の説明はわかりにくい、と。また、てんやわんやになりながら。
と図書室の戸が開く。中学校にはまるで不釣り合いな、長身のスーツの男が目を細めて、入ってくる。すぐに探し人を見つけて、スーツの男──夏目照は、小さく笑んで、陽大に手を上げた。
「待ってましたよ、おじさん」
わざとらしく言う。照は渋い顔で、その発言を無視し、陽大の隣に椅子を引いて座る。見ているのは、コンピューターの端末だ。
「気にしないで作業を続けろ」
「気になりますよ、そんな隣にいたら」
と言いつつ、陽大は気にせず、データベースの整理に忙しい。
「Exelで手製のデータベースか。表計算ソフトじゃ、荷が重いだろ?」
「ええ。だから、お願いしたわけですよ」
にっこりと笑って、当たり前の事を聞くなと牽制する。照はまた無視し、図書室の本を見回した。利用中の生徒は何事かと目を丸くしているが、そんな事はお構いなし──と言うより、もともと気にする男でもない。
「カード型データベースの方がいいぞ?」
「そんな大型のソフトは必要いりません。図書を管理できればいいんです」
「専門業務用のソフトはうちの十八番なんでな」
にっと照は笑う。
「担当は?」
「北村だ。学校図書ならライト版で充分だろう、という話だったんだが、どうやらそうもいかんな、この有様は」
とあらためて、積み上げられた本の山に苦笑を浮かべる。
「正式版は機能をオフにする事もできるんですよね?」
言葉を切る。
「つまり、ライト版程度の機能に……」
「勿論だ。まぁ北村の事だから、リリースしてある物を、この学校が使いやすいように、いじってくれると思う」
「そうですか」
と陽大は入力の手を緩めない。パソコン業者とは夏目照率いる【夏目コンピューター】の事だ。身内だからと言うわけではなくて、夏目の技術を知りたかった、と言うのもある。照を挑発したかったというのもある。そして予想以上に【夏目】はレベルが高かったのだ。まぁ、志乃の父が在籍している会社だ、予想はしていたがその予想を上回る魅力があった。
簡単な交渉だった。元々、パソコンで学校を繋ぐという構想が少なからず有り、図書の電子管理でその構想が現実感を増し、陽大は照を巻き込んで、便乗し現実にさせようとしているだけだ。と言っても、これを提案してくれたのは陽一郎なのだが。
カード式で図書を管理していた時から、陽一郎にはこの構想があったらしい。しかし、一番は土台を作ることだから、とのんびりと陽一郎は笑う。こんな時、本当に陽大は兄に叶わないなぁ、と思う。その土台があるから、陽大は行動ができる。その土台は中学生で管理できるほど、マニュアルが徹底している。なかなか表に出さないが、陽一郎のこの行動力と集中力は追随を許さない。
照としても、教育市場をビジネスの場所として視野に入れていただけに、これほどありがたい勧誘は無い。
夏目コンピューターは初心者でも使いやすい、クールなデザインが売りである。そして、専門ソフトへの注力が、日本の同業とは格差がある。ワープロソフト「
この話を急遽旅行から帰って、昨日までにこぎつけさせた。元々、学校側は図書のデータベース管理を許容したものの、その先のビジョンがなかった。知識そのものが無いのだから、どうしようも無い。そこへ陽大の親戚が、格安で大量導入させてくれる、と言う。夏目コンピューター営業社員は、口が回る。回る。さすが照の配下と言うところで、あっさりと認可されてしまった。
挙げ句、現在のパソコンのデータをそのまま、流用できるようにする、と申し出を受けては断る理由も無い。職員のパソコンに関してもサーバー構築の相談を随時受け付ける、と甘いマスクで囁かれて罠にまんまんとはまった、という形である。
もっとも、夏目の社員は何一つ、嘘は言ってないが。情報収集すらせず、その場で即答した教師達に陽大は呆れを通り越して、可笑しくなった。何はともあれ始動したのだから、陽大としては満足である。
「いい商売をありがとう」
ニヤニヤして照は言う。陽大は涼しい顔でそれを受け流した。
「サポートの方、お願いしますね。一応、中学生が使う事になるので、メインは」
「道具をどう使うかは人間次第だから、な」
と淡泊にさらに受け流す。冷たい衝突が何度か。それすらもはや恒例行事だ。図書室を利用していた生徒達それを息を飲み、見守っていた。夏目陽大の剣呑な視線はいつもの事で、教師もたじたじなのは周知の事実だが、ここまでぎらついた視線を見ることは無い。
「しかし陽大の提案なら分かるが、陽一郎か。人は見かけによらないものだな」
感心したように言う。何気ない一言だが、いつも陽一郎の一言で全ては動き出す。それを陽大は一番、感じている。だが、今回はあくまで提案、そこから全ては陽大が動かさないといけない。顔には出さないが、不安はある。だが、陽一郎は誰も利用していなかった図書室に息吹きを与えた。清潔で、みんなが来たいと思うような場所に作り替えた。ただ存在しているだけの場所から、呼吸が息づく空間に。
長兄には負けられない、叶わないが、それでも距離を少しでも縮めたいと思う。これは陽大の焦りだ。距離なんか、そもそもたいしたものではないのだが。距離が広がっていると感じるのは、思いこみにしか過ぎないのだが。
照は小さく笑んだ。それは陽に対して今までずっと感じていたコンプレックスに近いものがある。
とその笑みが凍った。
弥生が勢いよく、図書室の戸を開け放つ。
陽大は眉をピクンと動かしただけだ。弥生の顔に明らかに怒気が色塗られている。その後を追うように、体育教師で進路指導の巻田が追いかけて来る。額が広く、髪が薄くなりつつ頭部が今は、湯気が出んばかりに真っ赤だ。怒り心頭と言うよりは、冷静さがせ欠けているらしい。
「待て、辻! 話はまだ終わってない!!」
「私は終わりました!」
と書庫の奥に行こうとする。その肩を巻田がぐいっと引いた。陽大が腰を浮かせたが──その前に照が巻田の手を掴んでいた。
「なんだ君は!」
「図書室だ、静かにしろ」
至極、もっともな事を言う。陽大は力が抜けた。論点はそこじゃない! 弥生もその照の一言で、怒りが萎んでしまったらしい。唇の端がかすかに、笑っていた。そしてようやく我に返って、照に会釈した。
「君はなんだ!」
「逆にして接続詞の『は』の場所を変えただけの台詞は情けなくなるからやめろ」
確かにその通りなのだが、最早、馬鹿にしているとしか思えない。これも夏目の血筋と言えば血筋なのかもしれない。火に油を注ぐだけの効果しかないが、照はそんな事は意にも介さない。
「部外者は立ち入り禁止だ!」
「業者の立ち入りを禁止された覚えは無い。許可証もある」
と真剣な顔でネームプレートを見せる。来校者に事務で配られる入校許可である。実際その通りなのだが、火に油を注ぎ、さらにガソリンも注ぎ足したように、巻田の表情は怒りを噴火させている。
「そんな業者は契約を打ち切る!」
「やってみろよ、ばーか」
もはや子どもの喧嘩である。陽大もこらえられなくなって、我慢することなく吹き出した。
「で、何があったの?」
にっこりと笑って──巻田の存在を無視して、弥生に聞く。
「進路の事で──」
「辻! なぜ、星愛女子にしない?! 六会でなくてもいいだろ? 星愛にならお前を推薦でやれる。公立でなくても、お前の家なら大丈夫とお父さんとお母さんも──」
「私は決めました」
揺るがない意志で、弥生は答える。陽大はそれを驚きの目で見た。陽大も公立の六会高校を第一希望にしている。競争率はそれなりで、市内と言う事もある。何より、相応の偏差値で、それなりのハードルという事もある。だが一番なのは、公立である事それに尽きた。夏目家には余分な学費を出す余力は無い。
多くの人に支えられているのを実感した夏だが、おんぶだっこに甘えるほど、夏目兄弟は面の皮は厚くない。陽大にとっては、今ある一番、贅沢な選択なのだ。家族の負担にはなりたくない。そこまで踏み込むほど、学校に愛着もない。
明確な目標があれば、どんな学校にいても道は拓ける。進学校だけが、正解じゃない。
「夏目が行くからか」
怒りの矛先を陽大へと向ける。やれやれ、と陽大は肩をすくめた。巻田とは夏休み前に、進学の事についてのバトルをクリアーしたばかりなのに、今度は弥生と来たものだ。だいたい何処に進学しようが、教師に言われる必要性を感じない。
弥生が弥生の意志で言っているのなら、それはそれでいいんじゃないかと思う。
「すぐに男女の交友関係に結びつけるのは、欲求不満の表れらしいな」
照はわざと揶揄する。
「業者には関係ない! 黙ってろ!」
「なら、陽大の保護者として言わせてもらおう」
「な……」
夏目に親戚はいない。三者面談に来たのも、長男だった。親戚とも疎遠のはず。だが、この男は何者だ? 陽大と親しそうに話しているが、業者だと言うが、本当は何者なんだ? この夏に夏目陽大に何が起きた? 巻田の思考は混乱する。
だが、照は答える変わりに、名刺を差し出した。
【夏目コンピューター代表取締役社長 夏目照】
とただ文字を印刷しただけの名刺を受け取って、巻田は開いた口が塞がらない。
夏目はあの夏目か──愕然とする。
巻田は権力に弱い。有名進学校に行く生徒を一人でも多く出したいのだって、権力と評価が欲しいからだ。一介の教師でも、進路指導でも終わるつもりはない。その為に汚点はつけたくない。
その欲求そのものを照は否定しない。欲求は有って当然。完全にない人間など、淡泊でつまらない。
だが、たかが業者とたかをくくって、汚点を出してしまった。そういうスマートじゃない、露骨なやり口が、照としては失笑すら浮かばない。だいたい、公と私を使い分けられないようでは、教壇に立てるわけがない。ノルマではなく、必要なのは未来を見据える視野だ。出世は飽きらめろ、と、この男が部下なら言っているところだ。自主退職を勧める事すら、寛大な行為と言える。
要は使えない。ただそれだけの事だ。
教師がノルマに走ってどうするのか。子ども達の未来を教師は支える立場であるはずなのに、子どもを道具以下にしか見てない。虫酸がはしる。
「あ、あの」
弥生が口を挟む。小さな声だが、おどおどしていない。自分の意志で、自分の言葉を言おうとしている。陽大は、照を見て小さく頷く。これは僕らの問題だから、そう小さく唇の端で笑んで。
差し出がまし過ぎたか。苦笑し、照は椅子に座って、外野を決め込む。
陽大としては、ここまで掻き回して、外野も糞も無いと思うのだが、それでも不器用な叔父の好意には感謝したいと思う。
「あの……」
弥生は息を吸う。そして吐く。自分の言葉で言う。それは、弥生が今まで避けてきた事である。
良い子でいる。成績はトップで、勉強に集中して。友達と遊ぶなんていう無駄な時間は作らずに。学校の指定したボランティアへの参加には積極的に参加して、内申点を上げる努力をしてきた。
先生が、家族が、それを望んだから。
それが当たり前だった。だから、今まで何も考えずに、前向きにやってこられた。
でも、陽大と自分の違いが何なのか分からなかった。
どんなに努力しても、埋まらない差。陽大以上に努力してるのに、いつも追いつけない。気を抜くと、突き放される。必至でしがみつく。勉強の量を増やした。寝る時間も削った。
でも、根本的に違った。
旅行一日目、英単語カードを電車の窓から、陽大は投げ捨てた。
あれで陽大と自分の差が何なのか分かった気がする。
自分に足りなかったモノ。
陽大の事が羨ましくてしかたなかったもの。
陽大が眩しかった。
自然体で、何の努力もしてない素振りを見せていた陽大。だが、そもそも陽大はテストの点数なんかどうでもよかったのだ。それ以上に陽大の頭の中では、家族をいかに守っていくか、それだけを占めていた。いかに長兄と弟、妹達を助けるか。その一点に。
足りなかったのは、私はあまりに恵まれていたという事を知らなかった、と言う事。
闇雲に目標も無く、成績を求めているのは、今の巻田と何の変わりもないと言う事。
大人になって何をしたいのか、弥生には分からない。私には分からない。でも。でも、何回も心の中で「でも」を反芻する。繰り返し、繰り返す。
真っ白な紙に澄んだ、深い青色の雫を垂らすように。今の弥生の中には、小さな答えが浮いている。
「先生、私は自分を探したいんです」
「は?」
「じっくりと考えたいんです。私の将来だから」
「それだったら聖愛女子でも!」
最後の抵抗。無駄な抵抗。だが、巻田の表情は陰っていた。語調は強かったが、押し通す我意は消えていた。萎んでしまった、というのが正解かもしれない。唇を噛み、弥生を見る。巻田は髪の毛をくしゃくしゃに掻く。
「夏目と言い、辻と言い、どうしてこうへそ曲がりだ」
そう巻田は言い捨てて、図書室を後にした。
「開けた戸は閉めろよ」
と照が言うのは可笑しいな、と陽大は思った。
ぼーっと、弥生は立ちつくす。
と、唖然としていた他の生徒達が、一斉に手を叩く。え? と弥生は振り向いた。
「すげぇ、辻、かっこよかったぁ」
「弥生って、先生にああいう事言えない、優等生だと思ってたのに」
「やるじゃん」
「委員長っぽいよな、最近」
「あ、うんうん。それ思う」
え? え? 弥生は目をパチクリさせて赤くなる。
「ついでにおじさんも格好良かったぜー」
と照へも拍手が送られる。
「ついでと、おじさんは余計だ」
真面目に受け答えする照がなお可笑しくて、陽大は吹き出した。それはともかく、だ。こほん、と一つ、陽大は咳払いする。
静かな視線をみんなに送る。
図書室ではお静かに。幾らか温度の冷たい視線に、慌ててみんなは席につく。
陽大は何事もなかったかのように、奥の本棚へと消えていく。照とも話すことはもう無い。後は自分のたまった仕事を片付けるだけだ。
言葉は不必要と言うより、自分が不器用なのを自覚している。
何より、自分が弥生と目を合わせていると、自然と綻んでしまう唇が、忌々しいというのもある。
――嬉しいんだな、僕は。
(随分と感情移入してるじゃないか)
肩をすくめる。本を両腕に抱えつつ、弥生を振り返る。
そっちは任せたよ、目で合図をする。
弥生はコクンと頷く。
照がニヤニヤと笑っていて、すぐ陽大は踵を返した。なんか、腹が立つ。いや、かなり無性に腹が立つ。
いつのまにか。本当にいつのまにか──二人で自然とアイコンタクトできるようになっていた。あまりに自然な流れだったので、それに今まで気づきもしなかった。陽大と弥生が同じ進路に向かう。そう聞いただけで、何故か浮かれてしまう自分がいた。その感情の意味を考えることを、あえて陽大はやめた。
それよりも。それよりも、だ。今はこの本の山を片付けることが優先だ。そう言い聞かせる。
夏休みは明日で終わる。
僕らにあまりにも時間は足りなすぎる──色々な意味で。まだ夏休みの宿題が終わらなくて、困って慌てているような、そんな錯覚。照は無言で図書室を出て行く。弥生が誰かに数学の問題の解き方を教えている。蝉の声。汗が流れる。野球部の威勢の良い掛け声。そして自分自身のため息と苦笑。夏休みが終わる。そして次の生活が始まる。何も変わらなく、何かが変わっている新学期が。決して夏休みが始まる前とは同じではない自分たちがいる。
後、一日で──。
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