8月29日「組み手」
四十一日目
美樹は大きく背伸びと欠伸をした。帰って来たんだねー、と空気を吸い込んでは実感する。我が家がやはり一番だ。何も無かったかのように、志乃は夏目家に来ては掃除機をかけている。亜香理はフローリングを雑巾がけしている。そして、晃はぼーっと外ばかり見ていた。
ちりりん。風鈴が鳴る。
美樹は晃の隣に腰掛ける。晃はそれに気づかないのか、じっと空を流れる雲を見つめていた。亜香理がちらちらと晃の様子を伺っている。本当にこの二人は仲が良い。年が近いせいもあるが、この二人は一緒で一人という感覚なのだ。晃も亜香理も我が侭は言わない。夏目家の特徴なのかもしれないが、我意が強く無い。欲しいものは自分で手に入れろ。努力しろ。これが夏目の家訓だ。
でも、今、晃が一番欲しいものはどんなに望んでも、当面は無理だ。気持ちは揺れ動く。そのうち麻痺して、もしかしたらどうでもいい事になってしまうかもしれない。それも有り得る話しだ。陽一郎と陽大はそっとしてあげればいい、と言う。美樹もそう思う。思ってはいるが、喧嘩仲間である晃がおとなしいのは、どうにも気が引ける。――むしろつまらない。
「晃」
美樹は声をかける。返事は無い。
「晃ってば」
「え?」
ようやく気づく。美樹がいたのに全然気づいていない様子だが、それもどうでもいい様子だ。そのまままた空を見上げる。
「無視しないの」
ぐいっと晃の顔を掴む。
「痛いよ」
「何、腑抜けてんのよ、あんたはっ!」
「美樹姉さんほどじゃないよ」
心配させておいて言うのはそれかいっ!
「イタタタタタッ」
頬を思いっきり掴む。手加減無し。もっとも今まで手加減なんかした事一度も無いが。
「何すんだよっ!」
「腑抜け」
「考え事してんだよ。ほっといてよ」
「ほっとけないから話しかけてるんでしょ」
「暇なら誠さんのトコ行けばいいじゃん」
晃の予想外の一言に、美樹は思わず顔が真っ赤になる。
「マコちゃんは関係ないでしょ! なんでマコちゃんがでてくるのよ!」
「知らないのは陽兄くらいだよ」
亜香理が強くコクコクと頷く。それを強い視線で射抜く。余計な事は言わないようにと忠告。まぁ、亜香理にしろ晃にしろそんなお節介な事はしないのは分かっているのだが。陽一郎にはできるだけ、その時がきたら自分の口で言いたいと思ってる。が、今はそれとは関係無い。
「晃、いい加減にしなさいよ」
「ほっといてよ」
「煮え切らないヤツね、アンタはっっっっ」
「姉さんみたいに煮えてたら暑いよ」
しかも憎たらしい、と美樹は怒鳴るが、晃は全く聞いていない。美樹の寛大な──と思ってているのは美樹一人だけなのだが──堪忍袋の緒が派手に中から破裂する。
「いいから来なさい」
「ちょ、ちょっと?」
襟首を掴まれて、反抗すらできない。晃は必死の抵抗を試みるが無駄である。とっとと外へと連れ出されてしまった。残された志乃と亜香理はお互い、顔を見合わせ、微苦笑を浮かべた。
ちりん。風鈴が鳴る。秋は近い。
中学校の体育館。今は誰もいない。そこに美樹は空手着に着替えて、呼吸を整え立っていた。晃も同じく、道着に(かなり無理矢理)着替え(させられて)立っていた。嫌々な顔はしながらも、晃も呼吸を整えている。保育園の頃より、美樹に憧れて、空手を習いだした。一応は今でも続けているが、活動派の美樹と比べて、晃は表立って、空手について言及する事を避ける。誰も晃がそんな事をしているとは思ってもいない。温厚な長兄の影響があっての事だと思う。晃は力を誇示する事を嫌う。同じく、力で押さえつける事を嫌う。決して好戦的では無い。しかしマゾヒストでも無い。売られた喧嘩は極力回避するよう努力するが、回避できない場合は全力で粉砕する。そのあたりの判断は陽大譲りでないかと美樹は分析している。
陽一郎と陽大を足して二で割ったような弟だが、自己出張が少ない「良い子」なせいか、それとも夏目の姉妹が元気良すぎるせいか、喧嘩仲間ではあるが、晃はどうしても自分を抑える傾向がある。
「別に中学校の体育館でやらなくても、道場でいいと思うんだけど」
と言う晃に、美樹は小さく笑む。
「熊五郎おじさんが許すわけないじゃん、バカだねぇ」
ニッと笑う。ラーメン熊五郎の店主、大膳熊五郎。夜は大膳流空手道場の師範・道場主でもある。子どもも大人も、腕を磨き、汗をかくためにこの道場に通っている。門下生は100人足らず。師範代が五人。ラーメン業に精を出しても文句無く運営できる。だが大膳自身、自己を鍛える事に意欲的だ。腕をと言うよりは、心を。大膳は言う。だから、道場外での組み手は禁止している。武道は暴力にあらず。道外れる事、人に非ず。そう常々、言われているからだが。
だが美樹は時々、気の進まない弟とともにこの警句を破る。
と言っても、暴力に溺れていたわけじゃない。最初は自分達の「力」を試してみたかった。
が、晃と組み手をして分かった事がある。
落ち着くのだ。
技量は6:4で美樹に軍配が上がる。美樹の方が先輩だから仕方ないが、晃は常に冷静だ。戦いに執着するという事は無い。それが晃の欠点でもある。執着しないのだ。いつも、諦めてしまう。良い子でいてしまう。
だが、いざ組み手となると、良い子のままの晃ではいられない。
美樹は容赦無いのだ。温厚な晃とて、やられっぱなしではいられない。人には闘争本能、防衛本能というものがある。晃だって痛いのは嫌だし、姉に負けたく無いという気持ちはある。
距離を置く。礼をする。それが合図だ。
組み手と言うよりは、これは仕合いだ。ルールなんて無い。お互いの心の奥底を解放する為の。
先手はいつも美樹。晃は出遅れる。
始まってすぐは、この行為に嫌悪感を感じてしまう。人を殴るという行為が好きになれない。だが、美樹はそんなゆとりは与えてくれない。
正拳突き。晃を肉薄する。晃はそれを紙一重で避けるが、そこを足払い。晃は飛ぶ。美樹も飛ぶ。拳を繰り出す。連打、連打、連打。晃はそれを腕で受け流す。じょじょにスイッチが入っていく感触を晃は感じる。
今、この瞬間、無音になっているのを感じる。
美樹は嬉しそうににっと笑った。
「そう来なくちゃ」
肉迫するが、今度は晃の方が速かった。腹部を狙い、拳を繰り出す。それを受け止めて、同じく腹部へ。が、晃はその瞬時で後退した。美樹はスビードを緩めない。さらに全速力で、跳躍し晃へ拳を繰り出す。最早、寸止めなど頭には無い。と言うより、この仕合いそのもの寸止めなど考えてすらいない。
晃はそれを屈んで、交わす。
着地した瞬間を狙って、蹴り上げるが、美樹は腕を交差させて防御を図る。
息が少し、乱れた。
二人は距離を置く。
「どう? 少しは頭がすっきりしてきたでしょ?」
「……ぜんぜん」
晃の方が息は荒い。と言うより、姉の強さに押し潰されそうになる。蝉の声。こんなにけけたましく鳴っていたのに、美樹とやりあうと、まるで無音。汗が流れる。美樹は戦意をまるで納めていない。
「晃は頑張ったよ」
と再度、拳の連撃を繰り返す。晃は防戦一方でじりじりと押されている。
「何が?」
「あの洞窟の中で、よくみんなを守った」
美樹はさらに手を早める。晃は一歩引こうにも、猛打に次の手が打てない。
「でもね、それと志保ちゃんの事は別だよ」
一瞬、晃は手を緩めてしまった。胸に美樹の正拳が決まる。一瞬、呼吸が止まった。
「んっ」
「そこで油断するかなぁ」
と言いつつ足払い。晃は問答無用に、派手な音をたてて床に倒れた。
「ね……姉さん、容赦ないよ」
「容赦したら、晃は手を抜くでしょ」
「喧嘩の嫌いな弟にここまでしないでよ」
「嫌いなのに空手をやるのは矛盾してるよ」
とさらに床に転がる晃へ踵落としをしようとする。それを晃は転がって避けた。まさに容赦は無い。
「誠さんが見たら泣くよ」
「見せないからいいの」
にっと笑う。いや、と晃は思う。誠さんは絶対に気づいているんだけどね。あの人、聡いから。
「晃こそ、女の子にあそこまで言わせたんだから、ケジメつけないとね」
志保の事を美樹は言っている。痛いところをつく。晃は起き上がり、美樹に肉迫した。美樹同様に拳の連撃に足技を合わせる。身長差で美樹にはかなわない以上、晃の戦術としては間合いをつめる他無い。美樹は足技が苦手だ。だから足技をより多く絡めていく。
こうなると持久戦になる。美樹の方が実力は上。晃としては粘るしか無い。
晃の蹴りと美樹の蹴りが衝突する。軸足の安定さでは晃に軍配が上がった。
美樹がやや、バランスを崩す。
そこを晃は拳を繰り出す。確かな感触で、にゅ、っと柔らかい──柔らかい? 感触が伝わる。
「あ、晃っっっ!?」
「……いや、違う。これは不可抗力で…」
「問答無用、マコちゃんにもまだ許してない胸をっ!」
「……露骨だよ」
「うるさいっ!」
もはや空手の組み手とは何の関係も無い追いかけっこが、一時間三十分続いた事を、ここでは明記しておく。
完全に息のあがった二人は、ばててフローリングに寝っ転がった。
蝉がけたましい。が、頭の中はすっきりした気分だ。こうしている間も、汗はたらたらと流れているが。
「晃は良い子すぎるんだよね」
と美樹は言った。そう言われてもどうしようも無い。
美樹の言う通り、夏目での一件が頭から離れない。命が消えた瞬間を目にした。あの最後の瞬間、その手から温度が消えかけていく感覚が、今でも瞼の裏に焼き付いている。目を閉じると思い出す。そのたびに、人の命は脆い事に気づかされる。
晃は怖いと思う。これ以上の別離が怖い。
出会いさえしなければ、別れなんか無い。晃は拳を握る。それが違うのも分かっている。晃は決して憎めない。人間は汚い。大人は狡い。そんなの分かってる。痛感してる。自分なりに。それでも諦めず今まで頑張って来た長兄。遅くなったけど、諦めず諦めず、陽一郎の傍に辿り着いた志乃。あの二人が眩しいと思う。あの二人が大好きだ。でも自分は? 恋する感情というのは今一、晃には分からない。
だが、と思う。
志保といると嬉しかったのだ。
嬉しい。そう、嬉しいだ。志保があの時、ちゃんと生きていて嬉しかった。自分の事よりも。志保が傍にいてくれて嬉しかった。あんな状況の中で晃は嬉しかった。歓喜していた。志保といれることに。だからあんなにも活動的になれたのかもしれない。吉崎がいてくれたからとは言え、よくもあんなに自分で決断して動いたと思う。兄弟がいなければ、自分は何もできないと思っていたのに。
長兄は優秀だ。ここぞという時に決断を出してくれる。
次兄は冷静だ。長兄のサポートとして、司令塔として常に視野が広い。
長女は活動的だ。美樹は──ここぞという時に、一番にみんなを突き動かす。
次女はムードメーカーだ。みんなが陰鬱な表情をしても、亜香理は絶対に笑顔を絶やさない。
じゃあ?
三男の僕は夏目兄弟にとってはなんなんだろう。
ブラザーコンプレックスと言うらしい。晃は目を閉じる。不満は無い。何も無い。欲しいものも無い。時々、自分の存在感が欲しいと思う。誰かに必要とされたいと思う。でも、いつも自分が誰かの力を必要としている。今だってそうだ。
「晃」
じっと美樹は晃を見る。
「え?」
「……女の子はいつまでも待ってなんかいないよ」
「は?」
蝉の鳴き声。美樹は肩をすくめた──ふりをして蹴り上げる。晃の顎めがけて。晃は咄嗟に、仰向けになりそれを避ける。
「なにすんだよ!」
「組み手は終わってないからね」
美樹は体勢を戻せない晃へむかって容赦なく全力で、拳を振り上げる。鳩尾を明らかに狙い。晃は転がって避けるしかない。その体を美樹は踏みつける。晃の苦痛の息が漏れた。美樹はさらに力一杯、拳を叩き付ける。それを晃は腕で、受け止める。さっと晃が、両足で美樹を蹴り上げる。その反動を利用して、晃は後退し、体勢を立て直す。美樹はさらに加速し、晃を追いつめる。
拳と拳が衝突する。二人の息が止まる。風だけが、さらさらと流れた。
蝉の声。
「女の子は待ってなんかいないよ」
「だから──」
「気づいてからじゃ遅いんだよ」
「え?」
「陽兄はたまたま運が良かった。逃がした魚は帰ってこない」
「………」
「晃には女の子を幸せにする義務がある。知らないなんて言わせない。分からないなんて言わせない。晃は言葉をちゃんと伝えないといけない」
「……でも」
「女の子は待ってなんかいないんだよ、晃。終わってしまってから何を言っても遅いの」
「………」
言い訳か。言い訳してたんだ。自分は。答えなんか分かってるのに。ずっと言い訳のままでなんかいられない。答えを出さないといけない。目眩がする。くらくらする。頭が痛い。動悸が早い。そうか、何の事は無い。夏休みの思い出だけにしたくなかったんだ、自分は。可笑しい。ただ、それだけか。
晃はまた床に寝転ぶ。瞼の裏側で志保の笑顔に会える。彼の優しい顔がある。
『ダ――』
彼は言う。大丈夫、そう言う。うん、大丈夫。もう大丈夫。言い訳にはしない。自分の弱さの。向き合おう。もう怖くは無い。怖くなんか無い。恋かどうかは分からない。でも、一緒にいると嬉しい。だから、言葉にしよう。言葉に──
呼吸が止まる。美樹の手刀が、晃の胸に直撃した。
「美樹姉っ──」
言葉にならない。
「だから組み手は終わってないって」
ニヤニヤ笑って言う。晃は恨みを目一杯こめて、姉を蹴り上げる。無論、美樹はそれれを難なく躱すが。第二、第三と蹴りへと繋げ、その間に呼吸を整える。手加減されたせいか、ダメージは然程はひどく無い。
雑念が一つ一つ消えていく。汗に流れて。残暑は続く。蝉達は必死に鳴く。生きている証明。躊躇う余裕は無い。それは晃も。思い出の奥底に閉じ込めたく無いから。
終わらない。終わらない。終わらせない。まだ、終わらない──
陽が落ちて、志保は呆然と電話を見つめていた。
日向から電話番号を教えてもらった。怖い事は無い。ただ、もう無い事のようになってしまうのが怖い。晃はどう思ってるのだろう? ずっとそんな事を考える。向日葵庭園で晃と初めて会った日の事を思い出す。花を踏みつぶさなかった晃。優しい笑顔の晃。いざとなると、誰よりも決断が早く、行動で示した晃。晃の顔ばかりがちらつく。
もはや、病気か、と苦笑いする。受話器を取る。その度に置く。
晃はどう思っているんだろう。
聞いてみたいと思う。全力で勇気を出して直球勝負をしてみたが、その答えは返ってこなかった。
亜香理に背中を押されたというのはある。
『志保ちゃんが行かないのなら、私が晃を貰うよ。私は晃を本当なら誰にも渡したくないもの』
意味が分からなかった。満面の笑顔を亜香理は浮かべる。行け、と言っているのが分かる。言え、といっているのが分かる。でも、志保は動けなかった。
あれは亜香理の本心なんじゃないか、と思う。もしかしたら本当は。でも亜香理は自分を応援してくれた。最後の最後まで、迷いはあった。電車が走り出して、晃が自分を見ているような気がして、理性は消えた。
なくしたくない。失いたく無い。
これっきりになんかしたくない。
夕陽が優しく影を落とした。いつまで私はこうしいてるつもりだろ?
でも、動けない。動き――たく無い。
昨日の事なのに、記憶が少しずつ、薄れる。それが怖い。会いたい。声に出していて、自分で驚いた。会いたい? そうか会いたいのか。志保は笑った。少しも、顔は笑顔にならなかった。無理矢理な笑顔で、歪んでいるのが分かる。でも、会いたい。会いたいと思う。晃に、晃に会いたい――。
終わらせたく無い。記憶だけにしたくない。思い出だけなんて嫌。それだけは嫌。
志保は意を決して電話に手を伸ばした。
同時に電話がけたましく鳴り響く。志保は息を飲んだ。電話に食いつくように受話器を取る。
聞きたかった声が、照れ混じりで、志保の名前を呼ぶ。
終わりなんかじゃない。思い出だけじゃない。諦めない。諦めない。諦めたく無い。
あのね。
電話の向こうの声。
あの時は言えなかったけど。
うん。
今、言うから。
うん。
電話の向こうで呼吸を整えるのが聞こえる。志保の心臓は今にも張り裂けそうだ。
あのさ。
うん。
陽は落ちた。薄暗い中、志保は電話を抱きしめる。その言葉を抱きしめる。終わりじゃなくなった言葉を抱きしめる。晃に届くように抱きしめる。嬉しくて、嬉しくて泣き出しそうになる。それをこらえて、志保は言葉を返す。精一杯の、これ以上無いくらい幸せな言葉を。
これ以上無いくらい幸せな笑顔で。
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