7月25日「新聞と苺と牛乳と」
六日目
夏目家次男、夏目陽大の朝は早い。
もともと寝坊するタイプだはなく几帳面なのだが、両親をなくしてからますますその傾向は強まった。理由の一つは夏目家の遺伝子は、寝起きが悪く設定されているらしい、という事。
これは自分は除く、といつも渋い顔で断言するのだが。
誰かが早起きして、朝食やら何やらの用意をしておかないと、長兄・陽一郎をはじめとして、目覚める頃には昼をとっくに過ぎるのは必至である。いくら夏休みと言え、それはまずい。
もう一つの理由は、朝に弱い陽一郎が無理に朝食の準備をしていたから。まして保険金に頼らず、自分達で働いて生活しているのだ。毎日毎日、バイトで疲れ、帰宅したらベット行き直行なのだ。そんな兄の負担を軽減させようというのは、陽大にとって、至極当然な結論だった。
それでも陽一郎は「余計なことはするな」と兄貴顔で、料理にはげむ。陽一郎の料理は陽大は好きだ。ラーメン屋でもバイトをしていることもあり、その腕はなかなのものである。が、悲しいかな、仕事の料理と家族への料理の差とでも言うべきか、随所に手抜きがある。これは陽大が、陽一郎の働いているラーメン屋にこっそりと食べに行ったから言えることである。お昼時の忙しさに、弟の顔を認識するゆとりは陽一郎には無かった。
その食事の兄の奮闘も、志乃が夏目家に頻繁に訪れるようになって、食事事情は圧倒的に向上したと言える。
志乃の料理は、仕方なく作っている陽一郎の料理とは比べ物にならない。
が、それは比べるのが酷だよ、といつも陽大は美樹に笑って言う。だってそうだ、志乃の料理には、独自の工夫の他にも、食べさせたい人への気持ちがこもっているのだ。その三割は、自分達にも向けられているかもしれないが、残りの七割以上は陽一郎に目を向けられている。
美樹は陽一郎の事を鈍感というが、陽大は長兄が志乃の気持ちには気付いている、と思っている。
だが、一歩踏み込むことができないのだ。
理由は何となく分かるが、美樹や志乃にしてみると少し幼すぎるかもしれない。理由にもなっていないかもしれない。それでも、陽大は兄のその気持ちも大事にしてあげだいと思っている。
しかし今の陽大が早起きしなくてはいけない最大の理由は、家計を助けるべく、自分も新聞配達をしているからだ。
陽一郎は当初物凄く反対したが、 陽大の意志は固かった。陽大からしてみれば、陽一郎だけに無理をさせる訳にはいかないという気持ちが強かった──と言うよりも、いずれ陽一郎が潰れてしまうのが目に見えていた。
だから、という訳ではなかったが、陽一郎に自分もいるんだ、という事を証明したかったんだと思う。
陽大は新聞をポストに放り込んでいく。
朝の風は涼しく、まだ夏の熱は眠っている。あと一時間もすれば、嫌というほど熱くなってくるに違いない。日の出の太陽を見て、今日も熱くなるかも、と呟いた。
「委員長?」
と声をかけられて、陽大は振り向く。声をかけた子の方が驚いた顔をしていた。
「辻?」
と陽大も目をパチクリさせる。パジャマ姿で瓶の牛乳を飲み干している同級生と、こんな所で会うとは思ってもみなかったので、言葉も出ない。
「あ、おはよう」
とやっと言う。辻弥生、同級生にして同じ図書委員を努めている。陽大は本好きで図書委員となったが、彼女の策謀で委員長にさせられてしまった。陽大の好きなだけ本を読むという目論見も、図書委員の業務の中で消えていきつつある。だいたい図書室の受け持ちであるはずの司書教諭が夏季休暇をとり、陽大が図書室に行かなくてはいけない、というのが問題ではないだろうか。
ま、それでも図書委員がみんな協力して、当番制で学校に出てくれるので、陽大としてもみんなの誠意には誠意をもって応じなくてはいけないと思う。そうでなかったら、『夏期期間図書室閉鎖』と看板をつけて、図書室の鍵を閉めてしまおうと思っていたくらいだ。
弥生は特に陽大に協力的だった。 成績は常に学内トップ5に入る彼女は一流進学校を狙っており、図書委員の業務を手伝う余裕も欲しいはずなのだが、当番の日はしっかりと学校に出てきてくれる。当番をしながら勉強をしている姿を見て悪いなと思うのだが、そんな事を口にするものなら、弥生は頬を膨らませてマシンガンよろしく抗議してくる。どっちが委員長なのか分かったものじゃない。
陽大の唯一の天敵と言ってもいいのが、辻弥生なのだ。──もっとも、敬愛すべき天敵ではあるが。
「委員長、何でこんなトコにいるのよ?」
パジャマ姿なのに気付いて、弥生は顔を赤くして言う。牛乳瓶をごくごく飲む姿にまで見られて、恥ずかしさ倍加というところか。それなら、家の中で飲めばいいのに、とは陽大は言わなかった。
「新聞配達」
と弥生の家のポストに、新聞を投げ入れる。弥生はポストから新聞を出し、新聞と陽大を見比べるように睨んだ。
「うちの学校、バイトは禁止じゃなかったの?」
「社会勉強と自己鍛錬と家族の為」
と陽大は悪戯っ子な表情を見せて笑う。
「何よ、それ?」
と弥生は呆れた。
「学校は生活を保証はしてくれないからね」
「それは……」
「ルールは大事だと思うよ、極力尊守すべきだと思うし。でもそのルールの枠からはみ出た事態を想定できていないし、情勢の変化に対しての変化が無い。中学生としては、なら分かる。でも生きていく人間としては、平等な縛りとは思えないし、無視されていると思うよ?」
「でも……そんな事を言ってたら、内申点に響くんじゃ?」
「だって生活の為だもん、仕方無いだろ?」
と陽大が言うと、弥生は自分の失言に気付いて口を抑えた。陽大は気にしなくていいよ、と微笑で応える。
「それより、辻」
「え?」
「勉強のしすぎは体に毒だよ。目に隈ができてる。可愛い顔が台無しだぞ」
「え?」
と顔を赤くする。陽大はクスリと笑む。
「折角の夏休みなんだからもう少し息を抜かないと、疲れちゃうよ」
「……私は委員長と違って頭が悪いから、勉強しないとね」
「俺は頭なんか良くないよ」
「学内一位が、そんな事を言っても説得力無いって」
と弥生は苦笑いを見せる。 陽大は肩をすくめた。
確かに塾にもどこにも行っていなくて学内一位というのは、必死に勉強している人間にとっては屈辱かもしれない。しかしテストの勉強なんて、要点さえ掴んでおけば、あとは基本と応用。そして暗記力。これほど単純な作業も無い。教師や塾の講師は、無理に説明しようとしてかえって、単純な解答も複雑に変えている。基本はそう難解でないと陽大は思う。それよりも、自分にはもっと知らなくちゃいけない事がたくさんある。
例えば、紙上のテストでは家族は救えない。どうしたら、長兄の負担を減らして、家族みんなが幸せな生活を送ることができるか、その方が陽大にとっては重要だった。
「何なら今度、一緒に勉強しようか?」
と試しに言ってみた。という陽大も、人並み程度の予習復習しかしていない。この夏休みは、兄や弟、妹の事に気を回しすぎて、宿題にまだ手をつけていない、ときた。
さすがにそれはまずいな、と思っていたので、いいチャンスと言えばチャンスかもしれない。
「委員長、本当?」
と弥生は身を乗り出す。
「え? うん、あ、迷惑だった?」
弥生は強く、横に首を振った。
「そんな事ない! お願い、私も委員長に教えてほしいことあるの!」
「いや、別に僕はそんな教えれることなんか無いけど、まぁ」
と口ごもる。珍しく、陽大はいつものペースを保てず弥生に圧倒されていた。 パジャマ姿に迫られては、さすがの陽大もたじたじと言ったところか。
それに気付いて、弥生は少し意地悪く笑った。
「委員長、今、私のパジャマ姿で変な事を想像したでしょ?」
「は?」
「前言撤回、妄想したでしょ?」
「……辻、どんな妄想をしろって言うんだ、その苺がプリントされたパジャマで」
「な、なによぉ、可愛いじゃない!」
「パジャマはともかく、女の子がその格好で、牛乳瓶一気飲みはいただけないと思うけど」
「男だ女だなんて、委員長それは差別だよっ!」
「差別なの、それは?」
と陽大はクスリと笑った。 弥生もいつもの笑いを見せる。
そんな他愛ない一瞬。
そんに他愛ない表情。
そんな他愛ない笑い。
その一瞬すら焦がすように、熱気がじわりじりと気温を上昇させていくのを陽大は感じた。今日もまた熱い夏の日が始まる。
「はずなんだけどねぇ」
と帰宅した陽大は思わず、苦笑した。 帰ってくると誰も起きていない。長女の美樹にいたっては、腹を出して寝ているときたものだ。ちなみに、覗いたわけではない。ドアが開いていたのだ。きっと熱くて、自分で開けたに違いない。廊下の風は意外に涼しい。それは分かるが、そういう所は兄の陽一郎にそっくりだ。年ごろの女の子なんだからもう少し意識してくれと思うが、それも無駄な祈りである。
「さて、と」
と陽大は真っ先に陽一郎の部屋へと向かった。本当なら陽一郎を起こすのは最近志乃の仕事なのだが、今日は八時から劇場のバイトがあると、当の陽一郎が話していたのを思い出す。
(ごめんね、志乃ちゃん)
と心の中で謝る。志乃が来るころには陽一郎はバイトでいないので今日はきっと一日、落ち込んだ志乃を見る事になるだろう。その前に陽大も出かけるつもりだが。女の子の事は女の子に、と寝相の悪い長女を思い浮かべて、微笑む。
夏目家の一日が、ようやく始まろうとしていた。
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